中学のときの、ちょっと不思議な話です。
いまでも、ときどき思い出しては、背すじが、ひやりとします。
※
当時、よく家に遊びに来ていた友達が、いました。
仮に、ケンジ、としておきます。
ケンジには、変わった口癖が、ありました。
驚いたときや、面白がったときに、決まって、こう言うのです。
「ほよよ」
「ほよよ、ほよよ」
意味は、ありません。
ただの、口ぐせです。
テストでいい点を取れば「ほよよ」。
廊下で先生に叱られても「ほよよ」。
あんまり言うので、私たちは、よく、からかいました。
「お前、また、ほよよって言った」
「言ってない、ほよよ」
言ってるじゃないか、と、みんなで笑いました。
ケンジの「ほよよ」は、私たちのクラスの、ちょっとした名物でした。
※
ケンジとは、一年生のとき、同じクラスで、仲良くなりました。
気の優しい、おっとりした、やつでした。
休み時間は、いつも、一緒に、いました。
放課後は、私の家か、ケンジの家で、ゲームばかり、していました。
何かあるたびに、ケンジは「ほよよ」と言って、目を丸くするのです。
その顔が、おかしくて、私は、つられて、笑いました。
一度、ケンジの家に、泊まったことが、あります。
古い、二階建ての、家でした。
仏壇のある、和室に、通されました。
仏壇には、何枚かの、遺影が、飾られていました。
そのときは、深く、気に留めませんでした。
いま思えば、あの中に、丸眼鏡の男が、いたのかもしれません。
ケンジは、自分の生い立ちを、ほとんど、話しませんでした。
ただ一度、『俺、もらわれてきた子なんだ』と、さらりと、言ったことが、あります。
私は、なんと返せばいいか、わからず、黙っていました。
※
いま思えば、あの頃が、いちばん、楽しかった気がします。
修学旅行の夜も、そうでした。
枕投げで、私が、ケンジの顔に、枕を当てると。
ケンジは、ひっくり返って、「ほよよ」。
みんなで、夜中まで、笑い転げました。
体育祭で、転んだときも、「ほよよ」。
どんなときも、ケンジは、「ほよよ」、でした。
それが、ケンジ、という人間でした。
そういえば、一度、聞いたことが、あります。
「お前、なんで、ほよよって言うの」
ケンジは、きょとんとして、答えました。
「わかんない。気づいたら、言ってた」
誰かに教わったわけでも、ないそうです。
物心ついたときには、もう、その口癖が、あったといいます。
いま思えば、それも、ぞっと、する話です。
※
その日も、ケンジは、私の家に、遊びに来ていました。
夏の、蒸し暑い、午後でした。
扇風機が、ぬるい風を、首振りで、送っていました。
窓の外では、蝉が、うるさいほど、鳴いていました。
机の上では、飲みかけのラムネが、ぬるくなっていました。
ありふれた、夏休みの、一日でした。
妹は、隣の部屋で、宿題を、していました。
母は、台所で、夕飯の支度を、始めていました。
家じゅうに、麦茶と、煮物の匂いが、漂っていました。
平和な、夏の、夕暮れ前でした。
何も、おかしなことなど、起きるはずのない、午後でした。
私たちは、私の部屋で、ゲームを、していました。
ふと、ケンジが、私のベッドのほうを、見て言いました。
「なあ、あれ、なに?」
振り返ると、私のベッドの上に、一冊の本が、置いてありました。
古い、黒い表紙の、分厚い本でした。
背表紙は、ぼろぼろに、すり切れています。
「知らない。お前のじゃないの?」
「俺の、なわけないだろ」
たしかに、私の本では、ありませんでした。
そんな本を、私は、買った覚えも、もらった覚えも、ありません。
※
私たちは、おそるおそる、その本を、手に取りました。
かび臭い、古い紙の匂いが、しました。
表紙には、色あせた金文字で、ある人の名前が、書いてありました。
聞いたことのない、名前でした。
ページを、めくってみます。
それは、誰かの、自伝のような本でした。
ところどころ、墨で、消された跡が、ありました。
読める部分だけを、私たちは、たどっていきました。
その人は、戦前に、生まれたようでした。
若い頃に、家族と、訳あって、離れて暮らした、とありました。
『私には、ひとり、手放した子がいる』
そんな、一文も、ありました。
その『手放した子』が、どうなったのか。
本には、それきり、書かれていませんでした。
ただ、ページの間に、小さな、赤ん坊の靴下が、一枚、はさまっていました。
押し花のように、ぺたんと、平らに、なっていました。
それを見たとき、私は、なぜか、泣きそうに、なりました。
読んでいて、なぜか、胸が、ざわつきました。
ページをめくる、私の指が、汗で、湿っていました。
紙は、ぱりぱりと、乾いた音を、立てました。
終わりのほうは、文字が、急に、乱れていました。
最後の、数ページは、白紙でした。
その白紙が、なぜか、いちばん、不気味でした。
何かを、書こうとして。
書けなかった。
そんな、気配が、しました。
まるで、書いた人の手が、震えていたかのように。
古い写真も、はさまっていました。
痩せた、丸い眼鏡をかけた、年配の男性の、白黒写真です。
写真の中の男は、どのページを開いても、こちらを、見ているようでした。
私は、そのたびに、本を、少し、傾けました。
視線から、逃れるように。
けれど、丸い眼鏡の奥の目は、どこまでも、私を、追ってくる気がしました。
笑っていない、無表情の顔が、こちらを、じっと見ていました。
私もケンジも、まったく、知らない人でした。
「なんで、こんなのが、お前の部屋に」
「わからない。気持ち悪いな」
読んではいけない、と、どこかで、思いながら。
それでも、目が、勝手に、文字を、追ってしまうのです。
まるで、何かに、読まされているようでした。
それでも、私たちは、興味本位で、読み進めてしまいました。
※
本の、終わりのほうに、こんな一節が、ありました。
故人を、偲ぶ、知人たちの、寄せ書きでした。
ある人の、文章に、目が、止まりました。
そこには、こう、書いてあったのです。
「故人は、生前、『ほよよ』というのが、口癖でした」
偶然に、しては。
できすぎて、いました。
『ほよよ』なんて、聞いたことのない、口癖です。
それが、たまたま、ケンジと同じだなんて。
そんなことが、あるのでしょうか。
私は、思わず、ケンジの顔を、見ました。
ケンジの顔から、すうっと、血の気が、引いていきました。
「……いま、なんて」
ケンジの声が、震えていました。
あのとき、声に出して、読まなければ、よかった。
あとで、何度も、そう、思いました。
言葉にした瞬間、何かが、確かに、こちらを、向いた気が、したのです。
私は、もう一度、その一節を、声に出して、読みました。
「故人の口癖は、『ほよよ』だった、と」
部屋の空気が、急に、重く、なった気がしました。
扇風機の風が、やけに、冷たく、感じられました。
※
「やめろよ。偶然だろ」
ケンジは、笑おうと、しました。
けれど、その笑いは、引きつっていました。
「お前、この人と、親戚とか?」
私が聞くと、ケンジは、強く、首を振りました。
「知らない。こんな人、知らない」
私たちは、本を、そっと、閉じました。
写真の中の、丸眼鏡の男が、さっきより、こちらを、見ているような気がしました。
気のせいだ。
そう、思おうとしました。
けれど、どうしても、振り払えませんでした。
※
私は、すぐに、母を、呼びました。
「この本、お母さんの?」
母は、本を見て、首を、かしげました。
「知らないわよ、こんな本。どこから持ってきたの」
「俺の部屋に、あったんだよ」
母は、薄気味悪そうに、本を、遠ざけました。
父にも、聞きました。
父も、まったく、心当たりが、ないと言いました。
家族の、誰も、その本を、知らなかったのです。
私は、ぞっと、しました。
誰かが、この家に、入ってきたのでしょうか。
それとも、本のほうが、ひとりでに、現れたのでしょうか。
私は、部屋の、すべてを、調べました。
押し入れの中も、机の下も。
妹に聞いても、知らない、と言います。
誰も、出入りしていない、はずの、午後でした。
窓は、内側から、鍵が、かかっていました。
網戸も、破れて、いません。
誰かが、外から入れたはずが、ないのです。
本は、ただ、私のベッドの、真ん中に。
きちんと、表紙を上にして、置かれていました。
まるで、読まれるのを、待っていたかのように。
それなのに、本だけが、増えていたのです。
誰が、いつ、私のベッドに、置いたのか。
窓は、閉まっていました。
鍵も、かかっていました。
本だけが、そこに、ぽつんと、ありました。
※
その夜、私たちは、決めました。
こんな本は、家に、置いておけない。
日が暮れてから、私とケンジは、家の前の、用水路まで、行きました。
じめじめとした、夏の夜でした。
草むらから、虫の声が、しています。
用水路の水は、墨のように、黒く、よどんでいました。
夏なのに、その水辺だけが、ひんやりと、していました。
草むらの虫の声が、ふいに、ぴたりと、やみました。
私は、思いきって、その本を、暗い水の中へ、投げ捨てました。
ぼちゃん、という音が、夜に、響きました。
本は、ゆっくりと、黒い水に、沈んでいきました。
波紋が、街灯の光を、ゆらゆらと、揺らしました。
水面に、一瞬、あの丸眼鏡の男の顔が、映った気がしました。
私は、思わず、目を、そらしました。
ケンジは、無言で、用水路を、見つめていました。
その横顔が、いつものケンジでは、ないようでした。
「これで、終わりだよな」
ケンジが、つぶやきました。
私は、うなずきました。
けれど、心のどこかで、終わっていない気が、していました。
※
※
その夜、私は、なかなか、眠れませんでした。
目を閉じると、丸眼鏡の男の顔が、浮かびました。
窓の外で、風もないのに、カーテンが、揺れた気が、しました。
私は、布団を、頭から、かぶりました。
朝が来るまで、私は、ただ、息を、ひそめていました。
その日から、ケンジは、二度と、「ほよよ」と、言わなくなりました。
私が、わざと、からかっても。
昔のように、言うことは、ありませんでした。
ケンジが、笑わなくなってから。
クラスの空気も、少しずつ、変わっていきました。
あの名物だった「ほよよ」を、誰も、口にしなくなりました。
まるで、最初から、なかったかのように。
理由を聞いても、ケンジは、ただ、黙っていました。
ただ一度だけ、ケンジが、ぽつりと、言ったことが、あります。
「あの本、燃やしたほうが、よかったのかな」
私は、何も、答えられませんでした。
用水路に沈めた本が、その後、どうなったのか。
確かめに行く勇気は、私には、ありませんでした。
会っても、あの本のことは、お互い、口にしませんでした。
触れてはいけない。
そんな、暗黙の了解が、ありました。
最後に会ったとき、ケンジは、もう、まったく、笑わなく、なっていました。
やがて、私たちは、別々の高校に進み、自然と、疎遠になりました。
あの本が、何だったのか。
なぜ、私の部屋に、現れたのか。
なぜ、見知らぬ故人の口癖が、ケンジと、同じだったのか。
いまも、何ひとつ、わかりません。
※
※
大人になってから、私は、一度だけ、調べてみました。
あの自伝の、表紙にあった名前を。
すると、戦後すぐに、その名で、自費出版された本が、たしかに、ありました。
著者は、とうの昔に、亡くなっていました。
発行部数は、ごく、わずか。
そんな本が、なぜ、子どもだった私の部屋に、現れたのか。
考えれば考えるほど、わからなく、なりました。
ひとつだけ、最近になって、思い出したことが、あります。
あの自伝の表紙にあった、聞いたことのない名前。
あれと、ケンジの、本当の名字が。
実は、同じ、だったのです。
後日、別の友達に、この話を、しました。
「嘘つけ」と、笑われました。
「本が、ひとりでに、現れるわけ、ないだろ」
そのとおり、です。
証拠の本は、もう、用水路の、底。
私には、何ひとつ、証明できません。
ただ、あのときのケンジの、青ざめた顔だけは。
作り話では、決して、出せない顔でした。
※
高校で、たまたま、ケンジの戸籍の話を、聞く機会が、ありました。
そのとき、初めて、彼の、もとの名字を、知ったのです。
それが、あの自伝の表紙の名前と、一字一句、同じでした。
全身に、鳥肌が、立ちました。
ケンジは、養子だと、ずっと前に、聞いたことがありました。
あの丸眼鏡の男は、もしかすると。
そう考えると、いまでも、背すじが、冷たくなります。
伝えたかったのは、誰だったのでしょう。
丸眼鏡の、あの人でしょうか。
それとも、手放された、悲しみそのもの、でしょうか。
わかりません。
あれから、もう、二十年以上が、経ちました。
それでも、夏の、蒸し暑い午後になると、ふと、あの黒い本を、思い出します。
そして、つい、本棚を、確かめてしまうのです。
あの夏、私とケンジは、見てはいけないものを、見てしまったのです。
そしてケンジは、いまも、どこかで。
あの口癖を、封じたまま、生きているのでしょうか。
それとも。
考えるのは、やめて、おきます。
見覚えのない本が、まぎれていないか、と。
手放した、子。
丸眼鏡の、無表情な、男。
そして、その血を、どこかで、引いているのかもしれない、ケンジ。
すべてが、あの夏の午後に、一本の線で、つながった気が、しました。
けれど、つなげてしまったことが、いまも、怖いのです。
あの本は、誰かに、何かを、伝えに来たのかもしれません。
あの黒い本が、最後に、私のベッドで、何を、待っていたのか。
いまなら、少しだけ、わかる気が、します。
それはきっと、ケンジに、読ませたかったのです。
血の、声を。
けれど、本当のところは、もう、誰にも、わかりません。
あの夏の午後だけが、私の記憶の中で、いまも、静かに、息をしています。
そして、伝え終えて、また、どこかへ、消えていったのかもしれません。