門前を左回りに掃いた日

右回りの筋

その寺の門前だけは、落ち葉がいつも、右回りの筋になって寄せてありました。

渦の跡のような、ゆるい弧です。

竹箒で掃いた跡だと分かるのに、真っ直ぐではないのです。

毎朝、誰かがそうやって掃いているのだと、私は思っていました。

いや、思ってさえいなかったのかもしれません。

子どもというのは、毎日ある景色に、理由を求めないものです。

中学生の頃の話です。

もう、二十年以上前になります。

土管坂のある町

私が育ったのは、愛知の常滑という、焼き物の町です。

坂の多い町で、道の脇の塀に、土管や焼酎瓶がびっしりと積み込んであります。

雨が降ると、その土管の口から、順番に水が落ちる音がしました。

坂を上がりきると、窯の煙突が何本も見えます。

町じゅうが、土と火の匂いをしていました。

私には、家が近所のナギサという幼なじみがいました。

二人とも女子で、毎日いっしょに下校していました。

学校から家までは、歩いて三十分ほどの距離です。

帰り道にはいくつもコースがあって、今日はこっち、明日はあっち、と選ぶのが日課でした。

ナギサは、私と違って、少し慎重な性格でした。

私が「近道しよう」と言えば、「危ないよ」と止めるような子です。

でも、だからこそ、私たちは妙に気が合いました。

あの日の落ち葉

平成十年の、十月のことでした。

その日も、部活でへとへとになりながら、たわいない話をして歩いていました。

明日の小テストのこと、好きなアイドルのこと、給食のこと。

どこにでもある中学生の会話です。

その日に限って、私たちはお寺の脇の道を選びました。

なぜその道にしたのか、今でもよく覚えていません。

ただ、なんとなく、足がそちらへ向いたのです。

季節は秋で、まだ夕方と呼べる時刻のはずでした。

それなのに、あたりはもう、薄暗くなりはじめていました。

日が沈んだ直後の、空気が青く沈む時間帯です。

逢魔が刻、というやつでしょうか。

左手には、斜面に沿って、苔むした墓石がずらりと並んでいます。

右手は、背の高い竹林で、風が吹くとさらさらと鳴っていました。

その竹の鳴る音だけが、やけに大きく響いていました。

門の前を通るとき、私は足元を見ました。

落ち葉の筋が、いつもと違う向きに寄せてありました。

私はそのとき、ただ「今日は変な掃き方だな」と思っただけです。

それ以上、何も考えませんでした。

今思えば、人通りもまったくありませんでした。

すれ違う人も、追い越していく自転車も、一台もいなかったのです。

黒くて小さい何か

その道は、お寺の前を百メートルほど続きます。

舗装された道を、雑談しながらてくてく歩いていたときのことです。

十メートルほど先の、道の真ん中に、黒くて小さい何かがいました。

あたりはもう薄暗くて、はっきりとは見えませんでした。

私は「あ、猫がいる」と言いながら、近づいていきました。

てっきり、黒猫だと思ったのです。

地面に、ちょうどそれくらいの大きさで、かすかに動いていました。

しかも、ふわふわして見えたものですから。

猫なら、この町ではどこにでもいます。

だから、何のためらいもなく、近づいていったのです。

近づくにつれて、少しずつ、その輪郭が見えてきました。

けれど、なんだか、形がおかしいのです。

耳もなければ、しっぽもありません。

ただ、黒いものが、もぞもぞとうごめいていました。

私は舌を鳴らして、「こっちおいで」と呼びました。

しゃがもうとして、腰をかがめたそのときです。

ナギサが急に後ずさりして、言いました。

「ねえ、それ、本当に猫」

「猫でしょ」

そう言いながら、私はすぐ近くまで寄って、覗き込みました。

そして、息をのみました。

それは、猫ではありませんでした。

毛の塊でした。

説明が難しいのですが、真ん中を中心に、すごい勢いで長い毛が回転していました。

回転している毛そのものも、互いに激しくうねりながら絡み合っていました。

とにかく、ものすごい運動をしている、毛の塊でした。

長い髪の毛が、何百本も束になって、生き物のように動いていました。

近くで見ると、かすかに、湿ったような匂いがしました。

雨に濡れた畳のような、古い井戸の底のような匂いです。

声も出ませんでした。

頭の中が、真っ白になりました。

ナギサの「逃げよう」という声で、ようやく我に返りました。

足がもつれそうになりながら、私たちは走り出しました。

部活のバッグが、背中でばたばたと跳ねました。

後ろを振り返るのが、たまらなく怖かったです。

それでも私は、一度だけ、振り返ってしまいました。

塊は、追いかけてくる様子はありませんでした。

ただ、その場で、くるくると回り続けていました。

それが、ほんの少しだけ地面から浮いた状態で、ふらふらと動いていたのです。

まるで、置いていかれた子犬のようにも見えました。

なぜか、ほんの少しだけ、かわいそうな気がしたのを覚えています。

私が呼んだせいでしょうか。

その塊は、ふらふらしながら、私のほうへ近づいてきました。

私は慌てて、回転する毛の塊を、ジャンプして飛び越えました。

ナギサは私より一歩先に、もう走り出していました。

私も、何あれ、何あれ、と言いながら、懸命に追いかけました。

しばらく走って振り返ると、塊はまだ、ふらふらしていました。

そして、道の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていきました。

あまりに動きが遅いので、私はちょっと安心しました。

「ねえ、もう一回見に行ってみようよ」

そうワクワクしながら言うと、ナギサに本気で引かれました。

「やめなよ。もう帰ろう」

さすがに、それで諦めました。

誰も信じてくれなかった

家に帰ってから、私は母にその話をしました。

母は、また作り話でしょう、と笑って取り合ってくれませんでした。

父にいたっては、狸か何かじゃないのか、と言う始末です。

私は、見たままを懸命に説明しましたが、誰も信じてくれませんでした。

黒くて、丸くて、髪の毛が回っていた。

そう言えば言うほど、家族は呆れた顔をするばかりでした。

自分でも、口に出すと、なんだか間抜けな話に思えてきました。

ナギサと二人だけの秘密に、それはなってしまいました。

次の日、学校でナギサと顔を合わせると、二人とも黙ってしまいました。

あれは夢だったのかな、と私が言うと、ナギサは首を横に振りました。

「ううん、私もちゃんと見た。あれは現実だよ」

その言葉で、私はかえってほっとしました。

見間違いではなかったと、分かったからです。

それからしばらく、私たちはあの道を避けて帰りました。

ひとつだけ、後になって思い出したことがあります。

あの週の初めに、寺の掃除番をしていた吉見さんという人が、亡くなっていました。

八十をいくつか過ぎた、小柄なおじいさんでした。

毎朝、暗いうちから門前を掃いている姿を、私は何度も見ています。

町内の回覧板で知って、母が「あら」と言ったのを覚えています。

けれど中学生の私には、それと落ち葉の向きが結びつきませんでした。

結びついたのは、ずっと後のことです。

掃いていた人のこと

吉見さんのことを、私はほとんど知りませんでした。

知っていたのは、姿だけです。

登校の途中、門前を通ると、たいてい背中がありました。

細い背中で、箒の柄が、その人の背丈より長く見えました。

掃く音は、しゃっ、しゃっ、と短いのです。

大きく払わずに、少しずつ寄せていく掃き方でした。

一度だけ、声をかけられたことがあります。

中学に上がったばかりの頃です。

私が門の敷石を踏んで近道をしようとしたら、後ろから言われました。

「そっちは通らんでええよ」

怒った声ではありませんでした。

むしろ、困ったような言い方でした。

私は素直に、道のほうへ戻りました。

その理由も、聞きませんでした。

子どもというのは、やはり、理由を聞かないものです。

その人が掃いた朝の門前は、いつも同じ形をしていました。

ゆるい弧が、右へ、右へと重なっている。

雨あがりでも、風の日でも、その形だけは変わりませんでした。

ナギサにも、そのことを話しました。

すると、ナギサは少し考えてから言いました。

「あの人、掃きながら、たまに立ち止まってたよね」

言われて、思い出しました。

確かに、箒を止めて、足元をじっと見ていることがありました。

何かを数えているようにも見えました。

あのとき、そこに何がいたのかは、もう誰にも分かりません。

今になって思えば、あれは掃除ではなかったのだと思います。

毎朝、同じことを、同じ向きで繰り返す。

それ自体が、仕事だったのでしょう。

十年後の図書館で

結局、あの回転する毛の塊が何だったのかは、分からないまま十年が過ぎました。

私は、町の図書館で働くようになっていました。

あの出来事のことは、いつのまにか、記憶の隅に追いやられていました。

妖怪なんて、子どもの頃の空想だったのだろう。

大人になった私は、いつしか、そう思うようになっていたのです。

ある日、返却された郷土資料を棚に戻していたときのことです。

古い妖怪図鑑のページが、ぱらりと開きました。

その瞬間、私は思わず声をあげてしまいました。

そこに、いたのです。

あの、回転する毛の塊が、挿絵になって。

白黒の、細かい筆づかいの挿絵でした。

けれど、あの夕暮れに見たものと、寸分たがわず同じでした。

あのときの竹の鳴る音まで、耳によみがえってくるようでした。

挿絵の脇には、達筆な文字で、解説が添えられていました。

私は、震える指で、そのページをそっとなぞりました。

間違いない、これだ、と確信しました。

残念ながら、妖怪の名前は忘れてしまいました。

けれど、添えられていた短い解説文は、今でもよく覚えています。

「墓地や寺に出る、亡くなった女性の髪が妖怪と化したもの」

「地面の近くを、ふわふわと飛んで移動する」

「掃除をする者の足元にとりつき、その者の気分を悪くさせる」

そこには、こうも書かれていました。

「害は小さく、見かけた者は気を悪くする程度で済む」

「古来、さほど恐れられてはこなかった」

つまり、たいして悪さもしない、おとなしい妖怪だったのです。

すごく、地味です。

あれほど怖い思いをしたのに、正体は、こんなにも地味な妖怪でした。

その日、家に帰ってすぐ、ナギサに電話で教えました。

ナギサも、やっぱり、地味だなあ、と言っていました。

蔵書票と鉛筆の書き込み

ただ、その本には、続きがありました。

閉館後、私はもう一度、その図鑑を手に取りました。

見返しに、古い蔵書票が貼ってあったのです。

寄贈者の名前が、筆で書かれていました。

吉見、とありました。

あの、門前を掃いていた人と同じ姓です。

寄贈の日付は、私たちがあれを見た年の、十二月になっていました。

亡くなったあとに、家の人が蔵書を寄贈したのだと思います。

私は、もう一度、挿絵のページを開きました。

そして、気づきました。

挿絵の右下の隅に、鉛筆で、小さく一文字だけ書き込みがありました。

「左」

ずいぶん薄くなっていましたが、確かに、そう読めました。

門前は右回りに掃く

次の週末、私は寺へ行きました。

掃除の当番をしていた、年配の女の人に話を聞かせてもらいました。

その人は、竹箒を持ったまま、あっさりと言いました。

「門前は、右回りに掃くの。決まってるのよ」

「逆に掃くと、掃いたもんが起きるでな」

起きたものは、掃いた人について行く。

だから、そのまま帰す。

寺の敷居はまたがせない。

そういう決まりが、この寺には昔からあるのだそうです。

「吉見さんは、それはもう、きちんと右に掃く人だったよ」

私は、それを聞いて、あの日のことを思い返しました。

あの日の門前の筋は、左回りでした。

吉見さんは、その週の初めに亡くなっていました。

あの朝、門前を掃いたのは、いつもの人ではありませんでした。

寺の人に確かめると、その通りでした。

数日のあいだ、隣の集落から来た人が、代わりに掃いていたそうです。

その人は、右回りの決まりを知りませんでした。

知るはずもありません。

そういう決まりは、たいてい、書かれずに伝わるものだからです。

吉見さんが図鑑に書き込んだ「左」の一文字が、何を意味していたのかは分かりません。

気をつけろ、という覚え書きだったのかもしれません。

あるいは、自分もかつて、左に掃いてしまったことがあったのかもしれません。

それを確かめる方法は、もう、ありません。

土地の決まりごとが、静かに人を守っていた話としては、風の盆の輪に一人多いも思い出します。

寸法や向きといった、言葉にならない作法が代々写されていく話なら、五厘残しと呼ばれた建具の隙もあわせてどうぞ。

今年の秋の門前

私たちは今でも、たまに会うと、あの日の妖怪の話になります。

会うたびに、二人で大笑いするのが、お決まりになっています。

「あんなに走って逃げたのにね」

「正体が、あれだもんね」

あれほどの恐怖が、今ではいちばんの笑い話です。

けれど、笑いながらも、二人ともどこかで分かっています。

あれは、たしかにこの世のものではなかった、と。

あれから何度か、一人で夕暮れにあの道へ行ってみました。

でも、二度と見ることはできませんでした。

大人になった私には、見る資格がなくなってしまったのかもしれません。

子どもの頃は、世界の境目が、もっと曖昧だったのでしょう。

そう思うと、少しだけ、あの頃の自分がうらやましくなります。

ひとつだけ、笑えないことがあります。

私は今、自分の家の玄関先を掃くとき、必ず右回りに掃いています。

意味などないと分かっていても、そうしないと落ち着かないのです。

ナギサも、同じだと言っていました。

そして、今年の秋のことです。

用事の帰りに、久しぶりにあの門前を通りました。

落ち葉の筋が、また、左を向いていました。

私は、しばらくそこに立っていました。

掃き直そうかと思って、箒を探しました。

けれど、やめました。

直していいものなのか、分からなかったからです。

もし、あなたが夕暮れの寺の脇道で、黒い毛の塊を見かけても。

どうか、軽はずみに近づかないでくださいね。

まあ、たぶん、すごく地味なやつなのですが。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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