門前を左回りに掃いた日

門前を左回りに掃いた日

右回りの筋

その寺の門前だけは、落ち葉がいつも、右回りの筋になって寄せてありました。

渦の跡のような、ゆるい弧です。

竹箒で掃いた跡だと分かるのに、真っ直ぐではないのです。

毎朝、誰かがそうやって掃いているのだと、私は思っていました。

いや、思ってさえいなかったのかもしれません。

子どもというのは、毎日ある景色に、理由を求めないものです。

中学生の頃の話です。

もう、二十年以上前になります。

※

土管坂のある町

私が育ったのは、愛知の常滑という、焼き物の町です。

坂の多い町で、道の脇の塀に、土管や焼酎瓶がびっしりと積み込んであります。

雨が降ると、その土管の口から、順番に水が落ちる音がしました。

坂を上がりきると、窯の煙突が何本も見えます。

町じゅうが、土と火の匂いをしていました。

私には、家が近所のナギサという幼なじみがいました。

二人とも女子で、毎日いっしょに下校していました。

学校から家までは、歩いて三十分ほどの距離です。

帰り道にはいくつもコースがあって、今日はこっち、明日はあっち、と選ぶのが日課でした。

ナギサは、私と違って、少し慎重な性格でした。

私が「近道しよう」と言えば、「危ないよ」と止めるような子です。

でも、だからこそ、私たちは妙に気が合いました。

※

あの日の落ち葉

平成十年の、十月のことでした。

その日も、部活でへとへとになりながら、たわいない話をして歩いていました。

明日の小テストのこと、好きなアイドルのこと、給食のこと。

どこにでもある中学生の会話です。

その日に限って、私たちはお寺の脇の道を選びました。

なぜその道にしたのか、今でもよく覚えていません。

ただ、なんとなく、足がそちらへ向いたのです。

季節は秋で、まだ夕方と呼べる時刻のはずでした。

それなのに、あたりはもう、薄暗くなりはじめていました。

日が沈んだ直後の、空気が青く沈む時間帯です。

逢魔が刻、というやつでしょうか。

左手には、斜面に沿って、苔むした墓石がずらりと並んでいます。

右手は、背の高い竹林で、風が吹くとさらさらと鳴っていました。

その竹の鳴る音だけが、やけに大きく響いていました。

門の前を通るとき、私は足元を見ました。

落ち葉の筋が、いつもと違う向きに寄せてありました。

私はそのとき、ただ「今日は変な掃き方だな」と思っただけです。

それ以上、何も考えませんでした。

今思えば、人通りもまったくありませんでした。

すれ違う人も、追い越していく自転車も、一台もいなかったのです。

※

黒くて小さい何か

その道は、お寺の前を百メートルほど続きます。

舗装された道を、雑談しながらてくてく歩いていたときのことです。

十メートルほど先の、道の真ん中に、黒くて小さい何かがいました。

あたりはもう薄暗くて、はっきりとは見えませんでした。

私は「あ、猫がいる」と言いながら、近づいていきました。

てっきり、黒猫だと思ったのです。

地面に、ちょうどそれくらいの大きさで、かすかに動いていました。

しかも、ふわふわして見えたものですから。

猫なら、この町ではどこにでもいます。

だから、何のためらいもなく、近づいていったのです。

近づくにつれて、少しずつ、その輪郭が見えてきました。

けれど、なんだか、形がおかしいのです。

耳もなければ、しっぽもありません。

ただ、黒いものが、もぞもぞとうごめいていました。

私は舌を鳴らして、「こっちおいで」と呼びました。

しゃがもうとして、腰をかがめたそのときです。

ナギサが急に後ずさりして、言いました。

「ねえ、それ、本当に猫」

「猫でしょ」

そう言いながら、私はすぐ近くまで寄って、覗き込みました。

そして、息をのみました。

※

それは、猫ではありませんでした。

毛の塊でした。

説明が難しいのですが、真ん中を中心に、すごい勢いで長い毛が回転していました。

回転している毛そのものも、互いに激しくうねりながら絡み合っていました。

とにかく、ものすごい運動をしている、毛の塊でした。

長い髪の毛が、何百本も束になって、生き物のように動いていました。

近くで見ると、かすかに、湿ったような匂いがしました。

雨に濡れた畳のような、古い井戸の底のような匂いです。

声も出ませんでした。

頭の中が、真っ白になりました。

ナギサの「逃げよう」という声で、ようやく我に返りました。

足がもつれそうになりながら、私たちは走り出しました。

部活のバッグが、背中でばたばたと跳ねました。

後ろを振り返るのが、たまらなく怖かったです。

それでも私は、一度だけ、振り返ってしまいました。

塊は、追いかけてくる様子はありませんでした。

ただ、その場で、くるくると回り続けていました。

それが、ほんの少しだけ地面から浮いた状態で、ふらふらと動いていたのです。

まるで、置いていかれた子犬のようにも見えました。

なぜか、ほんの少しだけ、かわいそうな気がしたのを覚えています。

※

私が呼んだせいでしょうか。

その塊は、ふらふらしながら、私のほうへ近づいてきました。

私は慌てて、回転する毛の塊を、ジャンプして飛び越えました。

ナギサは私より一歩先に、もう走り出していました。

私も、何あれ、何あれ、と言いながら、懸命に追いかけました。

しばらく走って振り返ると、塊はまだ、ふらふらしていました。

そして、道の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていきました。

あまりに動きが遅いので、私はちょっと安心しました。

「ねえ、もう一回見に行ってみようよ」

そうワクワクしながら言うと、ナギサに本気で引かれました。

「やめなよ。もう帰ろう」

さすがに、それで諦めました。

※

誰も信じてくれなかった

家に帰ってから、私は母にその話をしました。

母は、また作り話でしょう、と笑って取り合ってくれませんでした。

父にいたっては、狸か何かじゃないのか、と言う始末です。

私は、見たままを懸命に説明しましたが、誰も信じてくれませんでした。

黒くて、丸くて、髪の毛が回っていた。

そう言えば言うほど、家族は呆れた顔をするばかりでした。

自分でも、口に出すと、なんだか間抜けな話に思えてきました。

ナギサと二人だけの秘密に、それはなってしまいました。

次の日、学校でナギサと顔を合わせると、二人とも黙ってしまいました。

あれは夢だったのかな、と私が言うと、ナギサは首を横に振りました。

「ううん、私もちゃんと見た。あれは現実だよ」

その言葉で、私はかえってほっとしました。

見間違いではなかったと、分かったからです。

それからしばらく、私たちはあの道を避けて帰りました。

※

ひとつだけ、後になって思い出したことがあります。

あの週の初めに、寺の掃除番をしていた吉見さんという人が、亡くなっていました。

八十をいくつか過ぎた、小柄なおじいさんでした。

毎朝、暗いうちから門前を掃いている姿を、私は何度も見ています。

町内の回覧板で知って、母が「あら」と言ったのを覚えています。

けれど中学生の私には、それと落ち葉の向きが結びつきませんでした。

結びついたのは、ずっと後のことです。

※

掃いていた人のこと

吉見さんのことを、私はほとんど知りませんでした。

知っていたのは、姿だけです。

登校の途中、門前を通ると、たいてい背中がありました。

細い背中で、箒の柄が、その人の背丈より長く見えました。

掃く音は、しゃっ、しゃっ、と短いのです。

大きく払わずに、少しずつ寄せていく掃き方でした。

一度だけ、声をかけられたことがあります。

中学に上がったばかりの頃です。

私が門の敷石を踏んで近道をしようとしたら、後ろから言われました。

「そっちは通らんでええよ」

怒った声ではありませんでした。

むしろ、困ったような言い方でした。

私は素直に、道のほうへ戻りました。

その理由も、聞きませんでした。

子どもというのは、やはり、理由を聞かないものです。

その人が掃いた朝の門前は、いつも同じ形をしていました。

ゆるい弧が、右へ、右へと重なっている。

雨あがりでも、風の日でも、その形だけは変わりませんでした。

ナギサにも、そのことを話しました。

すると、ナギサは少し考えてから言いました。

「あの人、掃きながら、たまに立ち止まってたよね」

言われて、思い出しました。

確かに、箒を止めて、足元をじっと見ていることがありました。

何かを数えているようにも見えました。

あのとき、そこに何がいたのかは、もう誰にも分かりません。

今になって思えば、あれは掃除ではなかったのだと思います。

毎朝、同じことを、同じ向きで繰り返す。

それ自体が、仕事だったのでしょう。

※

十年後の図書館で

結局、あの回転する毛の塊が何だったのかは、分からないまま十年が過ぎました。

私は、町の図書館で働くようになっていました。

あの出来事のことは、いつのまにか、記憶の隅に追いやられていました。

妖怪なんて、子どもの頃の空想だったのだろう。

大人になった私は、いつしか、そう思うようになっていたのです。

ある日、返却された郷土資料を棚に戻していたときのことです。

古い妖怪図鑑のページが、ぱらりと開きました。

その瞬間、私は思わず声をあげてしまいました。

そこに、いたのです。

あの、回転する毛の塊が、挿絵になって。

白黒の、細かい筆づかいの挿絵でした。

けれど、あの夕暮れに見たものと、寸分たがわず同じでした。

あのときの竹の鳴る音まで、耳によみがえってくるようでした。

挿絵の脇には、達筆な文字で、解説が添えられていました。

私は、震える指で、そのページをそっとなぞりました。

間違いない、これだ、と確信しました。

※

残念ながら、妖怪の名前は忘れてしまいました。

けれど、添えられていた短い解説文は、今でもよく覚えています。

「墓地や寺に出る、亡くなった女性の髪が妖怪と化したもの」

「地面の近くを、ふわふわと飛んで移動する」

「掃除をする者の足元にとりつき、その者の気分を悪くさせる」

そこには、こうも書かれていました。

「害は小さく、見かけた者は気を悪くする程度で済む」

「古来、さほど恐れられてはこなかった」

つまり、たいして悪さもしない、おとなしい妖怪だったのです。

すごく、地味です。

あれほど怖い思いをしたのに、正体は、こんなにも地味な妖怪でした。

その日、家に帰ってすぐ、ナギサに電話で教えました。

ナギサも、やっぱり、地味だなあ、と言っていました。

※

蔵書票と鉛筆の書き込み

ただ、その本には、続きがありました。

閉館後、私はもう一度、その図鑑を手に取りました。

見返しに、古い蔵書票が貼ってあったのです。

寄贈者の名前が、筆で書かれていました。

吉見、とありました。

あの、門前を掃いていた人と同じ姓です。

寄贈の日付は、私たちがあれを見た年の、十二月になっていました。

亡くなったあとに、家の人が蔵書を寄贈したのだと思います。

私は、もう一度、挿絵のページを開きました。

そして、気づきました。

挿絵の右下の隅に、鉛筆で、小さく一文字だけ書き込みがありました。

「左」

ずいぶん薄くなっていましたが、確かに、そう読めました。

※

門前は右回りに掃く

次の週末、私は寺へ行きました。

掃除の当番をしていた、年配の女の人に話を聞かせてもらいました。

その人は、竹箒を持ったまま、あっさりと言いました。

「門前は、右回りに掃くの。決まってるのよ」

「逆に掃くと、掃いたもんが起きるでな」

起きたものは、掃いた人について行く。

だから、そのまま帰す。

寺の敷居はまたがせない。

そういう決まりが、この寺には昔からあるのだそうです。

「吉見さんは、それはもう、きちんと右に掃く人だったよ」

私は、それを聞いて、あの日のことを思い返しました。

あの日の門前の筋は、左回りでした。

吉見さんは、その週の初めに亡くなっていました。

あの朝、門前を掃いたのは、いつもの人ではありませんでした。

寺の人に確かめると、その通りでした。

数日のあいだ、隣の集落から来た人が、代わりに掃いていたそうです。

その人は、右回りの決まりを知りませんでした。

知るはずもありません。

そういう決まりは、たいてい、書かれずに伝わるものだからです。

※

吉見さんが図鑑に書き込んだ「左」の一文字が、何を意味していたのかは分かりません。

気をつけろ、という覚え書きだったのかもしれません。

あるいは、自分もかつて、左に掃いてしまったことがあったのかもしれません。

それを確かめる方法は、もう、ありません。

土地の決まりごとが、静かに人を守っていた話としては、風の盆の輪に一人多いも思い出します。

寸法や向きといった、言葉にならない作法が代々写されていく話なら、五厘残しと呼ばれた建具の隙もあわせてどうぞ。

※

今年の秋の門前

私たちは今でも、たまに会うと、あの日の妖怪の話になります。

会うたびに、二人で大笑いするのが、お決まりになっています。

「あんなに走って逃げたのにね」

「正体が、あれだもんね」

あれほどの恐怖が、今ではいちばんの笑い話です。

けれど、笑いながらも、二人ともどこかで分かっています。

あれは、たしかにこの世のものではなかった、と。

あれから何度か、一人で夕暮れにあの道へ行ってみました。

でも、二度と見ることはできませんでした。

大人になった私には、見る資格がなくなってしまったのかもしれません。

子どもの頃は、世界の境目が、もっと曖昧だったのでしょう。

そう思うと、少しだけ、あの頃の自分がうらやましくなります。

※

ひとつだけ、笑えないことがあります。

私は今、自分の家の玄関先を掃くとき、必ず右回りに掃いています。

意味などないと分かっていても、そうしないと落ち着かないのです。

ナギサも、同じだと言っていました。

そして、今年の秋のことです。

用事の帰りに、久しぶりにあの門前を通りました。

落ち葉の筋が、また、左を向いていました。

私は、しばらくそこに立っていました。

掃き直そうかと思って、箒を探しました。

けれど、やめました。

直していいものなのか、分からなかったからです。

もし、あなたが夕暮れの寺の脇道で、黒い毛の塊を見かけても。

どうか、軽はずみに近づかないでくださいね。

まあ、たぶん、すごく地味なやつなのですが。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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