
去年の秋から、私は夕方の五時を過ぎて蔵に入らない。
山あいの町の漬物工房で、半年だけパートをしていた。
辞めた理由を聞かれると、人間関係とだけ答えている。
本当の理由は、十三番目の石にある。
おかしな話に聞こえるのは分かっている。
だから、起きたことを順に書く。
二〇二四年の四月、私は三十一歳だった。
営業事務の仕事を辞めて、実家のある町へ戻ってきたところだった。
駅前の掲示板に、求人の紙が貼られていた。
「宮嶋漬物店 加工補助 未経験可」。
手書きの文字で、端が少し反っていた。
面接は、工房の事務所で受けた。
応対してくれたのは、主任の大川さんという六十代の女性だった。
「経験は、なくていいの」
大川さんは、履歴書を見ずに言った。
「石が持てれば、それで」
「石、ですか」
「うちは今でも、重しに石を使うの」
「機械の重しだと、味が変わるって、先代が言ってね」
私は、そうですかと答えた。
漬物の味の違いなど、分からなかった。
ただ、時給が悪くなく、家から自転車で通えた。
名札掛けの十三本目の釘
事務所の壁に、白木の名札掛けがあった。
名札掛けには釘が十三本あって、札は十二枚しかなかった。
札には、墨で名前が書かれている。
大川、野口、小柴、といった、年配の名前が並んでいた。
十三番の釘だけが、むき出しだった。
「じゃあ、明日からね」
大川さんは、そう言って机の引き出しを探した。
「札は、あとで作るから」
「それまで、十三番に仮で掛けておいて」
事務用のテープで「都築」と書いた厚紙を、私はその釘に掛けた。
釘は冷たく、厚紙がすぐに馴染んだ。
初日は、蔵の案内だった。
蔵は工房の裏手にあり、土壁の古い建物だった。
中に入ると、塩と古い木の匂いがした。
床には、胸の高さの木桶が十二、二列に並んでいる。
桶の脇の石棚には、丸い石が置かれていた。
石には、白い絵の具で一から十二までの番号が書いてある。
どれも抱えるほどの大きさで、表面がすべすべしていた。
石棚の台座は、十三あった。
十三番目の台座だけ、何も載っていなかった。
「ここは、空けてあるの」と大川さんが言った。
「空いている、じゃなくて、空けてある」
「うちは十二桶。十三は、数えないの」
理由を聞こうとして、やめた。
数えない、という言い方が、少し引っかかったからだ。
石の載せ方は、その日に教わった。
番号は手前、窪みは奥に向けて載せる。
「窪みは、手で持つところ」
「だから、人に向けちゃだめ」
それも理由は聞かなかった。
私は毎朝、桶の野菜の上に木の蓋を置き、石を載せた。
夕方の五時に、蓋の水加減を見て石を外す。
それだけの仕事だった。
体を動かす仕事は、思ったより性に合った。
半月もすると、石の重さにも慣れた。
昼の休憩は、事務所の隣の畳の間でとる。
社長の宮嶋さんが、一度だけ顔を出した。
三代目だという、五十がらみの穏やかな男性だった。
「都築さん、だったね」
「はい。よろしくお願いします」
「いい名字だ」と社長は言った。
「この町には、あまりない」
私の実家は、町の外れに後から越してきた家だった。
そのことを話すと、社長は目を細めた。
「そうか。じゃあ、ちょうどよかった」
何がちょうどいいのか、私は聞き返さなかった。
お茶うけの梅干しが、やけに塩辛かった。
十三番目の石を探す朝
五月の連休が明けた朝のことだ。
蔵の戸を開けると、塩の匂いに混じって、冷たい土の匂いがした。
いつものように、石棚を見た。
一から十二までの石が、順に並んでいる。
十三番目の台座にも、石が載っていた。
私は、戸口に立ったまま動けなかった。
十三番目の石は、ほかの石より少し黒かった。
触れていないのに、石の表面は汗をかいたように濡れていた。
濡れた跡から、井戸水のような冷たい匂いが立っていた。
番号は、書かれていなかった。
十三番目の石は、窪みを手前に向けていた。
誰かが置いたのだと思った。
事務所に行って、大川さんに話した。
「蔵の石棚に、石がひとつ増えています」
大川さんは、湯のみを持ったまま、しばらく黙っていた。
「そう」
「触ってない?」
「触っていません」
「なら、いいの」
大川さんは、それ以上、何も言わなかった。
湯のみの茶は、手を付けられないまま冷めていった。
その日は、十二の桶の仕事だけをした。
あの石には、近寄らなかった。
午後、石棚の前を通るたびに、視線が勝手に向いた。
黒い石は、動かなかった。
動かない石を見ていると、こちらが見られている気がした。
なぜそう思うのか、自分でも分からなかった。
昼休みに、野口さんと隣になった。
野口さんは七十代で、この工房に四十年いるパートだった。
「見たんだってね」と野口さんは小声で言った。
「見たというか、増えていました」
「増えたんじゃないよ」
「戻ってきたの。だいたい、年に一度」
「いつから、あるんですか」
野口さんは、握ったおにぎりを見つめた。
「私が来た時には、もうあった」
「あの石、日によって居場所が違うの」
「居場所、ですか」
「台座にいる日もあれば、いない日もある」
野口さんは、それ以上は言わなかった。
その晩、実家の台所で母と夕飯を食べた。
「仕事、どう」と母が聞いた。
「石を持ってる」
「石?」
「漬物の重し。大きいやつ」
「あら、懐かしい。おばあちゃんも、庭の石で糠漬けを押してたわよ」
母は、味噌汁をすすって笑った。
私は蔵の話をしなかった。
話せば、本当のことになる気がした。
風呂場で、右の手のひらを眺めた。
石を持ちすぎたせいか、親指の付け根が赤くなっていた。
食べかけのおにぎりを、そっと包みに戻した。
夕方五時の、石を置く音
六月に入ると、蔵の様子が変わった。
最初に気づいたのは、音だった。
夕方の五時、私は石を外して台に戻す。
そのあと、事務所で日報を書く。
事務所の窓は、蔵に向いている。
日報を書いていると、蔵のほうから音がした。
ごとり、と重いものを置く音だった。
続けて、もう一度。
ごとり。
数えると、十二回だった。
十二回で、止まった。
蔵の戸は、私が閉めて鍵を掛けたはずだった。
翌日も、その次の日も、五時を少し回ると同じ音がした。
十二回の、ごとり。
小柴さんは、私より三つ年下のパートだった。
「その音、聞こえてるんですか」と彼女は言った。
「聞こえない人もいるんですか」
「私は、五時になったらすぐ帰るので」
小柴さんは、困ったように笑った。
「大川さんが、五時過ぎは蔵に近づくなって」
「それ、新人にだけ言うんだと思ってました」
その日は、小柴さんと一緒に帰った。
工房の前の坂を、自転車を押して下りる。
途中のコンビニで、小柴さんはアイスを二つ買った。
「口止め料です」と彼女は言った。
「何の口止め」
「私が何も知らないことの」
ふたりで笑った。
笑ったあとで、坂の上の蔵の屋根が、夕焼けに黒く浮かんでいるのが見えた。
石を置く音が、風に混じって聞こえた気がした。
七月の朝、十三番目の石は、台座の端に寄っていた。
床に、擦ったような白い線が、細く伸びていた。
次の朝は、さらに手前まで来ていた。
一日に、足の裏ひとつぶんくらいだった。
戸口へ向かう線を、私は毎朝、箒で掃いた。
掃いても、翌朝には同じ線が伸びていた。
「掃かなくていいのよ」と大川さんが背後で言った。
「でも、床が汚れます」
「汚れじゃないの。道だから」
大川さんは、箒を私の手からそっと取った。
「道、ですか」
「あなたは、触らなくていい」
そう言う声は、いつもより低かった。
十二番の桶の野菜が、おかしくなったのは同じ頃だ。
十三番目の台座に、いちばん近い桶だった。
なすの漬物が、一晩で、冬を越したように漬かっていた。
皮は皺だらけで、塩は芯まで届いていた。
日付は、前の晩に漬けたものだった。
「やっぱり、出ましたか」と野口さんが言った。
「前の人も、その前の人も、七月でした」
「前の人は、どうなったんですか」
「辞めたよ。理由は、聞かないであげて」
野口さんは、石の線を見ないようにして、桶へ向かった。
その晩、私は一度だけ、五時を過ぎても蔵の前に残った。
鍵は閉めてある。
戸に耳を当てると、木の冷たさが頬に伝わった。
中は、静かだった。
静かなまま、ごとり、と一度だけ鳴った。
私は、手を離した。
戸板が、内側から押されたように、わずかに鳴った。
宮嶋漬物店の古い台帳
八月の終わり、私は大川さんの留守を見て、事務棚を開けた。
開けてはいけない気がしたが、手が止まらなかった。
古い台帳が、背表紙を上にして並んでいた。
いちばん奥のものは、昭和二十八年の創業の年のものだった。
紙は茶色く、綴じ糸が毛羽立っていた。
表には、石の番号と、担当者の名前が書かれている。
一から十二までの行に、代々の担当者の名前があった。
同じ番号に、何人もの名前が重ねて並んでいた。
ある名前の上には、細い線が引かれ、新しい名前が足されている。
辞めた人の名前が、順に線で消されているのだと分かった。
消された名前の横に、辞めた年が小さく添えてあった。
年は、どれも七月か八月だった。
最後の線の年は、二〇二三年だった。
その名前は、私の知らない人のものだった。
線の下の余白は、しばらく空いたままだった。
十三行目だけは、ほかと違っていた。
石の番号の欄に、何も書かれていない。
日付の欄は、昭和二十八年四月。
担当欄は、紙の色に溶けるほど薄い鉛筆の字だった。
私は台帳を、窓のほうへ傾けた。
十三行目の担当欄には、日焼けした鉛筆の字で「都築」と書かれていた。
私の名字だった。
昭和二十八年の四月に、私はまだ生まれていない。
十三番の釘は、私が来る前から、ずっと空けてあったのだ。
その夜、私は退職の連絡を入れた。
最後の日、大川さんは、引き止めなかった。
「そう」とだけ、言った。
蔵の石棚を見ると、十三番目の石は台座に戻っていた。
私は、持ち上げてみた。
窪みに、右手の親指が収まった。
重さは、毎朝抱えている石と、ほとんど同じだった。
台座に戻して、蔵を出た。
駅前の求人は、先月、新しい紙に貼り替えられていた。
いまも夕方の五時を過ぎると、石を置く音が耳の奥で鳴る。
数えると、十二回で止まる。
十三回目を聞いたことは、まだない。