沢の桟橋で待っていた友達

沢(フリー写真)

十数年前の夏、小学六年生の頃の話だ。

学校の行事で、二泊三日の林間学校に行った。

その三日間のうち、いちばん長かったのは、二日目の午後だった。

今でも夏が来ると、あの沢の桟橋のことを思い出す。

苔と草に覆われて、原形がほとんど残っていない、小さな木の桟橋だ。

出発の前の晩、俺はやけに浮かれていた。

夜の怪談や肝試しのネタを仕込むために、同じ小学校を出た兄に、その林間学校の噂を聞き出していたからだ。

「別館の二階の端の部屋、額縁の裏にお札が貼ってあるらしいぞ」

「それと、近くの森には、首のないお地蔵さんが並んでるって」

兄は、にやにやしながら、指を一本ずつ折って数えた。

「でも、いちばん行っちゃいけないのは、森の奥の沢だ」

「沢?」

「古い桟橋があって、そこで名前を呼ばれても、返事をしちゃいけないんだとさ」

「誰に呼ばれるの」

「知らん。昔からそう言われてるだけ」

兄は、そこで話を打ち切って、ゲームの画面に戻った。

兄は、怖い話を山ほど知っていた。

三つ折れ人形の話も、四十九日の夢の話も、もとは兄の口から聞いたものだ。

その夜、俺は布団の中で、兄の話を何度も反芻した。

別館の部屋、首のないお地蔵さん、返事をしてはいけない桟橋。

怖いというより、楽しみでたまらなかった。

当時の俺は、怖い話とは、他人に起きるものだと信じていた。

だから、夜更かしをして、懐中電灯で手帳に噂を書き写した。

「額縁のお札」

「首のないお地蔵さん」

「沢の桟橋」

三行だけの、拙いメモだった。

そのメモを、翌朝、ポケットに突っ込んだことを、今でも覚えている。

俺は、思いのほか噂が多いことに驚きながら、わくわくしていた。

翌朝、バスは八時に校庭を出発した。

通路を挟んだ隣の席は、S君の席のはずだった。

けれど、出発の時刻になっても、S君は現れなかった。

「あいつ、また寝坊だな」

後ろの席の誰かが言って、みんなが笑った。

俺も、笑った。

校門の前では、担任が携帯電話を耳に当てたまま、じっと動かなくなっていた。

その姿を、俺はバスの窓から、なんとなく見ていた。

S君は、遅刻の常習犯だった。

けれど、遅れても、必ず後から追いついてくる奴だった。

運動会の朝も、遠足の朝も、息を切らして、ぎりぎりに間に合った。

だから、今回も、そのうち来るのだろうと思っていた。

バスは、隣の席を空けたまま、山道へ入っていった。

好奇心というのは、時々、危険を知らないふりをする。

沢の桟橋で待つ約束

翌日、林間学校に着いてすぐ、俺たちは別館の布団運びに駆り出された。

各班の係の仕事や、部屋の掃除もあって、遊べる時間はほとんどなかった。

期待していたぶん、俺はひどくがっかりしていた。

そこへ、当時の悪友のS君が、ひょっこり顔を出した。

同じクラスの、足の速い、よく日焼けした奴だ。

「なあ、ちょっと探検しない?」

S君は、声をひそめて言った。

「掃除当番は?」

「バレないバレない。すぐ戻ればいいって」

おいしい誘いだった。

俺たちは、掃除をサボって、施設から少し外れた森へ入っていった。

後先を考えない子どもの好奇心は、どんどん奥へ歩いていく。

やがて、木々の切れ目から、水の音が聞こえてきた。

小さな沢だった。

水は驚くほど澄んでいて、石の下まで見える。

ひんやりとした空気が、頬に触れた。

S君は、桟橋の手前で、ふと立ち止まった。

「ここ、前にも来たことある気がする」

「来たことなんてないだろ。初めてだぞ」

「だよな。変なこと言った」

S君は、すぐに笑い飛ばした。

けれど、その笑い方は、少しだけ遅れていた。

俺は、気づかないふりをした。

湿った土と、苔の匂いが、鼻の奥に溜まった。

沢のすぐ近くに、木の桟橋があった。

苔と草にすっかり覆われて、板の色もわからない。

俺は、兄の言葉を思い出して、少しだけ背筋が冷えた。

返事をしてはいけない、と兄は言った。

俺は、その言葉を、口の中で転がした。

返事をしなければ、いいだけだ。

けれど、S君は、そんなことは気にもしていない様子だった。

「そうだ。カニ捕ってみんなを驚かそうぜ」

S君は、ズボンの裾をまくった。

そこらじゅうの石をひっくり返しては、歓声を上げる。

俺も便乗して、水に足を入れた。

冷たさが、くるぶしから膝まで駆け上がってきた。

S君が石を持ち上げるたびに、水面は大きく揺れた。

けれど、S君の足元だけは、不思議と波紋が立たなかった。

そのときは、光の加減だと思った。

しばらくすると、沢ガニが何匹も見つかった。

入れ物を持っていなかったので、俺が一匹だけ、ズボンのポケットに入れて持ち帰ることにした。

カニは、ポケットの布の中で、かさかさと小さな音を立てた。

S君は、それだけでは物足りなかったらしい。

「もっと珍しい生き物がいるかもしれない」

そう言って、上流のほうへ登っていこうとする。

俺は、急に不安になった。

みんなは今ごろ、何をしているだろう。

長時間サボっていたら、さすがにまずいのではないか。

「俺、この沢に着いたとき近くにあった桟橋で待ってる」

俺は、S君の背中に向かって言った。

「おう。すぐ戻る」

S君は、振り返らずに手を振った。

それが、S君の姿を見た、最初の最後だと思っていた。

担任の言った一言

S君の姿が見えなくなって、数十分が経った。

桟橋の端に座って、俺はぼんやり水面を眺めていた。

セミの声が、いつの間にか途切れていた。

耳の奥が、きいんと鳴るほどの静けさだった。

風の音も、鳥の声もしない。

沢の水音だけが、やけに大きく聞こえる。

「遅いな」

独り言が、口から零れた。

俺は立ち上がって、沢を上流へ歩き出した。

S君の名前を呼んでみる。

返事はなかった。

もう一度呼んでも、同じだった。

すれ違いで桟橋に戻っているかもしれない。

そう思って、引き返そうとしたときだった。

森の奥から、ガサガサと草を踏む音がした。

何かが、すごい速さで、こちらへ向かってくる。

人影だった。

S君だった。

「何だよ」

安堵のあまり、俺は声を出して笑いかけた。

けれど、S君は、俺の横を通り過ぎた。

こちらを見ていない。

まるで、俺のことなど目に入っていないかのように、前だけを見て走っていた。

その顔は、ひどく青ざめていた。

「おい、S!」

呼んでも、足は止まらなかった。

俺も、あとを追って走り出した。

けれど、S君は学年でも指折りの足の速さだ。

見る間に、木々の向こうへ消えてしまった。

一人で森に取り残された俺は、急に恐ろしくなった。

こんなところで迷子になったら、洒落にならない。

俺は、施設の方角と思われる獣道を、懸命に走った。

枝が顔に当たった。

汗が目に入って、視界が滲んだ。

ようやく施設の屋根が見えたとき、膝が笑っていた。

当然のように、担任にこっぴどく叱られた。

解放されたのは、ちょうど自由時間になった頃だった。

俺は、S君と口裏を合わせようと、S君のいる棟へ向かった。

けれど、S君はいなかった。

俺は、食堂の裏、体育館、洗い場、別館の階段の下まで探した。

どこにも、S君の気配はなかった。

S君の荷物も、見当たらない。

S君の班の机の上には、名札が置かれていなかった。

そのことに気づいたとき、握っていた手のひらに、汗がにじんだ。

S君と仲の良かったT君にも訊いてみた。

「Sなら、朝、バスに乗ってなかったよ」

「寝坊だろって、みんなで笑ってたじゃん」

「それは、覚えてるけど」

「だったら、そのあとで来たんじゃないの」

T君は、そう言って、ゲームの話に戻ってしまった。

部屋にも、食堂にも、グラウンドにも、姿がない。

S君と同じクラスの生徒に尋ねてみた。

「S? いないよ」

一言だけ返ってきた。

「いないって、どこに」

「どこって。今日、来てないじゃん」

俺は、まさか森で迷ったのではと思い、先生のところへ走った。

「先生、Sがいないんです。森にいるかもしれません」

捜索をお願いした。

先生は、少し怪訝な顔をした。

「ん? Sは今日、来ていないぞ」

頭の中が、真っ白になった。

「来て、いない……?」

「欠席だ。連絡は入ってないが、休んでるんだろう」

そんなはずはない。

S君は、休むようなことは一言も言っていなかった。

第一、つい今しがたまで、一緒に沢にいたのだ。

夢でも見ていたのだろうか。

頬をつねってみた。

痛かった。

ポケットに手を入れると、沢ガニが、まだ動いていた。

確かな重みが、指先に伝わってくる。

夢ではない。

それだけは、はっきりしていた。

俺は、そんなはずはないと首を振って、S君を探し続けた。

夜の森に並ぶ石

夕飯の時間になるまで探しても、S君は見つからなかった。

沢の桟橋に残してきた約束だけが、頭の中で何度も繰り返された。

あまりにも腑に落ちなかったので、日が沈んでもできる限り探そうと決めた。

ちょうど、その夜は肝試しのイベントがあった。

好都合だとばかりに、俺はルートを外れて、S君を探しに行こうと考えた。

一人では怖かったので、同じクラスのE君を誘った。

「面白いとこがあるんだよ」

俺は、嘘とも本当ともつかないことを言って、E君を昼間の沢へ連れていった。

どうしても、S君が走り去った方角が気になる。

懐中電灯の光が、足元の草を丸く照らした。

沢の桟橋を越えて、上流へ登っていく。

「ねえ、どこ行くの」

E君は、かなり不安そうだった。

「もう少しだけ」

沢から少し外れて、S君が飛び出してきた森のほうへ向かった。

空気が、一段と冷たくなった。

懐中電灯を念入りに照らしていくと、巨木の脇に、形の整った石が並んでいるのが見えた。

よく見ると、苔だらけのお地蔵さんだった。

しかも、何体かは首がなかった。

兄の言葉が、頭の中で蘇った。

お地蔵さんの足元には、小さな石が積んであった。

錆びた湯呑みが、ひとつだけ置かれている。

中には、雨水ではない、澄んだ水が半分ほど入っていた。

「ねえ、これ」

E君が、小声で言った。

懐中電灯を、地面に向ける。

乾いた土の上に、濡れた足跡が、点々と続いていた。

子どもの靴の大きさだった。

足跡は、お地蔵さんの前で始まって、沢のほうへ消えている。

昼間の俺たちの足跡ではなかった。

俺は、気づくと悲鳴を上げて、その場から逃げ出していた。

E君も、俺の声に驚いて、二人で転びそうになりながら、昼間のように懸命に森を駆け抜けた。

施設の灯りが見えたとき、二人とも肩で息をしていた。

「一体、何なの」

E君が、泣きそうな声で言った。

俺は、そこでようやく、昼間の経緯を話した。

話しているあいだ、E君は一度も口を挟まなかった。

懐中電灯を握る手が、小さく震えていた。

S君と沢へ行ったこと。

S君が、俺を無視して走っていったこと。

先生が、S君は今日来ていないと言ったこと。

「幻覚じゃないの?」

E君は、首を傾げた。

「それとも、本当に来てるんじゃない?」

「幻覚じゃない!」

俺は、なぜか、むきになって否定した。

心のどこかで、後者のほうだと思っていた。

S君は、内緒でここへ来ている。

地元からこの林間学校まで、公共のバスが通っている。

小学生でも、運賃さえあれば来られる場所だ。

そうだよ。

S君は、みんなを驚かそうとして、一人で来たんだ。

それで、俺と一緒に沢へ行って。

そう自分に言い聞かせながら、俺は、わけのわからない不安に押しつぶされそうだった。

違う棟のドア

肝試しのグループと合流すると、夜のレクリエーションが、別館のホールで始まるところだった。

俺以外の全員が、ホールへ向かった。

とても参加する気になれず、俺は、自分の棟へ向かった。

E君に悪いことをしたと、後悔していた。

一人でいるのは怖かった。

けれど、疲れ切っていて、とにかく体を休めたかった。

棟に着いて、ドアを開ける。

「あれ? これ、違う棟かな」

着いてから、ほとんど棟で過ごす時間がなかったせいで、間違えたのかと思った。

暗い部屋の中に、誰かがいた。

カーテンの隙間から、細い月の光が、床に落ちていた。

その光の端に、濡れた靴の先が見えた。

靴の持ち主は、窓のほうを向いて立っていた。

背中の形に、見覚えがあった。

半袖のシャツが、肩のあたりまで濡れて、色を変えている。

髪の先から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちていた。

「ここだよ」

S君だった。

腰が抜けるというのを、このとき初めて知った。

声も出なかった。

驚きと恐怖でいっぱいのはずなのに、なぜか、すごく悲しかった。

S君は、何も言わなかった。

唇が、少しだけ動いた気がした。

何か言おうとして、やめたような口の形だった。

S君は、俺の顔から目を離さなかった。

怒っているようにも、謝っているようにも見えなかった。

ただ、待たされた人の顔をしていた。

暗がりの中、ただ俺の顔を見ていた。

靴の先から、水が滴っていた。

沢の水の匂いが、部屋に満ちていた。

S君は、俺の横を、静かに通り過ぎて、廊下へ出ていった。

俺は、後ろを振り返れなかった。

廊下の向こうで、足音が遠ざかっていった。

走るのではなく、ゆっくりと、一歩ずつ。

まるで、帰り道を確かめるみたいに。

何も考えられなかった。

靴に落ちる雫で、自分が泣いていることだけが、わかった。

次の朝、雑に脱ぎ捨てられたズボンのポケットから、半分だけ顔を出した沢ガニが、泡を吹いていた。

この世界は苦しい、と訴えているみたいだった。

三日目の昼、予定通り、俺たちは帰りのバスに乗った。

帰りのバスでも、隣の席は空いていた。

誰も、そこに荷物を置こうとしなかった。

家に着いてすぐ、親から告げられた。

S君は、出発の朝、集合場所へ向かう途中の事故で、亡くなっていた。

俺たちのバスが山に着く、三時間も前のことだった。

担任は、事が起きたその日に、もう知っていたそうだ。

大人になってから、一度だけ、一人でその沢を訪ねた。

桟橋は、あの頃のままに、苔に覆われてそこにあった。

俺は、あの桟橋で、日が暮れるまで待った。

夕暮れの沢は、子どもの頃より、ずっと狭く見えた。

水の音だけは、あの日と変わらなかった。

S君は、来なかった。

足元で、小さな沢ガニが一匹、石の下に隠れた。

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