その本を手に入れるまで、半年もかかった。
その古書店のことは、ある裏サイトで、知った。
どんな呪いの品でも、手に入る、という噂だった。
半信半疑で、私は、その薄暗い路地を、訪ねた。
看板も、出ていない、小さな店だった。
埃をかぶった本の山の奥で、店主は、煙草をふかしていた。
「呪いの本を、探している」
私が、そう告げると、店主は、ゆっくりと、顔を上げた。
「ほう。久しぶりだ。そういう目をした客は」
古書店の奥の、鍵のかかった棚に、それは眠っていた。
黒い革表紙の、薄い和綴じの本だった。
題名は、ただ一言、「呪い真書」と記されていた。
店主は、私が代金を差し出しても、すぐには渡さなかった。
「これを、本気で使うつもりかね」
皺だらけの顔で、店主は、低く尋ねた。
「ええ。どうしても、許せない相手がいるんです」
私の声は、自分でも驚くほど、冷たかった。
「本気の人にしか、これは売らないことにしている」
店主は、私の差し出した札を、押し返した。
「だが、あんたの目は、もう、戻れない者の目だ」
私は、何も言わず、ただ、本を見つめていた。
「一度でも、この道に踏み込めば、後戻りはできん」
「それでも、いいんだな」
私は、深く、頷いた。
その頷きに、迷いは、微塵もなかった。
店を出るとき、店主が、背中越しに、言った。
「ひとつ、忠告しておこう」
私は、足を、止めた。
「呪いというのはな、放った矢と、同じだ」
「狙いを、ほんの少しでも、誤れば、思わぬところに、刺さる」
「己の心の的を、よく、見定めることだ」
私は、振り返らずに、店を、後にした。
その言葉の、本当の意味を、あのときは、わからなかった。
狙いを定めるべき的は、外に、あると思っていた。
まさか、それが、自分の中にあったとは。
店主は、しばらく私の目を見て、それから、本を差し出した。
「言っておくが、これは、おもちゃではない」
「手順を、ひとつでも違えれば、呪いは、術者に返る」
私は、その言葉を、ろくに聞いていなかった。
早く、家に帰って、頁を開きたかった。
※
許せない男がいた。
かつて、私の何もかもを、奪っていった男だ。
信じていた。兄弟のように、信じていた。
その男が、私を裏切り、嘲笑い、踏みつけにした。
仕事も、恋人も、名誉も、すべて、あの男に奪われた。
「お前なんか、最初から、利用するだけの駒だったんだよ」
別れ際に、男が吐いた言葉が、今も、耳にこびりついている。
あの薄ら笑いを、私は、片時も、忘れたことがなかった。
復讐だけが、生きる理由になっていた。
その理由を、奪われたとき、人は、何を、よすがに生きるのか。
私は、それを、考えないようにしていた。
考えれば、自分の人生が、空っぽだと、認めることになるからだ。
あの男を憎むことだけが、その空白を、埋めていた。
かつて、私たちは、同じ会社を、ふたりで興した。
寝る間も惜しんで、働いた。夢を、語り合った。
だが、事業が軌道に乗ったとたん、男は、牙をむいた。
巧妙に書類を操作し、私を、会社から追い出したのだ。
気づいたときには、私の名は、どこにも、残っていなかった。
恋人だった女まで、いつしか、男の隣に立っていた。
「あなた、もう、終わった人だもの」
そう言って去る女の背中を、私は、ただ見送った。
すべてを、失った。
残ったのは、煮えたぎるような、憎しみだけだった。
この半年、私は、あの男のことだけを、考え続けてきた。
朝も、夜も、目を閉じれば、あの顔が浮かんだ。
憎しみだけが、私を、生かしていた。
復讐の方法を、私は、来る日も、来る日も、探した。
法に訴えても、勝てないことは、わかっていた。
金も、力も、もう、私には、残っていなかった。
残された手段は、もはや、人の道の外にしか、なかった。
私は、古い呪術の本を、片端から、漁った。
友人は、ひとり、またひとりと、私から、離れていった。
「お前、最近、人が変わったみたいだぞ」
そう言って、心配してくれた者もいた。
だが、私の耳には、もう、何も、届かなかった。
私の世界には、あの男と、憎しみだけが、残っていた。
鏡を見るのが、いつしか、怖くなっていた。
そこに映る自分の顔が、日に日に、険しくなっていたからだ。
眠れない夜は、男の顔を、頭の中で、八つ裂きにした。
想像の中で、私は、何百回も、男を、殺した。
だが、目を覚ませば、男は、のうのうと、生きている。
その落差が、私を、さらに、追い詰めた。
食事も、喉を通らなくなった。
体重は、見る間に、落ちていった。
鏡の中の自分が、骸骨のように、なっていく。
それでも、憎しみだけは、痩せ細るどころか、肥え太った。
私は、もう、自分が、何のために生きているのか、わからなかった。
ただ、あの男を、地獄に堕とす。
その一念だけが、私を、つなぎとめていた。
私は、毎日、あの男の顔写真を、机に並べて、睨み続けた。
その目を、その鼻を、その口を、隅々まで、覚え込んだ。
いつでも、瞼の裏に、呼び出せるように。
呪うためには、相手の顔を、正確に、思い描く必要がある。
私は、そう、信じていた。
だから、来る日も、あの顔を、見つめ続けた。
見つめるうちに、自分の顔のことなど、忘れていった。
気づけば、自分の顔より、あの男の顔のほうを、よく知っていた。
そのことが、どんな意味を持つのか。
あのときの私は、考えもしなかった。
※
家に帰り、私は、震える手で、本を開いた。
冒頭の頁に、警告が、墨で太く、書かれていた。
「この書に記された手順を、寸分違わず行えば、呪いは成就する」
「されど、手順を少しでも誤れば、その呪いは、術者自身に返る」
「それでもなお、汝は、呪いを望むか」
望むに、決まっていた。
私は、頁を、めくった。
呪いの作法は、意外なほど、簡潔だった。
丑三つ時に、鏡の前に座ること。
一、目を閉じて、呪う相手の顔を、思い浮かべる。
二、その相手に、与えたい苦しみを、思い浮かべる。
三、最後に、目を開ける。
たった、それだけだった。
※
その晩、私は、丑三つ時を待った。
古い姿見を、部屋の中央に、据えた。
鏡の中には、青白い顔をした、私が映っていた。
この半年で、ずいぶん、面変わりしたものだ、と思った。
頬はこけ、目だけが、ぎらぎらと、光っていた。
時計の針が、午前二時を、回った。
私は、鏡の前に、正座した。
部屋の灯りを、すべて、消した。
残したのは、鏡の前の、一本の蝋燭だけだった。
炎が、ゆらゆらと揺れ、鏡の中の私を、赤く照らした。
心臓の音が、やけに、大きく聞こえた。
外では、風が、雨戸を、かたかたと鳴らしていた。
私は、本を、もう一度、確かめた。
手順は、たった、三つ。間違えようが、ない。
私は、ひとつ、深く、息を吐いた。
そして、本の手順の通り、ゆっくりと、目を閉じた。
一、呪う相手の顔を、思い浮かべる。
私は、あの男の顔を、思い描こうとした。
※
だが、奇妙なことが、起きた。
あの男の顔が、うまく、像を結ばないのだ。
半年、毎日、思い浮かべ続けてきたはずなのに。
目を閉じた闇の中で、輪郭が、ぼやけていく。
代わりに、浮かんでくるものが、あった。
こけた頬。落ちくぼんだ眼窩。
ぎらつく、憎しみに濁った、両の目。
それは、たった今、鏡で見たばかりの、顔だった。
私は、必死に、あの男の顔を、呼び戻そうとした。
私は、目を閉じたまま、歯を、食いしばった。
あの男の、整った顔立ちを、思い出そうとした。
少し垂れた目尻。薄い唇。自信に満ちた、あの口元。
だが、像を結ぼうとするたび、それは、崩れていった。
崩れた先から、別の顔が、にじみ出てくる。
骨ばった頬。落ちくぼんだ目。生気のない、土気色の肌。
それは、紛れもなく、この半年で変わり果てた、私の顔だった。
私は、ぞっとして、目を、開けかけた。
いや、ここで開けては、手順が、狂う。
私は、必死に、瞼を、閉じ続けた。
呪いを、完成させなければ、ならない。
ここで止めれば、半年の苦しみが、無駄になる。
私は、震えながら、闇の中の顔を、見つめ続けた。
その顔が、誰のものかを、考えないようにして。
闇は、いよいよ、深くなった。
自分の呼吸の音だけが、やけに、大きく聞こえた。
私は、もう、後戻りの、できないところに、いた。
それでも、引き返すという考えは、浮かばなかった。
だが、思い浮かべるほど、その顔は、私の顔に、似ていった。
いや、もう、どちらが、どちらか、わからなかった。
※
憎しみとは、恐ろしいものだ。
長く憎み続けると、人は、憎む相手に、似てくるという。
この半年、私は、あの男に、なり果てていたのかもしれない。
鏡を見るたび、私は、そこに、あの男を見ていた。
あの薄ら笑いを、自分の顔に、探していた。
気づかぬうちに、私の顔と、あの男の顔は、溶け合っていた。
だから、いま、思い浮かぶ顔は、ひとつしか、ない。
私は、それでも、手順を、止めなかった。
二、その顔に、与えたい苦しみを、思い浮かべる。
考えうるかぎりの、苦痛と、絶望を。
私は、その顔が、地獄に堕ちる様を、ありありと、思い描いた。
私は、思い描いた。
あの男が、すべてを失い、地を這う様を。
信じた者に裏切られ、笑われ、踏みつけにされる様を。
私が、味わわされた、あの絶望を、そっくり、返してやる。
鏡の前で、私の口元は、いつしか、歪んでいた。
憎しみが、形を持って、こぼれ落ちそうだった。
これで、ようやく、あの男に、報いることができる。
半年の、苦しみが、報われる。
私は、その思いに、酔いしれていた。
自分が、何に向かって、呪いを放っているのかも、知らずに。
※
そして、手順は、最後の段に、進んだ。
三、最後に、目を開ける。
私は、ゆっくりと、瞼を、持ち上げた。
鏡の中に、私が、座っていた。
こけた頬の、ぎらつく目をした、私が。
鏡の中の私が、わずかに、身を、乗り出した。
罅も、歪みもない、完璧な、像だった。
その顔は、私のもののようで、私のものではなかった。
こけた頬は、同じ。ぎらつく目も、同じ。
だが、その表情だけが、私の知らない、ものだった。
勝ち誇ったような、満ち足りた、笑み。
あの男が、私を追い落としたときに、見せた、あの笑み。
私は、その表情を、自分の顔で、再現したことなど、一度もない。
なのに、鏡は、それを、映していた。
私の顔を使って、あの男が、笑っていた。
そのとき、鏡の中の男の口元が、ふっと、緩んだ。
私は、笑って、など、いなかった。
なのに、鏡の中の顔だけが、確かに、笑った。
あの男が、別れ際に見せた、あの、薄ら笑いで。
私は、自分の顔に、たった今、呪いを、かけたのだ。
店主の言葉が、遅れて、耳の奥に、よみがえった。
手順を、誤れば、呪いは、術者に返る、と。
※
私は、間違えてなど、いない。
手順は、一から三まで、完璧に、踏んだ。
ただ、思い浮かべた顔が、間違っていただけだ。
呪う相手の顔。それは、いつのまにか、私自身だった。
鏡の中の私は、まだ、笑っている。
私は、その目から、逃れようと、後ずさった。
だが、足が、すくんで、動かなかった。
鏡の中の私は、ゆっくりと、首をかしげた。
私は、首など、かしげていない。
鏡の中だけが、私と、別の動きを、している。
それは、もう、私の鏡像では、なかった。
私の姿を借りた、別の、何かだった。
蝋燭の炎が、ふっと、消えた。
部屋が、完全な、闇に、沈んだ。
闇の中で、それでも、あの笑った顔だけが、白く、浮かんでいた。
私は、声も、出せなかった。
その目には、もう、憎しみさえ、なかった。
ただ、満足げに、こちらを、見つめている。
獲物を、手に入れた者の、目だった。
私は、鏡から、目を、逸らせない。
逸らした瞬間、何かが、起きる気がした。
丑三つ時の闇が、部屋を、ひたひたと、満たしていく。
私が望んだ、ありとあらゆる苦痛が、今、私のものになる。
あの男は、今夜も、どこかで、安らかに眠っているだろう。
そして私だけが、自分にかけた呪いを、これから、受けるのだ。
※
翌朝、目を覚ますと、私は、鏡の前で、倒れていた。
姿見は、罅が入り、私の顔を、いくつにも、割っていた。
あの本は、どこを探しても、見つからなかった。
夢だったのかと、自分に、言い聞かせようとした。
だが、その日から、私の身に、異変が、起こりはじめた。
鏡を見るたび、映る顔が、ほんの一瞬、笑うのだ。
私が、笑っていない、ときに。
あの男の、薄ら笑いで。
私は、家中の鏡を、すべて、布で、覆った。
それでも、窓ガラスに、水たまりに、その顔は、現れた。
逃げ場は、どこにも、なかった。
自分で、自分に、かけた呪いから、逃れる術など、ないのだから。
あの男は、今も、何ひとつ、知らずに、生きている。
布で覆っても、夜になると、その顔は、瞼の裏に、現れた。
目を閉じれば、必ず、あの笑みが、待っている。
私は、眠ることが、できなくなった。
日に日に、体は、衰えていった。
あの男に、与えようとした苦痛が、そっくり、私を、蝕んでいく。
考えうるかぎりの絶望を、私は、自分に、望んでしまったのだ。
あれほど、緻密に、思い描いた苦しみが、今、私のものだった。
皮肉な話だ、と思う。
私は、誰よりも、入念に、自分を、呪ったのだから。
今、これを書いている間も、窓ガラスに、あの顔が、映っている。
私の手が止まると、ガラスの中の私だけが、にやりと、笑う。
もう、どちらが本物の私なのか、わからなくなってきた。
呪いは、相手を、選ばない。
ただ、術者が、心の的に据えた者を、確実に、滅ぼす。
私が据えた的は、いつのまにか、私自身だった。
憎しみで人を呪う者は、結局、自分の顔を、呪っている。
この話を読んだあなたも、鏡を見るとき、少しだけ、気をつけてほしい。
そこに映る顔が、ほんとうに、自分の意思で、笑っているのかを。
私が、自滅していくのを、知りもせずに。
それが、何より、おそろしい。