存在しない廃墟

その記憶は、忘れた頃に、ふいに蘇る。

雨の匂いを嗅いだ時。

蝉の声が、急にやんだ時。

あの夏の午後の、廃墟のことを、私は思い出す。

けれど、その廃墟は、この世のどこにも、存在しないのだという。

私が育ったのは、北関東の、山に囲まれた小さな盆地の町だった。

夏になると、四方の山から、蝉の声が降ってくる。

町のはずれに、大きな廃墟があった。

かつて、生糸を紡ぐ製糸工場だったと聞いている。

戦前に建てられ、私が子どもの頃には、とうに操業をやめていた。

赤煉瓦の壁は蔦に覆われ、屋根の一部は焼け落ちていた。

何十年も前に、火事があったのだそうだ。

その火事で、若い女工が一人、逃げ遅れて亡くなった。

そんな話が、子どもたちのあいだで、まことしやかに囁かれていた。

火事があったのは、母が生まれるよりも前のことだという。

深夜、繭を煮る釜の火が、燃え移ったのだそうだ。

逃げ遅れた女工は、まだ十六だったと聞いた。

糸を紡ぐ手を、最後まで止めなかったのだと、誰かが言った。

だから今も、夜になると、糸車のまわる音がする。

からから、からから、と。

その音を聞いた者は、熱を出して寝込むのだとも言われた。

上級生のなかに、一度だけ中に入ったという子がいた。

タカシという名の、六年生だった。

タカシは、それきり誰にも、中で見たものを話さなかった。

ただ、あの工場の名前を出すと、決まって黙り込んだ。

その黙り方が、私たちには、何より怖かった。

私たちの教室の窓からは、その工場の屋根が、遠くに見えた。

授業に飽きると、私はよく、その赤い屋根を、ぼんやり眺めた。

焼け落ちた屋根の穴が、まるで、大きな目のように見えた。

晴れた日も、雨の日も、それは、じっとそこにあった。

町のどこからでも、その煉瓦色は、目に入った。

あるのが、当たり前だった。

だからこそ、のちに「なかった」と言われても、信じられなかったのだ。

「あそこには、出るらしいぜ」

「夜になると、糸車のまわる音がするって」

そう言い合っては、私たちは、その廃墟を遠巻きに眺めていた。

小学三年の、夏休みのことだ。

私は、仲のよかった健とノブと、三人でつるんでいた。

ある日、健が、こう言い出した。

「なあ、あの工場、探検に行かねえ?」

ノブは、少し怯えた顔をした。

「やめとこうぜ。出るって言うじゃん」

「昼間だよ。幽霊なんか出るわけないだろ」

健の言葉に、私も、つい頷いてしまった。

本当は、私も怖かった。

けれど、怖がっていると思われるのが、もっと嫌だった。

こうして私たちは、学校帰りの午後、その廃墟へ向かった。

ランドセルを、途中の神社の石段に、隠していった。

空は、抜けるように青かった。

入道雲が、山の向こうに、もくもくと立ち上がっていた。

「もし何かあったら、すぐ逃げようぜ」

ノブが、念を押すように言った。

「大丈夫だって。昼間なんだから」

健は、そう言って笑ったが、その笑いは、少しこわばっていた。

私は、水筒の紐を、ぎゅっと握りしめた。

胸の奥で、心臓が、いつもより速く鳴っていた。

工場は、雑木林を抜けた先にあった。

林の中は、昼でも薄暗かった。

足元では、枯れ枝が、ぱきぱきと折れた。

木漏れ日が、地面に、まだらな模様を落としていた。

進むほどに、木々の緑が、濃くなっていくようだった。

どこかで、鴉が一声、鳴いた。

その声を最後に、林は、しんと静まり返った。

近づくにつれ、蝉の声が、やけに大きくなった。

錆びた鉄の門は、半分だけ開いていた。

門をくぐると、雑草に埋もれた広い敷地が広がっていた。

赤煉瓦の建物は、思っていたより、ずっと大きかった。

窓ガラスは、ほとんど割れていた。

割れた窓の奥は、真っ暗で、何も見えなかった。

「すげえな……」

健が、小さくつぶやいた。

三人とも、そこから先へは、なかなか足が進まなかった。

最初の異変に気づいたのは、私だった。

あれほどうるさかった蝉の声が、いつのまにか、消えていた。

敷地に一歩入った瞬間から、ぷつりと、途切れたように。

耳が痛くなるほどの、静けさだった。

「なあ……蝉、鳴いてなくね?」

私が言うと、健とノブも、はっと足を止めた。

風も、なかった。

雑草の一本さえ、揺れていなかった。

まるで、その敷地だけが、世界から切り離されたようだった。

それでも私たちは、建物の入口まで、近づいた。

次に感じたのは、匂いだった。

湿った土と、錆びた鉄の匂い。

それに混じって、かすかに、焦げたような匂いがした。

何十年も前の火事の匂いが、まだ残っているはずもないのに。

入口の重い扉は、少しだけ開いていた。

その隙間から、冷たい空気が、流れ出してきた。

真夏なのに、その風は、氷のように冷たかった。

腕に、鳥肌が立った。

「なんか……寒くねえ?」

ノブの声が、震えていた。

健が、扉の隙間に、顔を近づけた。

「おい、中、見えるか?」

私も、恐る恐る、そこを覗き込んだ。

広い作業場のような空間が、薄暗く広がっていた。

天井から、錆びた鎖が、いくつも垂れ下がっていた。

かつて、糸車を吊るしていたのだろうか。

床には、朽ちた木箱が、点々と転がっていた。

奥のほうは、闇に沈んで、何も見えなかった。

その闇を見つめていると、吸い込まれそうな気がした。

どこか奥のほうで、水の滴る音がした。

ぽたり、ぽたり、と。

雨など、何日も降っていないのに。

垂れた鎖のひとつが、ゆらり、と揺れた気がした。

風もないのに。

私は、目をこすった。

見間違いだと、自分に言い聞かせた。

そのときだった。

闇の奥から、音がした。

「……ふうっ」

それは、深い、ため息のような音だった。

若い、女の声だった。

疲れ果てた人が、ようやく息を吐くような。

けれど、そこには、誰もいないはずだった。

三人とも、凍りついたように、動けなかった。

「……ふうっ」

もう一度、同じ声が、闇の奥から聞こえた。

今度は、さっきより、少しだけ、近かった。

「うわあああっ!」

最初に叫んだのが、誰だったのかは、覚えていない。

次の瞬間、私たちは、一斉に走り出していた。

雑草に足を取られながら、必死で門へ向かった。

後ろから、何かがついてくる気配がした。

けれど、振り返ることは、どうしてもできなかった。

振り返ってはいけない。

体じゅうが、そう叫んでいた。

門をくぐり、雑木林を駆け抜けた。

枝が、頬を打った。

それでも、足を止めなかった。

背後で、鎖の擦れるような音が、追ってくる気がした。

からから、と。

あの糸車の音に、似ていた。

ノブが、途中で転んだ。

健が、その腕を掴んで、引き起こした。

「走れっ、振り返るな!」

健が、叫んだ。

三人とも、泣きそうな顔で、ただ前だけを見て走った。

林を抜けた瞬間、蝉の声が、洪水のように戻ってきた。

その音が、これほど有り難く聞こえたことは、なかった。

三人とも、道端にへたり込んで、荒い息をついた。

顔を見合わせると、みんな、真っ青だった。

「今の、なんだよ……」

誰も、答えられなかった。

喉が、からからに渇いていた。

水筒の水を、三人で回し飲みした。

手が、まだ震えていた。

空を見上げると、さっきと同じ入道雲が、何事もなかったように浮かんでいた。

世界は、いつもどおりだった。

あの敷地の中だけが、違っていたのだ。

健の声も、掠れていた。

私たちは、それ以来、二度とあの工場に近づかなかった。

あの夏の出来事は、三人だけの秘密になった。

その夜、私は、高い熱を出した。

四十度近い熱が、三日も、下がらなかった。

うなされる私の耳の奥で、ずっと、ある音が鳴っていた。

からから、からから、と。

糸車の、まわる音だった。

熱にうかされながら、私は、あの女工の話を思い出していた。

あの音を聞いた者は、熱を出して寝込む。

ただの、子どもの噂話だと、笑っていたのに。

母は、冷えた手拭いを、何度も換えてくれた。

「うわ言で、糸車がどうとか、言ってたわよ」

熱が下がってから、母は、心配そうに、そう言った。

私は、あの日のことを、母には、話せなかった。

そして、私はその年の秋、父の転勤で、遠い町へ引っ越した。

健ともノブとも、いつしか、連絡は途絶えた。

あの廃墟のことも、長いあいだ、忘れていた。

思い出したのは、つい数年前のことだ。

故郷の夢を見た夜、あの廃墟が、はっきりと蘇った。

私は、実家に電話をかけ、母に尋ねてみた。

「町のはずれに、大きな製糸工場の廃墟があったよね」

すると、母は、怪訝そうな声で言った。

「製糸工場? そんなもの、あったかしら」

「あったよ。赤煉瓦の、大きなやつ。火事で焼けた」

「うちの町に、そんな工場、なかったわよ」

私は、耳を疑った。

「じゃあ、あの場所は、なんだったの」

「あのあたりは、ずっと昔から、ただの空き地よ」

母は、きっぱりと、そう言い切った。

私は、姉にも聞いてみた。

姉の答えも、母と同じだった。

「工場なんて、なかったよ。何かと勘違いしてるんじゃない?」

そんなはずはなかった。

私は、あの赤煉瓦の壁を、割れた窓を、垂れた鎖を、はっきりと覚えている。

あの冷たい風も、焦げた匂いも、女のため息も。

すべてが、これほど鮮明なのに。

私は、古い住宅地図を、図書館で取り寄せてみた。

町のはずれの、あの場所。

地図には、ただ「空地」とだけ、記されていた。

それでも、私は諦めきれなかった。

帰省したとき、近所に住む古老を訪ねてみた。

その人は、町でいちばんの長生きで、昔のことに詳しかった。

「町のはずれに、製糸工場があったのを、覚えていませんか」

老人は、湯呑みを手にしたまま、しばらく黙った。

「製糸工場……はて」

「ここらには、そんなものは、なかったと思うがなあ」

けれど、その目は、どこか宙をさまよっていた。

「ただ……」

老人は、そう言いかけて、口をつぐんだ。

「いや、なんでもない。歳を取ると、いろいろ混ざってしまうな」

それきり、老人は、その話をしなかった。

私は、図書館で、古い新聞の縮刷版も調べてみた。

火事の記事を、隅から隅まで、探した。

けれど、製糸工場の火災の記事は、一つも見つからなかった。

若い女工が亡くなったという記録も、どこにもなかった。

まるで、その工場は、最初から、存在しなかったかのように。

けれど、一つだけ、奇妙なことがあった。

縮刷版を繰る手が、ある日付のところで、止まった。

その日の紙面だけが、一枚、破り取られていたのだ。

何十年も前の、真夏の日付だった。

司書に尋ねても、いつ破られたものかは、分からないという。

偶然だと、自分に言い聞かせた。

けれど、その空白のページが、頭から離れなかった。

何かが、そこに、書かれていたのではないか。

そして、誰かが、それを、消したのではないか。

念のため、私はその場所を、実際に訪ねてみた。

雑木林は、確かにあった。

けれど、その先に広がっていたのは、雑草の茂る、ただの空き地だった。

赤煉瓦の建物は、跡形もなかった。

礎石の一つ、煉瓦の欠片の一つ、残っていなかった。

火事の焦げ跡も、糸車の鎖も、何もなかった。

ただ、蝉の声だけが、四方の山から降っていた。

私は、その空き地の真ん中に、しばらく立ち尽くした。

足の裏に、夏草の熱が、じんわりと伝わってきた。

確かに、ここだった。

この方角に、赤煉瓦の壁がそびえていた。

あの割れた窓は、ちょうど、あの木の高さにあった。

目を閉じれば、建物の輪郭が、瞼の裏に、くっきりと浮かんだ。

けれど、目を開けると、そこには、青空しかなかった。

ふと、足元を見た。

雑草のあいだに、何か、赤いものが見えた気がした。

しゃがんで確かめると、それは、ただの錆びた空き缶だった。

煉瓦の欠片では、なかった。

あの日、確かに三人で駆け抜けた、あの門は、どこにもなかった。

健とノブに、連絡を取ろうとした。

けれど、二人の消息は、どうしてもつかめなかった。

転校のときに、連絡先を交換しそびれたまま、三十年が過ぎていた。

あの日の出来事を、覚えている人間は、私のほかに、いない。

証明してくれる者は、誰もいないのだ。

考えれば考えるほど、足元が、ぐらつくような気がした。

記憶というのは、これほど、頼りないものなのだろうか。

それとも、消えてしまったのは、記憶ではなく、あの廃墟そのものなのか。

私が引っ越したあと、あの工場は、どうなったのだろう。

取り壊されたのなら、礎石くらい、残っているはずだ。

けれど、そこには、何一つ、残っていなかった。

まるで、私がその場を離れた瞬間に、なかったことにされたように。

私が見たものは、本当に、あったのだろうか。

それとも、三人で、同じ幻を見たのだろうか。

あるいは――あの廃墟のほうが、私を、覚えているのだろうか。

今でも、雨の匂いを嗅ぐと、あの冷たい風を思い出す。

蝉の声が急にやむと、あのため息が、耳の奥で蘇る。

存在しないはずの廃墟が、私の記憶のなかにだけ、今も静かに建っている。

割れた窓の奥の、あの闇が、こちらをじっと見ている気がする。

あの日、闇の奥から聞こえた、若い女のため息。

あれは、疲れ果てた者が、ようやく息を吐く音だった。

もしかしたら、あの人は、ずっと待っていたのかもしれない。

誰かが、自分の存在に、気づいてくれるのを。

忘れられた工場と、忘れられた女工。

世界が「なかった」ことにしたものを、私だけが、覚えている。

だとしたら、私は、あの人を、忘れてはいけない気がするのだ。

あの夏の午後、私たちは、確かにそこにいた。

それだけは、どうしても、譲れない。

ただ、確かなことが、ひとつだけある。

あの夏の午後、闇の奥で息を吐いた、あの声。

あれは、私に「気づいてほしい」と、告げていた。

だから私は、こうして書き残すことにした。

存在しないと言われた、あの廃墟のことを。

せめて、誰かの記憶の片隅に、残しておくために。

けれど、その証を、私はもう、どこにも見つけられない。

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