
私は今でも、自分の顔だけは大きく描かない。
昭和三十九年の夏の話だ。
その年、私は二十二になったばかりで、東京の場末の興行街で映画看板を描いていた。
町の名は伏せる。
通りはもう残っていないが、あの頃を覚えている人が、まだ何人かいるからだ。
町には小屋が三つあった。
一番大きいのが邦画の二本立てで、あとの二つは洋画とニュース映画をかけていた。
私が入ったのは、その三つ全部の看板を請け負う小さな看板屋だった。
親方と、兄弟子がひとりと、私。
それだけの店だった。
店といっても、間口は狭く、奥に細長い土間があるだけだ。
土間の突き当たりが裏庭に抜けていて、そこが看板を描く場所だった。
私たちはそこを看板場と呼んでいた。
仕事は単純だった。
配給から送られてくるスチール写真が数枚と、刷り物のポスターが一枚。
それを見て、縦二間半、横一間半ほどの板に、油の絵の具で描く。
役者の顔は、畳一枚ほどの大きさになる。
目玉ひとつが、私の頭より大きくなった。
近くで描いていると、自分が何を描いているのか分からなくなる。
だから一日に何度も梯子を降りて、裏庭の隅まで下がって眺めた。
下がってはじめて、それが人の顔になる。
その距離のことを、親方は間合いと言った。
「間合いの取れんやつは、看板は描けん」
それが親方の口癖だった。
興行は週で回る。
つまり看板も週で回った。
金曜の晩に前の週の絵を潰し、土曜の朝までに次の絵を仕上げて掛け替える。
潰すというのは、白い下地を上から刷毛で塗ってしまうことだ。
板は使い回しだった。
新しい板を買う金など、うちの店にはない。
何年も何年も、同じ板を白で潰しては描き、描いては潰していた。
だから板の表面は、絵の具が層になって盛り上がっていた。
刷毛を強く当てると、下の層の色が薄く透ける。
去年の秋の空の青が、その週の女優の頬に滲んで出てくることがあった。
私はその感じが好きだった。
板は六枚あった。
横に並べて、一枚の大きな絵にする。
その六枚のうち、右から二枚目だけが、いつも乾きが遅かった。
ほかの五枚が朝に乾いていても、その一枚だけは昼まで指がついた。
兄弟子はそれを、板が湿気を吸っているのだと言った。
親方は何も言わなかった。
ただ、板を洗うときだけ、親方はいつも一度、板の上のほうへ小さく頭を下げた。
盥に水を張って雑巾を浸し、絵の具の粉を落とす前に、必ずそうした。
私は最初、それを職人の縁起かつぎだと思っていた。
一度だけ、理由を聞いたことがある。
「親方、それ、なんの拝みですか」
「拝んでねえよ」
「じゃあ何ですか」
「挨拶だ」
「誰にです」
「板にだ」
親方は笑わなかった。
雑巾を絞って、それきり話を切った。
板の出どころを聞いたのは、そのあとだ。
教えてくれたのは兄弟子だった。
戦後の何年か、町の外れに旅の一座が長く小屋掛けをしていたという。
常磐座と名乗っていた。
芝居と歌謡ショーを混ぜたような一座で、町の者はみなその名を知っていた。
一座が畳んだとき、道具の始末を引き受けたのがうちの親方だった。
金にならない仕事だったが、板だけはもらった。
あの六枚は、常磐座の書割の裏板だ。
書割というのは、舞台の後ろに立てる背景の絵のことだ。
演目が変わるたびに塗り替える。
川になり、宿場になり、雪の山になる。
その前で、役者が出てきて、しばらく喋って、袖にはけていく。
書割は表を塗り替えて何度も使うが、裏板はそのままだ。
反りが出れば削り、割れれば継ぐ。
常磐座の六枚は、そうやって十年近く使い込まれていたらしい。
「あの板の前でな、何百人も出て、何百人もはけたんだ」
兄弟子はそう言って、刷毛の毛先を指で揃えた。
私は意味が分からず、曖昧に頷いた。
一座がなぜ畳んだのかも、そのとき聞いた。
客が入らなくなったからではない、と兄弟子は言った。
役者が揃わなくなったのだという。
やめたのでも、引き抜かれたのでもない。
ただ、頭数が減っていった。
「そういう一座は珍しくねえよ」と兄弟子は言った。
その言い方が、ずいぶん平らだったのを覚えている。
その夏は暑かった。
裏庭の絵の具が乾くのは早く、仕事はいくらでも進んだ。
町は五輪の話でもちきりで、電気屋の前にはいつも人だかりがあった。
小屋は三つとも満員だった。
私は毎週、畳ほどの大きさの顔を描いては、それを白く潰していた。
手の甲は絵の具で汚れ、爪の間から白が抜けなくなった。
幸せだったと思う。
ただ、七月の終わりごろから、下絵の枚数が合わなくなった。
それだけが、その夏の妙なところだった。
※
下絵というのは、本番の板に描く前に、藁半紙に鉛筆で当たりを取ったものだ。
その週に描く顔を、小さく並べて写しておく。
邦画の二本立てなら、看板に載る顔は多いときで七つか八つ。
私はそれを一枚の藁半紙に、豆粒ほどの大きさで並べて描く癖があった。
七月の最後の金曜、その藁半紙に、顔が九つあった。
数え直した。
やはり九つあった。
スチール写真は八枚しか来ていない。
並べ直して、一つずつ写真と突き合わせた。
八つは合った。
残る一つが、どの写真とも合わなかった。
若い男の顔だった。
細面で、右の眉のところに切り傷のような線が一本入っている。
私の鉛筆の線だった。
癖のある、右下がりの短い線の重ね方は、間違いなく自分のものだ。
けれど、描いた覚えがなかった。
その晩は蒸していて、私は麦茶を飲みながら、しばらくその顔を見ていた。
知らない顔だ。
写真も来ていない。
ならば描きようがない。
私は疲れているのだと思って、藁半紙をくしゃくしゃに丸めて、裏庭の隅の一斗缶に捨てた。
翌週、また九つあった。
今度は女の顔だった。
丸顔で、髪を耳の上でぴったり分けている。
やはり写真はない。
やはり私の線だった。
私は兄弟子に見せた。
兄弟子は藁半紙を斜めに持って、しばらく眺めてから返してきた。
「お前、この人知らねえの」
「知りません」
「そうか」
「兄さんは知ってるんですか」
「いや」
兄弟子はそれきり作業に戻った。
知らないと言った割に、返してくる手が少し遅かった。
その週の看板は、いつも通り八人の顔で仕上げた。
九つ目の顔は、どこにも描かなかった。
掛け替えは滞りなく済んだ。
※
八月の頭に、町の乾物屋の主人がいなくなった。
朝、店の戸が開いたままで、電灯もついたままだったという。
財布も自転車も置いてあった。
警察が来て、二日ほど町の中を歩き回って、それきりだった。
私はその主人を見たことがなかった。
店の前は通っていたはずだが、顔は思い出せない。
ただ、その話を聞いてきた兄弟子が、ひとつだけ言った。
右の眉に、切ったような傷があった人だと。
私は返事をしなかった。
返事の仕方が分からなかった。
その日の夕方、私はいつもより早く裏庭に出た。
一斗缶の中を見た。
先月の紙屑はもう燃やされていて、灰しかなかった。
それで少し安心して、私はその日の仕事に戻った。
安心したかった、というのが正しい。
※
次に妙だったのは、板のほうだった。
八月の半ば、洋画の看板を潰した翌朝のことだ。
金曜の晩に白の下地を二度塗りして、しっかり乾かした。
土曜の朝、下絵を持って裏庭に出ると、白い板の上に、うっすら顔の輪郭が浮いていた。
潰したはずの、前の週の主役の顔だった。
下から染み出したのだろうと思った。
油の絵の具は厚く塗ると乾きが遅い。
下の層がまだ動いていれば、上の白を押し上げることはある。
私は刷毛でもう一度白を重ねた。
昼過ぎには消えた。
けれど、その翌週も同じことが起きた。
その翌々週も起きた。
浮いてくるのは、いつも前の週の看板の中で、いちばん大きく描いた顔だった。
そして浮いてくるのは、決まって右から二枚目の板だった。
乾きの遅い、あの一枚だ。
私は親方に言った。
親方は梯子の上から板を見下ろして、少し黙ってから降りてきた。
「白、何遍塗った」
「二遍です」
「三遍にしろ」
「それで消えますか」
「消えねえ」
「じゃあ、どうすれば」
「消えねえもんは、消えねえ」
親方はそう言って、いつものように板の上のほうへ小さく頭を下げた。
それから、私に背を向けたまま、独り言のように言った。
「あの板は、はけを覚えてんだ」
私はその言葉の意味を、そのときは分からなかった。
※
八月の終わり、私は洋画の小屋のもぎりの婆さんと立ち話をした。
いつも切符を切りながら世間話をする人で、町のことは何でも知っていた。
常磐座を覚えているかと聞いてみた。
婆さんは、覚えているどころではないと言った。
「あたしゃ毎晩見に行ってたよ」
「面白かったですか」
「面白かったさ。ただ、途中から数が合わなくなってねえ」
「数、ですか」
「出てきた人と、はけた人の数だよ」
私は黙った。
婆さんは切符の束を揃えながら続けた。
「毎晩、はけるほうが一人多いんだ」
「そんなこと、ありますか」
「あるから言ってんの」
「誰も気づかなかったんですか」
「みんな気づいてたよ。だから客は最後まで入ってた」
婆さんはそう言って笑った。
それから、笑い皺を残したまま、私の顔をじっと見た。
「あんた、あそこの板を使ってる子だろう」
私はうまく返事ができなかった。
婆さんはそれ以上何も言わず、切符を切る仕事に戻った。
※
九月に入って、掛け替えの帳面を見返す用事があった。
うちの店では、どの小屋にいつ何の看板を掛けたかを、大学ノートに書きつけていた。
親方の字で、日付と、小屋の名と、演目の名が一行ずつ並んでいる。
私は集金の照合のために、四月からの分を数えていた。
そこで手が止まった。
帳面には、この町でかけたことのない演目の名が、六つ並んでいた。
いずれも聞いたことのない題だった。
芝居の題のようだった。
日付は飛び飛びで、四月に一つ、五月に二つ、七月に一つ、八月に二つ。
小屋の名の欄は空白になっていた。
親方の字ではなかった。
兄弟子の字でもなかった。
私の字だった。
右下がりの、癖のある字だ。
私は帳面を閉じて、しばらく机に肘をついていた。
それから、日付を一つずつ、頭の中の暦に並べてみた。
八月の二つのうち、後のほうの日付に見覚えがあった。
乾物屋の主人がいなくなった朝の、前の日だった。
※
その週から、私は下絵を数えるのが怖くなった。
数えなければ気づかないのだから、数えなければいい。
そう思って、九月の二週目は写真の枚数だけ確かめて、下絵は取らずに本番の板へ直接当たりを引いた。
そうしたら、板の右から二枚目に、当たりの線が一つ余っていた。
木炭の線だ。
顔の輪郭が、私の当たりの上に薄く重なって引かれていた。
今度は逃げられなかった。
私は梯子を降りて、裏庭の隅まで下がった。
間合いを取った。
下がってはじめて、それが人の顔になった。
下絵に混じっていたのは、前の晩に一緒に酒を飲んだ、兄弟子の顔だった。
私はしばらく、その場に立っていた。
裏庭では蝉が鳴いていて、隣の家のラジオが野球の中継を流していた。
何も変わったところのない、九月の午後だった。
私は梯子を上がって、雑巾に石油をしみ込ませ、その線を拭き取った。
木炭の線は簡単に消えた。
消えたはずだった。
その日の夕方、兄弟子が看板場に入ってきて、板を見上げた。
「お前、今週は俺も描くのか」
私は、何をですか、と聞き返した。
「そこ。俺の顔があるだろう」
私は板を見た。
白い下地しかなかった。
「兄さん、何もないですよ」
「あるよ」
「どこですか」
「右から二枚目の、上のほう」
兄弟子は指をさしていた。
その指の先には、白い板しかない。
私が黙っていると、兄弟子は少し笑って、それから笑うのをやめた。
「間合いを取れよ」と、兄弟子は言った。
私は言われた通り、裏庭の隅まで下がった。
下がって振り返ると、白い板の右から二枚目に、兄弟子の顔があった。
畳ほどの大きさで、輪郭だけが、白の中に白で浮いていた。
兄弟子はもう、そこにいなかった。
※
兄弟子がいなくなったのは、その週の金曜だ。
金曜の晩は掛け替えの前で、三人とも夜通し看板場にいるはずだった。
兄弟子は八時に煙草を買いに出て、戻らなかった。
下駄も上着も看板場に置いたままだった。
親方と私は、朝まで町を歩いた。
それから警察に届けた。
兄弟子の実家にも連絡がついたが、帰っていなかった。
私は、あの晩に自分が何をしたかを誰にも言えなかった。
私は白を三度塗ったのだ。
兄弟子の顔が浮いた板を、白で三度潰した。
親方が消えねえと言ったから、消したかった。
消えれば何も起きないと思った。
そのとき、私はまだ順番が逆だと知らなかった。
板に浮くから、その人がいなくなるのではない。
私が潰すから、はけるのだ。
書割の前に立った者は、喋り終えれば袖に引かなければならない。
引かせるのは、幕の裏にいる者の役目だ。
私は六枚の板の前で、三年、その役目をしていた。
※
秋の彼岸が過ぎて、私は看板屋を辞めた。
親方は引き止めなかった。
最後の日、盥に水を張って、六枚の板を一緒に洗った。
親方は板の上のほうへ小さく頭を下げ、私にも下げろとは言わなかった。
「お前は、下げなくていい」
私はその意味を聞かなかった。
聞かないほうがいいと、なぜか分かっていた。
「親方は、いつまでやるんですか」
「俺が出るまでだ」
「出るって、どこにです」
「前にだよ」
親方は板を指した。
私は挨拶をして、その通りを出た。
※
それから六十年が過ぎた。
小屋は三つとも、昭和のうちになくなった。
通りは道路の拡幅で削られ、看板屋のあった辺りは今は駐車場になっている。
親方の消息を最後に聞いたのは、昭和四十年代の終わりごろだ。
店を畳んで田舎へ帰ったと、風の便りに聞いた。
帰り着いたかどうかは、誰も知らない。
私は看板を離れてから、印刷の版下を長くやった。
紙の上の、掌に収まる大きさの仕事だ。
人の顔も描いたが、名刺や年賀状に入る程度の小ささでしかない。
誰かの顔を畳ほどの大きさに引き伸ばすことは、二度としなかった。
自分の顔も描かなかった。
この六十年、私は誰にもこの話をしなかった。
兄弟子のことは、行方知れずのままだ。
乾物屋の主人のことも、そのままだ。
町の年寄りの何人かは今も覚えていて、あの夏は妙だったと言う。
妙だったのは夏ではない。
妙だったのは、あの六枚だ。
※
先月、市の資料館から手紙が来た。
町の古い公民館を建て替えるにあたって、内壁に転用されていた板が六枚見つかったのだという。
厚い板で、塗料が異様に厚く積もっていた。
調べたところ、戦後の旅回りの一座の書割で、その後は映画看板に使われていたものらしいと分かった。
当時の職人を探していて、私の名前に行き着いたのだと、手紙にはあった。
私はその公民館を知らない。
あの町を出てから、一度も戻っていない。
資料館は、板の層を一枚ずつ剥がして記録する作業を始めていた。
塗り重ねの層から、その町でかけられた興行の歴史が分かる、という趣旨だった。
私は返事を書いて、覚えている限りのことを伝えた。
覚えていることだけを、伝えた。
資料館が最初に剥がしたのも、右から二枚目だという。
いちばん厚みのあった板だからだそうだ。
先週、写真が何枚か送られてきた。
剥がした層を、上から順に並べた写真だ。
いちばん上は、私の知らない映画の題字だった。
その下は、女優の頬らしい肌色の面。
その下は、白。
その下も、白。
白が何層も続いていた。
剥がした層のいちばん上から出てきたのは、親方の顔だった。
正確に言えば、白の層の中に埋もれていた最初の顔が、親方だった。
目尻の皺の入り方も、耳の形も、間違えようがない。
資料館は、これは無名の役者の似顔だろうと書いていた。
私は訂正しなかった。
写真は全部で九枚あった。
私は一枚ずつ、机の上に並べた。
親方の下に、兄弟子の顔があった。
その下に、右の眉に傷のある男の顔があった。
その下に、髪を耳の上で分けた女の顔があった。
顔は、下へ行くほど古かった。
そして九枚目が、いちばん下の層だった。
板のいちばん下に、私の顔が、畳ほどの大きさで描かれていた。
二十二の頃の顔だ。
私はその顔を描いた覚えがない。
その板を継いだのは親方で、私が店に入ったのは、それより三年もあとのことだ。
私が生まれる前から、あの板の底に、私は描かれていた。
写真を裏返して、私は電灯を消した。
それから、いつものように寝床に入った。
眠れないということもなかった。
今も、あれが何だったのかは分からない。
ただ、順番のことだけは分かる。
いちばん下ということは、いちばん先に描かれたということだ。
そして書割の前では、先に出た者ほど、あとまで舞台に残る。
私はまだ、はけていない。