その記憶は、忘れた頃に、ふいに蘇る。
雨の匂いを嗅いだ時。
蝉の声が、急にやんだ時。
あの夏の午後の、廃墟のことを、私は思い出す。
けれど、その廃墟は、この世のどこにも、存在しないのだという。
※
私が育ったのは、北関東の、山に囲まれた小さな盆地の町だった。
夏になると、四方の山から、蝉の声が降ってくる。
町のはずれに、大きな廃墟があった。
かつて、生糸を紡ぐ製糸工場だったと聞いている。
戦前に建てられ、私が子どもの頃には、とうに操業をやめていた。
赤煉瓦の壁は蔦に覆われ、屋根の一部は焼け落ちていた。
何十年も前に、火事があったのだそうだ。
その火事で、若い女工が一人、逃げ遅れて亡くなった。
そんな話が、子どもたちのあいだで、まことしやかに囁かれていた。
火事があったのは、母が生まれるよりも前のことだという。
深夜、繭を煮る釜の火が、燃え移ったのだそうだ。
逃げ遅れた女工は、まだ十六だったと聞いた。
糸を紡ぐ手を、最後まで止めなかったのだと、誰かが言った。
だから今も、夜になると、糸車のまわる音がする。
からから、からから、と。
その音を聞いた者は、熱を出して寝込むのだとも言われた。
上級生のなかに、一度だけ中に入ったという子がいた。
タカシという名の、六年生だった。
タカシは、それきり誰にも、中で見たものを話さなかった。
ただ、あの工場の名前を出すと、決まって黙り込んだ。
その黙り方が、私たちには、何より怖かった。
私たちの教室の窓からは、その工場の屋根が、遠くに見えた。
授業に飽きると、私はよく、その赤い屋根を、ぼんやり眺めた。
焼け落ちた屋根の穴が、まるで、大きな目のように見えた。
晴れた日も、雨の日も、それは、じっとそこにあった。
町のどこからでも、その煉瓦色は、目に入った。
あるのが、当たり前だった。
だからこそ、のちに「なかった」と言われても、信じられなかったのだ。
「あそこには、出るらしいぜ」
「夜になると、糸車のまわる音がするって」
そう言い合っては、私たちは、その廃墟を遠巻きに眺めていた。
※
小学三年の、夏休みのことだ。
私は、仲のよかった健とノブと、三人でつるんでいた。
ある日、健が、こう言い出した。
「なあ、あの工場、探検に行かねえ?」
ノブは、少し怯えた顔をした。
「やめとこうぜ。出るって言うじゃん」
「昼間だよ。幽霊なんか出るわけないだろ」
健の言葉に、私も、つい頷いてしまった。
本当は、私も怖かった。
けれど、怖がっていると思われるのが、もっと嫌だった。
こうして私たちは、学校帰りの午後、その廃墟へ向かった。
ランドセルを、途中の神社の石段に、隠していった。
空は、抜けるように青かった。
入道雲が、山の向こうに、もくもくと立ち上がっていた。
「もし何かあったら、すぐ逃げようぜ」
ノブが、念を押すように言った。
「大丈夫だって。昼間なんだから」
健は、そう言って笑ったが、その笑いは、少しこわばっていた。
私は、水筒の紐を、ぎゅっと握りしめた。
胸の奥で、心臓が、いつもより速く鳴っていた。
※
工場は、雑木林を抜けた先にあった。
林の中は、昼でも薄暗かった。
足元では、枯れ枝が、ぱきぱきと折れた。
木漏れ日が、地面に、まだらな模様を落としていた。
進むほどに、木々の緑が、濃くなっていくようだった。
どこかで、鴉が一声、鳴いた。
その声を最後に、林は、しんと静まり返った。
近づくにつれ、蝉の声が、やけに大きくなった。
錆びた鉄の門は、半分だけ開いていた。
門をくぐると、雑草に埋もれた広い敷地が広がっていた。
赤煉瓦の建物は、思っていたより、ずっと大きかった。
窓ガラスは、ほとんど割れていた。
割れた窓の奥は、真っ暗で、何も見えなかった。
「すげえな……」
健が、小さくつぶやいた。
三人とも、そこから先へは、なかなか足が進まなかった。
※
最初の異変に気づいたのは、私だった。
あれほどうるさかった蝉の声が、いつのまにか、消えていた。
敷地に一歩入った瞬間から、ぷつりと、途切れたように。
耳が痛くなるほどの、静けさだった。
「なあ……蝉、鳴いてなくね?」
私が言うと、健とノブも、はっと足を止めた。
風も、なかった。
雑草の一本さえ、揺れていなかった。
まるで、その敷地だけが、世界から切り離されたようだった。
※
それでも私たちは、建物の入口まで、近づいた。
次に感じたのは、匂いだった。
湿った土と、錆びた鉄の匂い。
それに混じって、かすかに、焦げたような匂いがした。
何十年も前の火事の匂いが、まだ残っているはずもないのに。
入口の重い扉は、少しだけ開いていた。
その隙間から、冷たい空気が、流れ出してきた。
真夏なのに、その風は、氷のように冷たかった。
腕に、鳥肌が立った。
「なんか……寒くねえ?」
ノブの声が、震えていた。
※
健が、扉の隙間に、顔を近づけた。
「おい、中、見えるか?」
私も、恐る恐る、そこを覗き込んだ。
広い作業場のような空間が、薄暗く広がっていた。
天井から、錆びた鎖が、いくつも垂れ下がっていた。
かつて、糸車を吊るしていたのだろうか。
床には、朽ちた木箱が、点々と転がっていた。
奥のほうは、闇に沈んで、何も見えなかった。
その闇を見つめていると、吸い込まれそうな気がした。
どこか奥のほうで、水の滴る音がした。
ぽたり、ぽたり、と。
雨など、何日も降っていないのに。
垂れた鎖のひとつが、ゆらり、と揺れた気がした。
風もないのに。
私は、目をこすった。
見間違いだと、自分に言い聞かせた。
※
そのときだった。
闇の奥から、音がした。
「……ふうっ」
それは、深い、ため息のような音だった。
若い、女の声だった。
疲れ果てた人が、ようやく息を吐くような。
けれど、そこには、誰もいないはずだった。
三人とも、凍りついたように、動けなかった。
「……ふうっ」
もう一度、同じ声が、闇の奥から聞こえた。
今度は、さっきより、少しだけ、近かった。
※
「うわあああっ!」
最初に叫んだのが、誰だったのかは、覚えていない。
次の瞬間、私たちは、一斉に走り出していた。
雑草に足を取られながら、必死で門へ向かった。
後ろから、何かがついてくる気配がした。
けれど、振り返ることは、どうしてもできなかった。
振り返ってはいけない。
体じゅうが、そう叫んでいた。
門をくぐり、雑木林を駆け抜けた。
枝が、頬を打った。
それでも、足を止めなかった。
背後で、鎖の擦れるような音が、追ってくる気がした。
からから、と。
あの糸車の音に、似ていた。
ノブが、途中で転んだ。
健が、その腕を掴んで、引き起こした。
「走れっ、振り返るな!」
健が、叫んだ。
三人とも、泣きそうな顔で、ただ前だけを見て走った。
林を抜けた瞬間、蝉の声が、洪水のように戻ってきた。
その音が、これほど有り難く聞こえたことは、なかった。
※
三人とも、道端にへたり込んで、荒い息をついた。
顔を見合わせると、みんな、真っ青だった。
「今の、なんだよ……」
誰も、答えられなかった。
喉が、からからに渇いていた。
水筒の水を、三人で回し飲みした。
手が、まだ震えていた。
空を見上げると、さっきと同じ入道雲が、何事もなかったように浮かんでいた。
世界は、いつもどおりだった。
あの敷地の中だけが、違っていたのだ。
健の声も、掠れていた。
私たちは、それ以来、二度とあの工場に近づかなかった。
あの夏の出来事は、三人だけの秘密になった。
その夜、私は、高い熱を出した。
四十度近い熱が、三日も、下がらなかった。
うなされる私の耳の奥で、ずっと、ある音が鳴っていた。
からから、からから、と。
糸車の、まわる音だった。
熱にうかされながら、私は、あの女工の話を思い出していた。
あの音を聞いた者は、熱を出して寝込む。
ただの、子どもの噂話だと、笑っていたのに。
母は、冷えた手拭いを、何度も換えてくれた。
「うわ言で、糸車がどうとか、言ってたわよ」
熱が下がってから、母は、心配そうに、そう言った。
私は、あの日のことを、母には、話せなかった。
そして、私はその年の秋、父の転勤で、遠い町へ引っ越した。
健ともノブとも、いつしか、連絡は途絶えた。
あの廃墟のことも、長いあいだ、忘れていた。
※
思い出したのは、つい数年前のことだ。
故郷の夢を見た夜、あの廃墟が、はっきりと蘇った。
私は、実家に電話をかけ、母に尋ねてみた。
「町のはずれに、大きな製糸工場の廃墟があったよね」
すると、母は、怪訝そうな声で言った。
「製糸工場? そんなもの、あったかしら」
「あったよ。赤煉瓦の、大きなやつ。火事で焼けた」
「うちの町に、そんな工場、なかったわよ」
私は、耳を疑った。
「じゃあ、あの場所は、なんだったの」
「あのあたりは、ずっと昔から、ただの空き地よ」
母は、きっぱりと、そう言い切った。
※
私は、姉にも聞いてみた。
姉の答えも、母と同じだった。
「工場なんて、なかったよ。何かと勘違いしてるんじゃない?」
そんなはずはなかった。
私は、あの赤煉瓦の壁を、割れた窓を、垂れた鎖を、はっきりと覚えている。
あの冷たい風も、焦げた匂いも、女のため息も。
すべてが、これほど鮮明なのに。
私は、古い住宅地図を、図書館で取り寄せてみた。
町のはずれの、あの場所。
地図には、ただ「空地」とだけ、記されていた。
それでも、私は諦めきれなかった。
帰省したとき、近所に住む古老を訪ねてみた。
その人は、町でいちばんの長生きで、昔のことに詳しかった。
「町のはずれに、製糸工場があったのを、覚えていませんか」
老人は、湯呑みを手にしたまま、しばらく黙った。
「製糸工場……はて」
「ここらには、そんなものは、なかったと思うがなあ」
けれど、その目は、どこか宙をさまよっていた。
「ただ……」
老人は、そう言いかけて、口をつぐんだ。
「いや、なんでもない。歳を取ると、いろいろ混ざってしまうな」
それきり、老人は、その話をしなかった。
私は、図書館で、古い新聞の縮刷版も調べてみた。
火事の記事を、隅から隅まで、探した。
けれど、製糸工場の火災の記事は、一つも見つからなかった。
若い女工が亡くなったという記録も、どこにもなかった。
まるで、その工場は、最初から、存在しなかったかのように。
けれど、一つだけ、奇妙なことがあった。
縮刷版を繰る手が、ある日付のところで、止まった。
その日の紙面だけが、一枚、破り取られていたのだ。
何十年も前の、真夏の日付だった。
司書に尋ねても、いつ破られたものかは、分からないという。
偶然だと、自分に言い聞かせた。
けれど、その空白のページが、頭から離れなかった。
何かが、そこに、書かれていたのではないか。
そして、誰かが、それを、消したのではないか。
※
念のため、私はその場所を、実際に訪ねてみた。
雑木林は、確かにあった。
けれど、その先に広がっていたのは、雑草の茂る、ただの空き地だった。
赤煉瓦の建物は、跡形もなかった。
礎石の一つ、煉瓦の欠片の一つ、残っていなかった。
火事の焦げ跡も、糸車の鎖も、何もなかった。
ただ、蝉の声だけが、四方の山から降っていた。
私は、その空き地の真ん中に、しばらく立ち尽くした。
足の裏に、夏草の熱が、じんわりと伝わってきた。
確かに、ここだった。
この方角に、赤煉瓦の壁がそびえていた。
あの割れた窓は、ちょうど、あの木の高さにあった。
目を閉じれば、建物の輪郭が、瞼の裏に、くっきりと浮かんだ。
けれど、目を開けると、そこには、青空しかなかった。
ふと、足元を見た。
雑草のあいだに、何か、赤いものが見えた気がした。
しゃがんで確かめると、それは、ただの錆びた空き缶だった。
煉瓦の欠片では、なかった。
あの日、確かに三人で駆け抜けた、あの門は、どこにもなかった。
※
健とノブに、連絡を取ろうとした。
けれど、二人の消息は、どうしてもつかめなかった。
転校のときに、連絡先を交換しそびれたまま、三十年が過ぎていた。
あの日の出来事を、覚えている人間は、私のほかに、いない。
証明してくれる者は、誰もいないのだ。
考えれば考えるほど、足元が、ぐらつくような気がした。
記憶というのは、これほど、頼りないものなのだろうか。
それとも、消えてしまったのは、記憶ではなく、あの廃墟そのものなのか。
私が引っ越したあと、あの工場は、どうなったのだろう。
取り壊されたのなら、礎石くらい、残っているはずだ。
けれど、そこには、何一つ、残っていなかった。
まるで、私がその場を離れた瞬間に、なかったことにされたように。
私が見たものは、本当に、あったのだろうか。
それとも、三人で、同じ幻を見たのだろうか。
あるいは――あの廃墟のほうが、私を、覚えているのだろうか。
※
今でも、雨の匂いを嗅ぐと、あの冷たい風を思い出す。
蝉の声が急にやむと、あのため息が、耳の奥で蘇る。
存在しないはずの廃墟が、私の記憶のなかにだけ、今も静かに建っている。
割れた窓の奥の、あの闇が、こちらをじっと見ている気がする。
あの日、闇の奥から聞こえた、若い女のため息。
あれは、疲れ果てた者が、ようやく息を吐く音だった。
もしかしたら、あの人は、ずっと待っていたのかもしれない。
誰かが、自分の存在に、気づいてくれるのを。
忘れられた工場と、忘れられた女工。
世界が「なかった」ことにしたものを、私だけが、覚えている。
だとしたら、私は、あの人を、忘れてはいけない気がするのだ。
あの夏の午後、私たちは、確かにそこにいた。
それだけは、どうしても、譲れない。
ただ、確かなことが、ひとつだけある。
あの夏の午後、闇の奥で息を吐いた、あの声。
あれは、私に「気づいてほしい」と、告げていた。
だから私は、こうして書き残すことにした。
存在しないと言われた、あの廃墟のことを。
せめて、誰かの記憶の片隅に、残しておくために。
けれど、その証を、私はもう、どこにも見つけられない。