欠席の印を押した覚えはない

月明かりの海辺回廊

水道メーターの数字は、毎回同じ順番で読む。

黒い数字を左から。赤い数字は小数点以下なので、読まない。

検針員になって二年目の春、僕は湾岸の市営団地を担当することになった。

潮見台団地。埋立地に建つ、築40年の11棟だ。

前任者は、急に別の地区へ移ったと聞いた。

引き継ぎ書に、その人の名前はなかった。

代わりに、一枚のコピーが挟まっていた。

団地の回覧板の見本だった。

最後の欄だけ、細い字で赤丸がつけてあった。

「欠席の印は、見ても押さない」

それだけ、余白に添えてあった。

意味はわからなかった。

会社は、団地の空き室を一つ借り上げていた。

4号棟の307号室が、僕の部屋になった。

初日、管理人の男性が鍵を渡しながら言った。

「ここの回覧板は、読むだけにしてください」

「押すものがあるんですか」

「欠席の印の欄には、触らないで」

それ以上は、教えてくれなかった。

初日の夜は、段ボールの上で弁当を食べた。

307号室は、角の部屋だった。

窓を開けると、運河の向こうに港のクレーンが見えた。

夜風は生ぬるく、潮と油の匂いが混ざっていた。

隣の306号室から、テレビの音がかすかに漏れていた。

壁越しの音がある。それだけで、少し安心した。

ベランダの手すりには、白い塩が結晶のように浮いていた。

指でなぞると、ざらりと音がした。

団地の検針は、午前9時から始まる。

各棟の一階に、メーターボックスが並んでいる。

扉を開け、数字を読み、端末に打つ。

同じ作業を、一日に200回ほど繰り返す。

団地の人たちは、おおむね親切だった。

5号棟の大学生は、いつも寝ぐせのままで扉を開けた。

2号棟の母親は、子どもを抱いたまま、麦茶を差し出してくれた。

「暑いのに、毎日ご苦労さま」

「これが仕事ですから」

そう答えると、母親は嬉しそうに笑った。

どの部屋にも、同じ形の下駄箱が据えられている。

同じ間取りが、11棟ぶん積み重なっていた。

埋立地の上に、同じ顔の窓が並ぶ。

その整然さが、僕には海を隠すための壁のように見えた。

海が近いせいか、ボックスの中はいつも湿っていた。

床には、細かい砂が溜まっている。

昼は3号棟の前のベンチで、弁当を食べた。

そこで、よく話しかけてくる老婆がいた。

堀江さんという人だ。

「あんた、新しい検針の人かい」

「はい、先月からです」

「前の子も、真面目だったよ」

「前の方、ご存じなんですか」

「ええと……誰だったかね」

堀江さんは首をかしげて、笑った。

「いい子だったのは、覚えてるんだけどねえ」

僕の部屋の郵便受けには、一度も回覧板が来なかった。

他の部屋には、毎月きちんと回っているのに。

ポストの前で、回覧板を受け取る住民をよく見かけた。

皆、慣れた手つきで抱え、次の部屋へ運んでいく。

その歩き方が、どこか急いでいた。

遅れてはいけない、という顔だった。

僕は、その背中を黙って見送った。

新入りだからだろう、とそのときは思った。

夜の郵便受け

5月に入って、夜中に妙な音がするようになった。

紙が金属の縁をこする、さ、さ、という音だ。

最初は、郵便受けに何か差し込まれる音だと思った。

玄関を開けても、廊下には誰もいない。

郵便受けの中も、空のままだった。

音は毎晩、午前2時ごろに一度だけ鳴った。

慣れるまで、一週間かかった。

隣の306号室の主婦に、音のことを尋ねた。

「夜中に、紙みたいな音がしませんか」

「聞こえませんよ。うちは、回覧板は届いてすぐ回しますから」

彼女は、玄関先で急に声をひそめた。

「あれ、遅らせると、よくないんです」

「よくない、とは」

「いえ。ただ、昔からそうなっていて」

それ以上は、言わなかった。

ある朝、5号棟の検針で数字がおかしいことに気づいた。

204号室のメーターが、回っていたのだ。

端末の台帳では、204は空室になっている。

水を使う人間は、いないはずの部屋だった。

僕は管理人室へ行って、確かめた。

「204は、ずっと空きですよ」

「でもメーターが動いているんです」

「配管の古いところですから。漏れでしょう」

管理人は、僕の目を見なかった。

その日の帰りに、204の前を通った。

玄関のドアの下に、砂が薄く広がっていた。

海辺の砂の色だった。

しゃがんで触ると、指先がまだ冷たく湿っていた。

潮の匂いがした。

ドアの向こうは、静かだった。

耳を当てると、遠くで水の流れる音がした。

排水管の中を、何かがゆっくり降りていくような音だった。

僕は反射的に、ドアから耳を離した。

ドアスコープの縁に、塩が白く固まっていた。

前任者の引き継ぎ書を、もう一度読み返した。

台帳の過去分に、204の名前が残っていた。

岩崎。去年の10月まで、確かに入居者がいた。

会社に電話して、前任者の名前を尋ねた。

「前任の担当者は、どなたでしたか」

「そのエリアは、入社以来ずっと、あなたの担当ですよ」

「でも、引き継ぎ書が」

「引き継ぎ書? そんなものは作っていません」

電話口の事務員は、少し笑っていた。

それなら、あのコピーは誰が挟んだのか。

僕は、引き継ぎ書を机の上に広げた。

紙は確かに、会社の書式だった。

ただし、日付の欄だけが、空白のままだった。

僕は紙を窓にかざした。

透かすと、裏に薄い赤い輪がにじんでいた。

判子の跡だった。

文字は読めなかったが、輪の大きさは、あの赤い印と同じだった。

翌日、ベンチで堀江さんに尋ねた。

「5号棟の岩崎さんって、ご存じですか」

「ああ、無口な海苔屋さんだろう」

「今は、いらっしゃらないようなんですが」

「秋祭りの前に、いたはずだよ」

堀江さんは、ためらいなく答えた。

翌々日、同じ質問をした。

「岩崎さん? そんな人、おったかね」

堀江さんの顔には、嘘をついている色がなかった。

ただ、昨日のことを一枚めくって捨てたような顔だった。

同じ日の夕方、5号棟の前を通ると、204の窓にカーテンがかかっていた。

昨日まで、カーテンはなかった。

白いレースが、風もないのに、内側へ吸い込まれるように揺れていた。

僕はそれを、しばらく眺めていた。

その週の検針日誌には、もう一つおかしな点があった。

書いた覚えのない日付が、一日ずつ先まで埋まっていた。

細い字で、同じ一行が並んでいた。

欠席の印は、見ても押さない。

赤丸の横の字と、同じ筆跡だった。

欠席の印の欄

6月の終わり、集会所の鍵を管理人から預かった。

月に一度の、電気設備の点検に立ち会うためだ。

掲示板に、今月分の回覧板が一枚、貼り出してあった。

部屋番号と、名前と、印を押す欄が並んでいる。

行事は「潮祭りの浜清掃」。

出席の欄には、青い丸い印が押されていた。

そして、ところどころに、赤い印があった。

「欠」の字を丸で囲んだ、小さな判子だった。

これが欠席の印だと、すぐにわかった。

赤い印が押された部屋を、僕は一つずつ控えた。

そして、台帳と照らし合わせた。

どの部屋も、翌月には空室になっていた。

去年の分の綴りも、棚に残っていた。

赤い印は、毎年、一つか二つだけ押されている。

押された部屋の名前は、翌年の綴りにはなかった。

誰かが引っ越したのか、あるいは。

掲示板の脇に、古い郷土史のパネルが飾ってあった。

この浜の漁村には、不漁の年に「海へ出す者」を決める習わしがあった、と一行だけ書かれていた。

それ以上の説明は、なかった。

パネルの下に、古い白黒写真が一枚あった。

浜に並んだ人々が、全員、同じ方向を向いている。

顔は、日に焼けて飛んでいた。

最前列だけ、人が一人分、空いていた。

その空白の幅が、なぜか目に残った。

僕は、パネルから目を離した。

掲示板の端に、僕の部屋の番号が書いてあった。

307号室。

名前の欄だけが、空白だった。

入居から3か月、僕は一度も回覧板を受け取っていない。

つまり、一度も印を押していない。

そこまで考えて、手が冷たくなった。

出席の印を押したことがない人間は、どちらに数えられるのか。

その夜、僕は荷物をまとめた。

駅前のビジネスホテルに2泊して、団地から離れてみた。

ホテルの部屋は、静かだった。

紙の音は、聞こえなかった。

3日目の朝、会社の端末に通知が入った。

「307号室 検針値 更新」

僕は、307号室の検針をしていない。

住んでいる人間は、僕のはずだった。

数字は、前日より12だけ進んでいた。

僕が外にいる間も、誰かが水を使っていた。

ホテルから戻った日の昼、堀江さんはいつものベンチにいた。

「あんた、新しい検針の人かい」

僕は、3か月間、毎日この人と話してきた。

307号室のメーター

7月の最初の月曜、残業で帰りが遅くなった。

夜の9時を過ぎて、4号棟の階段を上った。

廊下の蛍光灯が、一本だけ点滅していた。

その音が、やけに大きく聞こえた。

階段の踊り場には、乾ききらない足跡が続いていた。

砂を踏んだ、素足の跡だった。

僕のものではない。サイズが小さい。

足跡は、307号室の前で終わっていた。

307号室の郵便受けに、白い紙が差し込まれていた。

その夜、僕の郵便受けに、初めて回覧板が入っていた。

紙は、潮の匂いがした。

廊下の灯りの下で、広げて読んだ。

行事は「潮祭りの浜清掃」。

部屋番号の欄に、青い出席の印が並んでいる。

最後の行に、307号室とあった。

名前の欄には、僕の名前が書いてあった。

その横の印の欄に、赤い印がすでに押されていた。

丸で囲んだ「欠」の字だった。

印影の縁に、見覚えのある欠けがあった。

引き出しにしまってある、僕の認印と同じ欠けだった。

僕は、まだ一度も、この回覧板に触れていない。

階下で、誰かの笑い声がした。

ひと棟向こうの、堀江さんの声のような気がした。

その声は、すぐに波の音に混ざって消えた。

僕は鍵を鍵穴に差し込む前に、手を止めた。

ドアの向こうで、蛇口をひねる音がしたからだ。

水が勢いよく流れ出し、すぐに止まった。

それからまた、静かになった。

僕は階段を降りて、1階のメーターボックスを開けた。

水道メーターの数字を、いつもの順番で読んだ。

307号室の針は、まだ動き続けていた。

僕は、まだ、鍵を開けていなかった。

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