スーパーの菓子売り場で、あの黄色い箱を見かけるたびに、私は足を止めてしまう。
ビスコ。
子どもの頃から、慣れ親しんだ味だ。
けれど、その箱を見ると、いつも、背筋がひやりとする。
あの修学旅行の夜のことを、思い出すからだ。
六個目のビスコは、誰のものだったのか。
あの夜、部屋にいたのは、確かに、五人だけだった。
それなのに、ビスコは、六つ、あったのだ。
それを、私たちは今も、知らない。
※
高校のとき、私は、五人組のグループでつるんでいた。
ミカ、サキ、ユイ、アヤ、そして私。
どこへ行くにも、いつも一緒だった。
教室でも、昼休みも、放課後も。
五人でいれば、それだけで、毎日が楽しかった。
一年生のとき、席が近かった五人が、なんとなく集まった。
それから、ずっと、離れなかった。
お弁当は、机をくっつけて、五人で食べた。
帰り道は、駅まで、五人で並んで歩いた。
文化祭の準備では、夜遅くまで、五人で教室に残った。
秘密も、悩みも、恋の話も、全部、共有していた。
お弁当のとき、こんなこともあった。
机を五つ、くっつけて、みんなで食べていた。
ある日、机の端に、一膳の割り箸が、置いてあった。
誰も、そこに、座っていない場所だった。
「これ、誰の?」
聞いても、みんな、覚えがなかった。
五人とも、自分の箸を、ちゃんと持っていた。
六膳目の箸だけが、そこに、ぽつんとあった。
五人でいれば、無敵な気がした。
だからこそ、あの違和感は、余計に不気味だった。
けれど、その頃から、妙なことがあった。
なぜか、いつも「もう一人いる」気がするのだ。
五人で歩いているのに、六人分の足音が、聞こえる気がする。
五人で笑っているのに、誰か、もう一人の笑い声が、混じっている気がする。
最初は、気のせいだと思っていた。
けれど、小さな出来事が、少しずつ、積み重なっていった。
ある放課後、五人で、サキの家に遊びに行った。
玄関で靴を脱いで、上がった。
帰るとき、玄関に、靴が六足、並んでいた。
私たちの、五足のほかに、もう一足。
見慣れない、白いスニーカーが、揃えて置いてあった。
「これ、誰の?」
サキの家族の靴では、なかった。
誰も、心当たりが、なかった。
次に見たときには、その白い靴は、消えていた。
他にも、こんなことが、あった。
別のクラスの子に、ある日、こう言われたのだ。
「あんたたちって、六人組だよね」
「五人だよ」と返すと、その子は、きょとんとした。
「えー、いつも六人でいる気が、してた」
そう言われて、私たちは、ぞっとした。
外から見ても、私たちは、六人に見えていたのだ。
※
移動教室のときのことだ。
次の授業のために、みんなで廊下に集まった。
「あれ、まだ来てないの、誰だっけ」
ミカが、そう言って、廊下の向こうを見た。
「誰か、待ってる気がするんだけど」
私たちは、顔を見合わせた。
数えてみると、五人、全員そろっていた。
「あれ、全員いるじゃん」
サキが、笑った。
「じゃあ、誰待ってたんだろ、あたしたち」
みんなで、あははと笑った。
けれど、その笑いは、どこか、ぎこちなかった。
こういうことが、何度も、あった。
※
ある日、五人で、プリクラを撮った。
撮り終えて、画面を覗き込んだとき、アヤが、小さく声をあげた。
「ねえ、これ……」
画面の隅に、五人のほかに、もう一つ、影のようなものが写っていた。
人の、肩のような、輪郭だった。
「誰かの、髪じゃない?」
「いや、あたしたち、みんな写ってるよ」
数えると、確かに、五人の顔が、全部そろっていた。
では、この六つ目の影は、誰のものなのか。
私たちは、そのシールを、結局、誰も持ち帰らなかった。
電話でも、おかしなことがあった。
当時は、三人で話せる機能で、よく通話をした。
ある夜、四人で、その通話をしていた。
すると、受話器の向こうで、五人目の相槌が、聞こえた。
「うんうん」と、確かに、誰かが、うなずいていた。
「今、誰か、いた?」
ミカが、そう聞いても、みんな、首をかしげるばかり。
四人しか、つないでいないはずだった。
その夜から、私たちは、なんとなく、夜の電話を避けるようになった。
※
担任が、出欠を取ったときのことも、忘れられない。
班ごとの点呼で、私たちの班の番になった。
先生は、名簿を見て、少し首をかしげた。
「この班……六人だっけ?」
教室が、しんとなった。
「いえ、五人です」
ミカが、答えた。
先生は、もう一度名簿を見て、「そうか、五人か」と、つぶやいた。
「なんか、一人多い気がしたな」
先生は、そう言って、笑った。
けれど、私たちは、誰も笑えなかった。
※
そして、二年生の秋。
修学旅行は、京都と奈良を巡る、二泊三日の旅だった。
バスのなかでも、五人は、ずっと一緒だった。
二人がけの座席が、五人だと、どうしても一つ、余る。
その余った席に、なぜか、荷物を置く気に、なれなかった。
「ここ、誰か座る?」
何気なく言ったユイの言葉に、みんな、黙り込んだ。
結局、その席は、空けたままにした。
清水の舞台でも、大仏の前でも、五人で写真を撮った。
けれど、どの写真も、なぜか、端のほうが、気になった。
誰もいないはずの余白に、視線が、吸い寄せられるのだ。
「気にしすぎだよ」
サキが、そう言って、笑い飛ばした。
その夜、私たちは、旅館に泊まった。
夕食は、大広間で、班ごとに、膳を並べて食べた。
席につこうとして、私は、思わず立ち止まった。
私たちの膳が、なぜか、六人分、用意されていたのだ。
「あれ、一つ、多くない?」
仲居さんに言うと、「あら、五人でしたか」と、首をかしげた。
「注文票には、六人と、書いてあったのですけど」
余った膳の前の座布団は、誰も座らないのに。
なぜか、ほんのりと、へこんでいるように、見えた。
私たちは、その膳を、そっと隅へ寄せて、五人で食べた。
けれど、料理の味は、あまり、覚えていない。
修学旅行の夜が、やってきた。
旅館の一室に、私たち五人は、同じ部屋だった。
消灯時間を過ぎても、私たちは、布団の上で、はしゃいでいた。
「お腹すいたね」
「お菓子、持ってきたよ」
誰からともなく、鞄から、こっそり持ち込んだお菓子を、広げ始めた。
畳の上に、ポテトチップスや、チョコレートが並んだ。
「あたし、これ持ってきた」
私は、鞄から、黄色い箱を取り出した。
「ビスコー」
※
すると、サキが、噴き出した。
「うそ、あたしもビスコ持ってきた!」
サキも、鞄から、同じ黄色い箱を取り出した。
「えー、かぶった!」
「あたしも実は……」
ユイまで、ビスコを取り出した。
「なんでみんなビスコなの!」
アヤも、笑いながら、四つ目のビスコを掲げた。
「ジャーン」
畳の上に、黄色い箱が、四つ、並んだ。
「あたしのも入れて、五個じゃん!」
ミカが、五つ目のビスコを、どんと置いた。
部屋じゅうが、笑いに包まれた。
「なにこれ、ビスコパーティーじゃん」
みんな、涙を流して、笑い転げた。
「示し合わせたわけでもないのに」
「なんで、みんなビスコなの」
「あたしたち、ほんと気が合うね」
畳の上に並んだ、五つの黄色い箱が、なんだか、可笑しかった。
その夜が、いつまでも、続けばいいと思った。
※
笑いが、少し落ち着いた、そのときだった。
畳の上に、もう一つ、黄色い箱が、置かれた。
誰かの手が、すっと、それを差し出したのだ。
「あたしも……持ってきたよ」
聞き覚えの、ない声だった。
低くて、少し、掠れた声。
私たちは、その箱を、見つめた。
六個目の、ビスコだった。
部屋には、五人しか、いないはずだった。
部屋の襖は、内側から、閉まっていた。
廊下に通じる戸にも、鍵が、かかっていた。
誰かが、外から入れるはずが、なかった。
窓の外は、二階。
暗い庭が、広がっているだけだった。
それなのに、六個目のビスコは、確かに、そこにあった。
黄色い箱が、蛍光灯の光を受けて、鈍く光っていた。
私は、そっと、隣のミカの手を、握った。
ミカの手も、氷のように、冷たかった。
誰も、その黄色い箱に、手を伸ばせなかった。
箱には、うっすらと、埃のようなものが、乗っていた。
まるで、ずっと昔から、そこにあったかのように。
けれど、さっきまで、そんな箱は、なかったのだ。
ユイが、震える声で、「捨てよう」と、言った。
けれど、誰も、それに触れる勇気は、なかった。
結局、私たちは、その箱を、部屋の隅へ、そっと押しやった。
押しやる指先が、箱の角に、触れた。
その箱は、なぜか、ほんのりと、温かかった。
誰かが、たった今まで、握りしめていたかのように。
私は、慌てて、その手を、引っ込めた。
五人とも、それ以上は、一言も、話さなかった。
※
時が、止まったようだった。
誰も、動かなかった。
誰も、その箱に、手を伸ばさなかった。
「……今の、誰?」
ミカが、掠れた声で、言った。
けれど、誰も、答えなかった。
私たちは、そっと、互いの顔を、確かめ合った。
五人。
確かに、五人だった。
では、六個目のビスコを置いた手は、誰のものだったのか。
「あたしも、持ってきたよ」と言った、あの声は。
五人の、どの声とも、違っていた。
低くて、少し湿った、知らない声。
一度聞いたら、二度と忘れられない声だった。
その声は、確かに、部屋の真ん中から、聞こえたのだ。
※
その夜、私たちは、一睡もできなかった。
布団を、五つ、隙間なくくっつけて、身を寄せ合って、朝を待った。
部屋の隅に置かれた、六個目のビスコを、誰も片づけられなかった。
誰かがトイレに行きたくても、一人では、行けなかった。
必ず、五人で連れ立って、廊下に出た。
廊下の常夜灯が、じじ、と、音を立てた。
部屋に戻るたび、あの箱の位置が、少しずつ、変わっている気がした。
気のせいだと、思いたかった。
窓の外で、風が、木を揺らした。
その音が、まるで、誰かの、忍び笑いのように、聞こえた。
朝になると、その箱は、なくなっていた。
畳の上に、四つと、私たちの五つ。
数え直しても、五個しか、なかった。
六個目だけが、消えていた。
誰かが片づけたのか、聞いても、みんな首を横に振った。
それきり、私たちは、その夜のことを、口にしなくなった。
翌日の観光は、みんな、心ここにあらずだった。
金閣寺の金色も、その日は、少しも目に入らなかった。
誰も、あの夜のことに、触れようとしなかった。
けれど、バスの余った席を見るたびに、胸が、ざわついた。
あの席に、本当は、誰かが座っていたのではないか。
そう思うと、背中が、ぞくりとした。
家に帰ってからも、私は、しばらく、一人で眠れなかった。
暗い部屋で、目を閉じると、あの掠れた声が、耳の奥で蘇った。
「あたしも、持ってきたよ」
あの声だけが、いつまでも、消えなかった。
※
卒業して、私たちは、それぞれの町へ散った。
それでも、五人は、時々集まる。
みんな、結婚して、子どもも生まれた。
あの夜の話は、長いあいだ、誰も持ち出さなかった。
触れてはいけない話だと、みんな、分かっていた。
楽しかった三年間の、たった一つの、暗い染みだった。
それでも、五人の絆は、少しも、変わらなかった。
いや、あの夜を、五人で越えたからこそ。
私たちは、より強く、結ばれたのかもしれない。
けれど、去年の同窓会で、ミカが、ぽつりと言った。
「ねえ、あのビスコの夜、覚えてる?」
全員が、一瞬、黙った。
覚えていた。
みんな、ずっと、覚えていたのだ。
「あの声、今でも、思い出すことがある」
サキが、そう言って、身を震わせた。
五人で、しばらく、黙り込んだ。
居酒屋の喧騒が、やけに、遠くに聞こえた。
「あの子、今、どうしてるのかな」
ユイが、ぽつりと、つぶやいた。
「あの子、って言い方、するんだね」
私が言うと、ユイは、はっとした顔をした。
いつのまにか、私たちは、あの六人目を、「あの子」と、呼んでいた。
まるで、昔からの、仲間のように。
誰も、それを、否定しなかった。
※
実は、と、アヤが、鞄から、一枚の写真を取り出した。
修学旅行のときの、部屋での集合写真だった。
引率の先生が、廊下から撮ってくれた一枚。
私たち五人が、布団の上で、ピースをしている。
けれど、その写真の、いちばん端。
布団の、六つ目があるべき、暗がりのところに。
ほんの、かすかに。
誰かの、白い手が、写っていた。
黄色い箱を、そっと、差し出すように。
その写真を、五人で、じっと見つめた。
誰も、言葉が、出なかった。
「これ……ずっと、持ってたの?」
私が聞くと、アヤは、静かにうなずいた。
「捨てられなかった。捨てたら、いけない気がして」
白い手は、爪の先まで、はっきりと写っていた。
けれど、その手首から先は、暗がりに溶けて、見えなかった。
腕も、顔も、そこには、なかった。
ただ、手だけが、私たちに、ビスコを差し出していた。
アヤは、その写真を、そっと、鞄にしまった。
※
あれから、二十年以上が過ぎた。
六人目が、誰だったのかは、今も分からない。
いつから、私たちの五人に、その子が混じっていたのかも。
もしかしたら、あの子は、ずっと、一緒にいたかっただけなのかもしれない。
五人の輪に、ただ、加わりたかっただけなのかも。
だから、みんなと同じ、ビスコを持ってきた。
そう思うと、あの夜の記憶が、少しだけ、優しく思える。
それでも、あの声を思い出すと、やはり、背筋が凍る。
もし、五人のうち、誰か一人でも欠けたら。
あの子が、その空いた場所に、そっと座るのだろうか。
そんなことを、ふと、考えてしまう。
怖い。
けれど、どこか、寂しくもある。
あの子は、ただ、私たちの輪に、入りたかっただけなのかもしれないから。
けれど、真相は、今も、闇の中だ。
あの掠れた声の主が、誰だったのか。
いつから、私たちのそばに、いたのか。
何一つ、分からないまま、月日だけが、過ぎていく。
スーパーであの黄色い箱を見るたびに、私は、そっと胸のうちで問いかける。
六個目のビスコは、今も、どこかで、差し出されているのだろうか。