真夜中まで、あと十分ほどという時間だった。
私は、その日の最終のひとつ前の特急に揺られていた。
残業でくたびれ果てて、終電を一本、逃したのだ。
取引先との会食が、思いのほか長引いてしまった。
駅へ走ったときには、終電のテールランプが、ホームの先へ消えるところだった。
舌打ちをして、私は、次の特急の時刻表を確かめた。
こんな時間に乗る客など、ろくにいないだろうと思っていた。
がらんとした車内には、数えるほどしか乗客がいない。
暖房だけが、やけに効いていて、まぶたが重かった。
窓の外は、墨を流したように、ただ黒く塗りつぶされている。
時おり、対向列車の灯りが、稲妻のように窓を走り抜けた。
そのたびに、ガラスに映った自分の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
私は、座席にもたれて、半分眠りかけていた。
次の停車駅まで、まだ二十分以上はあるはずだった。
その、人気のない駅で、ひとりの男が乗り込んできた。
くたびれた灰色のコートを着た、痩せた中年の男だった。
頬がこけ、目の下には、深い隈が刻まれている。
男は、ドアが背後で閉まると、ふいに、その場に立ち止まった。
そして、はっと我に返ったように、車内をぐるりと見回しはじめた。
何かを、必死に探しているような、切迫した目つきだった。
その目が、ひとりの乗客の顔で、ぴたりと止まった。
男は、つかつかと、その人のほうへ歩み寄っていく。
そして、唐突に、低く掠れた声で口を開いた。
「失礼ですが、あなたは、二十八歳ですね」
話しかけられたのは、ほかでもない、私だった。
私は、眠気が一瞬で吹き飛び、面食らった。
確かに、私はこの春で、二十八になったばかりだった。
「そうですけど……どうして、わかったんですか」
男は、私の問いには、いっさい答えなかった。
まるで聞こえなかったかのように、隣の席へ顔を向ける。
「あなたは、四十五歳ですね」
問われたサラリーマン風の男性が、ぎょっとして顔を上げた。
「……ええ、そうですが。なぜ、それを」
男は、やはり答えず、また別の乗客へと移っていく。
「あなたは、六十二歳」
杖をついた老人が、戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「あなたは、十九歳ですね」
イヤホンをした若者が、ばつが悪そうに、はい、と呟いた。
男は、車両の前のほうにも、歩いていった。
そこには、眠った子どもを抱いた、若い母親が座っていた。
「お子さんは、三歳ですね」
母親は、驚いて、子どもを抱く腕に、力を込めた。
「あなたは、三十一歳」
母親は、答えずに、ただ、こくりと頷いた。
その腕の中で、幼い子は、すうすうと、安らかに眠っていた。
男は、その子の寝顔を、しばらく、じっと見下ろしていた。
そして、何も言わずに、すっと、その場を離れた。
その横顔が、なぜか、ほっとしたように、私には見えた。
そのどれもが、寸分の狂いもなく、当たっているらしかった。
問われた者は皆、判で押したように、驚いた顔をした。
中には、気味悪そうに、そっと目を逸らす者もいた。
※
どうやらこの男には、奇妙な力が、そなわっているらしい。
顔をひと目見ただけで、その人の年齢を、言い当てるのだ。
次の駅までは、まだ、たっぷり時間が残っている。
逃げ場のない車内で、乗客たちの視線が、男に集まりはじめた。
はじめは気味悪がっていた人々も、次第に、面白がりはじめた。
「すごいな。ぜんぶ当たってるじゃないか」
「あんた、占い師か何かかね」
そんな囁きが、深夜の車内に、さざ波のように広がっていく。
けれど男は、その称賛に、まるで反応しなかった。
表情ひとつ変えず、ただ淡々と、次の年齢を告げていく。
私は、そのとき、奇妙なことに気づいた。
男の額には、びっしりと、汗が滲んでいたのだ。
暖房のせいにしては、その汗は、あまりに多すぎた。
真剣すぎる、と私は思った。
ただの座興にしては、男の目は、まるで笑っていない。
何かに、ひどく追い立てられているような、必死の目だった。
言い当てるたびに、その顔は、わずかに歪んでいくように見えた。
私は、これまで男が告げた数字を、ぼんやりと思い返していた。
二十八。四十五。六十二。十九。三十一。
それらが、もし、年齢ではないとしたら。
そんな考えが、ふと、頭をかすめた。
いや、まさか、と私は、その考えを打ち消した。
ただの、当てもののはずだ。
そう思おうとするほど、胸の奥の冷たさが、増していった。
車内に、ふいに、車掌のアナウンスが流れた。
次の停車駅と、到着時刻を告げる、抑揚のない声だった。
その無機質な声が、かえって、この異様な空気を際立たせた。
乗客の何人かは、もう、男から顔をそむけていた。
関わりたくない、という空気が、車内に満ちていく。
だが、誰も、席を立とうとはしなかった。
立てば、次は自分が、見られてしまう気がしたのだろう。
私も、同じだった。
動けば、男の視線が、もう一度こちらを向く。
それが、たまらなく、恐ろしかった。
男の手元を見て、私は、ふと、息を詰めた。
だらりと下げたその両手が、小刻みに、震えていたのだ。
まるで、見たくないものを、無理やり見せられているような震えだった。
年齢を当てるたびに、男は、ほんのわずかに、目をつぶった。
そして、また目を開けて、次の数字を口にする。
その繰り返しが、見ているこちらの、神経を削っていった。
いつか聞いた、怪談の断片が、頭をよぎった。
人ならぬものが見える者は、たいてい、長くは生きられない。
そんな、根も葉もない言い伝えだった。
なのに、その晩に限って、それは妙に、現実味を帯びていた。
私は、いつしか、その横顔から目が離せなくなっていた。
楽しい余興のはずが、なぜか、胸の奥がざわついていた。
※
車両のいちばん奥の席に、ひとりの女性が座っていた。
品のいい、初老の女性だった。
白髪をきれいにまとめ、薄紅色のショールを肩にかけている。
膝の上で両手を組み、静かに目を閉じていた。
その佇まいだけが、ざわめく車内で、ぽつんと凪いでいた。
その女性は、私が乗り込んだときから、ずっとそこに座っていた。
会食の酒で火照った私に、彼女は一度、そっと会釈をしてくれた。
見知らぬ者にも向けられる、その品のよさが、印象に残っていた。
きっと、長く、穏やかに生きてきた人なのだろうと思った。
そんな人の前で、男が、足を止めようとしている。
私は、なぜか、見てはいけない気がして、目を伏せた。
それでも、耳だけは、二人のやりとりを追っていた。
年齢当ての男は、とうとう、その女性の前に立った。
そして、これまでと同じように、静かに尋ねた。
「あなたは……五十歳、ですね」
女性は、ゆっくりと目を開け、ふっとやわらかく微笑んだ。
「あら、惜しいわねえ」
鈴を転がすような、穏やかな声だった。
「ほとんど当たっているんですけれど」
女性は、左手首の、小さな腕時計に目を落とした。
「あと五分もすれば、日付が変わるでしょう」
「実はね、今夜が、わたしの誕生日なんですよ」
「日付が変わったその瞬間に、わたしは、五十一になるんです」
女性は、少女のように、嬉しそうにそう言った。
周りの乗客から、おめでとう、と、ささやかな笑みがこぼれた。
だが、その瞬間だった。
年齢当ての男の顔から、すうっと、血の気が引いた。
※
男は、その場に、棒立ちのまま、凍りついた。
次々と年齢を当てて回っていた、あの余裕は、跡形もなく消えた。
額に浮いた汗が、つうっと、こけた頬を伝い落ちる。
見開かれた目だけが、女性の顔に、釘付けになっていた。
見てはいけないものを、見てしまった。
その横顔は、まさに、そんな顔をしていた。
私は、理由もわからぬまま、ぞくりと背筋が寒くなった。
暖房の効いた車内の空気が、急に、冷えた気がした。
おかしい、と私は思った。
百発百中で当て続けてきた男が、なぜ、たった一歳を外したのか。
そして、なぜ、その一歳のことで、これほど青ざめるのか。
私は、たまらなくなって、思わず男に声をかけた。
「あの……すごいですね。さっきから、ぜんぶ的中してる」
「いったい、どうやって、当ててるんですか」
男は、油の切れた人形のように、ぎこちなく私を振り向いた。
その顔は、血の気を失って、紙のように白かった。
男が次に口を開くまでの、ほんの数秒が、永遠のように感じられた。
私は、ごくりと、唾を飲み込んだ。
周りの乗客も、固唾を呑んで、男の言葉を待っていた。
さっきまでの、軽い好奇心は、もう、どこにもなかった。
あるのは、得体の知れないものへの、純粋な怯えだけだった。
男の喉仏が、ごくりと、上下するのが見えた。
そして、唇を震わせながら、絞り出すように言った。
「……私に見えているのは、あなたがたの、年齢ではないんです」
私は、思わず、息を呑んだ。
男は、女性のほうを、ちらりと見て、声を落とした。
「私に見えているのは……あなたがたの、寿命です」
※
その言葉の意味が、じわりと、胸の底に染み込んできた。
時計の針は、もう、真夜中の十二時を指そうとしている。
奥の席のあの女性は、にこにこと、窓の外を眺めていた。
あと、いくらも経たぬうちに、日付が変わる。
彼女は、五十一の誕生日を、迎えるはずだった。
けれど男は、彼女のことを、五十歳だと言った。
五十までしか、見えなかったのだ。
つまり、それは、こういうことだ。
彼女は、五十一の誕生日を、迎えることが、できない。
私は、そっと、その女性に目をやった。
穏やかに微笑む、その安らかな横顔を。
彼女は、何ひとつ、知らない。
自分に残された時間が、もう、ほんのわずかであることを。
言うべきだろうか、と私は迷った。
いや、たとえ言ったところで、どうなるというのか。
そんなこと、言えるはずが、なかった。
時計を見ると、真夜中まで、あと二分だった。
その二分が、ひどく、長く感じられた。
奥の女性は、相変わらず、穏やかに窓の外を見ている。
その膝の上で、組まれた両手が、かすかに動いた。
何か、思い出したように、彼女は、小さく微笑んだ。
幸せそうな、満ち足りた、微笑みだった。
その笑顔を見て、私は、いっそう、いたたまれなくなった。
幸福の絶頂で、人は、自分の終わりを知らない。
そのことが、これほど残酷だとは、思わなかった。
そのとき、列車が、ゴトン、と大きく揺れた。
天井の車内灯が、一度、ちかちかと不穏に瞬いた。
男は、もう、誰の顔も、見ようとしなかった。
深く俯いて、ただ、自分の靴の先を見つめている。
私は、ふと、自分の年齢を当てられたことを思い出した。
二十八。
あれは、私の寿命では、なかったはずだ。
どうか、そうであってくれと、私は心の中で祈った。
だが、男が言ったのは、年齢ではなく、寿命だった。
その事実が、冷たい手のように、私の首筋を撫でた。
やがて、時計の針が、ぴたりと真夜中を指した。
その瞬間、車両の奥で、こと、と小さな音がした。
あの女性の手から、何かが、滑り落ちた音だった。
周りの乗客が、いっせいに、そちらを振り返る気配がした。
けれど、私は、どうしても、そちらを見ることができなかった。
次の駅で、私は、逃げるように電車を降りた。
無人のホームに、私の足音だけが、こつこつと響いた。
振り返ると、走り去る列車の窓に、あの男の白い顔が見えた。
男は、まだ、誰かの寿命を、数えているようだった。
私は、二度と、夜の特急には乗るまいと、固く心に決めた。
自分の本当の数字を、知ってしまうのが、怖かったから。
※
それから、三日が過ぎた。
私は、努めて、あの夜のことを、忘れようとしていた。
気の迷いだ、悪い夢だったのだと、自分に言い聞かせていた。
家に着いても、私は、なかなか寝つけなかった。
洗面所の鏡の前に立ち、自分の顔を、まじまじと見つめた。
この顔に、あの男は、二十八という数字を見た。
それが、寿命だとすれば、私の時間は、あとどれほど残っているのか。
考えれば考えるほど、鏡の中の自分が、他人のように思えてきた。
私は、明かりを消して、布団にもぐり込んだ。
だが、目を閉じると、あの女性の安らかな横顔が浮かんだ。
その晩から、私は、人混みが、苦手になった。
道ですれ違う人の顔を、つい、見てしまうようになったのだ。
この人には、あの男には、いったいどんな数字が見えるのだろう。
そう考えると、知らない人の顔が、急に、恐ろしく思えた。
誰もが、見えない数字を、額に掲げて歩いている。
そんな気が、してならなかった。
あの男は、その数字が、否応なく見えてしまう。
だから、あんなに、痩せ細っていたのだ。
知らずに生きられることが、どれほど幸せか。
私は、初めて、そのことに気づかされた。
何も知らずに微笑んでいた、あの顔が。
だが、その朝、何気なく開いた新聞の片隅で、私の指は止まった。
小さな、ベタ記事だった。
先日の深夜、特急の車内で、初老の女性が、急死したという。
持病の心臓発作だろう、と書かれていた。
女性は、その日が、誕生日だったらしい。
記事には、五十歳、と記されていた。
五十一には、わずかに、届かなかったのだ。
私は、新聞を、そっと閉じた。
そして、あの男の、白い顔を思い出した。
私の数字は、二十八。
それが、年齢なのか、寿命なのか。
新聞を閉じたあとも、私は、しばらく動けなかった。
あの夜、私だけが、彼女の運命を、先に知っていた。
知っていて、何ひとつ、できなかった。
いや、できることなど、初めから、なかったのだ。
それでも、胸の奥の、後ろめたさは、消えなかった。
人の終わりを見てしまう力など、呪い以外の何ものでもない。
あの男は、今夜も、どこかの夜の電車に揺られているだろう。
そして、誰かの最後の数字を、声に出さずに、数えている。
私には、今も、確かめる勇気がない。
そこに、見えない数字が、浮かんでいる気がしてならないのだ。
私は、夜の窓に映る自分の顔を、もう、正視できない。