(゚Д゚)ハァ?って表情になって消えた

大学二年の春の話です。

私は親元を離れて、地方都市の外れにある学生アパートに引っ越しました。

木造二階建て、築四十五年。

名前を「かすみ荘」といいました。

家賃は、周辺相場の半分ほど。

角部屋で日当たりも悪くないのに、二階の東端の一室だけが、ずっと空いていたそうです。

六畳一間に、小さな台所と押し入れ。

内見のとき、ひとつだけ妙なところがありました。

畳の一角に、四角い焼け跡のような変色があったのです。

「前の方が、長いこと物を置いてらしたのよ」

案内してくれた不動産屋は、それ以上は説明しませんでした。

後になって思えば、あれは長年、祭壇が置かれていた跡でした。

当時の私は、安さの理由を深く考えるような学生ではありませんでした。

霊とか幽霊とかいうものが、そもそもどういうものなのか、よく分かっていなかったのです。

怖い話の類いも、ほとんど通ってきませんでした。

この鈍さが、後にとんでもない形で私を救うことになります。

四月のかすみ荘は、静かで、居心地のいい部屋でした。

窓を開けると、裏手の空き地と、その向こうの雑木林が見えました。

夜になると、林の匂いが部屋まで届きました。

湿った土と、青い葉と、それから、ほんの少しだけ甘いような匂い。

あの甘い匂いの正体を、私はずっと花だと思っていました。

線香だと気づくのは、だいぶ後のことです。

隣の部屋には、高橋さんという大学院生が住んでいました。

引っ越しの挨拶に行くと、高橋さんは私の部屋番号を見て、一瞬だけ黙りました。

「……二〇三、入ったんだ」

「はい。角部屋で、お得でした」

「そう。まあ、何かあったら言って」

何かとは何か、聞き返す前に扉は閉まりました。

一階の端には、大家のおばあさんが住んでいました。

腰の曲がった小さな人で、廊下で会うと、いつも私の顔をじっと見上げてきました。

「あんた、よう眠れとるかね」

挨拶より先に、いつもそれを聞かれました。

「眠れてます」と答えると、大家さんは決まって、ふうん、と首をかしげました。

「そうかね。……あんた、鈍いんじゃねえ。ええことよ」

褒められているのか、いないのか。

当時の私には、判じかねる言葉でした。

最初の異変は、五月の連休明けでした。

夜中の二時頃、窓の外から音がするのです。

さらさら、さらさら、と。

乾いた砂を、ガラスに撒きつけるような音でした。

私の部屋は二階です。

窓の外に、足場になるようなものはありません。

風の音だろうと思って、私は寝返りを打って眠りました。

鈍いというのは、そういうことです。

二つ目の異変は、梅雨の入り口でした。

朝、結露した窓ガラスに、手形がついていたのです。

子どもの手のひらくらいの大きさが、ぺたぺたと五つ。

寝ぼけた頭で、自分でつけたのだろうと拭き取りました。

拭きながら、少しだけ引っかかりました。

結露は、ガラスの内側に浮くものです。

けれどその手形は、拭いても拭いても輪郭が残る。

ガラスを外から拭こうにも、二階なので手が届きません。

数日すると、手形は増えていました。

五つが、八つに。八つが、十三に。

数えたことを、少し後悔しました。

数えた翌朝から、手形は数えられない数になったからです。

つまり、ガラスの外側についているようでした。

三つ目の異変は、音と手形の間を埋めるように始まりました。

金縛りです。

夜中、ふっと目が覚めると、身体が動かない。

胸の上に濡れた座布団を載せられたように重い。

そういう夜が、週に二度、三度と増えていきました。

金縛りの晩には、決まって線香の匂いがしました。

うちには線香なんてないのに、と思いながら、それでも眠れてしまう。

それから、消したはずのテレビが、夜中に砂嵐だけを映していたこともあります。

画面の砂嵐と、窓の外の砂の音が、妙に揃って聞こえた夜もありました。

普通の人なら、この時点で引っ越していたのだろうと思います。

一度だけ、廊下で大家さんに聞いてみたことがあります。

「二〇三って、何かありました?」

大家さんは、掃き掃除の手を止めずに答えました。

「何かはねえ。……けど、悪いもんは、おらんよ」

「そうですか」

「あんたが困っとらんなら、向こうも困っとらん。それでええの」

禅問答のようなやり取りでしたが、妙に安心したのを覚えています。

大学の友人に話すと、疲れだよ、と笑われました。

「それ、絶対アパートのせいだって。やっすい家賃には理由があるんだよ」

「でも別に、実害ないし」

「お前のそういうとこ、ほんと尊敬するわ」

実害なら、そのうち窓の外に並ぶことになるのですが。

ある晩、ゴミ出しで一緒になった高橋さんに、砂の音のことを話してみました。

高橋さんはゴミ袋を持ったまま、また一瞬黙りました。

「……前の人も、同じこと言ってた」

「前の人?」

「二〇三の前の住人。一ヶ月で出てったよ。その前の人は、三週間」

「何かあったんですか」

「知らないほうが眠れると思う」

「そこを何とか」

「……じゃあ、ひとつだけ」

高橋さんは、声を落としました。

「前の住人はね、出ていく朝、こう言ったんだ。『窓の外に、並んでるんです』って」

「並んでる? 何がですか」

「それを聞く前に、引っ越しのトラックが来た」

高橋さんは、それだけ言って階段を上がっていきました。

七月の頭、蒸し暑い夜でした。

その日は朝からレポートに追われ、深夜のコンビニへ夜食を買いに出ました。

帰り道、アパートを見上げて、妙なことに気づきました。

どの部屋の窓も暗いのに、私の部屋の窓だけ、うっすら白く見えたのです。

曇りガラスでもないのに、内側から結露で真っ白に曇っている。

七月です。

部屋に戻ると、窓は乾いていて、ただ、線香の匂いだけが濃く残っていました。

網戸にした窓から、湿った土の匂いが流れ込んでいました。

日付が変わる頃に布団へ入り、うとうとしかけた、そのときです。

かちん、と身体の中で音がした気がしました。

動けない。

それまでで、いちばん強い金縛りでした。

指の先どころか、喉の奥まで固まっていました。

そして、あの音がしました。

さらさら。さらさら。

窓のほうから。

いつもより、ずっと近く。

ガラスのすぐ向こうで、鳴っている。

そして、その音に混じって、ひそひそと、話し声のようなものが聞こえました。

内容は聞き取れません。

ただ、大勢が小声で、何かを順番に確認し合っているような声でした。

目だけは動きました。

動かさなければよかったのだと思います。

視線を、ゆっくり窓へ向けました。

カーテンを、その夜に限って閉め忘れていました。

窓いっぱいに、人の顔だけが隙間なく敷き詰められていた。

男の顔。女の顔。老人の顔。子どもの顔。

大きさの違う顔が、パズルのように組み合わさって、ガラス一面を埋めていました。

全員が、まばたきもせず、こちらを見ていました。

怖い、という感情が湧くより先に、頭の芯が痺れました。

人間は本当に驚くと、悲鳴も出ないのだと、あの夜に知りました。

二階です。

首から下は、どこにあるのか。

考えかけて、やめました。

顔たちは、ガラスに押しつけられるように、少しずつ鼻先を近づけてきます。

結露が、顔の形に曇っていきました。

いちばん手前の、老婆の顔が、ゆっくりと口を動かしました。

が、ら、す、ご、し、で、は、な。

そう読めた気がして、全身の毛が逆立ちました。

ガラス越しでは、何だというのか。

開けろ、ということなのか。

あの手形は、こうしてついたのか、と場違いなことを思いました。

声は出ません。

身体は動きません。

心臓の音だけが、耳の奥でどんどん大きくなっていきます。

このままでは、まずい。

何かしなければ。

けれど、幽霊の知識のない私には、お経のひとつも浮かびませんでした。

塩? お札? 九字? どれも持っていないし、そもそも唱え方を知らない。

私の頭に浮かんだのは、初詣の作法だけでした。

目上の、よく分からない、大勢の存在。

そうだ、これはあれだ。神様みたいなものだ。

お願いをすれば、いいのではないか。

今にして思えば、無茶苦茶な理屈です。

けれど金縛りの布団の中で、酸欠になりかけた二十歳の頭には、それが唯一の正解に見えました。

何をお願いするかは、一秒で決まりました。

当時の私の悩みは、後にも先にも、金欠だけだったからです。

先輩の代返を三回引き受けて、ようやく牛丼が食える。そういう暮らしでした。

私は心の中で、精いっぱい手を合わせました。

──宝くじが、当たりますように。

一瞬の、間がありました。

窓を埋め尽くした無数の顔が、一斉に、同じ表情になりました。

(゚Д゚)ハァ?

という顔です。

文字にすると、本当にあれ以外の表記が見つかりません。

眉間に皺を寄せ、口を半開きにして、心底呆れ返った顔。

老若男女、百近い顔が、揃いも揃ってその表情のまま。

ふっ、と。

電気を消すように、消えました。

同時に金縛りが解けて、私は網戸を突き破りそうな勢いで窓から飛び退きました。

窓の外には、湿った夜の闇があるだけでした。

時計を見ると、午前二時を回ったところでした。

私は電気をつけ、意味もなく台所の水を飲み、それから朝まで一睡もできませんでした。

怖かったから、ではありません。

あの(゚Д゚)ハァ?という顔が、目を閉じるたびに浮かんで、笑いが止まらなかったからです。

恐怖と笑いは、脳の同じ場所から出ているのかもしれません。

翌朝、寝不足の頭で高橋さんの部屋を叩きました。

一部始終を話すと、高橋さんは沈痛な面持ちで聞いていましたが、お願いの下りで吹き出しました。

「宝くじって、君ねえ」

「他に思いつかなくて」

「……いや、でも、それで消えたんなら、大したもんだよ」

高橋さんに連れられて、一階の大家さんのところへ行きました。

大家のおばあさんは、話を聞き終えると、目を細めて言いました。

「あんたの前にあの部屋におったんはね、拝みの婆さまよ」

大家さんの話は、こうでした。

かすみ荘が建つ前、この土地には古い祈祷所があった。

最後の代の拝み屋のおばあさんは、建て替えの後も二〇三に住み続け、亡くなるまで人の相談を聞いていた。

近在では「かすみの婆さま」と呼ばれて、随分頼られた人だったそうです。

失せ物、病、縁談、商売。

「うちの店賃もね、あの人だけは取らんかったの。建てる前からおる人じゃけえ、言うてね」

大家さんは、遠い目をして笑いました。

困りごとを抱えたものが、夜になると窓の外へ「順番待ち」に来る。

生きた人も、来た。

そうでないものも、来た。

「婆さまはどっちも、区別せんかったんよ。困っとるもんは、みんな同じじゃ言うてね」

婆さまは窓を開けて、ひとりひとりの願いを聞いてやっていた。

「あの人が亡うなってからも、来よるんよ。窓の外へ、順番に」

「じゃあ、あの顔たちは」

「あんたに聞いてほしかったんやろうねえ。願い事を」

「なんで俺なんですか」

「あの部屋の窓が、窓口じゃったんよ。何十年もね」

「役所と一緒よ。窓口が変わっても、並ぶ場所は変わらんの」

「……俺、逆に願い事しちゃったんですけど」

大家さんは、しばらく黙って、それから畳を叩いて笑いました。

「そら消えるわ。相談に行った先の人間に、先に願掛けされたんじゃもの」

窓口だと思って並んだ先に、願う側が座っていたわけです。

あの(゚Д゚)ハァ?は、そういう(゚Д゚)ハァ?だったのでした。

不思議なことに、その夜を境に、砂の音も手形も金縛りも、ぴたりと止みました。

呆れて、来なくなったのだと思います。

例の友人に顛末を話すと、腹を抱えて笑った後、真顔になって言いました。

「でもさ、お前が変にお経とか唱えてたら、どうなってたんだろうな」

「どういう意味だよ」

「相談に来てるだけの相手を、追い払おうとしたわけじゃん。……怒るだろ、普通」

考えないようにしていたことを、言われてしまいました。

私の鈍さは、たぶん、あの夜いちばん正しい作法だったのです。

高橋さんは翌年、就職で出ていきました。

最後の日、段ボールを抱えたまま、私の部屋の窓をしばらく見上げていました。

「君が住んでてくれて、よかったよ」

「どういう意味ですか」

「二〇三が静かだと、アパート全体がよく眠れるんだ」

高橋さんの部屋と私の部屋の壁は、薄かった。

それ以上は、お互いに言いませんでした。

後日談がふたつあります。

ひとつ。せっかくなので買った宝くじは、三百円だけ当たりました。

発表の日、売り場の前で番号を三度見直して、私は声を出して笑いました。

並んだ顔の数だけ願いを聞いてもらえるなら、末等ではなく一等でもよかったのに。

けれど考えてみれば、あちらは願いを「聞く」側に並んでいたのです。

筋違いのお願いに、末等をつけてくれただけでも、律儀な話でした。

百近い顔に頼んで三百円なら、一顔あたり三円ほどの御利益です。

ふたつ。卒業で部屋を引き払う日、窓を磨いていて気づきました。

ガラスの隅に、小さな手形がひとつだけ、残っていたのです。

何度拭いても、うっすらと浮かび上がってくる。

そしてそれは、どう見ても、内側からついたものでした。

私はあの部屋で、窓の外しか警戒していませんでした。

けれど、順番待ちの列は、本当に外だけだったのでしょうか。

確かめる方法は、もうありません。

引っ越しの荷物を運び出すとき、私は空になった部屋に一礼して、窓を少しだけ開けておきました。

次に並ぶ誰かが、換気くらいはできるように。

われながら、方向性の分からない気遣いだったと思います。

ただ、あれから二十年近く経った今も、私は妙に運だけはいいのです。

信号に引っかからないとか、傘を忘れた日に雨が止むとか、その程度ですが。

妻には「気のせいでしょう」と笑われます。

そのとおりかもしれません。

ただ、今の家の窓ガラスが結露した朝は、私は今でも、拭く前に一度だけ確かめるのです。

手形が、外側についていないかどうかを。

三百円の残りを、あの顔たちが少しずつ、分割払いしてくれているのかもしれません。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。