ほよよの本

中学のときの、ちょっと不思議な話です。

いまでも、ときどき思い出しては、背すじが、ひやりとします。

当時、よく家に遊びに来ていた友達が、いました。

仮に、ケンジ、としておきます。

ケンジには、変わった口癖が、ありました。

驚いたときや、面白がったときに、決まって、こう言うのです。

「ほよよ」

「ほよよ、ほよよ」

意味は、ありません。

ただの、口ぐせです。

テストでいい点を取れば「ほよよ」。

廊下で先生に叱られても「ほよよ」。

あんまり言うので、私たちは、よく、からかいました。

「お前、また、ほよよって言った」

「言ってない、ほよよ」

言ってるじゃないか、と、みんなで笑いました。

ケンジの「ほよよ」は、私たちのクラスの、ちょっとした名物でした。

ケンジとは、一年生のとき、同じクラスで、仲良くなりました。

気の優しい、おっとりした、やつでした。

休み時間は、いつも、一緒に、いました。

放課後は、私の家か、ケンジの家で、ゲームばかり、していました。

何かあるたびに、ケンジは「ほよよ」と言って、目を丸くするのです。

その顔が、おかしくて、私は、つられて、笑いました。

一度、ケンジの家に、泊まったことが、あります。

古い、二階建ての、家でした。

仏壇のある、和室に、通されました。

仏壇には、何枚かの、遺影が、飾られていました。

そのときは、深く、気に留めませんでした。

いま思えば、あの中に、丸眼鏡の男が、いたのかもしれません。

ケンジは、自分の生い立ちを、ほとんど、話しませんでした。

ただ一度、『俺、もらわれてきた子なんだ』と、さらりと、言ったことが、あります。

私は、なんと返せばいいか、わからず、黙っていました。

いま思えば、あの頃が、いちばん、楽しかった気がします。

修学旅行の夜も、そうでした。

枕投げで、私が、ケンジの顔に、枕を当てると。

ケンジは、ひっくり返って、「ほよよ」。

みんなで、夜中まで、笑い転げました。

体育祭で、転んだときも、「ほよよ」。

どんなときも、ケンジは、「ほよよ」、でした。

それが、ケンジ、という人間でした。

そういえば、一度、聞いたことが、あります。

「お前、なんで、ほよよって言うの」

ケンジは、きょとんとして、答えました。

「わかんない。気づいたら、言ってた」

誰かに教わったわけでも、ないそうです。

物心ついたときには、もう、その口癖が、あったといいます。

いま思えば、それも、ぞっと、する話です。

その日も、ケンジは、私の家に、遊びに来ていました。

夏の、蒸し暑い、午後でした。

扇風機が、ぬるい風を、首振りで、送っていました。

窓の外では、蝉が、うるさいほど、鳴いていました。

机の上では、飲みかけのラムネが、ぬるくなっていました。

ありふれた、夏休みの、一日でした。

妹は、隣の部屋で、宿題を、していました。

母は、台所で、夕飯の支度を、始めていました。

家じゅうに、麦茶と、煮物の匂いが、漂っていました。

平和な、夏の、夕暮れ前でした。

何も、おかしなことなど、起きるはずのない、午後でした。

私たちは、私の部屋で、ゲームを、していました。

ふと、ケンジが、私のベッドのほうを、見て言いました。

「なあ、あれ、なに?」

振り返ると、私のベッドの上に、一冊の本が、置いてありました。

古い、黒い表紙の、分厚い本でした。

背表紙は、ぼろぼろに、すり切れています。

「知らない。お前のじゃないの?」

「俺の、なわけないだろ」

たしかに、私の本では、ありませんでした。

そんな本を、私は、買った覚えも、もらった覚えも、ありません。

私たちは、おそるおそる、その本を、手に取りました。

かび臭い、古い紙の匂いが、しました。

表紙には、色あせた金文字で、ある人の名前が、書いてありました。

聞いたことのない、名前でした。

ページを、めくってみます。

それは、誰かの、自伝のような本でした。

ところどころ、墨で、消された跡が、ありました。

読める部分だけを、私たちは、たどっていきました。

その人は、戦前に、生まれたようでした。

若い頃に、家族と、訳あって、離れて暮らした、とありました。

『私には、ひとり、手放した子がいる』

そんな、一文も、ありました。

その『手放した子』が、どうなったのか。

本には、それきり、書かれていませんでした。

ただ、ページの間に、小さな、赤ん坊の靴下が、一枚、はさまっていました。

押し花のように、ぺたんと、平らに、なっていました。

それを見たとき、私は、なぜか、泣きそうに、なりました。

読んでいて、なぜか、胸が、ざわつきました。

ページをめくる、私の指が、汗で、湿っていました。

紙は、ぱりぱりと、乾いた音を、立てました。

終わりのほうは、文字が、急に、乱れていました。

最後の、数ページは、白紙でした。

その白紙が、なぜか、いちばん、不気味でした。

何かを、書こうとして。

書けなかった。

そんな、気配が、しました。

まるで、書いた人の手が、震えていたかのように。

古い写真も、はさまっていました。

痩せた、丸い眼鏡をかけた、年配の男性の、白黒写真です。

写真の中の男は、どのページを開いても、こちらを、見ているようでした。

私は、そのたびに、本を、少し、傾けました。

視線から、逃れるように。

けれど、丸い眼鏡の奥の目は、どこまでも、私を、追ってくる気がしました。

笑っていない、無表情の顔が、こちらを、じっと見ていました。

私もケンジも、まったく、知らない人でした。

「なんで、こんなのが、お前の部屋に」

「わからない。気持ち悪いな」

読んではいけない、と、どこかで、思いながら。

それでも、目が、勝手に、文字を、追ってしまうのです。

まるで、何かに、読まされているようでした。

それでも、私たちは、興味本位で、読み進めてしまいました。

本の、終わりのほうに、こんな一節が、ありました。

故人を、偲ぶ、知人たちの、寄せ書きでした。

ある人の、文章に、目が、止まりました。

そこには、こう、書いてあったのです。

「故人は、生前、『ほよよ』というのが、口癖でした」

偶然に、しては。

できすぎて、いました。

『ほよよ』なんて、聞いたことのない、口癖です。

それが、たまたま、ケンジと同じだなんて。

そんなことが、あるのでしょうか。

私は、思わず、ケンジの顔を、見ました。

ケンジの顔から、すうっと、血の気が、引いていきました。

「……いま、なんて」

ケンジの声が、震えていました。

あのとき、声に出して、読まなければ、よかった。

あとで、何度も、そう、思いました。

言葉にした瞬間、何かが、確かに、こちらを、向いた気が、したのです。

私は、もう一度、その一節を、声に出して、読みました。

「故人の口癖は、『ほよよ』だった、と」

部屋の空気が、急に、重く、なった気がしました。

扇風機の風が、やけに、冷たく、感じられました。

「やめろよ。偶然だろ」

ケンジは、笑おうと、しました。

けれど、その笑いは、引きつっていました。

「お前、この人と、親戚とか?」

私が聞くと、ケンジは、強く、首を振りました。

「知らない。こんな人、知らない」

私たちは、本を、そっと、閉じました。

写真の中の、丸眼鏡の男が、さっきより、こちらを、見ているような気がしました。

気のせいだ。

そう、思おうとしました。

けれど、どうしても、振り払えませんでした。

私は、すぐに、母を、呼びました。

「この本、お母さんの?」

母は、本を見て、首を、かしげました。

「知らないわよ、こんな本。どこから持ってきたの」

「俺の部屋に、あったんだよ」

母は、薄気味悪そうに、本を、遠ざけました。

父にも、聞きました。

父も、まったく、心当たりが、ないと言いました。

家族の、誰も、その本を、知らなかったのです。

私は、ぞっと、しました。

誰かが、この家に、入ってきたのでしょうか。

それとも、本のほうが、ひとりでに、現れたのでしょうか。

私は、部屋の、すべてを、調べました。

押し入れの中も、机の下も。

妹に聞いても、知らない、と言います。

誰も、出入りしていない、はずの、午後でした。

窓は、内側から、鍵が、かかっていました。

網戸も、破れて、いません。

誰かが、外から入れたはずが、ないのです。

本は、ただ、私のベッドの、真ん中に。

きちんと、表紙を上にして、置かれていました。

まるで、読まれるのを、待っていたかのように。

それなのに、本だけが、増えていたのです。

誰が、いつ、私のベッドに、置いたのか。

窓は、閉まっていました。

鍵も、かかっていました。

本だけが、そこに、ぽつんと、ありました。

その夜、私たちは、決めました。

こんな本は、家に、置いておけない。

日が暮れてから、私とケンジは、家の前の、用水路まで、行きました。

じめじめとした、夏の夜でした。

草むらから、虫の声が、しています。

用水路の水は、墨のように、黒く、よどんでいました。

夏なのに、その水辺だけが、ひんやりと、していました。

草むらの虫の声が、ふいに、ぴたりと、やみました。

私は、思いきって、その本を、暗い水の中へ、投げ捨てました。

ぼちゃん、という音が、夜に、響きました。

本は、ゆっくりと、黒い水に、沈んでいきました。

波紋が、街灯の光を、ゆらゆらと、揺らしました。

水面に、一瞬、あの丸眼鏡の男の顔が、映った気がしました。

私は、思わず、目を、そらしました。

ケンジは、無言で、用水路を、見つめていました。

その横顔が、いつものケンジでは、ないようでした。

「これで、終わりだよな」

ケンジが、つぶやきました。

私は、うなずきました。

けれど、心のどこかで、終わっていない気が、していました。

その夜、私は、なかなか、眠れませんでした。

目を閉じると、丸眼鏡の男の顔が、浮かびました。

窓の外で、風もないのに、カーテンが、揺れた気が、しました。

私は、布団を、頭から、かぶりました。

朝が来るまで、私は、ただ、息を、ひそめていました。

その日から、ケンジは、二度と、「ほよよ」と、言わなくなりました。

私が、わざと、からかっても。

昔のように、言うことは、ありませんでした。

ケンジが、笑わなくなってから。

クラスの空気も、少しずつ、変わっていきました。

あの名物だった「ほよよ」を、誰も、口にしなくなりました。

まるで、最初から、なかったかのように。

理由を聞いても、ケンジは、ただ、黙っていました。

ただ一度だけ、ケンジが、ぽつりと、言ったことが、あります。

「あの本、燃やしたほうが、よかったのかな」

私は、何も、答えられませんでした。

用水路に沈めた本が、その後、どうなったのか。

確かめに行く勇気は、私には、ありませんでした。

会っても、あの本のことは、お互い、口にしませんでした。

触れてはいけない。

そんな、暗黙の了解が、ありました。

最後に会ったとき、ケンジは、もう、まったく、笑わなく、なっていました。

やがて、私たちは、別々の高校に進み、自然と、疎遠になりました。

あの本が、何だったのか。

なぜ、私の部屋に、現れたのか。

なぜ、見知らぬ故人の口癖が、ケンジと、同じだったのか。

いまも、何ひとつ、わかりません。

大人になってから、私は、一度だけ、調べてみました。

あの自伝の、表紙にあった名前を。

すると、戦後すぐに、その名で、自費出版された本が、たしかに、ありました。

著者は、とうの昔に、亡くなっていました。

発行部数は、ごく、わずか。

そんな本が、なぜ、子どもだった私の部屋に、現れたのか。

考えれば考えるほど、わからなく、なりました。

ひとつだけ、最近になって、思い出したことが、あります。

あの自伝の表紙にあった、聞いたことのない名前。

あれと、ケンジの、本当の名字が。

実は、同じ、だったのです。

後日、別の友達に、この話を、しました。

「嘘つけ」と、笑われました。

「本が、ひとりでに、現れるわけ、ないだろ」

そのとおり、です。

証拠の本は、もう、用水路の、底。

私には、何ひとつ、証明できません。

ただ、あのときのケンジの、青ざめた顔だけは。

作り話では、決して、出せない顔でした。

高校で、たまたま、ケンジの戸籍の話を、聞く機会が、ありました。

そのとき、初めて、彼の、もとの名字を、知ったのです。

それが、あの自伝の表紙の名前と、一字一句、同じでした。

全身に、鳥肌が、立ちました。

ケンジは、養子だと、ずっと前に、聞いたことがありました。

あの丸眼鏡の男は、もしかすると。

そう考えると、いまでも、背すじが、冷たくなります。

伝えたかったのは、誰だったのでしょう。

丸眼鏡の、あの人でしょうか。

それとも、手放された、悲しみそのもの、でしょうか。

わかりません。

あれから、もう、二十年以上が、経ちました。

それでも、夏の、蒸し暑い午後になると、ふと、あの黒い本を、思い出します。

そして、つい、本棚を、確かめてしまうのです。

あの夏、私とケンジは、見てはいけないものを、見てしまったのです。

そしてケンジは、いまも、どこかで。

あの口癖を、封じたまま、生きているのでしょうか。

それとも。

考えるのは、やめて、おきます。

見覚えのない本が、まぎれていないか、と。

手放した、子。

丸眼鏡の、無表情な、男。

そして、その血を、どこかで、引いているのかもしれない、ケンジ。

すべてが、あの夏の午後に、一本の線で、つながった気が、しました。

けれど、つなげてしまったことが、いまも、怖いのです。

あの本は、誰かに、何かを、伝えに来たのかもしれません。

あの黒い本が、最後に、私のベッドで、何を、待っていたのか。

いまなら、少しだけ、わかる気が、します。

それはきっと、ケンジに、読ませたかったのです。

血の、声を。

けれど、本当のところは、もう、誰にも、わかりません。

あの夏の午後だけが、私の記憶の中で、いまも、静かに、息をしています。

そして、伝え終えて、また、どこかへ、消えていったのかもしれません。

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