祖父が亡くなり、私はその古い一軒家を相続しました。
築五十年は超えているであろう、木造の平屋です。
独り身の気楽さもあって、私はそこへ引っ越すことにしました。
都会の手狭なアパートに、もともと未練はありませんでした。
通勤は少し不便になりますが、家賃のいらない一軒家は魅力でした。
何より、祖父との思い出が詰まったこの家を、手放したくなかったのです。
庭は荒れ、雨戸は建てつけが悪く、あちこちが軋む家でした。
それでも、柱の傷や、すり減った敷居には、長い時間の温もりがありました。
台所には、祖父の使っていた茶碗が、まだ伏せて置かれていました。
仏壇の前には、線香の灰が、そのまま残っていました。
それでも、祖父の匂いの残るその家が、私は嫌いではありませんでした。
祖父は、無口だけれど優しい人でした。
子どもの頃、夏休みになると、私はよくこの家へ預けられていました。
縁側で西瓜を食べた記憶が、今でも鮮やかに残っています。
祖母が早くに亡くなってからは、祖父はずっと、この家で独り暮らしでした。
晩年は、あまり人と会いたがらなくなっていたと聞きます。
その祖父が、何を思いながらこの家で過ごしていたのか。
引っ越してきた私には、まだ知る由もありませんでした。
※
引っ越して三日目の、夜のことでした。
私はふと、寝苦しさを感じて目を覚ましました。
枕元の闇の中に、黒くて丸いものが、二つ浮かんでいたのです。
それは、ぼうっと、鈍く光っていました。
大きさは、ちょうど握りこぶしほどでしょうか。
二つ並んだその様子は、まるで、誰かの目のようでもありました。
私は息を呑んで、布団を頭まで引き上げました。
心臓が、痛いほど鳴っていました。
おそるおそる、もう一度顔を出すと、それはまだ、そこにありました。
私は、まばたきもできずに、それを見つめました。
光は、呼吸でもするように、ゆっくりと明滅していました。
暗い部屋の中で、その二つだけが、奇妙に存在感を放っていました。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえました。
私はそのまま、朝までまんじりともできませんでした。
夜が明けて、障子が白んでくると、ようやく光は消えていました。
寝不足の頭で、私は何度も自分に言い聞かせました。
見間違いだ、気のせいだ、と。
けれど、あの二つの光の鈍さは、やけにはっきりと、目に焼きついていました。
※
オカルトのたぐいを、私はそれまで信じていませんでした。
きっと、疲れか、寝ぼけが見せた幻だろう。
そう自分に言い聞かせました。
ところが、その現象は、翌晩も、その次の晩も続きました。
決まって深夜、枕元に、黒く丸い二つの光が浮かぶのです。
近づこうとすると、すうっと、音もなく遠ざかります。
まるで、私との距離を、一定に保とうとしているようでした。
こちらを警戒しているのか、それとも、ただ眺めているだけなのか。
敵意のようなものは、不思議と、感じませんでした。
ただ、じっと、そこにいるのです。
その静けさが、かえって、私の不安を煽りました。
何かを訴えているのに、それが伝わらない、もどかしさ。
そんな空気が、部屋に満ちているようでした。
電気をつけると、ふっと、かき消えてしまうのです。
私は次第に、夜が来るのが怖くなっていきました。
日が傾きはじめると、胸がざわつくのです。
いっそ電気をつけたまま寝ようかとも思いました。
けれど、明るくしても、光は闇の中から、こちらをうかがっている気がしました。
三晩目には、私は思わず、光に向かって声をかけてしまいました。
「あなたは、誰ですか」
返事は、もちろんありませんでした。
ただ、二つの光が、ほんの少しだけ、揺れたように見えました。
それが、まるで、うなずいたようにも思えたのです。
※
四日目の昼、私は意を決して、家じゅうを調べてみることにしました。
何か、原因になるものがあるはずだと思ったのです。
押し入れ、天井裏、床下と、私は懐中電灯を片手に探しました。
そして、家の裏手にある、古い物置の戸を開けたのです。
中は、ほこりと、かびの匂いで満ちていました。
祖父が使っていたであろう農具や、古い瓶が、雑然と並んでいました。
棚には、錆びた鎌や、ひびの入った植木鉢が、所狭しと置かれていました。
祖父は、庭いじりが好きな人でした。
その物置にも、植物にまつわる道具ばかりが残っていました。
私は懐中電灯の光を、一つひとつに当てていきました。
埃が、光の筋の中で、ゆっくりと舞っていました。
その、いちばん奥の隅に、それはありました。
懐中電灯の光が、何か小さなものを照らし出したのです。
私は、引き寄せられるように、そちらへ歩み寄りました。
近づくにつれ、それが瓶であることが、わかってきました。
※
小さな、ガラスの瓶でした。
中には、黒く濁った水が、半分ほど入っていました。
光の加減で、その水は、どろりと重たそうに見えました。
瓶の表面には、すっかり色あせた紙が、貼られていました。
かすれかけた手書きの文字で、こう書かれていたのです。
「まりも」
※
まりも、と私は呟きました。
あの、北の湖に棲むという、丸い藻のことでしょうか。
祖父が、どこかの土産に持ち帰ったものかもしれません。
瓶を持ち上げて、私は思わず、ぞっとしました。
黒く濁った水の底に、何か丸いものが、二つ、沈んでいたのです。
それは、夜ごと枕元に現れる、あの二つの光と、同じ大きさでした。
枯れて、黒ずんでしまった、まりもの成れの果てだったのでしょうか。
私には、わかりませんでした。
ただ、その黒い丸の表面には、うっすらと、毛のような繊維が残っていました。
確かに、かつては緑色のまりもだったのだろうと思わせる名残でした。
長いあいだ水を替えてもらえず、光も射さない物置で、それは静かに枯れていったのでしょう。
瓶の水は、腐ってどす黒くなり、命の気配は、もうありませんでした。
※
ただ、これを家の中に置いておくのは、よくない気がしました。
理屈ではなく、本能のようなものが、そう告げていました。
私は瓶を、そのまま庭の隅へ持っていきました。
スコップで深い穴を掘り、瓶ごと、土の中に埋めました。
手を合わせて、なんとなく、「ごめんなさい」と呟きました。
なぜ謝ったのか、自分でもよくわかりません。
ただ、そうしなければいけない気が、強くしたのです。
土をかぶせると、瓶は、すぐに見えなくなりました。
私はしばらく、その盛り上がった土を、見つめていました。
風が吹いて、庭の木々が、さらさらと鳴りました。
その音が、まるで、誰かの安堵のため息のように聞こえました。
妙に、胸の奥が、しんと静まりかえっていました。
※
その夜から、黒く丸い二つの光は、二度と現れませんでした。
夜は静かになり、私はようやく、ぐっすりと眠れるようになりました。
あれが何だったのか、今でも、答えは出ていません。
枯れたまりもに、魂のようなものが宿っていたのか。
それとも、ただの偶然だったのか。
科学では、きっと説明のつくことなのでしょう。
古い家の、光の反射か、何かだったのかもしれません。
それでも、私は、そうは思いたくありませんでした。
あの二つの光には、確かに、意志のようなものを感じたからです。
※
後日、親戚の集まりで、私はこの話をしてみました。
すると、年老いた伯母が、懐かしそうに目を細めたのです。
「ああ、あれね。おじいさん、湖で買ったまりも、すごく可愛がってたのよ」
祖父は、そのまりもに、毎朝水をやり、話しかけていたのだそうです。
名前まで付けて、本当の家族のように、大切にしていたとか。
「なんて名前を付けていたんですか」と、私は尋ねました。
伯母は、少し考えてから、こう答えました。
「たしか、おばあちゃんと同じ名前を付けてたわねえ」
私は、思わず言葉を失いました。
祖母を亡くした祖父は、そのまりもに、亡き妻の名を重ねていたのです。
毎朝の水やりは、祖父にとって、妻への挨拶だったのかもしれません。
そういえば、と伯母は続けました。
祖父は晩年、人と会いたがらなくなったのも、そのまりもがあったからだろう、と。
「あの人、まりもに話しかけてれば、寂しくないって言ってたのよ」
祖父にとって、それは単なる藻ではなかったのです。
妻の面影を宿した、かけがえのない、もうひとりの家族でした。
その大切なものを、私は知らぬまま、土に埋めてしまっていたのです。
申し訳なさで、私は胸がいっぱいになりました。
けれど伯母は、優しく首を振りました。
「埋めてあげたのが、よかったのよ」と。
「やっと、おじいさんのところへ、還れたんだから」
その言葉に、私は、こらえていたものが溢れました。
伯母の話を聞いて、私は、土に埋めた瓶のことを思いました。
あの黒く枯れたまりもは、祖父がいなくなって、世話をされなくなったものでした。
祖父が病で入院し、そのまま帰らぬ人となるまでの、半年あまり。
物置の奥で、まりもは、ひとりきりで枯れていったのです。
その間、誰も、その存在に気づいてやれませんでした。
※
もしかすると、あの二つの光は、まりもではなかったのかもしれません。
水をくれる人を失い、暗い物置で枯れていったまりもを、
心配して、見に来ていた、祖父の眼差しだったのかもしれない。
そう考えると、ぞっとした気持ちが、不思議と、温かいものに変わりました。
私は翌朝、庭の隅の、瓶を埋めた場所に、花を一輪供えました。
白い、小さな野の花でした。
祖父が好きだった花だと、伯母が教えてくれたものです。
土に手を合わせると、なぜか、涙がにじみました。
そして、新しいまりもを一つ、湖から取り寄せることに決めたのです。
今度は私が、毎朝、水をやろうと思います。
祖父が遺したこの家で、その小さな命を、引き継いでいこうと思います。
あの夜の二つの光は、もう現れません。
けれど、私は今でも、毎朝の水やりのとき、庭の隅にそっと目をやります。
きっと祖父も、どこかで見守ってくれている気がするのです。
祖父がそうしていたように、名前を付けて、大切にしようと思うのです。