表札のない家

表札のない家

郵便配達の仕事を始めて三年目になった秋のことだ。

担当エリアは市の北側にある古い住宅街で、昭和三十年代から四十年代にかけて開発されたとおぼしき区画だ。

古い木造の一軒家が並ぶ中に、建て替えた新しい家が点々と混じっている。

朝は八時半に配送センターを出発し、電動自転車で一時間半かけてルートを回る。

晴れた日は気持ちのいい仕事だが、雨の日は郵便物が濡れないよう気を張るので二倍疲れる。

そのルートの端に、ひとつだけ表札のない家があった。

古い木造の平屋で、外壁の板が長年の雨風で薄茶色に変色していた。

でも、庭の草は短く刈り込まれていて、玄関前の石畳には枯れ葉ひとつ落ちていなかった。

誰かが丁寧に手入れをしている、という印象だった。

その家には郵便物が来ることがあった。

月に数通程度、差出人のわからない封書やチラシが届いた。

住所の宛名はあったが、受取人の名前が書かれていないものが多かった。

その家の前を通るたびに、老婆が門の脇に立っていた。

最初に気づいたのは、担当を引き継いでから二週間ほど経ったころだった。

薄い灰色の着物を着て、白髪を緩く後ろで束ね、両手を体の前に重ねていた。

私が自転車を減速させると、老婆は小さく頭を下げた。

「いつもご苦労様です」

声は低く、静かだった。

手元にその家宛ての郵便物があるときは手渡しした。

封書を渡すと、老婆は「ありがとうございます」と一言だけ言って受け取った。

中身を確認したり、差出人を確かめたりする様子はまったくなかった。

郵便物のない日も、老婆は立っていた。

最初は偶然かと思っていた。

だが一ヶ月が過ぎても、その区画に差しかかるたびにいる。

晴れの日も雨の日も、場所は変わらなかった。

門の左脇、石の柱の近く。

私の存在に気づいて出てきた様子ではなく、最初からそこにいる、という立ち方だった。

私がその区画に着く時間はだいたい八時四十分ごろだ。

それより前に出発した日も、遅れた日も、老婆はもう外に立っていた。

私が来る前から出ているということになる。

長年の習慣で、だいたいの時間がわかるのだろう。

そう思って、特に疑問には感じなかった。

ただ一度だけ、何気なく老婆の目を見たとき、瞳の色が薄いことに気づいた。

白内障だろうか、とぼんやり思った。

それ以上のことは考えなかった。

ある日の夕方、同じ区画を三年前まで担当していた先輩に話した。

「北端の住宅街に、古い木造の家があるんですが、いつも老婆が門の前に立っていて」

先輩は少し考えてから首を傾げた。

「それ、どのあたりの家?」

住所を伝えると、先輩は曖昧な顔をして「よく覚えてないな」と言った。

「老婆ね。そんな人いたっけな」

三年間担当していた人が覚えていないのは少し不思議だったが、記憶の薄れ方は人それぞれだ。

それ以上は聞かなかった。

その夜、念のため配達記録のデータを確認してみた。

その住所への正式な配達記録が、私が担当を引き継いだ日以降、一件も残っていなかった。

受取人名も、住人の登録もない。

私は封書を手渡した記憶がある。

少なくとも三回は渡したはずだ。

しかしシステムには何も残っていなかった。

確かに手元に持っていたはずの封書が、どこから来たのかも今となってはわからなかった。

翌朝、老婆はいつもの場所に立っていた。

私は自転車を止め、何も言えずに会釈した。

老婆はそのとき、初めてはっきりと私の目を見た。

「ありがとうございました」

過去形だった。

それだけ言うと、老婆は門の内側に入り、家の中に消えた。

翌日から、老婆の姿はなかった。

一週間後、その家の玄関から若い夫婦が出てきた。

引っ越しの段ボールを積んだトラックが道に止まっていた。

「先月からここに住み始めたんです」と女性が言った。

「以前はどなたが住んでいたんですか」と私は聞いた。

夫婦は顔を見合わせた。

「不動産屋さんから聞いたんですが、長年空き家で、相続人もいなくてって。少なくとも十五年以上は誰も住んでいないらしくて」

私は何も言えなかった。

帰り道、ふと思い出したことがある。

老婆の足元を、私は一度もちゃんと見ていなかった。

着物の裾が長く、足先まで隠れていたのかもしれない。

でも石畳の上でも、雨上がりの濡れた地面の上でも、足音がした記憶がなかった。

もうひとつ気になることがあった。

老婆と話した日の翌朝、石畳に霜が降りていた。

私の足跡はついていた。

老婆が立っていた場所には、何もなかった。

それ以来、その道では自転車の速度を落とさないようにしている。

目線を前に向けたまま通り過ぎる。

でも、どうしても気になって、一度だけ振り返ったことがある。

門の左脇に、灰色の人影があった気がした。

気がしただけだ、と思うことにしている。

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