まりも

祖父が亡くなり、私はその古い一軒家を相続しました。

築五十年は超えているであろう、木造の平屋です。

独り身の気楽さもあって、私はそこへ引っ越すことにしました。

都会の手狭なアパートに、もともと未練はありませんでした。

通勤は少し不便になりますが、家賃のいらない一軒家は魅力でした。

何より、祖父との思い出が詰まったこの家を、手放したくなかったのです。

庭は荒れ、雨戸は建てつけが悪く、あちこちが軋む家でした。

それでも、柱の傷や、すり減った敷居には、長い時間の温もりがありました。

台所には、祖父の使っていた茶碗が、まだ伏せて置かれていました。

仏壇の前には、線香の灰が、そのまま残っていました。

それでも、祖父の匂いの残るその家が、私は嫌いではありませんでした。

祖父は、無口だけれど優しい人でした。

子どもの頃、夏休みになると、私はよくこの家へ預けられていました。

縁側で西瓜を食べた記憶が、今でも鮮やかに残っています。

祖母が早くに亡くなってからは、祖父はずっと、この家で独り暮らしでした。

晩年は、あまり人と会いたがらなくなっていたと聞きます。

その祖父が、何を思いながらこの家で過ごしていたのか。

引っ越してきた私には、まだ知る由もありませんでした。

引っ越して三日目の、夜のことでした。

私はふと、寝苦しさを感じて目を覚ましました。

枕元の闇の中に、黒くて丸いものが、二つ浮かんでいたのです。

それは、ぼうっと、鈍く光っていました。

大きさは、ちょうど握りこぶしほどでしょうか。

二つ並んだその様子は、まるで、誰かの目のようでもありました。

私は息を呑んで、布団を頭まで引き上げました。

心臓が、痛いほど鳴っていました。

おそるおそる、もう一度顔を出すと、それはまだ、そこにありました。

私は、まばたきもできずに、それを見つめました。

光は、呼吸でもするように、ゆっくりと明滅していました。

暗い部屋の中で、その二つだけが、奇妙に存在感を放っていました。

時計の針の音が、やけに大きく聞こえました。

私はそのまま、朝までまんじりともできませんでした。

夜が明けて、障子が白んでくると、ようやく光は消えていました。

寝不足の頭で、私は何度も自分に言い聞かせました。

見間違いだ、気のせいだ、と。

けれど、あの二つの光の鈍さは、やけにはっきりと、目に焼きついていました。

オカルトのたぐいを、私はそれまで信じていませんでした。

きっと、疲れか、寝ぼけが見せた幻だろう。

そう自分に言い聞かせました。

ところが、その現象は、翌晩も、その次の晩も続きました。

決まって深夜、枕元に、黒く丸い二つの光が浮かぶのです。

近づこうとすると、すうっと、音もなく遠ざかります。

まるで、私との距離を、一定に保とうとしているようでした。

こちらを警戒しているのか、それとも、ただ眺めているだけなのか。

敵意のようなものは、不思議と、感じませんでした。

ただ、じっと、そこにいるのです。

その静けさが、かえって、私の不安を煽りました。

何かを訴えているのに、それが伝わらない、もどかしさ。

そんな空気が、部屋に満ちているようでした。

電気をつけると、ふっと、かき消えてしまうのです。

私は次第に、夜が来るのが怖くなっていきました。

日が傾きはじめると、胸がざわつくのです。

いっそ電気をつけたまま寝ようかとも思いました。

けれど、明るくしても、光は闇の中から、こちらをうかがっている気がしました。

三晩目には、私は思わず、光に向かって声をかけてしまいました。

「あなたは、誰ですか」

返事は、もちろんありませんでした。

ただ、二つの光が、ほんの少しだけ、揺れたように見えました。

それが、まるで、うなずいたようにも思えたのです。

四日目の昼、私は意を決して、家じゅうを調べてみることにしました。

何か、原因になるものがあるはずだと思ったのです。

押し入れ、天井裏、床下と、私は懐中電灯を片手に探しました。

そして、家の裏手にある、古い物置の戸を開けたのです。

中は、ほこりと、かびの匂いで満ちていました。

祖父が使っていたであろう農具や、古い瓶が、雑然と並んでいました。

棚には、錆びた鎌や、ひびの入った植木鉢が、所狭しと置かれていました。

祖父は、庭いじりが好きな人でした。

その物置にも、植物にまつわる道具ばかりが残っていました。

私は懐中電灯の光を、一つひとつに当てていきました。

埃が、光の筋の中で、ゆっくりと舞っていました。

その、いちばん奥の隅に、それはありました。

懐中電灯の光が、何か小さなものを照らし出したのです。

私は、引き寄せられるように、そちらへ歩み寄りました。

近づくにつれ、それが瓶であることが、わかってきました。

小さな、ガラスの瓶でした。

中には、黒く濁った水が、半分ほど入っていました。

光の加減で、その水は、どろりと重たそうに見えました。

瓶の表面には、すっかり色あせた紙が、貼られていました。

かすれかけた手書きの文字で、こう書かれていたのです。

「まりも」

まりも、と私は呟きました。

あの、北の湖に棲むという、丸い藻のことでしょうか。

祖父が、どこかの土産に持ち帰ったものかもしれません。

瓶を持ち上げて、私は思わず、ぞっとしました。

黒く濁った水の底に、何か丸いものが、二つ、沈んでいたのです。

それは、夜ごと枕元に現れる、あの二つの光と、同じ大きさでした。

枯れて、黒ずんでしまった、まりもの成れの果てだったのでしょうか。

私には、わかりませんでした。

ただ、その黒い丸の表面には、うっすらと、毛のような繊維が残っていました。

確かに、かつては緑色のまりもだったのだろうと思わせる名残でした。

長いあいだ水を替えてもらえず、光も射さない物置で、それは静かに枯れていったのでしょう。

瓶の水は、腐ってどす黒くなり、命の気配は、もうありませんでした。

ただ、これを家の中に置いておくのは、よくない気がしました。

理屈ではなく、本能のようなものが、そう告げていました。

私は瓶を、そのまま庭の隅へ持っていきました。

スコップで深い穴を掘り、瓶ごと、土の中に埋めました。

手を合わせて、なんとなく、「ごめんなさい」と呟きました。

なぜ謝ったのか、自分でもよくわかりません。

ただ、そうしなければいけない気が、強くしたのです。

土をかぶせると、瓶は、すぐに見えなくなりました。

私はしばらく、その盛り上がった土を、見つめていました。

風が吹いて、庭の木々が、さらさらと鳴りました。

その音が、まるで、誰かの安堵のため息のように聞こえました。

妙に、胸の奥が、しんと静まりかえっていました。

その夜から、黒く丸い二つの光は、二度と現れませんでした。

夜は静かになり、私はようやく、ぐっすりと眠れるようになりました。

あれが何だったのか、今でも、答えは出ていません。

枯れたまりもに、魂のようなものが宿っていたのか。

それとも、ただの偶然だったのか。

科学では、きっと説明のつくことなのでしょう。

古い家の、光の反射か、何かだったのかもしれません。

それでも、私は、そうは思いたくありませんでした。

あの二つの光には、確かに、意志のようなものを感じたからです。

後日、親戚の集まりで、私はこの話をしてみました。

すると、年老いた伯母が、懐かしそうに目を細めたのです。

「ああ、あれね。おじいさん、湖で買ったまりも、すごく可愛がってたのよ」

祖父は、そのまりもに、毎朝水をやり、話しかけていたのだそうです。

名前まで付けて、本当の家族のように、大切にしていたとか。

「なんて名前を付けていたんですか」と、私は尋ねました。

伯母は、少し考えてから、こう答えました。

「たしか、おばあちゃんと同じ名前を付けてたわねえ」

私は、思わず言葉を失いました。

祖母を亡くした祖父は、そのまりもに、亡き妻の名を重ねていたのです。

毎朝の水やりは、祖父にとって、妻への挨拶だったのかもしれません。

そういえば、と伯母は続けました。

祖父は晩年、人と会いたがらなくなったのも、そのまりもがあったからだろう、と。

「あの人、まりもに話しかけてれば、寂しくないって言ってたのよ」

祖父にとって、それは単なる藻ではなかったのです。

妻の面影を宿した、かけがえのない、もうひとりの家族でした。

その大切なものを、私は知らぬまま、土に埋めてしまっていたのです。

申し訳なさで、私は胸がいっぱいになりました。

けれど伯母は、優しく首を振りました。

「埋めてあげたのが、よかったのよ」と。

「やっと、おじいさんのところへ、還れたんだから」

その言葉に、私は、こらえていたものが溢れました。

伯母の話を聞いて、私は、土に埋めた瓶のことを思いました。

あの黒く枯れたまりもは、祖父がいなくなって、世話をされなくなったものでした。

祖父が病で入院し、そのまま帰らぬ人となるまでの、半年あまり。

物置の奥で、まりもは、ひとりきりで枯れていったのです。

その間、誰も、その存在に気づいてやれませんでした。

もしかすると、あの二つの光は、まりもではなかったのかもしれません。

水をくれる人を失い、暗い物置で枯れていったまりもを、

心配して、見に来ていた、祖父の眼差しだったのかもしれない。

そう考えると、ぞっとした気持ちが、不思議と、温かいものに変わりました。

私は翌朝、庭の隅の、瓶を埋めた場所に、花を一輪供えました。

白い、小さな野の花でした。

祖父が好きだった花だと、伯母が教えてくれたものです。

土に手を合わせると、なぜか、涙がにじみました。

そして、新しいまりもを一つ、湖から取り寄せることに決めたのです。

今度は私が、毎朝、水をやろうと思います。

祖父が遺したこの家で、その小さな命を、引き継いでいこうと思います。

あの夜の二つの光は、もう現れません。

けれど、私は今でも、毎朝の水やりのとき、庭の隅にそっと目をやります。

きっと祖父も、どこかで見守ってくれている気がするのです。

祖父がそうしていたように、名前を付けて、大切にしようと思うのです。

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