
あれは平成のはじめ、まだ館の収蔵庫に空調も入っていなかった頃の話だ。
私は県立の郷土資料館で、養蚕にまつわる民具を集めて回る、学芸員をしていた。
担当していたのは、町から山をひとつ越えた先にある、繭で栄えた古い集落だった。
集落の名は、ここでは伏せておく。
谷をつなぐ道は一本きりで、痩せた川に沿って、山の奥へ細く続いていた。
バスは日に三本しかなく、私はいつも、町から自分の軽自動車で通っていた。
かつては谷じゅうの家が桑を植え、家の二階を蚕(かいこ)に明け渡して暮らしていた土地だ。
最盛期には、谷を歩けばどの軒先からも、機(はた)を織る音が、雨のように聞こえたという。
私が通い始めた頃には、その音はもう、どこからも聞こえなかった。
残っていたのは、葉を落とした桑畑と、軒の傾いた家ばかりだった。
人の住む家は、もう十軒ほどしかなかった。
どの家も年寄りばかりで、若い者は、とうに谷を出ていた。
私は、繭を煮る鍋や、糸を繰る車(くるま)や、機の部品を、一軒ずつ訪ねて記録して回った。
年寄りたちは、はじめは口が重かったが、養蚕の話になると、目に光が戻った。
「うちの蚕は、谷でいちばん白い糸を吐いた」と、誰もが同じことを、誇らしげに言った。
谷の家々は、糸の出来栄えを、長いあいだ、静かに競い合って暮らしてきたのだ。
年寄りの一人が、ぽつりと、こんなことを漏らした。
「昔はな、よその家の蚕が当たると、妬(ねた)んで、おかしなことをする者もおった」
私はその時、ただの古い世間話だと思って、聞き流していた。
その競い合いの底に、何が沈んでいたのかを、私はまだ知らなかった。
谷は、朝が遅い。
山の影が長く残って、十時を過ぎてようやく、日が川面に届く。
私はその、光の届かない時間に、よく一軒の空き家の蔵を検分していた。
その家は、谷でもひときわ立派な、瓦葺(かわらぶ)きの大きな家だった。
母屋の脇に蔵が二棟あり、私が通っていたのは、古いほうの土蔵だった。
その家は、谷で最後まで蚕を飼っていた家だ、と年寄りたちは言った。
嫁が町へ下りたあと、その家の蚕は、ぱたりと当たらなくなったのだという。
桑だけが、誰の世話もないまま、年々、丈(たけ)を伸ばしていた。
持ち主の一家はとうに町へ移り、蔵の鍵だけを、役場に預けていた。
鍵を借りに行くたび、役場の年寄りの書記が、決まって同じことを言った。
「あすこの蔵は、あんまり奥まで掻(か)き回さんほうが、ええよ」
私は、田舎にはよくある言い伝えの類だろうと、軽く受け流していた。
蔵の中は、繭を煮たあとの匂いと、黴(かび)の匂いとが、古く混ざり合っていた。
私は、そういう匂いが、嫌いではなかった。
古い土地の記憶は、たいてい、匂いのほうから先に、立ち上がってくる。
蔵の奥は、昼でも夜のように暗く、懐中電灯の輪の中だけが、世界のすべてだった。
繭の選別に使った笊(ざる)や、糸枠や、虫の食った帳面が、うずたかく積まれていた。
蔵の梁(はり)には、古い注連縄(しめなわ)が、煤(すす)けたまま垂れていた。
床は冷たく、足の裏から、土の湿りが、じわりと伝わってきた。
私は朝、鍵を開けて中に入り、天窓から昼の光が差すまでの数時間を、その暗がりで過ごした。
検分を始めて、三日目の昼前のことだった。
私は、機を据えていたらしい板の間の、床板の隙間に、手を差し入れた。
指の先が、油紙の包みに触れた。
引き出してみると、それは赤い組紐(くみひも)で十文字に、きつく巻かれた、小さな桐の箱だった。
五寸ほどの、掌(てのひら)に乗る大きさだ。
組紐の赤は、蔵の暗がりの中でも、妙に鮮やかだった。
色褪(あ)せひとつなく、まるで昨日、結ばれたばかりのようだった。
床下で、何十年も土に埋もれていたものとは、とても思えなかった。
私は咄嗟(とっさ)に、これを「機織りの守り箱」のたぐいだろうと、見当をつけた。
養蚕の家には、家の繁盛を願って、床下に願掛けの品を納める風習が、各地にある。
由緒のはっきりした品なら、来年の企画展の、目玉になるかもしれない。
学芸員の欲が出て、私はその場で、組紐をほどこうとした。
紐は、思いのほか、固かった。
指が滑り、結び目に爪を立てた、その時だった。
生暖かい空気が、頬を、すっと撫でた。
蔵の戸は閉めきっていたし、風の通る隙間など、どこにもなかった。
私は、手を止めた。
しばらく、結び目を、見ていた。
結局そのまま、油紙で包みなおし、調査かばんの底に入れて、持ち帰った。
私はこれを、ただの古い民具の、ありふれた怖い話にすぎないと、思いたかった。
今になって思えば、それが、長い一年の始まりだった。
※
資料館の私の机は、収蔵庫の隣の、窓のない小部屋にあった。
箱を持ち帰った晩、私は遅くまで、残業をしていた。
天井の上、ちょうど収蔵庫の棚のあたりから、ごと、と音がした。
重い民具が、誰もいない部屋でひとりでに傾いて、床に当たるような音だった。
ネズミにしては、間(ま)が長すぎた。
ごと、と鳴って、十を数えるほど黙り、また、ごと、と鳴る。
何かが、ゆっくりと、規則正しく、床を叩いているようだった。
私は鍵を持って、収蔵庫を、見回りに立った。
蛍光灯をつけると、棚の民具は、どれも元の位置に、きちんと収まっていた。
ただ、桐の箱をしまった桐戸棚の、すぐ前の床に、赤い糸くずが一本、落ちていた。
私は、組紐がほつれて落ちたのだろうと思い、拾って屑籠(くずかご)に捨てた。
その晩は、それ以上、何も起きなかった。
異変の二つ目は、その翌週だった。
調査ノートの、あの箱について書いた頁(ページ)だけ、墨が滲(にじ)んでいた。
雨に濡らした覚えも、茶をこぼした覚えもない。
滲みは、ちょうど赤い組紐の太さで、頁の上を斜めに、横切っていた。
まるで、紐の形が、紙の下から、染み出してきたようだった。
三つ目には、同僚が先に気づいた。
「先輩、上着が糸くずだらけですよ」と、隣の机の若い学芸員に言われた。
見ると、肩から袖にかけて、赤い細い糸が、撚(よ)りをかけたように絡んでいた。
払っても、払っても、夕方にはまた、同じ場所に、付いていた。
「クリーニングに出したばかりなのに、変ですね」と、彼女は不思議そうに言った。
私だけでなく、人の目にも、その糸が見えていることが、かえって怖かった。
四つ目は、収蔵庫の、いちばん暗い奥でのことだ。
私は別の民具を探して、棚の最も奥に、腕を肩まで差し入れた。
指先に、髪のような細いものが、するりと、絡みついた。
引いても取れず、手繰(たぐ)ってみると、ひと束の赤い糸が、棚の下の闇から、ずるずると出てきた。
棚の下は、磨いたコンクリートの土間で、何もないはずの場所だった。
私は腕を抜いて、しばらく、その手を、握ったり開いたりしていた。
声を上げることも、できなかった。
その夜から、私は同じ夢を、繰り返し見るようになった。
谷の、あの蔵の中にいる夢だ。
床下から、赤い組紐が、何本も何本も、伸びてくる。
紐は私の足首に巻きつき、ゆっくりと、床下の闇へ、引き込もうとする。
湿った土の匂いが、鼻の奥に、満ちる。
抗(あらが)おうとしても、体が、綿のように重い。
膝(ひざ)まで床に沈んだところで、いつも、目が覚めた。
目覚めると、足首に、細い赤い筋が、輪になって残っていた。
寝具に擦(こす)れた痕(あと)だと、私は自分に言い聞かせた。
だが、その輪の太さは、あの組紐と、寸分違わなかった。
残業の晩、例の若い学芸員が、私の部屋まで来たことがあった。
彼女も、天井の、ごと、という音を、確かに聞いたのだ。
「ネズミにしては、ずいぶん重い音ですね」と、彼女は天井を見上げた。
二人で収蔵庫へ上がったが、棚はやはり、何ひとつ動いていなかった。
ただ、桐戸棚の扉が、わずかに、開いていた。
私は確かに、帰る前に、閉めたはずだった。
中の桐の箱は、油紙の包みのまま、しかし、向きだけが変わっていた。
紐の結び目が、扉のほうを、まっすぐに向いていた。
私は何も言わず、扉を閉め、鍵をかけ直した。
帰り道、彼女は一度も、振り返らなかった。
次の朝、彼女は風邪だと言って、休んだ。
私はその晩、家へ帰ってから、町史と、谷の古い郷土誌とを、片端から読み返した。
そして、薄い手書きの年代記の隅に、「結い箱(ゆいばこ)」という短い記述を、見つけた。
家の運を土地に結びつけるため、女の髪と紅(べに)と爪を桐の箱に納め、赤い組紐で巻いて床下に埋める――そう書かれていた。
続けて、こうもあった。
「結い箱、解(と)くべからず。解けば、結びは人に移る」
年代記には、もう一行、墨の薄れた書き込みが、続いていた。
「結いし家、栄えしのち、糸を断つ」
栄えたのちに糸が断たれる、とはどういう意味か、その時の私には、わからなかった。
私は、自分が蔵で、その紐に爪を立てたことを思い出して、指の先が、冷たくなった。
それでも、まだ半分は、信じていなかった。
翌朝、私は役場で、あの年寄りの書記を捕まえて、空き家の一家のことを尋ねた。
書記は、あたりを気にするように声をひそめて、こう言った。
「あすこの嫁(よめ)はな、機織りが、谷でいちばん上手(じょうず)でな」
「けど、姑(しゅうとめ)とも、近所の織り手とも、ずいぶん折り合いが、悪かった」
「家の蚕だけが、毎年やけによう当たると、陰では、ずいぶん妬(ねた)まれとった」
「その嫁が、ある年の冬から、人が変わったようになって、一家して町へ下りてしもうたんよ」
「下りる前の晩に、蔵で何かしとった、という話も、聞いたことがある」
書記は、最後に、念を押すようにこう付け加えた。
「だからな、あすこの床下は、掻き回さんほうが、ええんよ」
私は、自分のかばんの底にある、あの赤い箱のことを、思った。
もう、確かめずには、いられなかった。
私は、集落でただ一人、今も機織りを覚えているという古老を、訪ねることにした。
※
古老は、谷のいちばん奥に独りで暮らす、トヨさんという老女だった。
齢(よわい)は九十に近いと聞いたが、背は伸び、目だけは、谷川の水のように澄んでいた。
私が、事の次第と、ノートの滲みと、絡みつく赤い糸の話をすると、トヨさんはしばらく、黙っていた。
それから、「箱を、持っておいでなさったか」と、低く言った。
私が、まだ何も言っていないのに、トヨさんは箱のことを、口にした。
私が調査かばんから油紙の包みを出すと、トヨさんは囲炉裏(いろり)の灰を平らに均(なら)し、その上に箱を置かせた。
「これは、解いてはならんものを、谷の女が一人、解こうとした名残りだ」
トヨさんは、節くれだった指で、赤い組紐の結び目を、そっとたどった。
「結い箱は、もともと、家のためのまじないだ」
「家の運を、土地と、女の手仕事に結びつけて、谷の蚕が、よう育つようにと願う」
「土地と、家を継ぐ者と、その手わざ。この三つが揃(そろ)って、初めて運は、その家にとどまる」
「どれか一つでも欠ければ、結いは行き場を失くす」
「縁(えん)のない者が箱を持ち出せば、宙に浮いた結いは、持ち出した者へ移ろうとする」
それは、あの年代記の一行と、寸分(すんぶん)違わなかった。
「では、私は」と、私は声を絞り出した。
「あんたは、持ち主のいない蔵から、これを持ち出した」と、トヨさんは静かに言った。
「結いは今、行き先を探して、あんたに絡みついておるのだろう」
「だがな」と、トヨさんは続けた。
「この箱を埋めた女は、家の運を、独りで抱え込みたかったのだろう」
「人を妬(ねた)む心で結えば、まじないは、たやすく呪いに変わる」
「この谷では、糸の出来は、女の格(かく)だった」
「いちばん白い糸を吐かせる嫁が、谷で、いちばん上の女だった」
「あの家の嫁は、その座を、誰にも渡したくなかったのだろう」
「だから、よその家の運までも、自分の家の床下へ、結いつけようとした」
「他人(ひと)の運を奪うまじないは、いつか、必ず己に返る」
「あの嫁が谷を下りたのも、たぶん、それだ」
トヨさんは、組紐を一寸(いっすん)ずつ、ほどいていった。
蓋(ふた)を開けると、饐(す)えたような、古い紅の匂いが、ふっと立った。
中には、切られた黒髪がひと巻きと、紅をさしたまま切られた爪が数枚、そして赤い組紐の燃えさしが、入っていた。
「髪は執着、爪は見張り、紅は妬みだ」
トヨさんは、それらを古い和紙の上に移し、傍(かたわ)らの椀から、谷川の水を指で弾(はじ)いてかけた。
それから、着物の袂(たもと)から、小さな硯(すずり)のようなものを取り出した。
そこに谷川の水を垂らし、墨ではなく、白い塩を、指で溶いた。
その塩水を、赤い組紐の燃えさしに、一滴ずつ、落としていった。
一滴ごとに、紐が、かすかに、身じろぎするように見えた。
「見えるかね。これは、まだ、生きておる」
私は、頷くことしか、できなかった。
「箱の中の品は、もう力を失うておる。だから、これは、もうよい」
「怖いのは、箱では、ない」
トヨさんは、最後に残った一本の、赤い組紐の端を、私の手に握らせた。
「この、赤い糸のほうだ」
「これは、あの嫁が己(おのれ)の手で、一筋ずつ撚って結んだものだ」
「人の手の念(ねん)がこもった糸は、土に返すまで、結んだ相手を、どこまでも見張る」
私の握った組紐の端が、手のひらの中で、ぴくり、と撓(たわ)んだ気がした。
「これは、私が谷へ返しておく」と、トヨさんは言った。
「いいかね」と、トヨさんは私の目を、まっすぐに見た。
「これを元の床下へ返すまで、赤いものを、何ひとつ身につけてはならん」
「赤は、糸を呼ぶ。呼ばれれば、糸は離れんようになる」
「もし、うっかり赤いものを身につけてしまったら」と、私は尋ねた。
「その晩は、白い塩を、首から胸へ、指でなぞりなさい」
「そして、谷のほうを、思い出さんことだ」
「あの嫁のことも、恨んではならん。恨めば、糸は、その心へ通う」
トヨさんは、そう言って、紙に包んだ塩を、私の手に握らせた。
「そして」と、トヨさんは、いっそう声をひそめた。
「あんた、この箱を蔵で見つけた時、嬉(うれ)しいと、思ったかね」
私が、小さく頷(うなず)くと、トヨさんは静かに、長い息を吐いた。
「その、嬉しいと思った心に、もう結いは、半分かかっている」
※
箱は、トヨさんが、谷の元の床下へ返してくれた。
油紙も、赤い組紐も、髪も紅も、すべて元の土へ戻したという。
私は言いつけを守り、その冬は、赤いものを一切、身につけなかった。
マフラーも、手袋も、口紅さえも、色のないものに、替えた。
ごと、ごと、という天井の音は、ひと月ほどで、やんだ。
調査ノートの滲みも、それ以上は、広がらなかった。
企画展は、結い箱の話を伏せたまま、別の民具で、ささやかに開いた。
谷の調査も、その春で、私は別の学芸員に引き継いだ。
あの蔵には、二度と、近づかなかった。
引き継ぎの書類に、結い箱のことは、一行も書かなかった。
書けば、それを読んだ者にまで、結いが渡る気が、したのだ。
だが、赤い糸だけは、今も時々、私の身の回りに、現れる。
引き出しの隅、コートの裏地、洗ったばかりの白い割烹着(かっぽうぎ)の襟。
ほつれた組紐の切れ端のような、撚りのかかった赤い糸が、決まって、一本。
拾って捨てても、いつの間にか、また一本、どこかに付いている。
そのたびに私は、赤いものを身につけまいとした、あの冬の戒(いまし)めを、思い出す。
これはもう、私の中では、ただの怖い話では、なくなっていた。
トヨさんは、数年前、静かに眠るように、向こうへ渡った。
谷の家はみな絶え、機の音も、今は誰の記憶にも、残っていない。
葬(とむら)いの帰り道、私は何の気なしに、コートのポケットに手を入れた。
指先に、細い赤い糸が、するりと、絡みついた。
つまみ出すと、その糸は、谷へ続く道のほうを向いて、風もないのに、ゆっくりと撓(たわ)んでいた。
まるで、まだ床下のどこかと、結ばれたままのように。
今でも、白く艶(つや)のある糸を見ると、私はあの谷を思い出す。
そして、自分の指が、無意識に、赤いものを探していないかを、確かめる。
あの箱を見つけた時、嬉しいと思ってしまった、あの心のことを。
私は今も、忘れることが、できずにいる。