沈む村の溜池に沈めたもの

静かな湖と山の風景

これは、昭和の終わりがまだ遠かった頃、私がまだ二十代だった時分に関わった、ある沈む村での出来事だ。

もう五十年近く前の話になる。

当時の私は、県の外郭団体に雇われた、ただの若い家屋調査員にすぎなかった。

川の上流に大きなダムを造る計画があり、その底へ沈むことになる集落を、一軒ずつ記録して回るのが私の仕事だった。

間取りを測り、写真を撮り、誰がどこに住んでいたかを帳面に書き写す。

それだけの、静かな仕事のはずだった。

今思えば、静かすぎたのだ。

沈む村のことを、私は今でも時々思い出す。

正確には、村そのものよりも、あの溜池のことを、だ。

あの黒い水面を思い出すと、今でも、指先が冷たくなる。

この歳になって、ようやく順序立てて話せるようになった気がする。

ただ、起きたことを述べるしかない。

樒沢、と書いて、しきみざわと読む集落だった。

地図の隅にも載らないような、山あいの小さな村だ。

私たちが調査に入った頃には、すでに大半の家が空き家になっていた。

移転の補償はとうに済んでいて、住人の多くは麓の町へ移っていた。

残っていたのは、久造というじいさんと、その遠縁にあたる老夫婦の、三人きりだった。

電気は通っていたが、夜になると、村全体が、ひとつの大きな空き家のように静まり返った。

久造じいさんだけが、最後まで土地を離れようとしなかった。

「ここはな、水に沈むのが、もう決まっとる」

じいさんは、囲炉裏の前で、ぽつりとそう言った。

「だが、沈めてええ村と、沈めたらいかん村がある」

「ここは、沈めにゃならん村だ。だが、沈め方を、間違えてはいかん」

私は、その言葉の意味を、深くは考えなかった。

ただの年寄りの繰り言だろうと思っていた。

それが、どれほど浅はかだったかを、私は後で思い知ることになる。

今になって、久造じいさんの言葉の一つ一つが、ずしりと重く思い返される。

集落の外れに、古い溜池があった。

淵ノ池、と地元では呼ばれていた。

水は黒く、底が見えなかった。

山の影を映して、昼でも夜のように沈んでいた。

夏でも、その水面の前に立つと、首筋がひやりとした。

魚の影ひとつ、浮いてこない池だった。

それなのに、水のすぐ下で、何かがゆっくりと動いたように見えることが、何度かあった。

池の真ん中に、苔むした丸い石の蓋のようなものが、わずかに水面から覗いていた。

蓋には古い縄が幾重にも巻かれ、墨で何か書かれた札が貼られていた。

「あれにだけは、触れんでくれ」

久造じいさんは、池を指して、そう念を押した。

「あの蓋の下のものは、村がそっくり水に沈むまで、起こしてはならんものだ」

主任の黒木さんは、調査の手を止めて、その石をしばらく眺めていた。

「沈む前に、中も記録しておかんとな」

黒木さんは、誰にともなく、そう呟いた。

私はなぜか、その一言が、やけに耳の奥に残った。

調査は、はじめのうちは順調だった。

空き家を一軒ずつ回り、間取りを測り、帳面を埋めていった。

畳を上げ、天井裏を覗き、台所の竈の数まで書き留める。

障子の桟ひとつ、井戸の深さひとつまで、帳面に写していった。

誰もいなくなった家は、不思議と、まだ人の匂いがした。

仏壇だけが残された家もあり、私たちはそのたびに手を合わせてから上がった。

ただ、妙なことが、少しずつあった。

夜になると、どこからか水の音が聞こえた。

ぽたり、ぽたり、と、雨でもないのに、軒先で水の落ちる音がする。

私たちが寝泊まりしていた空き家には、水道など通っていなかった。

井戸も、とうに埋められていた。

村中の井戸が、申し合わせたように、同じ頃に埋められていた。

なぜ全部埋めたのか、誰に聞いても、はっきりとは答えなかった。

ただ、村中の井戸を埋めた年と、淵ノ池に蓋がされた年は、同じらしかった。

それでも、夜更けになると、必ずその音がした。

若い同僚たちは、はじめのうちは、誰かの悪戯だろうと笑っていた。

朝になると、土間が濡れていることがあった。

誰かが裸足で歩いたような、ずいぶん小さな足跡が、点々と続いていた。

土間から上がり框まで来て、そこでふつりと消えていた。

拭いても拭いても、翌朝にはまた、同じところが濡れていた。

私たちは、四人いた。

黒木主任と、私と、若い同僚が二人。

全員、長靴を履いていた。

誰の足跡でもなかった。

黒木主任だけが、その足跡を、長いこと、しゃがんで見つめていた。

「ずいぶん、小さな足だな」

主任はそう言って、笑おうとして、うまく笑えていなかった。

それから主任は、よく一人で淵ノ池のほうへ歩いていくようになった。

記録のためだ、と言っていた。

だが、帳面には、池のことは一行も書かれていなかった。

夕方、池の縁に立って、黒い水をじっと見下ろしている主任の背中を、私は何度か見かけた。

声をかけると、いつもひどくゆっくりと振り返った。

雨の続いた、ある朝のことだ。

池の水位が、いつもより一尺ほど下がっていた。

上流の堰を、工事の都合で一時的に閉めたせいだ、と後で聞いた。

水が引いて、あの石の蓋の全体が、初めて姿を現した。

黒木主任は、その朝、誰にも告げずに、一人で池へ降りていた。

私が気づいて駆けつけた時には、主任はもう、縄をほとんどほどき終えていた。

「主任、それは」

「記録だ」

主任は、こちらを見ずに、そう言った。

札は、すでに剥がされて、足元の泥に落ちていた。

蓋は、思いのほか軽く、横へずれた。

下から覗いたのは、ただの暗い穴だった。

底は、見えなかった。

石を落としても、水の音も、底に当たる音も、返ってこなかった。

落ちた石は、暗い口の中へ、音もなく吸い込まれていっただけだった。

水の匂いと、土の匂いと、それから、嗅いだことのない冷たい匂いがした。

古い井戸の底のような、ずっと閉じられていた場所の匂いだった。

それは、何十年も、いや、何百年も、外の風に触れていなかった匂いだった。

主任は、その穴を、身を乗り出して、長いこと覗き込んでいた。

私が肩に触れると、主任は、ひどくゆっくりと振り返った。

その目が、どこも見ていなかった。

焦点が、私のずっと後ろのほうで、合っていた。

「呼んでいる」

主任は、そう言った。

誰が、とは言わなかった。

私たちは二人がかりで蓋を元へ戻そうとしたが、今度はびくともしなかった。

その晩から、黒木主任の様子が、はっきりと変わった。

食事に、ほとんど手をつけなくなった。

水ばかりを、何杯も飲んだ。

いくら飲んでも足りないように、夜中にも、土間の水甕の前にしゃがんでいた。

朝には、水甕がすっかり空になっていることも、珍しくなくなった。

そして、低い声で、ずっと何かを呟くようになった。

耳を澄ますと、それは、人の名前だった。

私たちの誰も知らない、古い響きの名前を、点呼のように、いくつも、いくつも呼んでいた。

「主任、誰を呼んでいるんですか」

私が尋ねると、主任は、きょとんとした顔をした。

「俺は、何も呼んでいないよ」

本当に、自分が呟いていたことを、覚えていないようだった。

若い同僚の一人が、青い顔をして、私のところへ来た。

彼は、久造じいさんの家で、古い帳面の写しを取っていた。

「あの名前、この帳面に並んでいるのと、同じです」

見せられた帳面には、何十年も前に、この村から姿を消したきり戻らなかった人たちの名が、ずらりと書かれていた。

脇には、行方知れず、とだけ、小さく添えられていた。

年も、月も、ばらばらだった。

ただ、消えた季節だけが、どれも同じだった。

村が、ひどく水に渇いた年の、夏。

雨乞いをしても降らず、川という川が、底を見せた年だったという。

その夏を境に、村の人別帳から、いくつもの名が、まとめて消えていた。

「沈む前に、記録しておかんとな」

黒木主任は、また、同じことを呟いた。

だが、その声は、もう主任のものでは、なかった。

何人もの声が、薄く重なっているような、奇妙な響きだった。

若いほうの同僚は、その晩のうちに、荷物をまとめて麓へ降りてしまった。

私は、主任を置いて行くわけには、いかなかった。

私は、久造じいさんのところへ走った。

じいさんは、私の話を聞くと、長いこと黙っていた。

それから、灰を見つめたまま、絞り出すように言った。

「蓋を、起こしたのか」

私が頷くと、じいさんは、深く息を吐いた。

「昔な、この村が、何年も水に困った時があった」

「雨が降らん、井戸も涸れる、田も畑も、どうにもならん」

「このままでは村ごと立ち行かん、という年が、続いた」

「その時、村は、ある約束をした」

「山と、水と、約束をしたんだ」

じいさんの声は、だんだん小さくなっていった。

「約束のために、村は、幾人かを、淵の底へ預けた」

「預けて、二度と浮かんでこんように、重い蓋をして、縄をかけた」

「以来、水だけは、絶えたことがない」

「どれだけ日照りが続いても、淵ノ池の水だけは、一度も涸れたことがない」

「それが、約束が守られとる証だと、皆そう信じてきた」

私は、言葉が出なかった。

「あれは、村がそっくり水に沈んで、皆まとめてあちらへ渡る、その日まで」

「人の手で、先に起こしてはならんものだったんだ」

じいさんは、そう言って、初めて私の顔を、まっすぐに見た。

「お前さんらは、沈む村の底から、先に一人ぶんだけ、戸を開けてしまった」

「向こうは、約束の頭数が、足りんと思うとる」

「一人起きたぶん、向こうは、一人連れていこうとする」

私は、背筋が冷たくなった。

「下りの在に、トヨという拝み屋がおる」

「あの婆さまを、今すぐ呼んでこい」

「急げ、日が暮れる前にだ」

トヨ婆さまは、小柄な、しわだらけの老婆だった。

麓の家から、軽トラの助手席に乗せて、連れてきた。

婆さまは、樒沢の入り口に着いた途端、ぴたりと動きを止めた。

車から降りようともしなかった。

「ここは、いかん」

村を一目見ただけで、婆さまはそう言った。

「水に沈むのを、ずうっと待っとる土地だ」

「沈めてやらにゃ、収まらん」

それでも私が頭を下げ続けると、婆さまは、しぶしぶ車を降りた。

私が淵ノ池へ案内すると、婆さまは、池の手前で立ち尽くした。

ずれたままの蓋を見て、ひとつ、舌打ちをした。

「起こしたな」

婆さまの声は、低かった。

「これはな、鎮めるんじゃない。沈めるんだ」

「鎮めるのは、いつか出てくる。沈めたものは、出てこんはずだった」

「人が、手で、先に起こしてええもんじゃなかった」

婆さまは、池の水を、決して指でも触れようとしなかった。

婆さまの手が、数珠を握ったまま、細かく震えていた。

長年この仕事をしてきたという婆さまが、明らかに、恐れていた。

その時、私は気づいた。

池のほとりに、黒木主任が立っていた。

いつから、そこにいたのか、わからなかった。

主任は、黒い水面を、じっと見下ろしていた。

水は、鏡のように静かだった。

だが、その水面に映っていたのは、主任の姿では、なかった。

映っていたのは、何人もの、小さな人影だった。

池の縁には、誰も立っていないのに、水の中にだけ、それらが並んで、こちらを見上げていた。

数えようとして、私はやめた。

数えてはいけない気がしたのだ。

トヨ婆さまは、懐から数珠を取り出し、低い声で、何かを唱え始めた。

主任が、ゆっくりと、こちらを振り返った。

そして、笑った。

主任の口から、主任ではない、何人もの声が、重なって、こう言った。

「やっと、迎えが来た」

婆さまの唱える声が、一段、高くなった。

「お前たちが、迎えに来たんじゃない」

「迎えに行くのは、こっちだ」

その瞬間、風が、ぴたりと止んだ。

あれほど聞こえていた水の音も、止んだ。

そして、池の水が、内側へ吸い込まれるように、ゆっくりと渦を巻き始めた。

渦の中心は、ちょうど、あの石の蓋のあった場所だった。

その渦の底へ向かって、主任の体が、半歩、また半歩と、引き寄せられていった。

私は声をあげたつもりだったが、自分の声が、まるで聞こえなかった。

その後のことを、私は、うまく順序立てて話せない。

気がつくと、私は、池から離れた斜面に、座り込んでいた。

トヨ婆さまが、私の肩を、何度も叩いていた。

「もう、ええ」

「あんたは、呼ばれんかった」

「呼ばれた者だけが、連れていかれる」

「蓋を、自分の手で起こした者がな」

見ると、池は、もとの黒い水面に戻っていた。

渦も、人影も、消えていた。

あの石の蓋は、誰の手も借りずに、もとの位置に、ぴたりと戻っていた。

私が二人がかりでも動かせなかった、あの蓋が、だ。

縄も、札も、最初からほどかれていなかったかのように、巻かれていた。

ただ、黒木主任の姿だけが、どこにも、なかった。

私たちは、夜を徹して、村中を探した。

懐中電灯の光を、何度も池の水面に向けたが、ただ黒く凪いでいるだけだった。

水面は、何事もなかったかのように、星明かりだけを映していた。

麓にも、町にも、主任は戻っていなかった。

実家にも、ついに戻らなかった。

行方知れず、と、私はあの時、自分の帳面に書いた。

ほかに、書きようが、なかった。

久造じいさんの家の、あの古い帳面の末尾に、また一つ、新しい名が増えただけだった。

翌朝、私は、一人で、もう一度だけ淵ノ池へ行った。

確かめずには、いられなかった。

誰も入れるはずのない溜池の真ん中に、主任の長靴だけが、こちらを向いて、きちんと揃えて置かれていた。

私は、それを、記録しなかった。

写真も、撮らなかった。

その年の暮れ、樒沢は、予定通り、静かに水の底へ沈んだ。

今は、ダム湖の底に、あの村も、あの溜池も、区別なく沈んでいる。

どこからどこまでが約束の水なのか、もう誰にもわからない。

沈む村は、これで、ようやく約束を果たしたのだろうか。

それとも、頭数は、まだ足りないままなのだろうか。

今でも、私には、わからない。

ただ、あのダム湖の上を車で通るたび、私は、窓を固く閉める。

湖の真ん中あたりから、あの音が、聞こえてくる気がするからだ。

ぽたり、ぽたり、と。

まるで、誰かがまだ、裸足で、濡れた土間を歩いているような。

あの音を、私はもう、雨だとは、思えない。

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