
母が入院したのは、去年の十一月のことだ。
胆嚢の手術自体は軽度なものだったが、術後に細菌性の炎症が起き、退院が延び延びになった。
最終的に、二ヶ月半ほど入院することになった。
病院は福岡市内にある中規模の総合病院で、実家から車で二十分ほどの距離にある。
私はいまは東京に住んでいるため、毎週金曜の夜に新幹線で帰省し、土曜日の午後に見舞いをして、日曜の夕方に戻るという生活が、その間ずっと続いた。
仕事の都合でどうしても行けない週が一度だけあったが、それ以外は休まなかった。
片道三時間近くかかる移動だったが、見舞いの後に実家に寄って父と夕食をとることが、この時期の私にとってひとつの区切りになっていた。
東京に戻る新幹線の中で、毎週その週の母の様子を整理した。
数値は下がったか、食事は取れているか、先生は何と言っていたか。
そういうことを繰り返し考えながら、博多から新大阪まで乗っていた。
母の病室は四階の内科病棟にあり、廊下の突き当たりから三番目の六人部屋だった。
窓側のベッドで、晴れた日には遠くに博多湾らしき光が見えた。
病棟は清潔で、看護師の対応も丁寧だった。
ナースステーションからほどよい距離にあり、夜中に何かあれば呼べばすぐ来てもらえると、母自身も言っていた。
母は術後の回復を待ちながら、毎日少しずつ起き上がる練習をしていた。
見舞いに行くたびに、前の週より顔色が良くなっているような気がした。
炎症の数値がなかなか下がらない時期が続いたが、それでも本人は「もう少しだから」と繰り返していた。
廊下は病院独特の匂いがした。
消毒液と、暖房の乾いた空気と、何か薬の匂いが混ざったような、落ち着かない匂いだ。
毎週通ううちに慣れたが、その廊下に立つたびに、ここが日常とは少し切り離された場所だということを、毎回思わされた。
老人に初めて気づいたのは、入院から三週間ほど経った十一月の終わりだったと思う。
母の病室の真正面、廊下を挟んだ位置に、個室がひとつあった。
扉は常に半開きで、室内の様子がうっすらと見えた。
そこにいつも、白いパジャマ姿の老人が座っていた。
七十代の後半くらいに見えた。
細身で、頭には白髪が薄く残っていた。
椅子は窓の際に置かれていて、老人はそこに腰を落とし、外をただ眺めていた。
動く様子はほとんどなかった。
首を少し傾けているときがあったが、それ以外は静止した人のように見えた。
はじめは「慢性疾患か何かで長期入院されているのだろう」と思い、特に気に留めなかった。
病棟には長期入院の患者がほかにも何人かいて、廊下を杖でゆっくり歩く人や、車椅子で窓の前に座っている人の姿も見かけることがあった。
老人もそうした人のひとりだと思っていた。
だが毎週同じ廊下を歩くうちに、少しずつ気になることが積み重なっていった。
まず、老人のそばに点滴のスタンドがなかった。
入院患者の多くは何らかの点滴を受けているが、老人の周囲には何もなかった。
食事の時間帯に廊下を通ることも何度かあったが、老人の部屋にトレーが届けられる様子を一度も見なかった。
着替えや洗濯物を持ってくる家族の姿も、見た記憶がなかった。
面会の時間帯に廊下を歩いても、老人の部屋の前で立ち止まる人はいなかった。
老人はただ、毎週同じ椅子に、同じ向きで座っていた。
十二月に入って廊下が肌寒くなっても、薄手のパジャマの姿は変わらなかった。
正月の前後も、同じだった。
一月のある週に、母の部屋の同室の患者に聞いてみたことがある。
「向かいの部屋に、よく老人の方が座っていますね」と言うと、その患者は首を傾けて「そうですか、私は気づかなかったですねえ」と言った。
母に聞いてみると、「廊下の向かいはいつも静かだよ、人の気配はしないと思うけど」と言った。
私が見ていた老人を、他の人は見ていないのかもしれなかった。
ただそれは、窓側のベッドから廊下の向かいが見えにくい角度だからかもしれない、とも思った。
老人と初めて言葉を交わしたのは、十二月の第一週だったと思う。
母の見舞いを終えて廊下に出たとき、ちょうど老人が部屋の扉の前に立っていた。
廊下でふたりが向き合う形になり、老人の方から軽く頭を下げた。
「向かいの部屋の方ですか」と、低く、穏やかな声で言った。
私は「はい、母が入院しています」と答えた。
老人は「そうですか」と小さく頷き、「大丈夫ですよ、きっと」と続けた。
それだけの会話だった。
老人の声は落ち着いていて、何か根拠でもあるかのような口ぶりだった。
廊下で数秒立ち止まってから、私たちはそれぞれの方向に歩いて別れた。
その一言が、あとになっても残った。
母の入院が続いた三ヶ月間、私が最も気を揉んでいたのは、数値のことよりも母の表情だった。
術後すぐの頃は、痛みと熱で顔が歪んでいた。
だが十二月の半ばを過ぎる頃から、少しずつ表情が柔らかくなってきた。
老人の「大丈夫ですよ」という言葉と、その変化が重なったのかもしれない。
理屈ではないが、そう感じた。
それから二週間ほどのあいだに、同じような場面が二度あった。
一度目は、母の状態が少し悪化していた週だった。
検査の数値が上がり、主治医から回復の見通しについて曖昧な言い方をされた日で、私は病室を出た後に廊下でしばらく立ち尽くしていた。
老人がちょうど廊下に出ていて、私のそばを通りすぎる前に「今日は無理しないで帰りなさい」と言った。
なぜそれを知っているのだろうと一瞬思ったが、病棟内での会話は隣の部屋にも聞こえることがある、とすぐに考え直した。
二度目は大晦日の前週だった。
母の病室に年末の小さな飾り物を持って行った帰りに、廊下で老人と目が合い、「年を越せますよ、きっと」と言われた。
老人はどちらのときも、私の方から先に声をかけた訳ではなかった。
ただ、目が合ったときだけ、短く言葉をかけてきた。
私はそのたびに、少し楽になるような気持ちになった。
母の状態が良くも悪くもない時期が続いていて、毎週同じ廊下を歩くことが少しずつ重くなっていたからだと思う。
老人の言葉は短く、根拠も説明もなかった。
それでも、その場に置いておける言葉だった。
正月を挟んで、母の体調は少しずつ回復した。
一月の中旬には主治医から「このままいけば月末には退院できる」と言われ、私も少し肩の荷が下りた。
帰りの新幹線が、それまでより少し短く感じた。
一月の第二土曜日、私はいつも通り病院に向かった。
エレベーターを降りて廊下を歩くと、老人の部屋の扉が完全に閉まっていた。
それまでは常に半開きだったから、少し気になった。
母の見舞いを一時間ほど済ませ、帰り際にもう一度廊下を通った。
扉の前で立ち止まり、ガラスの小窓から室内を覗いた。
椅子は壁際に寄せられ、ベッドは整えられたままで、人の気配がなかった。
窓のカーテンも引かれていた。
退院されたのかもしれないと思った。
あるいは病状が変化して別の病棟に移ったのかもしれない、とも思った。
何となく、寂しいような気がした。
※
帰り際にナースステーションの前を通ると、ちょうど担当の看護師がいた。
三十代くらいの、いつも同じ時間帯にこの病棟にいる人だった。
「向かいの個室に、いつも座っていらした老人の方は退院されましたか」と尋ねた。
看護師は一瞬、表情を止めた。
「向かいの個室ですか」と繰り返した後、少し間を置いてから「あの部屋は今、物置として使っていまして、患者さんは入っていないんですよ」と言った。
「毎週いらっしゃいましたよ、窓際の椅子に。白いパジャマの、七十代くらいの男性です」と私は言った。
看護師は首を軽く横に振った。
表情が固くなったわけではなかったが、少し、考えるような間があった。
「私がこの病棟を担当してから六年になりますが、あの部屋に患者が入ったことは一度もないと思います」と、彼女は言った。
私は廊下でしばらく立ち止まった。
見間違いだとは思えなかった。
白いパジャマの色も、椅子の位置も、低く穏やかな声も、はっきりと覚えていた。
他の個室と取り違えた可能性を考えて廊下を改めて確認したが、母の部屋の真正面にある個室はひとつだけだった。
位置関係を何度確認しても、変わらなかった。
私はそのまま病院を出た。
夜の駐車場で、しばらく車の中にいた。
エンジンをかけるでもなく、ただ座っていた。
老人が言っていた言葉を、順に思い返した。
「大丈夫ですよ、きっと。」
「今日は無理しないで帰りなさい。」
「年を越せますよ、きっと。」
どれも、その通りになっていた。
母の体調は年を越してから回復し始め、炎症の数値も一月の中旬には基準値に戻った。
「大丈夫」という言葉は、最終的に当たっていた。
あの老人が、その事実を知っていたとは思えない。
だが、知らなかったとも断言できなかった。
翌週も、また翌週も、老人の部屋の扉は閉まったままだった。
二月になっても変わらなかった。
看護師に確認したとき以来、その扉の前を通るたびに少し立ち止まるようになったが、室内には何の動きもなかった。
※
母は二月の末に退院した。
合併症は完全に落ち着き、主治医からも「想定より回復が早かった」と言われた。
退院の手続きを終えて病棟を出る前に、私はもう一度あの廊下を歩いた。
向かいの個室の扉は閉まったままで、室内は暗かった。
退院の日の朝、母は窓の外を少し眺めながら「戻れてよかった」と言った。
私はその言葉に相槌を打ちながら、向かいの部屋の扉のことを考えていた。
看護師に改めて問い合わせることは、しなかった。
何を確かめたいのか、自分でもはっきりしなかった。
あの老人が何者だったのかは、あるいは何だったのかは、今もわからない。
二ヶ月半のあいだ、毎週同じ廊下を歩いて、同じ場所に同じ人がいた。
短い言葉をかけてもらうたびに、不思議と少し楽になった。
なぜあの部屋だったのかは、わからない。
その事実だけは、今も変わらない。
担当になってから六年、あの部屋に患者が入ったことは一度もないと、彼女は言った。