
これは、昭和の終わりがまだ遠かった頃、私がまだ二十代だった時分に関わった、ある沈む村での出来事だ。
もう五十年近く前の話になる。
当時の私は、県の外郭団体に雇われた、ただの若い家屋調査員にすぎなかった。
川の上流に大きなダムを造る計画があり、その底へ沈むことになる集落を、一軒ずつ記録して回るのが私の仕事だった。
間取りを測り、写真を撮り、誰がどこに住んでいたかを帳面に書き写す。
それだけの、静かな仕事のはずだった。
今思えば、静かすぎたのだ。
沈む村のことを、私は今でも時々思い出す。
正確には、村そのものよりも、あの溜池のことを、だ。
あの黒い水面を思い出すと、今でも、指先が冷たくなる。
この歳になって、ようやく順序立てて話せるようになった気がする。
ただ、起きたことを述べるしかない。
※
樒沢、と書いて、しきみざわと読む集落だった。
地図の隅にも載らないような、山あいの小さな村だ。
私たちが調査に入った頃には、すでに大半の家が空き家になっていた。
移転の補償はとうに済んでいて、住人の多くは麓の町へ移っていた。
残っていたのは、久造というじいさんと、その遠縁にあたる老夫婦の、三人きりだった。
電気は通っていたが、夜になると、村全体が、ひとつの大きな空き家のように静まり返った。
久造じいさんだけが、最後まで土地を離れようとしなかった。
「ここはな、水に沈むのが、もう決まっとる」
じいさんは、囲炉裏の前で、ぽつりとそう言った。
「だが、沈めてええ村と、沈めたらいかん村がある」
「ここは、沈めにゃならん村だ。だが、沈め方を、間違えてはいかん」
私は、その言葉の意味を、深くは考えなかった。
ただの年寄りの繰り言だろうと思っていた。
それが、どれほど浅はかだったかを、私は後で思い知ることになる。
今になって、久造じいさんの言葉の一つ一つが、ずしりと重く思い返される。
集落の外れに、古い溜池があった。
淵ノ池、と地元では呼ばれていた。
水は黒く、底が見えなかった。
山の影を映して、昼でも夜のように沈んでいた。
夏でも、その水面の前に立つと、首筋がひやりとした。
魚の影ひとつ、浮いてこない池だった。
それなのに、水のすぐ下で、何かがゆっくりと動いたように見えることが、何度かあった。
池の真ん中に、苔むした丸い石の蓋のようなものが、わずかに水面から覗いていた。
蓋には古い縄が幾重にも巻かれ、墨で何か書かれた札が貼られていた。
「あれにだけは、触れんでくれ」
久造じいさんは、池を指して、そう念を押した。
「あの蓋の下のものは、村がそっくり水に沈むまで、起こしてはならんものだ」
主任の黒木さんは、調査の手を止めて、その石をしばらく眺めていた。
「沈む前に、中も記録しておかんとな」
黒木さんは、誰にともなく、そう呟いた。
私はなぜか、その一言が、やけに耳の奥に残った。
※
調査は、はじめのうちは順調だった。
空き家を一軒ずつ回り、間取りを測り、帳面を埋めていった。
畳を上げ、天井裏を覗き、台所の竈の数まで書き留める。
障子の桟ひとつ、井戸の深さひとつまで、帳面に写していった。
誰もいなくなった家は、不思議と、まだ人の匂いがした。
仏壇だけが残された家もあり、私たちはそのたびに手を合わせてから上がった。
ただ、妙なことが、少しずつあった。
夜になると、どこからか水の音が聞こえた。
ぽたり、ぽたり、と、雨でもないのに、軒先で水の落ちる音がする。
私たちが寝泊まりしていた空き家には、水道など通っていなかった。
井戸も、とうに埋められていた。
村中の井戸が、申し合わせたように、同じ頃に埋められていた。
なぜ全部埋めたのか、誰に聞いても、はっきりとは答えなかった。
ただ、村中の井戸を埋めた年と、淵ノ池に蓋がされた年は、同じらしかった。
それでも、夜更けになると、必ずその音がした。
若い同僚たちは、はじめのうちは、誰かの悪戯だろうと笑っていた。
朝になると、土間が濡れていることがあった。
誰かが裸足で歩いたような、ずいぶん小さな足跡が、点々と続いていた。
土間から上がり框まで来て、そこでふつりと消えていた。
拭いても拭いても、翌朝にはまた、同じところが濡れていた。
私たちは、四人いた。
黒木主任と、私と、若い同僚が二人。
全員、長靴を履いていた。
誰の足跡でもなかった。
黒木主任だけが、その足跡を、長いこと、しゃがんで見つめていた。
「ずいぶん、小さな足だな」
主任はそう言って、笑おうとして、うまく笑えていなかった。
それから主任は、よく一人で淵ノ池のほうへ歩いていくようになった。
記録のためだ、と言っていた。
だが、帳面には、池のことは一行も書かれていなかった。
夕方、池の縁に立って、黒い水をじっと見下ろしている主任の背中を、私は何度か見かけた。
声をかけると、いつもひどくゆっくりと振り返った。
※
雨の続いた、ある朝のことだ。
池の水位が、いつもより一尺ほど下がっていた。
上流の堰を、工事の都合で一時的に閉めたせいだ、と後で聞いた。
水が引いて、あの石の蓋の全体が、初めて姿を現した。
黒木主任は、その朝、誰にも告げずに、一人で池へ降りていた。
私が気づいて駆けつけた時には、主任はもう、縄をほとんどほどき終えていた。
「主任、それは」
「記録だ」
主任は、こちらを見ずに、そう言った。
札は、すでに剥がされて、足元の泥に落ちていた。
蓋は、思いのほか軽く、横へずれた。
下から覗いたのは、ただの暗い穴だった。
底は、見えなかった。
石を落としても、水の音も、底に当たる音も、返ってこなかった。
落ちた石は、暗い口の中へ、音もなく吸い込まれていっただけだった。
水の匂いと、土の匂いと、それから、嗅いだことのない冷たい匂いがした。
古い井戸の底のような、ずっと閉じられていた場所の匂いだった。
それは、何十年も、いや、何百年も、外の風に触れていなかった匂いだった。
主任は、その穴を、身を乗り出して、長いこと覗き込んでいた。
私が肩に触れると、主任は、ひどくゆっくりと振り返った。
その目が、どこも見ていなかった。
焦点が、私のずっと後ろのほうで、合っていた。
「呼んでいる」
主任は、そう言った。
誰が、とは言わなかった。
私たちは二人がかりで蓋を元へ戻そうとしたが、今度はびくともしなかった。
※
その晩から、黒木主任の様子が、はっきりと変わった。
食事に、ほとんど手をつけなくなった。
水ばかりを、何杯も飲んだ。
いくら飲んでも足りないように、夜中にも、土間の水甕の前にしゃがんでいた。
朝には、水甕がすっかり空になっていることも、珍しくなくなった。
そして、低い声で、ずっと何かを呟くようになった。
耳を澄ますと、それは、人の名前だった。
私たちの誰も知らない、古い響きの名前を、点呼のように、いくつも、いくつも呼んでいた。
「主任、誰を呼んでいるんですか」
私が尋ねると、主任は、きょとんとした顔をした。
「俺は、何も呼んでいないよ」
本当に、自分が呟いていたことを、覚えていないようだった。
若い同僚の一人が、青い顔をして、私のところへ来た。
彼は、久造じいさんの家で、古い帳面の写しを取っていた。
「あの名前、この帳面に並んでいるのと、同じです」
見せられた帳面には、何十年も前に、この村から姿を消したきり戻らなかった人たちの名が、ずらりと書かれていた。
脇には、行方知れず、とだけ、小さく添えられていた。
年も、月も、ばらばらだった。
ただ、消えた季節だけが、どれも同じだった。
村が、ひどく水に渇いた年の、夏。
雨乞いをしても降らず、川という川が、底を見せた年だったという。
その夏を境に、村の人別帳から、いくつもの名が、まとめて消えていた。
「沈む前に、記録しておかんとな」
黒木主任は、また、同じことを呟いた。
だが、その声は、もう主任のものでは、なかった。
何人もの声が、薄く重なっているような、奇妙な響きだった。
若いほうの同僚は、その晩のうちに、荷物をまとめて麓へ降りてしまった。
私は、主任を置いて行くわけには、いかなかった。
※
私は、久造じいさんのところへ走った。
じいさんは、私の話を聞くと、長いこと黙っていた。
それから、灰を見つめたまま、絞り出すように言った。
「蓋を、起こしたのか」
私が頷くと、じいさんは、深く息を吐いた。
「昔な、この村が、何年も水に困った時があった」
「雨が降らん、井戸も涸れる、田も畑も、どうにもならん」
「このままでは村ごと立ち行かん、という年が、続いた」
「その時、村は、ある約束をした」
「山と、水と、約束をしたんだ」
じいさんの声は、だんだん小さくなっていった。
「約束のために、村は、幾人かを、淵の底へ預けた」
「預けて、二度と浮かんでこんように、重い蓋をして、縄をかけた」
「以来、水だけは、絶えたことがない」
「どれだけ日照りが続いても、淵ノ池の水だけは、一度も涸れたことがない」
「それが、約束が守られとる証だと、皆そう信じてきた」
私は、言葉が出なかった。
「あれは、村がそっくり水に沈んで、皆まとめてあちらへ渡る、その日まで」
「人の手で、先に起こしてはならんものだったんだ」
じいさんは、そう言って、初めて私の顔を、まっすぐに見た。
「お前さんらは、沈む村の底から、先に一人ぶんだけ、戸を開けてしまった」
「向こうは、約束の頭数が、足りんと思うとる」
「一人起きたぶん、向こうは、一人連れていこうとする」
私は、背筋が冷たくなった。
「下りの在に、トヨという拝み屋がおる」
「あの婆さまを、今すぐ呼んでこい」
「急げ、日が暮れる前にだ」
※
トヨ婆さまは、小柄な、しわだらけの老婆だった。
麓の家から、軽トラの助手席に乗せて、連れてきた。
婆さまは、樒沢の入り口に着いた途端、ぴたりと動きを止めた。
車から降りようともしなかった。
「ここは、いかん」
村を一目見ただけで、婆さまはそう言った。
「水に沈むのを、ずうっと待っとる土地だ」
「沈めてやらにゃ、収まらん」
それでも私が頭を下げ続けると、婆さまは、しぶしぶ車を降りた。
私が淵ノ池へ案内すると、婆さまは、池の手前で立ち尽くした。
ずれたままの蓋を見て、ひとつ、舌打ちをした。
「起こしたな」
婆さまの声は、低かった。
「これはな、鎮めるんじゃない。沈めるんだ」
「鎮めるのは、いつか出てくる。沈めたものは、出てこんはずだった」
「人が、手で、先に起こしてええもんじゃなかった」
婆さまは、池の水を、決して指でも触れようとしなかった。
婆さまの手が、数珠を握ったまま、細かく震えていた。
長年この仕事をしてきたという婆さまが、明らかに、恐れていた。
その時、私は気づいた。
池のほとりに、黒木主任が立っていた。
いつから、そこにいたのか、わからなかった。
主任は、黒い水面を、じっと見下ろしていた。
水は、鏡のように静かだった。
だが、その水面に映っていたのは、主任の姿では、なかった。
映っていたのは、何人もの、小さな人影だった。
池の縁には、誰も立っていないのに、水の中にだけ、それらが並んで、こちらを見上げていた。
数えようとして、私はやめた。
数えてはいけない気がしたのだ。
トヨ婆さまは、懐から数珠を取り出し、低い声で、何かを唱え始めた。
主任が、ゆっくりと、こちらを振り返った。
そして、笑った。
主任の口から、主任ではない、何人もの声が、重なって、こう言った。
「やっと、迎えが来た」
婆さまの唱える声が、一段、高くなった。
「お前たちが、迎えに来たんじゃない」
「迎えに行くのは、こっちだ」
その瞬間、風が、ぴたりと止んだ。
あれほど聞こえていた水の音も、止んだ。
そして、池の水が、内側へ吸い込まれるように、ゆっくりと渦を巻き始めた。
渦の中心は、ちょうど、あの石の蓋のあった場所だった。
その渦の底へ向かって、主任の体が、半歩、また半歩と、引き寄せられていった。
私は声をあげたつもりだったが、自分の声が、まるで聞こえなかった。
※
その後のことを、私は、うまく順序立てて話せない。
気がつくと、私は、池から離れた斜面に、座り込んでいた。
トヨ婆さまが、私の肩を、何度も叩いていた。
「もう、ええ」
「あんたは、呼ばれんかった」
「呼ばれた者だけが、連れていかれる」
「蓋を、自分の手で起こした者がな」
見ると、池は、もとの黒い水面に戻っていた。
渦も、人影も、消えていた。
あの石の蓋は、誰の手も借りずに、もとの位置に、ぴたりと戻っていた。
私が二人がかりでも動かせなかった、あの蓋が、だ。
縄も、札も、最初からほどかれていなかったかのように、巻かれていた。
ただ、黒木主任の姿だけが、どこにも、なかった。
私たちは、夜を徹して、村中を探した。
懐中電灯の光を、何度も池の水面に向けたが、ただ黒く凪いでいるだけだった。
水面は、何事もなかったかのように、星明かりだけを映していた。
麓にも、町にも、主任は戻っていなかった。
実家にも、ついに戻らなかった。
行方知れず、と、私はあの時、自分の帳面に書いた。
ほかに、書きようが、なかった。
久造じいさんの家の、あの古い帳面の末尾に、また一つ、新しい名が増えただけだった。
翌朝、私は、一人で、もう一度だけ淵ノ池へ行った。
確かめずには、いられなかった。
誰も入れるはずのない溜池の真ん中に、主任の長靴だけが、こちらを向いて、きちんと揃えて置かれていた。
私は、それを、記録しなかった。
写真も、撮らなかった。
その年の暮れ、樒沢は、予定通り、静かに水の底へ沈んだ。
今は、ダム湖の底に、あの村も、あの溜池も、区別なく沈んでいる。
どこからどこまでが約束の水なのか、もう誰にもわからない。
沈む村は、これで、ようやく約束を果たしたのだろうか。
それとも、頭数は、まだ足りないままなのだろうか。
今でも、私には、わからない。
ただ、あのダム湖の上を車で通るたび、私は、窓を固く閉める。
湖の真ん中あたりから、あの音が、聞こえてくる気がするからだ。
ぽたり、ぽたり、と。
まるで、誰かがまだ、裸足で、濡れた土間を歩いているような。
あの音を、私はもう、雨だとは、思えない。