
私は左利きだった。
今は、右手で庖丁を握っている。
持ち替えた覚えはない。
昭和五十八年の秋に、山の在で膳を運ぶ手伝いをした。
その夜から、左手では握れなくなった。
当時、私は美濃の山あいにある戸室という町の割烹で、板場に入って三年目だった。
二十三歳。
店の名は巳之屋といった。
川魚と山のものを出す、座敷が四つだけの店だ。
秋になると、あまごと栗と茸で板場が埋まり、床の隅にまで山の匂いが染みついた。
朝は五時に起きて、店の裏を流れる細い川に組んだ生簀を見に行くのが私の役目だった。
弱ったものを笊に取り、氷の袋を抱えて板場へ戻る。
それから井戸端に膝をついて、露のついたままの葉物を一枚ずつ開いて洗う。
十月から三月まで、私の指はいつも赤く割れて、皮が爪の際から捲れていた。
左利きは板場では損だと言われる。
庖丁の刃は右利きに合わせて研いであるし、隣の者と肘がぶつかる。
私は入ってすぐ、親方に右で持てと言われた。
できませんと答えたら、皿を一枚割られた。
それで話は終わった。
以来、私は板場のいちばん端で、左が壁になる場所に立っていた。
それでも仕事はまわるもので、二年目には焼き場を任された。
先輩たちは私の手つきを「鏡ごしに見とるようだ」と言って笑った。
洗い場の水を張るのも私、氷を割るのも私、宴会が入れば座敷の膳を運ぶのも私だった。
一日で三十枚の膳を運んだ晩は、腕が上がらなくなって、布団の中で肩を壁に押しつけて眠った。
そういう三年目の秋だった。
野添さんだけは、何も言わなかった。
兄弟子で、当時三十六だったと思う。
背が高く、笑うと奥歯が一本欠けているのが見えた。
魚の腹を開くのが速く、骨に身を残さない。
無口な人で、私が刃を入れる角度を、黙って手の甲で直してくれた。
「左でええ」
一度だけ、そう言われた。
「右でやっとると、左を忘れるでな」
意味は分からなかった。
私は褒められたのだと思って、その晩は嬉しかった。
その日の賄いのとき、野添さんは湯呑みを右手で持ち、右手で置いた。
私はそれを見ていたが、何も思わなかった。
※
十月の終わりだった。
店を閉めたあと、野添さんが裏口の段に腰かけて煙草を吸っていた。
私が洗い場を上げて出ていくと、灰を落としながら言った。
「明日の夜、手を貸してくれんか」
「仕込みですか」
「膳を運ぶ」
「どこへ」
「柿生」
柿生というのは、町から峠を一つ越えた谷にある在の名だ。
七軒しかないと聞いていた。
バスは入っていない。
店の客に柿生の者はいなかったし、私は行ったことがなかった。
「向こうで宴会ですか」
「宴会ではない」
野添さんは煙草を土に押しつけて消した。
「膳を据えるだけだ。据えて、帰る」
「それだけですか」
「板場の者でないと運べん」
断る理由はなかった。
兄弟子の頼みだったし、日当を出すと言われた。
その額が私の三日分の給料より多かったことも、よく覚えている。
翌日、店の休みに合わせて、私たちは軽トラで峠を上がった。
荷台には塗りの膳と椀を入れた木箱を八つ積んで、縄をかけた。
道は途中から舗装が切れて、荷台がずっと鳴っていた。
ラジオは麓を出てすぐ入らなくなった。
日が落ちるのが早い時期で、四時半には谷が藍色になっていた。
右手の下に水が見えた。
ダムだった。
昭和三十年代に谷を締めて、いくつかの在が水の下になったと、学校で習った覚えがある。
「あの下に、在があったんですね」
「樽尾(たるお)だ」
野添さんはハンドルを切りながら言った。
「柿生の向かいだった」
「向かい」
「谷を挟んで、真向かいに家並みがあった。障子の明かりが数えられるくらいの近さだ」
「行き来はあったんですか」
「あったな。喧嘩もな」
それだけ言って、野添さんは黙った。
※
柿生に着いたときには、もう暗かった。
七軒の家が、谷に落ちる斜面を削った狭い平地に、上下二段になって並んでいた。
下の段に四軒、上の段に三軒。
どの家も屋根が低く、雪に備えて拳ほどの石を等間隔に載せていた。
その石の並びが、どの家も同じ数に見えるのが、あとになって妙に思い出される。
軽トラを停めたのは、いちばん上の一軒の前だった。
その家だけ、灯りがついていなかった。
「ここが振舞屋(ふるまいや)だ」
野添さんが言った。
「人は住んどらん。据えるためだけの家だ」
戸を開けると、埃と、古い畳と、井戸の匂いがした。
土間の右手が勝手で、竈が二つ据わっていた。
片方の竈に灰が残っていて、まだぬくかった。
誰かが先に火を入れていったらしい。
土間の隅に、埃をかぶった藁草履が一足あった。
私はそれを、家の道具だと思った。
勝手の柱に、白い紙が一枚貼られていた。
文字が書いてあったが、障子越しの光のせいか、私にはそれが裏返って見えた。
覗き込むと、ちゃんと読める向きだった。
私は目のせいだと思った。
「作法を言う」
野添さんが前掛けを締めながら言った。
「膳は向かい合わせに据える。片方はこちら、片方は向こうだ」
「向こう、というのは」
「向こうだ」
それ以上の説明はなかった。
「二つ目。据え終わったら、勝手から出るな。廊下も座敷も、こっちの用が済んだら足を入れん」
「はい」
「三つ目。座敷で音がしても、障子は開けるな」
「音、というのは」
「箸の音だ」
野添さんは、そこで初めて私の顔を見た。
「開けたら、こっちの用が変わる」
私は笑おうとした。
兄弟子の冗談だと思いたかったのだと思う。
だが野添さんは笑わなかったし、私も笑えなかった。
竈の火が、土間の天井を舐めるように動いていた。
※
膳は十六据えた。
八つと八つを、座敷の中央に一尺ほどの間を空けて向かい合わせにしていく。
飯は白飯、汁は根菜、あとは栗と、塩をあてたあまごの焼いたものを一尾ずつ添えた。
どれも野添さんが前の晩に仕込んだもので、私は木箱から出して並べただけだ。
畳は十二畳で、縁が擦れて藺草の芯が覗いているのに、埃だけは一つも溜まっていなかった。
北側の襖に松が描かれていて、絵具は剥げていたが、枝の伸びる向きが妙に頭に残った。
右から左へ、幹が斜めに立ち上がっていく絵だった。
すべて据え終えて、私は勝手に戻り、椀の蓋を伏せに座敷へもう一度入った。
そのときには、松は左から右へ立ち上がっていた。
私は自分がさっき逆から見ていたのだと考えた。
実際には、私は同じ場所に立っていた。
蓋を伏せて、勝手へ引き上げた。
廊下は途中で右に折れて、勝手の板戸に出る。
そういう造りだと、私は覚えた。
時計を見た。
六時二十分だった。
「終わりました」
「よし」
野添さんは竈の前に座り、火を落とさずに見ていた。
「あと三時間ばかり、ここに座っとる」
「三時間」
「終わったら、膳を上げて帰る」
勝手には竈のほかに、水屋と、板の間があった。
板の間の隅に古い帳面が重ねてあって、いちばん上のものは表紙が抜けていた。
私は手を出さなかった。
そのあいだ、野添さんは柿生の話をした。
柿生と樽尾は、江戸の末に水で争ったのだという。
谷の上から引く水を、どちらが先に使うかで、鎌を持ち出すところまでいったらしい。
それを止めたのが、両方の年寄りが結んだ「境の講(さかいのこう)」だった。
「同じにすることにしたんだ」
野添さんが言った。
「同じ、といいますと」
「柿生で子が生まれたら、樽尾でも名を一つ立てる。樽尾が飢えたら、柿生も膳を減らす。片方に起きたことは、もう片方にも起きたことにする」
「そんなことをして、何になるんですか」
「同じもんは、取り合わん」
私は少し笑った。
理屈は分かる気がした。
「講の帳面は、両方の在に一冊ずつ置いた」
野添さんは板の間の隅を顎で示した。
「同じことを、同じ日付で書く。片方が焼けたら、もう片方も焼く」
「焼くんですか」
「合わんままにしておくのが、いちばんいかんことだった」
それから野添さんは、田の水口の造り方まで両方でそろえたのだと言った。
祭りの日も、屋根に石を載せる位置も、正月に切る餅の枚数もそろえた。
七十年ほど、その通りにやったらしい。
「だから、互いを鏡と呼んだ」
野添さんは湯呑みに白湯を注いだ。
右手で持って、右手で置いた。
「鏡は、片っぽだけでは成り立たん」
樽尾は水の下になった、と野添さんは言った。
補償金が出て、家々は麓や名古屋のほうへ散った。
それで済んだと役所は思っている。
沈める前の年、樽尾では家々の屋根を葺き替えたのだそうだ。
どうせ水に入るものを、なぜ葺くのかと柿生の者が訊いたら、樽尾の年寄りはこう答えたという。
向かいから見て、みっともないでな。
「柿生だけが残ったんだ」
「残ったら、どうなるんです」
「映すもんがなくなる」
外で風が鳴った。
竈の灰が、少し吹き上がった。
「だから年に一度、こっちが向こうの分まで据える」
野添さんは、そこで初めて煙草を出した。
「向かい膳(むかいぜん)というんだ」
※
七時を過ぎたころ、外に人が来た。
戸を叩く音がして、野添さんが立って開けた。
小さな老女が、笊に栗を入れて立っていた。
「野添さんとこの」
「トメさん、済まんです」
「上がらんよ。据えたなら、上がらん」
トメさんは土間から首だけ入れて、私を見た。
それから、こう言った。
「今年は、どちらが映りですかの」
私は意味が分からず、笑って会釈をした。
トメさんは笑わなかった。
「あんた、左だね」
「はい」
「そりゃええ」
なぜ良いのかは言わずに、トメさんは笊を土間に置いて帰っていった。
栗は熱かった。
茹でたばかりだったのだと思う。
私は一つ剥いて食べた。
甘くて、こんな場所で食べるのが妙に間の抜けたことのように思えて、少しおかしくなった。
野添さんも一つ食べた。
「うまいな」
「うまいです」
そのやりとりだけは、店の板場と同じだった。
※
七時半ごろ、下の段の男が薪を担いで上がってきた。
久助さんという人で、六十を過ぎて見えた。
土間に薪を積んで、手を払いながら私を見た。
「若い衆かね」
「巳之屋の者です」
「そうかい」
久助さんは竈の火を覗いて、いい火だと言った。
それから、思い出したように野添さんに言った。
「去年は、三人で来なさったな」
「二人だ」
「そうかい」
久助さんはそれで納得したようだった。
納得した顔のまま、私のほうを一度見て、それから帰っていった。
私は、去年のことを知らない。
知らないから、聞き流した。
ただ、聞き流したあとで、野添さんの手が竈の縁を握っているのに気づいた。
握っている指が、白かった。
※
最初におかしいと思ったのは、八時前だ。
私は勝手の板の間で胡坐をかいていた。
膝を組み替えたとき、着物の裾が畳をこすった。
その音のすぐあとに、同じ音が座敷のほうから返ってきた。
半拍だけ遅れて、まったく同じ音だった。
山の家に反響はしない。
天井が低く、壁が土だから、音は吸われて終わる。
私は膝をもう一度組み替えた。
半拍遅れて、また同じ音が返った。
「野添さん」
「聞くな」
野添さんは竈を見たままだった。
「返ってくるだけだ。返ってくるうちは、ええ」
それから、座敷で箸の音が始まった。
塗りの椀の縁に、細い木が触れて滑るような、軽い音だ。
一つ鳴って、少し置いて、また鳴る。
十六膳ぶんの音には、とても足りなかった。
だが、確かに人が箸を使っているとしか思えない、間の取り方だった。
噛む音は、しなかった。
飯を掻く音も、汁を吸う音も、椀を膳に戻す音すらしなかった。
箸が椀に当たる音だけが、最後まで一定の間で続いた。
私は自分の腕を見た。
腕時計が、右腕に巻かれていた。
私は昔から左に巻く。
左に巻いて、右手で竜頭を回す。
その日の朝も、そうしたはずだった。
外して、左に巻き直した。
指が、うまく通らなかった。
※
九時を回ったころ、野添さんが立ち上がった。
「膳を上げる」
「もう終わりですか」
「音が止んだ」
言われて、私は座敷が静かになっていることに気づいた。
廊下に出た。
その廊下が、左に折れていた。
行きは右に折れて、勝手の板戸に出た。
私はそれを覚えていた。
覚えていたはずだった。
「野添さん、この廊下」
「見んでええ」
座敷の障子の前で、野添さんは足を止めた。
それから前掛けの紐を結び直した。
結び目が、私と同じ側に来た。
「先に言うておく」
野添さんは障子に手をかけたまま、私のほうを見なかった。
「おれの親父は、三年前、ここで代を渡した」
「代」
「見届けを渡したんだ」
「意味が」
「開けたら分かる」
障子が開いた。
※
座敷は、月明かりだけで見えた。
天井近くの小窓から差す光が、畳の上に手のひら三つぶんほどの白い帯を作っていた。
十六の膳は、据えたときのままの形で、一つも位置を変えずに向かい合っていた。
向かいの八膳は、飯が減っていた。
椀の内側に飯粒が張りついて、上の三分の一だけがきれいに掻き取られていた。
こちらの八膳は、箸も上げられていなかった。
そして、椀の蓋が、向かいの八つだけ、合口の反対を上にして伏せてあった。
私が伏せたはずだった。
座敷の中央に、人が座っていた。
向かい合った膳の、向こう側の座だ。
背中を丸めて、椀を持っている。
その人は、箸を左手で持っていた。
野添さんだった。
私は障子の枠を掴んだ。
掴んだ手が、思っていたほうと逆の手だった。
野添さんは左利きだった。
板場に入って三年、私はそれを一度も見ていない。
座っている野添さんは、こちらを見て少し笑った。
奥歯の欠けたところが、右ではなく左に見えた。
「三年、借りたんだ」
私の背中のほうから、野添さんの声がした。
振り向くと、廊下に野添さんが立っていた。
前掛けの結び目が、私と同じ側にあった。
「親父が見届けをしてくれとるあいだは、こっちに居れた」
廊下の野添さんは、そう言って草履を脱いだ。
「去年、親父が向こうへ渡った」
「野添さん」
「戻さんといかん」
「何を」
「おれを」
廊下の野添さんが、座敷に上がった。
座っていた野添さんが、静かに箸を置いた。
置いた音が、半拍遅れて、私の背中のほうから返った。
私は袖を掴んだ。
どちらの袖を掴んだのかは、今も分からない。
掴んだとき、指の力が入る場所が、いつもと違った。
親指が、思っていた側になかった。
「見届けは、頼まん」
野添さんは、私の手を外した。
外し方が、店で刃の角度を直してくれるときと同じだった。
「行け」
私は座敷を出た。
※
廊下を走った。
折れ目は、右にも左にも折れず、まっすぐ勝手に出た。
土間に降りて、藁草履を踏んだ。
その藁草履には、埃がなかった。
軽トラに飛び乗って、私は峠へ引き返した。
下るつもりで、道を上がっていた。
気づいたのは、霧に入ってからだ。
ライトが白く跳ね返って、二間先も見えない。
それでも道は続いていて、私は上がるしかなかった。
やがて舗装が終わり、砂利になり、右手のガードレールが根元から切れた。
道の終わりは、水だった。
ダムの湛水域の縁を回る管理道に出ていたのだと、私は後になって地図で知った。
私は車を停めて、外に出た。
エンジンを切ると、水がコンクリートを打つ音だけが、下からゆっくり上がってきた。
霧が薄く割れて、月の光が入り、下の水面が黒く光った。
水の面に、家並みが映っていた。
上の段に三軒、下の段に四軒。
石を載せた低い屋根が、水の上に七つ並んで、揺れずに静まっていた。
私は顔を上げて、対岸を見た。
対岸に、家並みはなかった。
※
夜が明けるころ、私は町に降りた。
商店街の角の豆腐屋だけが灯りをつけていて、白い湯気が路地の低いところに溜まっていた。
その湯気を見て、私はようやく車を降り、店の裏の段に座り込んだ。
巳之屋に戻ると、野添さんはその日から休んでいることになっていた。
親方は、腰だろうと言った。
誰も柿生の話をしなかった。
私が言い出しても、話が続かなかった。
野添さんは、それから店に来なかった。
荷物は月末に、親戚の人が取りに来た。
行方は分からないままだ。
警察には、身内が届けを出したと聞いた。
それだけだ。
春になって、私は一度だけ峠の下の集落まで行った。
柿生へ入る道の手前に郵便の受け箱が並んでいて、七軒ぶんの名札がついていた。
そのうちの一枚が野添で、消してはいなかった。
受け箱の中は空だった。
私はそこから引き返した。
上まで行かなかったのは、道が細かったからだと、長いあいだ自分に言っていた。
※
その年の暮れ、私は板場の壁に画鋲で留めてあった古い写真を、初めてまともに見た。
巳之屋の二十周年に撮ったもので、私が入る三年前のものだ。
前列の端に野添さんが写っていて、鯉を押さえた台の脇で、庖丁を左手に持っていた。
すぐ隣に貼ってあった三年前の忘年会の写真では、同じ人が右手に杯を持っていた。
私はそれを親方に見せなかった。
見せて何になるのか、分からなかった。
年が明けてから、私は左手で庖丁を握ろうとした。
握れなかった。
柄は持てる。
指も曲がる。
だが、刃が思った場所に降りない。
右手に持ち替えると、初めから何十年もそうしてきたように動いた。
そのことが、いちばん怖かった。
判子を押すときの傾き、靴を履く順、階段を上るときに先に出る足。
気づけば、全部が入れ替わっていた。
妻には一度だけ話した。
若いころ左利きだったと言ったら、笑って信じなかった。
「あなた、箸も右でしょう」
そのとおりだった。
小学校の卒業写真を出してきて、私は縄跳びを持った自分の手を確かめた。
右手だった。
写真のほうが入れ替わることはない。
だから私は、自分の記憶のほうを疑うことにした。
疑うことにして、四十年やってきた。
それでも、包丁を研ぐときだけは分かる。
右手で研ぐと、刃の当たる位置が、いつもほんの少し内側にずれる。
使っているうちに直るのだが、朝いちばんは必ずずれている。
研ぎは、体が覚えているほうの手が正しい。
私の体は、まだどちらかを決めていないのだと思う。
※
四十年が過ぎた。
私は戸室で自分の店を持ち、いまは息子に板場を任せている。
座敷は二つだけの小さな店だ。
朝いちばんに、私は椀を伏せる。
今朝も、私は椀を伏せた。
合口は、あの夜と同じ向きだった。
柿生には、一度も行っていない。
七軒のうち、いま人が住んでいるのは二軒だと聞いた。
振舞屋がまだあるのかどうかは、確かめていない。
確かめてしまえば、私はまた膳を運ぶことになる気がする。
向かい膳のことは、誰にも話さなかった。
話したところで、鏡の片側の話になるだけだ。
ただ、あの夜のことを思い返すたび、順番が一つずつずれていくのが分かる。
最初は、私が袖を掴んで、野添さんが外した。
今は、外された手のほうから思い出す。
今も、私は右手で庖丁を握っている。
野添さんも、三年のあいだ、そうしていた。
あれから、四十年になる。
私は、まだ呼ばれていない。