
引っ越してきたのは、六月の初めだった。
駅から徒歩十分、築二十八年の古い賃貸マンション。五階建てで、私が借りたのは三階の三〇一号室だった。家賃は相場より二割ほど安く、住宅街の奥まったところにあって、幹線道路の騒音が届かない。Webデザインのフリーランスをしている私には、仕事に集中できる静かな環境が何より大事だったので、下見に来た日にすぐ契約した。
内見のとき、不動産の担当者が「古いですけど管理はしっかりしてますよ」と言った。確かに廊下は掃除が行き届いていたし、郵便受けもきれいだった。エレベーターはなく、三階まで階段を使う必要があったが、それも慣れれば問題ない。
引っ越し後の数週間は、特に何もなかった。
仕事が立て込んでいたこともあって、深夜まで作業することが多かった。午前二時、三時まで画面の前に座っているのはよくあることだった。ご近所への挨拶もまだ済んでいなかったが、廊下で顔を合わせた住人はみなそっけなく、この建物の空気がそういうものだとすぐにわかった。互いに干渉しない。それが暗黙のルールのようだった。
最初に気づいたのは、入居して二週間ほど経った夜のことだ。
作業が一段落して、集中するためにつけていたイヤフォンを外した瞬間、壁の向こうから音が聞こえてきた。かすかなピアノの旋律だった。
曲名はわからなかった。ゆっくりとした、どこか寂しい感じのする旋律で、プロの演奏ではなく、練習中の音という感じがした。一音ずつ確かめるように弾いていて、途中で少し詰まるところがある。そこだけ二、三度繰り返してから先に進む。三十分ほどで音は止んだ。
「ピアノを弾く人が隣にいるんだな」とだけ思った。時計を確認すると、午後十一時を少し過ぎていた。この時間帯なら特に非常識でもない。古いマンションで壁が薄いのだろうと納得したし、それ以上は考えなかった。
翌晩も、同じ時間に始まった。
その次の晩も。
いつの間にか、毎晩の習慣のように午後十一時ちょうどになると壁の向こうで旋律が始まるようになっていた。曲は毎回同じだった。少なくとも私には同じ曲に聞こえた。あの途中で少し詰まる箇所も、毎回同じところにある。三十分後に止まる。
気になり始めたのは、一か月ほど経ってからだ。
ある日の昼間、マンションの廊下を通ったとき、三〇二号室のドアの前を通った。ゴミ捨ての帰り道だった。ふと、ドアの表面をよく見ると、ドアノブのあたりに埃が積もっているのがわかった。触れた形跡がない埃だった。郵便受けも、覗いてみると口が外側から塞がれていた。何か薄い板のようなもので。
長期不在の部屋に見えた。
そういえば、隣の住人の姿を一度も見たことがない。音はするのに、住んでいる気配がない。まあ、生活リズムが違うだけかもしれないと思ってその場は通り過ぎた。ただ、その夜から、ピアノの音を以前とは少し違う気持ちで聞くようになっていた。
※
入居から三か月ほど経った秋のことだ。
浴室の換気扇が壊れて、管理会社に電話をした。担当の人間が出て、部屋番号を確認していた。
「三〇三号室の件ですね」
「いえ、三〇一号室です」
「ああ、失礼しました。で、ご用件は」
換気扇の話を伝えてから、ふと思い出して付け加えた。毎晩聞こえてくるピアノについて、一度確認しておこうと思ったのだ。
「あ、それと、隣の三〇二号室の方なんですが、毎晩ピアノを弾いているみたいで」
担当の声が、一瞬止まった。
「三〇二号室は現在空室になっております」
「え?」
「空室です。ちょうど二年ほど前から、借り手がついていないんです」
「でも、毎晩音が聞こえているんですが。ピアノの音です。壁に振動もあって」
電話の向こうで、また一拍の間があった。
「そうですか……。古いマンションですので、音の通り方が複雑なこともございまして」
「他の部屋からの音が壁越しに聞こえているということですか」
「可能性は……ございます」
言い方が曖昧だった。「一度確認しておきます」と担当者は言ったが、その後に連絡は来なかった。
その晩も、午後十一時ちょうどにピアノの音が始まった。
私は今度は意識して聞いた。間違いなく壁の向こうから聞こえてくる。壁に手を当てると、かすかに振動が伝わってくる。廊下に出て三〇二号室のドアに耳を近づけてみると、何も聞こえない。しんとしている。ドアに手を触れると、冷たかった。
自分の部屋に戻ると、また聞こえた。
同じ旋律、同じテンポ、同じ場所で少しだけ詰まって、また元に戻る。三十分後に止まった。
私はしばらく、静かになった壁を見ていた。
それから何日か、同じことが続いた。私は考えることをやめにした。説明のつかないことはあるし、古い建物には古い建物の事情がある。音の原因が何であれ、害があるわけではないし、むしろ最近ではその旋律が聞こえてくると、一日の区切りになっている自分に気づいていた。
それがまずいと思ったのは、ずいぶん後になってからだ。
ある夜、十一時少し前に仕事を切り上げてソファに横になっていると、いつも通りあの旋律が始まった。聴いているうちに眠気が来て、目を閉じた。気づくと、旋律が止んでいた。時計を見ると、十一時三十分だった。私は自分が、あの音が止まる時間を待ちながら眠りにつこうとしていたことに、そこで初めて気づいた。
※
入居から四か月ほど経った頃の朝のことだ。
目を覚まして玄関に向かうと、ドアの内側の床に、白い花が一本置かれていた。
菊の花だった。茎が短く切られていて、白い花弁がほぼ完全な状態で、床に横たわるように置いてあった。萎れていない。切りたてのような見た目だった。
鍵は掛かっていた。チェーンもかけていた。窓はすべて閉めて寝た。誰かが部屋に入れるはずがない。しかし花は、確かにそこにあった。
管理人室に持って行って見せた。老いた管理人は花をひと目見て、それから私の顔を見た。驚いた様子はなかった。
「どなたが置いたか、私にはわかりません」
「でも、部屋の内側にあったんです。施錠した状態で」
「そうですか」
それ以上でも以下でもない返事だった。管理人は花を私に返そうとした。私は受け取った。
帰りかけたとき、管理人が背中に向かって言った。
「前の入居者の方も、同じようなことをおっしゃっていましたよ」
振り返った。
「三〇一号室の、前の方です。隣の部屋から音楽が聞こえると言って」
管理人は特に感情のない声でそう言って、管理人室の奥に消えた。
私はしばらく廊下に立ったまま、動けなかった。
前の入居者も、同じことを言っていた。
つまり、三〇一号室に誰かが引っ越してくるたびに、それは始まるということだ。あの旋律は、新しい住人を迎えるためのものなのか。それとも、毎晩弾き続けることで、誰かがこの部屋に慣れさせられ、縛りつけられていくのか。
私にはまだ、答えがわからない。
あの白い花は今も部屋の隅に置いてある。茶色く乾燥して、花弁がすっかり縮んでしまった。捨てようとは何度も思った。袋に入れてゴミ袋に突っ込んだこともある。でも翌朝気づくと、また部屋の隅にある。いつのまにか戻っている。
だから今はもう、そのまま置いておくことにした。
前の入居者は、いつまであの部屋に住んでいたのだろうと、ときどき考える。そして、なぜ引っ越したのか。あるいは、本当に引っ越したのか。
管理会社に「前の入居者はいつまで住んでいたか」と聞こうとしたこともある。ただ、電話口に出た担当者が最初の電話と同じ人間だったとき、なんとなく聞けなくなった。担当者の方も、私の名前と部屋番号を確認した後、少しだけ間を置いてから話し始めた。その一拍が、どういう意味なのか、私にはまだわからない。
今夜も、まもなく午後十一時になる。