
私は目が悪くて、眼鏡をかけていても、少し離れると人の顔なんてわかりません。
視力は両方とも〇・〇六です。
電車で友達が向かいに座っていても、声をかけられるまで気づかない。
そういう目です。
だからあの女の人のことを、私はずっとおかしいと思っていました。
そのことを人に話したのは、この三年で二人だけです。
一人は当時の同僚で、もう一人は、いまの職場の後輩でした。
二人とも、途中までは面白がって聞いてくれました。
面白がられなくなるのは、いつも同じところからです。
広場をうろついていた人
三年ほど前の話です。
私は梅田の会社に勤めていて、帰りはいつも地下街を通っていました。
泉の広場です。
噴水のまわりが少し広くなっていて、待ち合わせの人がいつも立っている場所でした。
その広場を、赤い服の女の人がうろついているのを、何度も見かけました。
三十くらいでしょうか。
小柄で、顔色が悪くて、目がどこも見ていない。
髪は背中の近くまであって、伸ばしっぱなしという感じでした。
服は、赤というより臙脂に近い色のドレスでした。
形が古いのです。
肩のところが少し盛り上がっていて、裾が足首まである。
いまどきの人が着ているのを、見たことがない形でした。
目立つので、つい目がいってしまう。
でも、なんとなく怖くて、目は合わせないようにしていました。
地下街の出口から何本か外れたところに、飲み屋の並ぶ筋があります。
そこに立っている人なのかな、と最初は思っていました。
数えたわけではありませんが、見かけたのは週に二、三回だったと思います。
時間はいつも、七時から八時のあいだでした。
同じ課の子に、一度だけ話したことがあります。
「赤い服の、髪の長い人おるやん」
「おらんよ」
その子は、私と同じ時間に、同じ道を通って帰っていました。
「そんな目立つ人おったら、覚えとるって」
そのときは、興味がないだけだろうと思いました。
地下街は人が多いのです。
興味のないものは、目に入っていても覚えていない。
そういうものだと思っていました。
※
薬局の店頭で一時間
ある日の仕事帰りのことです。
広場のなかにある薬局の店頭で、化粧品の安売りをしていました。
私は買い物に時間をかけるほうで、その日も一時間近くそこにいたと思います。
その夜も、女の人は広場を歩いていました。
いつものことなので、特に気に留めませんでした。
ワゴンの前でしゃがんだり立ったりしているあいだ、視界の端を赤いものが行ったり来たりしている。
その程度の認識でした。
店員さんに「これ、二つ買ったら安くなりますか」と聞いたのを覚えています。
「なりますよ」
そんな、どうでもいい会話をしていました。
レジを打つ音と、袋を広げる音。
その音までよく覚えているのに、外に出たあとのことは、ところどころ抜けています。
買い物を終えて、袋を持って店の外に出ました。
そのとき、視線を感じたのです。
泉の広場は、天井が低くて、音がよく反響します。
噴水の水の音と、人の足音と、どこかの店の有線放送が混ざる。
あの音の混ざり方が、私は好きでした。
地上に出るより先に、あそこを通ると帰ってきた気がしたのです。
噴水を隔てて
顔を上げると、噴水の向こう側に、あの人が立っていました。
距離にして、十五メートルくらいでしょうか。
私の目では、その距離の人の顔は、ふつうは輪郭しか見えません。
ところが、その夜ははっきり見えました。
眉の形も、唇の乾き具合も、頬にかかった髪の一本一本まで。
写真を目の前に持ってこられたような見え方でした。
目が合った途端に、気持ちが悪くなりました。
理由が分からないまま、腕に鳥肌が立ちました。
まずい、と思いました。
何がまずいのか、自分でも説明できません。
反射的に店の中へ戻ろうとしました。
ところが、足が動かないのです。
金縛りというのは寝ているときになるものだと思っていました。
立ったままでも、なるのです。
声を出そうとして、それも出ないと気づきました。
いつもふらふら歩いているはずのその人が、すっと、速く近づいてきました。
髪を振り乱して、裾を揺らして、まっすぐこちらに来る。
明らかにおかしい歩き方でした。
それなのに、まわりの誰も、そちらを見ません。
待ち合わせの人も、通りすがりの人も、普通に立って、普通に歩いていました。
その人の顔は、笑っていました。
笑っているのに、怖いのです。
近づいてきて、はっきり見えたときに、私は気が遠くなりました。
目のあるところが、白いところまで全部、黒くなっていたからです。
※
あとから思い返すと、おかしなことがいくつもありました。
まず、私はそのとき、袋を両手に提げていました。
それなのに、袋を落とした記憶がありません。
気がついたら、両方とも足元にきちんと立てて置いてありました。
静かにして、と言った人
もうだめだ、と思ったときに、後ろから誰かに腕をつかまれました。
ぎゅっと、痛いくらいの力でした。
その瞬間に、体が動くようになりました。
驚いて振り返ると、男の人が立っていました。
四十代くらいでしょうか。
作業服でもスーツでもない、地味な上着を着ていました。
何か言おうとしたら、小声で止められました。
「静かにして」
その人は、私のほうを見ていませんでした。
まっすぐ前を見て、険しい顔をしていました。
つられて視線を戻すと、赤い服の人が、すぐそばまで来ていました。
その人は、もう私のことは見ていませんでした。
男の人だけを、じっと見ていました。
そして、通り過ぎざまに、つぶやいたのです。
「……かえして……」
肩がぶつかるくらいの近さでした。
けれど、ぶつかった感じはありませんでした。
その人はそのまま、薬局の中へ入っていきました。
私は、その人の顔をきちんと見ていません。
眼鏡はかけていたのに、覚えているのは横顔の輪郭だけです。
あれだけ近くにいたのにです。
その夜、私にはっきり見えたのは、赤い服の人だけでした。
改札まで
男の人は、私の腕を引いたまま、早足で歩きました。
駅の構内に入るまで、一度も手を離しませんでした。
明るくて、人が多くて、アナウンスが流れている。
そこでやっと、手が離れました。
途中で一度だけ、その人の手元を見ました。
私の腕を、直接つかんではいませんでした。
私の上着の袖を、布ごと握っていたのです。
指が皮膚に触れないように、わざわざそうしているように見えました。
「大丈夫か」
私は頷きましたが、本当はかなり混乱していました。
お礼も、名前を聞くことも、まともにできませんでした。
その人は、改札まで送ってくれました。
別れぎわに、こう言われました。
「もう、あそこ通ったらあかん」
「でも、仕事がありますし」
「命が惜しかったら、やめとき」
答えようがなくて、私は黙っていました。
すると、その人は少し声を落として言いました。
「今日はたまたま運がよかっただけや」
「あんたを守ってくれてる人が、たまたま俺を呼んだ」
「わかるか。たまたまや」
「あの人は、あそこの人ですか」
私がそう聞くと、男の人は少し困った顔をしました。
「あそこの人やない」
「あそこにおるだけや」
意味が分かりませんでした。
いまでも、分かっていません。
男の人は、最後にもう一度だけ振り返って、地下街のほうを見ました。
そちらには、もう何もありませんでした。
私は、霊というものを見たことがありませんでした。
だから、いま自分が体験したことが何なのか、まるで分かりませんでした。
あの人は、どう見ても生きている人間に見えたのです。
返事に困っていると、男の人は同じ言葉を何度も繰り返しました。
一人であそこを通るな。
それだけ言って、行ってしまいました。
※
もう一つ、あとで知ったことがあります。
私はあの服の形が気になって、地下街の歴史を調べたことがあります。
昔、あの地下街には、案内係の女性が立っていた時代があったそうです。
写真が一枚だけ残っていました。
肩が少し盛り上がった、裾の長い制服でした。
色は、白黒の写真なので分かりません。
それ以上は調べませんでした。
調べてしまうと、あの人に名前がついてしまう気がしたからです。
地下の通路にまつわる話としては、新宿地下道の話も、いまは他人事に思えません。
そこにあるはずのないものが見える話なら、地下鉄の路線図に載っていない駅のほうが、まだ理屈がつく気がします。
あのころ、私はそういう話ばかり読んでいました。
読んでいるあいだは、自分の話をしなくて済むからです。
薬局の自動ドアのこと
この話には、少しだけ続きがあります。
それから半月ほどして、私はあの薬局にもう一度だけ入りました。
昼間です。
レジの人が、私の顔を見て言いました。
「お客さん、この前の夜、おられましたよね」
覚えられていたことに驚きました。
その人が言うには、あの夜、閉店までのあいだ、自動ドアが勝手に開いたり閉じたりを繰り返したのだそうです。
センサーの不具合だろうと、翌日に点検を呼んだ。
ところが、どこも悪いところがなかった。
「何回も開くのに、誰も入ってこんのですよ」
私は、あの人が店の中へ入っていくのを見ています。
その話は、しませんでした。
点検の話を聞いたあと、私は一つだけ質問しました。
「その夜、赤い服の人、店に入ってきませんでしたか」
レジの人は、少し考えてから首を横に振りました。
「化粧品のとこ、ずっと私が見とりましたけど」
「入ってこられたら、分かります」
それきり、私はその店に行っていません。
※
次の日の、階段の三段目
時間の順番が前後しますが、あの夜の翌日のことを書いておきます。
私は、性懲りもなく、また泉の広場を通ろうとしました。
怖い目に遭ったばかりなのにです。
一日経つと、白昼夢でも見たような気持ちになっていました。
実際、昼に通ったときは、何ともありませんでした。
それに、あの人が本当に生きている人間なのかどうか、確かめたい気持ちもありました。
昼の泉の広場は、ただの地下街です。
ベンチにおじいさんが座って新聞を読んでいて、若い子が待ち合わせをしている。
噴水の水も、昼に見ると濁っていました。
怖いところなど、どこにもありません。
私はそのとき、少しほっとしてしまいました。
ほっとしたことが、いちばんよくなかったのだと思います。
問題は帰り道です。
暗くなると、あの男の人の言葉が浮かんできました。
連れていかれる、という意味のことを言われたのです。
それでも、梅田の地下は賑やかです。
これだけ人がいるのだから、と私は思いました。
階段は、幅が広くて、段が浅い作りです。
下から吹き上げてくる風が、地下街特有の生ぬるさでした。
人は普通に上り下りしていました。
私の横を、学生の集団が笑いながら降りていきました。
広場へ下りる階段を、途中まで降りました。
下から三段目くらいの、右の隅に、赤い服の人が座っていました。
背中をこちらに向けて、階段の端に、ちょこんと座っている。
待ち伏せ、という言葉が頭に浮かびました。
私は、その人が広場を歩いているところしか見たことがありません。
階段に座っているのを見たのは、そのときが初めてでした。
思い込みかもしれない、と自分に言い聞かせました。
それでも、体のほうが先に冷えました。
私はその人の後ろ姿を、じっと見ていました。
髪が、背中の途中でひとかたまりになって、動いていませんでした。
下から風が来ているのに、その髪だけが揺れないのです。
逃げよう、と思ったときです。
汗で、眼鏡が鼻からずり落ちました。
私は反射的に、それを手で受け止めました。
階段の照明の下で、レンズが白く曇っていました。
眼鏡をはずしても、あの人だけは、同じ大きさで見えました。
あの人がはっきり見えたのは、目で見ていなかったからです。
裸眼の私には、三段目の手すりも、隣を通る人の背中も、全部ぼやけていました。
ぼやけていない場所が、一か所だけありました。
手すりの向こうを、人が何人も通っていきました。
誰も、その隅を見ませんでした。
見ないというより、そこに何もないという歩き方でした。
そこで、その人が、ゆらりと立ち上がりました。
膝を使わない立ち方でした。
操り人形の糸を、上に引いたような動きです。
なぜか、次にこちらを向く、と分かりました。
階段を上がりきったところで、私は眼鏡をかけ直しました。
手が震えて、つるが耳にうまくかかりませんでした。
視界がはっきりすると、そこはただの地下街の出口でした。
広告の看板と、券売機と、人の背中。
下を振り返る勇気は、ありませんでした。
私は眼鏡を握ったまま、階段を駆け上がりました。
後ろは見ませんでした。
※
職場を辞める一週間前に、一度だけ変なことがありました。
残業をして、遠回りをして帰ったつもりでした。
それなのに、気がついたら泉の広場にいたのです。
噴水の前に立っていました。
時計を見ると、七時四十分でした。
私は走って階段を上がりました。
あの日から、私は待ち合わせに噴水を使いません。
それから
会社には、通勤時間のことだけを理由に伝えました。
本当のことを言えるはずがありません。
私はその二か月後に、その職場を辞めました。
辞めるまでのあいだ、夜に泉の広場を通ったことは一度もありません。
遠回りをして、地上を歩いて帰りました。
あの男の人が誰だったのか、いまも分かりません。
名前を聞いておけばよかったと、ずっと思っています。
担がれたのかな、と思うこともあります。
それでも、去年のことです。
別の街の地下街で、若い女の子が、通路の真ん中で立ち止まっているのを見ました。
顔が白くて、まばたきをしていませんでした。
気がついたら、私はその子の腕をつかんでいました。
そして、自分でも驚くくらい低い声で、こう言っていました。
「静かにして」
その子は、何も聞き返しませんでした。
改札まで送って、別れました。
何を見たのか、私は聞きませんでした。
聞かなかったのは、たぶん、聞く必要がなかったからだと思います。