呪い真書

その本を手に入れるまで、半年もかかった。

その古書店のことは、ある裏サイトで、知った。

どんな呪いの品でも、手に入る、という噂だった。

半信半疑で、私は、その薄暗い路地を、訪ねた。

看板も、出ていない、小さな店だった。

埃をかぶった本の山の奥で、店主は、煙草をふかしていた。

「呪いの本を、探している」

私が、そう告げると、店主は、ゆっくりと、顔を上げた。

「ほう。久しぶりだ。そういう目をした客は」

古書店の奥の、鍵のかかった棚に、それは眠っていた。

黒い革表紙の、薄い和綴じの本だった。

題名は、ただ一言、「呪い真書」と記されていた。

店主は、私が代金を差し出しても、すぐには渡さなかった。

「これを、本気で使うつもりかね」

皺だらけの顔で、店主は、低く尋ねた。

「ええ。どうしても、許せない相手がいるんです」

私の声は、自分でも驚くほど、冷たかった。

「本気の人にしか、これは売らないことにしている」

店主は、私の差し出した札を、押し返した。

「だが、あんたの目は、もう、戻れない者の目だ」

私は、何も言わず、ただ、本を見つめていた。

「一度でも、この道に踏み込めば、後戻りはできん」

「それでも、いいんだな」

私は、深く、頷いた。

その頷きに、迷いは、微塵もなかった。

店を出るとき、店主が、背中越しに、言った。

「ひとつ、忠告しておこう」

私は、足を、止めた。

「呪いというのはな、放った矢と、同じだ」

「狙いを、ほんの少しでも、誤れば、思わぬところに、刺さる」

「己の心の的を、よく、見定めることだ」

私は、振り返らずに、店を、後にした。

その言葉の、本当の意味を、あのときは、わからなかった。

狙いを定めるべき的は、外に、あると思っていた。

まさか、それが、自分の中にあったとは。

店主は、しばらく私の目を見て、それから、本を差し出した。

「言っておくが、これは、おもちゃではない」

「手順を、ひとつでも違えれば、呪いは、術者に返る」

私は、その言葉を、ろくに聞いていなかった。

早く、家に帰って、頁を開きたかった。

許せない男がいた。

かつて、私の何もかもを、奪っていった男だ。

信じていた。兄弟のように、信じていた。

その男が、私を裏切り、嘲笑い、踏みつけにした。

仕事も、恋人も、名誉も、すべて、あの男に奪われた。

「お前なんか、最初から、利用するだけの駒だったんだよ」

別れ際に、男が吐いた言葉が、今も、耳にこびりついている。

あの薄ら笑いを、私は、片時も、忘れたことがなかった。

復讐だけが、生きる理由になっていた。

その理由を、奪われたとき、人は、何を、よすがに生きるのか。

私は、それを、考えないようにしていた。

考えれば、自分の人生が、空っぽだと、認めることになるからだ。

あの男を憎むことだけが、その空白を、埋めていた。

かつて、私たちは、同じ会社を、ふたりで興した。

寝る間も惜しんで、働いた。夢を、語り合った。

だが、事業が軌道に乗ったとたん、男は、牙をむいた。

巧妙に書類を操作し、私を、会社から追い出したのだ。

気づいたときには、私の名は、どこにも、残っていなかった。

恋人だった女まで、いつしか、男の隣に立っていた。

「あなた、もう、終わった人だもの」

そう言って去る女の背中を、私は、ただ見送った。

すべてを、失った。

残ったのは、煮えたぎるような、憎しみだけだった。

この半年、私は、あの男のことだけを、考え続けてきた。

朝も、夜も、目を閉じれば、あの顔が浮かんだ。

憎しみだけが、私を、生かしていた。

復讐の方法を、私は、来る日も、来る日も、探した。

法に訴えても、勝てないことは、わかっていた。

金も、力も、もう、私には、残っていなかった。

残された手段は、もはや、人の道の外にしか、なかった。

私は、古い呪術の本を、片端から、漁った。

友人は、ひとり、またひとりと、私から、離れていった。

「お前、最近、人が変わったみたいだぞ」

そう言って、心配してくれた者もいた。

だが、私の耳には、もう、何も、届かなかった。

私の世界には、あの男と、憎しみだけが、残っていた。

鏡を見るのが、いつしか、怖くなっていた。

そこに映る自分の顔が、日に日に、険しくなっていたからだ。

眠れない夜は、男の顔を、頭の中で、八つ裂きにした。

想像の中で、私は、何百回も、男を、殺した。

だが、目を覚ませば、男は、のうのうと、生きている。

その落差が、私を、さらに、追い詰めた。

食事も、喉を通らなくなった。

体重は、見る間に、落ちていった。

鏡の中の自分が、骸骨のように、なっていく。

それでも、憎しみだけは、痩せ細るどころか、肥え太った。

私は、もう、自分が、何のために生きているのか、わからなかった。

ただ、あの男を、地獄に堕とす。

その一念だけが、私を、つなぎとめていた。

私は、毎日、あの男の顔写真を、机に並べて、睨み続けた。

その目を、その鼻を、その口を、隅々まで、覚え込んだ。

いつでも、瞼の裏に、呼び出せるように。

呪うためには、相手の顔を、正確に、思い描く必要がある。

私は、そう、信じていた。

だから、来る日も、あの顔を、見つめ続けた。

見つめるうちに、自分の顔のことなど、忘れていった。

気づけば、自分の顔より、あの男の顔のほうを、よく知っていた。

そのことが、どんな意味を持つのか。

あのときの私は、考えもしなかった。

家に帰り、私は、震える手で、本を開いた。

冒頭の頁に、警告が、墨で太く、書かれていた。

「この書に記された手順を、寸分違わず行えば、呪いは成就する」

「されど、手順を少しでも誤れば、その呪いは、術者自身に返る」

「それでもなお、汝は、呪いを望むか」

望むに、決まっていた。

私は、頁を、めくった。

呪いの作法は、意外なほど、簡潔だった。

丑三つ時に、鏡の前に座ること。

一、目を閉じて、呪う相手の顔を、思い浮かべる。

二、その相手に、与えたい苦しみを、思い浮かべる。

三、最後に、目を開ける。

たった、それだけだった。

その晩、私は、丑三つ時を待った。

古い姿見を、部屋の中央に、据えた。

鏡の中には、青白い顔をした、私が映っていた。

この半年で、ずいぶん、面変わりしたものだ、と思った。

頬はこけ、目だけが、ぎらぎらと、光っていた。

時計の針が、午前二時を、回った。

私は、鏡の前に、正座した。

部屋の灯りを、すべて、消した。

残したのは、鏡の前の、一本の蝋燭だけだった。

炎が、ゆらゆらと揺れ、鏡の中の私を、赤く照らした。

心臓の音が、やけに、大きく聞こえた。

外では、風が、雨戸を、かたかたと鳴らしていた。

私は、本を、もう一度、確かめた。

手順は、たった、三つ。間違えようが、ない。

私は、ひとつ、深く、息を吐いた。

そして、本の手順の通り、ゆっくりと、目を閉じた。

一、呪う相手の顔を、思い浮かべる。

私は、あの男の顔を、思い描こうとした。

だが、奇妙なことが、起きた。

あの男の顔が、うまく、像を結ばないのだ。

半年、毎日、思い浮かべ続けてきたはずなのに。

目を閉じた闇の中で、輪郭が、ぼやけていく。

代わりに、浮かんでくるものが、あった。

こけた頬。落ちくぼんだ眼窩。

ぎらつく、憎しみに濁った、両の目。

それは、たった今、鏡で見たばかりの、顔だった。

私は、必死に、あの男の顔を、呼び戻そうとした。

私は、目を閉じたまま、歯を、食いしばった。

あの男の、整った顔立ちを、思い出そうとした。

少し垂れた目尻。薄い唇。自信に満ちた、あの口元。

だが、像を結ぼうとするたび、それは、崩れていった。

崩れた先から、別の顔が、にじみ出てくる。

骨ばった頬。落ちくぼんだ目。生気のない、土気色の肌。

それは、紛れもなく、この半年で変わり果てた、私の顔だった。

私は、ぞっとして、目を、開けかけた。

いや、ここで開けては、手順が、狂う。

私は、必死に、瞼を、閉じ続けた。

呪いを、完成させなければ、ならない。

ここで止めれば、半年の苦しみが、無駄になる。

私は、震えながら、闇の中の顔を、見つめ続けた。

その顔が、誰のものかを、考えないようにして。

闇は、いよいよ、深くなった。

自分の呼吸の音だけが、やけに、大きく聞こえた。

私は、もう、後戻りの、できないところに、いた。

それでも、引き返すという考えは、浮かばなかった。

だが、思い浮かべるほど、その顔は、私の顔に、似ていった。

いや、もう、どちらが、どちらか、わからなかった。

憎しみとは、恐ろしいものだ。

長く憎み続けると、人は、憎む相手に、似てくるという。

この半年、私は、あの男に、なり果てていたのかもしれない。

鏡を見るたび、私は、そこに、あの男を見ていた。

あの薄ら笑いを、自分の顔に、探していた。

気づかぬうちに、私の顔と、あの男の顔は、溶け合っていた。

だから、いま、思い浮かぶ顔は、ひとつしか、ない。

私は、それでも、手順を、止めなかった。

二、その顔に、与えたい苦しみを、思い浮かべる。

考えうるかぎりの、苦痛と、絶望を。

私は、その顔が、地獄に堕ちる様を、ありありと、思い描いた。

私は、思い描いた。

あの男が、すべてを失い、地を這う様を。

信じた者に裏切られ、笑われ、踏みつけにされる様を。

私が、味わわされた、あの絶望を、そっくり、返してやる。

鏡の前で、私の口元は、いつしか、歪んでいた。

憎しみが、形を持って、こぼれ落ちそうだった。

これで、ようやく、あの男に、報いることができる。

半年の、苦しみが、報われる。

私は、その思いに、酔いしれていた。

自分が、何に向かって、呪いを放っているのかも、知らずに。

そして、手順は、最後の段に、進んだ。

三、最後に、目を開ける。

私は、ゆっくりと、瞼を、持ち上げた。

鏡の中に、私が、座っていた。

こけた頬の、ぎらつく目をした、私が。

鏡の中の私が、わずかに、身を、乗り出した。

罅も、歪みもない、完璧な、像だった。

その顔は、私のもののようで、私のものではなかった。

こけた頬は、同じ。ぎらつく目も、同じ。

だが、その表情だけが、私の知らない、ものだった。

勝ち誇ったような、満ち足りた、笑み。

あの男が、私を追い落としたときに、見せた、あの笑み。

私は、その表情を、自分の顔で、再現したことなど、一度もない。

なのに、鏡は、それを、映していた。

私の顔を使って、あの男が、笑っていた。

そのとき、鏡の中の男の口元が、ふっと、緩んだ。

私は、笑って、など、いなかった。

なのに、鏡の中の顔だけが、確かに、笑った。

あの男が、別れ際に見せた、あの、薄ら笑いで。

私は、自分の顔に、たった今、呪いを、かけたのだ。

店主の言葉が、遅れて、耳の奥に、よみがえった。

手順を、誤れば、呪いは、術者に返る、と。

私は、間違えてなど、いない。

手順は、一から三まで、完璧に、踏んだ。

ただ、思い浮かべた顔が、間違っていただけだ。

呪う相手の顔。それは、いつのまにか、私自身だった。

鏡の中の私は、まだ、笑っている。

私は、その目から、逃れようと、後ずさった。

だが、足が、すくんで、動かなかった。

鏡の中の私は、ゆっくりと、首をかしげた。

私は、首など、かしげていない。

鏡の中だけが、私と、別の動きを、している。

それは、もう、私の鏡像では、なかった。

私の姿を借りた、別の、何かだった。

蝋燭の炎が、ふっと、消えた。

部屋が、完全な、闇に、沈んだ。

闇の中で、それでも、あの笑った顔だけが、白く、浮かんでいた。

私は、声も、出せなかった。

その目には、もう、憎しみさえ、なかった。

ただ、満足げに、こちらを、見つめている。

獲物を、手に入れた者の、目だった。

私は、鏡から、目を、逸らせない。

逸らした瞬間、何かが、起きる気がした。

丑三つ時の闇が、部屋を、ひたひたと、満たしていく。

私が望んだ、ありとあらゆる苦痛が、今、私のものになる。

あの男は、今夜も、どこかで、安らかに眠っているだろう。

そして私だけが、自分にかけた呪いを、これから、受けるのだ。

翌朝、目を覚ますと、私は、鏡の前で、倒れていた。

姿見は、罅が入り、私の顔を、いくつにも、割っていた。

あの本は、どこを探しても、見つからなかった。

夢だったのかと、自分に、言い聞かせようとした。

だが、その日から、私の身に、異変が、起こりはじめた。

鏡を見るたび、映る顔が、ほんの一瞬、笑うのだ。

私が、笑っていない、ときに。

あの男の、薄ら笑いで。

私は、家中の鏡を、すべて、布で、覆った。

それでも、窓ガラスに、水たまりに、その顔は、現れた。

逃げ場は、どこにも、なかった。

自分で、自分に、かけた呪いから、逃れる術など、ないのだから。

あの男は、今も、何ひとつ、知らずに、生きている。

布で覆っても、夜になると、その顔は、瞼の裏に、現れた。

目を閉じれば、必ず、あの笑みが、待っている。

私は、眠ることが、できなくなった。

日に日に、体は、衰えていった。

あの男に、与えようとした苦痛が、そっくり、私を、蝕んでいく。

考えうるかぎりの絶望を、私は、自分に、望んでしまったのだ。

あれほど、緻密に、思い描いた苦しみが、今、私のものだった。

皮肉な話だ、と思う。

私は、誰よりも、入念に、自分を、呪ったのだから。

今、これを書いている間も、窓ガラスに、あの顔が、映っている。

私の手が止まると、ガラスの中の私だけが、にやりと、笑う。

もう、どちらが本物の私なのか、わからなくなってきた。

呪いは、相手を、選ばない。

ただ、術者が、心の的に据えた者を、確実に、滅ぼす。

私が据えた的は、いつのまにか、私自身だった。

憎しみで人を呪う者は、結局、自分の顔を、呪っている。

この話を読んだあなたも、鏡を見るとき、少しだけ、気をつけてほしい。

そこに映る顔が、ほんとうに、自分の意思で、笑っているのかを。

私が、自滅していくのを、知りもせずに。

それが、何より、おそろしい。

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