整理棚の書き込み

古びた本と月光の図書館

去年の夏のことだ。

大学院の夏休みに実家へ帰省し、時間を持て余していた私は、地元の市立図書館でアルバイトをすることにした。

専攻が国文学だったので、古い本を扱うことには慣れていた。

仕事の内容は蔵書整理だった。

古い本を書棚から出し、状態を確認し、分類番号を整理して戻す。

それだけの単純作業だったが、対象は昭和四十年代から五十年代に購入された蔵書で、傷みのひどいものも多く、一冊一冊確認しながら進めなければならなかった。

作業は主に閉館後に行った。

午後六時に図書館が閉まってから、担当の司書・三上さんと二人で奥の書架を整理していく。

三上さんは五十代半ばの女性で、物静かだが仕事が丁寧な人だった。

「ここの本は昔の人が大切にしていたから、一冊ずつ丁寧にね」と最初に言われた。

建物は元々戦後すぐに建てられた旧役場の庁舎を転用したもので、天井が高く、夏でも館内はひんやりとしていた。

棚と棚の間の通路は狭く、電灯の光が届かない角が所々にある。

本の匂いというより、古い紙と埃の混ざった、少し甘ったるい空気が漂っていた。

最初に気になったのは、作業を始めて三日目のことだった。

昭和四十七年発行の地域郷土史の本を手に取ると、扉ページの余白に文字が書かれていた。

細い、几帳面な筆跡だった。

「小野瀬稔」

名前だけが、鉛筆でそっと書かれていた。

図書館の本に書き込みをする人は珍しくない。

注意書きのつもりで書く人も、自分の蔵書と混同したのか名前を入れた人もいる。

特に古い本にはそういうものがある。

だからその時はあまり気にしなかった。

翌日、同じ棚の別のコーナーを整理していると、また見つけた。

今度は昭和四十八年発行の民俗学の資料集だった。

やはり扉ページの余白に、同じ筆跡で「小野瀬稔」と書かれていた。

同じ筆跡だという確信があった。

鉛筆で書かれた文字は、線が細くて丁寧で、少し右上がりだった。

何百冊も古書を見てきた経験があるから、同一人物のものだと分かる。

二冊続くと、さすがに気になった。

三上さんに話すと、貸し出し記録を調べてくれた。

「小野瀬という利用者は、うちの記録にはいませんね」

昭和の記録は紙台帳で残っているが、そこにも該当する名前はないという。

「書き込みはよくあることなので、あまり気にしないでください」

そう言われて、私も納得しようとした。

気にしないようにしていたが、それから毎日のように見つかった。

昭和四十六年の文学全集の第三巻。

昭和四十九年の郷土の昔話集。

昭和四十四年の植物図鑑。

どれも同じ棚のエリアではなく、別々の分類の棚にあった。

筆跡は毎回同じだった。

細く、整った字で「小野瀬稔」と書かれているだけで、日付も何もない。

一週間で七冊見つけた。

三上さんはそのたびに記録を照会してくれたが、やはり該当者はいなかった。

「図書館に本を寄贈する方が、自分の蔵書に名前を書く習慣があった時代ですから」

そう説明してくれたが、寄贈記録にも「小野瀬」という名前はなかった。

それとも、記録そのものが残っていないのか。

そのどちらかだと思おうとした。

おかしいと思い始めたのは、二週間目の終わりだった。

その夜は三上さんが体調を崩して早退し、私一人で作業を続けていた。

午後九時を過ぎた頃だったと思う。

背後で、本が床に落ちる音がした。

振り返ると誰もいなかった。

でも、私がいた棚の向かい側の棚で、一冊だけ本が斜めに傾いていた。

落ちかけているような角度だった。

近づいて手に取った。

昭和四十六年発行の、地元の地名由来を記した薄い冊子だった。

何気なく扉ページを開いた。

「小野瀬稔」

その下に、初めて日付が書かれていた。

「昭和四十六年八月十四日」

私は冊子をそっと閉じ、元の場所に戻した。

それだけだった。

でも、なぜか急に、誰かに見られている感じがした。

敵意のようなものではなく、ただ、そこにいる何かに、静かに観察されているような感覚。

蛍光灯の光が棚の奥まで届かない部分に、普段よりも濃い影があるような気がした。

私はその日の作業をそこで切り上げ、図書館を出た。

外の空気が、やけに暑く感じた。

翌日、三上さんに昨夜のことを話した。

「その冊子を見せてもらえますか?」

一緒に棚に行ったが、冊子がなかった。

前日まではそこにあった。

確かに手に取った。

でも昨夜私が戻した場所に、その冊子は存在していなかった。

「地名由来の薄い冊子で、昭和四十六年発行と書いてありました」

三上さんはしばらく記録を調べてくれた。

「その年代のその種の資料は、うちでは所蔵していないですね」

私は黙っていた。

三上さんも何も言わなかった。

ただ、二人でしばらく棚の前に立っていた。

バイトは結局、その翌週で辞めた。

理由はうまく言葉にできなかったが、三上さんも深く聞かなかった。

最終日、帰り際に三上さんが言った。

「この建物、戦前は違う用途に使われていたって知っていますか?」

知らないと答えると、少し間を置いて、こう言った。

「詳しくは分からないんですけど、供養に関わる場所だったって話が地元に残っているらしくて。

管理している老人会の方が以前教えてくれたんです。

だから何となく、ここは昼間とは違う顔があるんじゃないかと思っていて」

それだけ言って、三上さんは笑った。

怖がらせたいわけじゃないと分かった。

ただ、私はその話を聞いて、少し前からずっと胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどけた気がした。

小野瀬稔という人が何者だったのか、今でも知らない。

あの冊子がどこへいったのかも、分からない。

ただ、あの夜棚の前に立っていた時、敵意はなかった。

それだけは確かだと思っている。

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