今でも、集合写真というものが苦手だ。

撮られるのも、撮るのも。

理由を話すと長くなるが、あれは大学二年の夏のことだから、もう二十年以上前になる。

私は当時、大学の写真部にいた。

部員は六人。

夏合宿の行き先は、外房の小さな漁師町だった。

町の名前は伏せる。

仮に、S町としておく。

急行を乗り継いで四時間、駅からはバスで三十分。

海と崖に挟まれた、細長い町だった。

バスを降りると、蝉の声と潮の匂いが、一度に押し寄せてきた。

坂の途中に商店が一軒、酒屋が一軒。

日陰で網を繕う年寄りが、じっとこちらを見ていた。

会釈をしても、返ってはこなかった。

「観光客が珍しいんだろ」

部長は笑ったが、あの視線は、珍しがっているというより、値踏みをしているように感じられた。

目当ては、月末にある小さな祭りと、朝の漁港だった。

宿は、先輩が電話帳で見つけた古い民宿だった。

もとは網元の屋敷だったという、平屋の日本家屋。

建てられてから、当時でゆうに六十年は経っていたと思う。

黒い瓦、飴色の廊下、廊下はコの字に折れて、奥へ行くほど暗くなる。

私たちに宛がわれたのは、その一番奥の十畳間だった。

荷を解いていると、隣の部屋を覗いた先輩が言った。

「こっちの部屋、空いてるのにな。六人で十畳は狭くないか」

あとで女将に部屋を分けられないか訊いたが、答えは決まっていた。

「浜側の間に、まとまって寝てちょうだいね」

まとまって、という言い方を、その時は何とも思わなかった。

「浜側の間」と呼ばれていた。

雨戸を開ければ、防波堤と海が見えた。

床の間には、古い振り子時計が掛かっていた。

針は、四時十分で止まっていた。

廊下の突き当たりには、白黒の集合写真が一枚、額に入って飾られていた。

何十人もの男たちが、大漁旗の前に並んでいる。

網元だった頃のものだろう。

ガラスが曇っていて、一人ひとりの顔までは見えなかった。

初日の夕食は、広間で女将が出してくれた。

金目の煮付けに、栄螺の壺焼き。

学生には過ぎた馳走で、部費の残りを本気で心配したのを覚えている。

「この家、古いんですか」

誰かが訊くと、女将は膳を下げながら答えた。

「祖父の代からだから、六十年は経つかねえ。昔は網元で、若い衆が何十人も寝泊まりしてたんだよ」

「へえ。じゃあ、この広間も」

「大漁の晩は、朝まで宴会でね。……賑やかな家だったよ」

女将は少しだけ遠い目をして、それきり厨房へ下がった。

賑やかな家「だった」という言い方が、妙に耳に残った。

女将は七十がらみの、小柄な人だった。

愛想は良いのに、どこか目の笑わない人だったのを覚えている。

「若い人が六人も。賑やかでいいねえ」

「今夜から世話になります」

「浜側の間は、風が通るから涼しいよ。……夜は、雨戸を閉めてね」

「開けたままじゃ駄目なんですか。海の音、いいのに」

「潮気で、畳が傷むから」

女将はそう言って、廊下の奥へ引っ込んだ。

今にして思えば、あの人は一度も「海のため」とは言わなかった。

畳のため、と言ったのだ。

初日の夜は、何もなかった。

いや、正確には、あったのだと思う。

私たちが気づかなかっただけで。

消灯の後、私は妙に寝つけなかった。

波の音に混じって、時々、畳を擦るような音がした気がした。

すす、すす、という、乾いた音。

誰かが寝返りを打ったのだろうと、その時は思った。

六人も雑魚寝をしていれば、音くらいする。

翌朝、部長が首をかしげながら言った。

「なあ、夜中に誰か、部屋の中を歩いたか」

「トイレじゃないですか」

「いや、トイレなら廊下に出るだろ。……部屋の中を、ぐるっと回った足音だったんだよ」

「夢でしょう」

話はそれで終わった。

昼間の撮影は、順調だった。

漁港の朝は良かった。

氷の匂い、揚がったばかりの魚の銀色、日に焼けた漁師の背中。

漁師たちは、若い私たちに気さくだった。

「兄ちゃんら、どこに泊まっとる」

宿の名前を言うと、年配の一人が、ほんの一拍、間を置いた。

「……ああ。あの家か」

それ以上は、何も言わなかった。

フィルムは面白いように減っていった。

ただ、一つだけ妙なことがあった。

防波堤で仲間を撮っていた時、シャッターを切った後に、もう一度、微かにシャッターの音がしたのだ。

誰のカメラでもない。

六人分のカメラは、全部数えられる場所にあった。

「反響だろ」

部長はそう言ったが、防波堤の先に、音を返すものは何もなかった。

二日目の夜も、私は例の音で目を覚ました。

すす、すす。

畳を、何かが静かに擦っている。

雨戸の隙間から入る月明かりで、部屋の中は薄く見えた。

誰も、起きてはいなかった。

音は、寝ている仲間の間を、ゆっくり縫うように動いていた。

布団の衣擦れではない。

もっと軽い、乾いたものが畳を滑る音だった。

私は目をつぶった。

見てはいけない気がした。

音は、私の枕元で、一度だけ止まった。

呼吸を数えるのをやめた頃、それは襖の方へ遠ざかっていった。

心臓が、布団の中でうるさいほど鳴っていた。

朝までの時間が、あんなに長かった夜はない。

朝、襖は閉まったままだった。

三日目の昼、私たちは崖の上の灯台まで歩いた。

眼下の入り江は、光の膜を張ったように凪いでいた。

「いい町だなあ」

誰かが言って、皆が頷いた。

実際、昼間のS町は、拍子抜けするほど明るい町だった。

だから余計に、夜が濃く感じられたのだと思う。

異変がはっきり形になったのは、三日目の夜だった。

その日は祭りの前夜で、私たちは遅くまで花札をやっていた。

十一時を回った頃、部員のタムラが最初に脱落した。

枕も敷かずに、畳の上でそのまま寝てしまった。

私たちは声を落として、花札を続けた。

どれくらい経った頃か。

ふと、部屋の空気が変わった。

音が消えたのだ。

波の音も、仲間の笑い声も、急に遠くなった。

耳の奥で、膜が一枚張ったような感じだった。

先輩が札を持ったまま、動きを止めた。

視線が、私の肩越しの一点に固定されていた。

「……おい」

「なんですか」

「動くな。……タムラの枕元」

振り返った。

女がいた。

寝ているタムラの頭のそばに、浴衣の女が、きちんと膝を揃えて正座していた。

髪が長く、濡れているように見えた。

俯き加減に、じっと、タムラの顔を覗き込んでいる。

年は分からない。

顔が、見えそうで見えなかった。

部屋の電気は点いていた。

点いているのに、女の周りだけ、光が届いていないようだった。

誰も、動けなかった。

声も出なかった。

女は、こちらを一度も見なかった。

ただ、タムラの寝顔だけを、飽きもせず覗き込んでいた。

どれだけそうしていたのか。

不意に、部長が立ち上がって、部屋の蛍光灯の紐を引いた。

一瞬の暗転。

すぐにまた紐を引いて、灯りが戻った時、女は消えていた。

タムラは、何も知らずに寝息を立てていた。

部長が震える手で、女の座っていた辺りの畳を調べた。

何も、なかった。

ただ、そこだけ畳が、うっすらと湿っていた。

手のひらを置くと、冷たかった。

海水の匂いが、微かにした。

その晩は、誰も眠らなかった。

「なんで、タムラなんだ」

誰かが小さく言った。

「知らねえよ。……起こすか」

「駄目だ」

部長が、低く抑えた声で遮った。

「起こして、あいつが女と目を合わせたら、どうなると思う」

誰も、答えられなかった。

全員で壁際に固まって、朝まで小さな声で話し続けた。

タムラだけが、畳の真ん中で、朝までよく眠った。

翌朝、私と部長は女将に話した。

女将は、味噌汁をよそう手を止めなかった。

驚きもしなかった。

「雨戸は、閉めてたかい」

「閉めてました」

「そう。……なら、いいけどね」

「いいって、何がですか。あれは、何なんですか」

女将はしばらく黙って、それから、味噌汁の椀を私の前に置いた。

「海のそばの古い家には、いろんなものが上がってくるんだよ。……見るだけなら、悪さはしないから」

「見るだけ……」

「ただね」

女将は初めて、私の目をまっすぐに見た。

「連れて帰りなさんなよ」

それきり、何を訊いても、女将は笑って取り合わなかった。

その日の夜が、祭りだった。

港の広場に櫓が組まれ、裸電球が連なった。

太鼓と笛の音の中で、私たちは夢中でシャッターを切った。

焼きイカの匂いと、子どもの歓声。

田舎の祭りは、思っていたよりずっと賑やかだった。

提灯の灯に浮かぶ横顔、跳ねる子ども、揃いの浴衣。

嫌なことを忘れるには、ちょうどよかった。

ただ、踊りの輪を撮っていた時だ。

ファインダーの端を、見覚えのある浴衣が横切った気がした。

濡れたような髪が、提灯の灯りを吸って、鈍く光った。

カメラを下ろすと、そこには誰もいなかった。

私は誰にも言わず、フィルムを巻き上げた。

口に出せば、本当になってしまう気がした。

最終日、私たちは大広間で集合写真を撮った。

合宿の締めに毎年やる、部の習わしだった。

三脚を立て、タイマーをセットして、六人で並んだ。

「行くぞ」

シャッターの音が、広間に響いた。

そういえば、あの音の後に、もう一つ小さな音を聞いた気がする。

気のせいだと、思うことにした。

宿を発つとき、女将は玄関まで見送りに出てくれた。

「気を付けてね」

それから女将は、私たちの顔を、端から順に、ゆっくりと見ていった。

数を数えるような目だった。

バスの窓から振り返ると、女将はまだ、玄関の前に立っていた。

頭を、下げているようにも見えた。

東京に戻って、一週間後。

合宿のフィルムを、部室の暗室で現像した。

赤い安全光の下で、印画紙に像が浮かんでくる。

漁港、防波堤、祭りの提灯。

どれも、よく撮れていた。

ただ、祭りのフィルムに、一枚だけ妙なコマがあった。

踊りの輪を写した一枚。

輪の外れに、こちらへ背を向けた浴衣の女が写っていた。

周りの誰もが提灯の色を浴びている中で、その背中だけが、暗かった。

焼き増しをしようとしたら、そのコマだけ、うまく焼けなかった。

何度やっても、女の部分にだけ、靄がかかった。

最後に、集合写真を焼いた。

現像液の中で、大広間の畳が浮かび、並んだ六人の顔が浮かび、その後ろの床の間が浮かんだ。

そして、私は手を止めた。

後列の端。

タムラの真後ろに、俯いた女の顔があった。

濡れた髪。

浴衣の襟。

あの夜、枕元に座っていた女だった。

心臓の音が、暗室の静けさの中で、やけに大きく聞こえた。

隣で部長が、印画紙を覗き込んだまま固まっていた。

「……おい、これ」

「見えてます」

「あの夜の、だよな」

「……はい」

暗室の赤い光の中で、私たちはしばらく、誰も動けなかった。

私は震える指で、写真の人数を数えた。

一人、二人、三人。

部員は、六人。

写っているのは。

数え終わる前に、指が止まった。

おかしいのは、タムラの後ろだけではなかった。

前列の端、しゃがんでいる私。

その真後ろの畳の上に、白い足の指が、写っていた。

浴衣の裾と、揃えられた膝と、俯いた髪。

もう一人は、私のすぐ後ろに座っていた。

女は、一人ではなかった。

あの夜、私たちが見ていたのは、タムラの枕元の一人だけだった。

もう一人は、どこにいたのか。

誰の枕元を、覗き込んでいたのか。

それを考えると、今でも、夜中に目が覚める。

思い出すのは、二日目の夜の、あの畳を擦る音だ。

すす、すす、と、寝ている者の間を縫っていた音。

あの音の主は、果たして一人だったのだろうか。

そして、私の枕元で止まったのは、どちらだったのだろう。

写真とネガは、顧問の伝手で、しかるべき寺に納めてもらった。

タムラには、写真のことは最後まで言わなかった。

ただその秋、タムラは体調を崩して、しばらく大学を休んだ。

医者には、疲れだと言われたそうだ。

休学中、一度だけ見舞いに行った。

タムラは布団の中で、妙なことを言った。

「最近さ、夢の中で、誰かにずっと顔を見られてる気がするんだ」

「……どんなやつに」

「分かんない。目を開けようとすると、髪の毛の匂いがする。海藻みたいな、濡れた匂い」

私は、写真のことを言いかけて、やめた。

代わりに、部の顧問に相談した。

顧問は写真とネガを預かり、その週のうちに、知り合いの住職に納めてくれた。

効いたのかどうかは、分からない。

ただ、タムラが夢の話をしなくなったのは、その後だった。

冬には元気になって、今は郷里で写真館をやっている。

年賀状には毎年、家族の集合写真が刷られている。

奥さんと、子どもが二人。

その四人の人数を、私が毎年つい数えてしまうことは、本人には言えないままだ。

あの宿が今もあるのかどうかは、知らない。

数年前、同期だった部長と飲んだ時、一度だけあの夏の話になった。

部長はグラスを置いて、低い声で言った。

「あのな、ずっと言えなかったんだけどな」

「なんですか」

「あの朝……女将さんに訊いただろ、俺たち」

「訊きましたね」

「あの時な、女将さん、味噌汁の椀を七つ出したんだよ」

私は、何も言えなかった。

「一つ余ったのを、当たり前みたいに下げてったんだ。……あれ、ただの数え間違いだったのかな」

私は今も、答えを持っていない。

調べようと思ったことも、一度もない。

ただ、あれから私は、集合写真を撮るたびに、まず人数を数えるようになった。

写ってから数えるのでは、遅いからだ。

幸い、あの夏から数が合わなかったことは、一度もない。

それでも現像した写真を見る時だけは、今でも指先が少し冷たくなる。

女将の言葉の意味を、時々考える。

連れて帰りなさんなよ。

あれは、忠告だったのか。

それとも、もう手遅れだと知っていた人の、餞別のような一言だったのか。

確かめる方法は、もうない。

ひとつだけ、後から知ったことがある。

卒業の年、部室の古い資料を整理していて、二十数年前の合宿記録が出てきた。

行き先は、同じS町。

同じ民宿だった。

記録の最後のページに、当時の部員の字で、短くこう書いてあった。

「集合写真、人数が合わない。焼き直し三回。原因不明」

私たちは、最初ではなかったのだ。

そして多分、最後でもない。

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