冬季分校の柱時計

雪降る山の小屋

私が郷土史の講座に通いはじめたのは、七十を過ぎてからのことだ。

妻を見送って、三度目の秋だった。

広い家に、私ひとり。

朝に新聞を読み、昼に庭の落葉を掃く。

夜は、灯りをひとつだけ点けて、湯を沸かす。

湯気の向こうに、妻の座っていた椅子があった。

そういう日々に、私は、ふと飽いた。

飽いた、というより、こわくなったのかもしれない。

このまま、誰とも口をきかずに、冬が来る。

そう思うと、胸の奥が、しんと冷えた。

公民館の掲示板に、市民大学の張り紙があった。

郷土の歴史を、ともに学びませんか。

学生、という言葉が、こそばゆかった。

七十の手習い、とはよく言ったものだ。

それでも、私は、申し込んだ。

教室は、古い図書館の二階だった。

木の床が、歩くたびに低く鳴る。

その鳴き方が、私の家の廊下に、似ていた。

受講生は、十人ばかり。

みな、私と似たような年恰好だった。

白髪の頭が、机の上に、いくつも並んでいた。

講師は、三浦先生という。

郷土史の研究を、長く続けてこられた方だ。

声が低く、よく通った。

一語ずつ、ていねいに置くように話す人だった。

私は、いちばん後ろの席に座った。

窓の外に、城址の松が見えた。

晩秋の、澄んだ光だった。

はじめの数回は、城下町の成り立ちの話だった。

古い絵図を回し見て、皆で覗き込む。

自分の住む町の、昔の姿。

見慣れた川が、まるで知らない名で呼ばれていた。

それだけのことが、私には、面白かった。

知らないことが、まだ、こんなにあるのか、と思った。

隣の席は、田中さんといった。

元は中学校で、理科を教えていたという。

「広川さんは、何をされていたんですか」と、田中さんが訊いた。

「役所で、ずっと戸籍を」と、私は答えた。

「では、人の名前を、たくさん見てこられた」

田中さんは、なぜか嬉しそうに笑った。

その笑い方が、亡くなった弟に、少し似ていた。

私は、人の生まれと死を、紙の上で見送る仕事をしてきた。

生まれた日。婚した日。亡くなった日。

その一行ずつに、本当は、長い一生があった。

私は、そのことを、いつも考えていた。

講座のあとは、田中さんと、喫茶店に寄った。

豆を挽く匂いが、店の奥から流れてくる。

窓ぎわの席で、湯気の立つ珈琲を、ゆっくり飲む。

そういう時間が、私には、久しぶりだった。

学ぶということに、年は関係がないのだと、その頃の私は思っていた。

五回目の講座の終わりに、三浦先生がこう言った。

「この土地には、もう一つ、学校がありました」

山あいの、小さな分校だという。

冬のあいだだけ、子どもを集めて教えた。

冬季分校、と呼ばれていた。

雪が深く、里の本校まで通えない子のための学校だった。

十一月の終わりに開き、雪が解けると閉じる。

先生がひとり、山に入って、寝起きをともにしたという。

「来週、その建物を、見に行きます」

先生はそう言って、少しだけ、言い淀んだ。

「もう、ずいぶん前に、閉じた学校ですが」

そのあとの言葉を、先生は飲み込んだ。

飲み込んだ言葉のほうが、私には、気にかかった。

窓の外で、城址の松の枝が、一度だけ揺れた。

風は、なかったはずだ。

私は、なぜか、窓から目を離せなかった。

見学の日は、よく晴れていた。

市の小さなバスで、山道を登った。

窓の外を、紅葉が流れていく。

赤と黄の、終わりかけの色だった。

道が細くなり、やがて舗装が切れた。

砂利を踏むたびに、車体が、小さく軋む。

枯れた沢の音が、どこかで鳴っていた。

バスを降りると、空気が、ひやりと頬に触れた。

里よりも、二、三度は低い気がした。

杉の匂いが、濃かった。

分校は、その杉木立のなかにあった。

木造の、平屋。

屋根の上に、小さな鐘楼がのっていた。

白く塗られた壁は、もう灰色に近かった。

窓の硝子が、何枚か、割れていた。

先生が、錆びた鍵で戸を開けた。

鍵の回る音が、やけに、大きく響いた。

古い木と、埃の匂いが、いちどに流れ出た。

懐かしいような、息のつまるような匂いだった。

床を踏むと、ぎい、と鳴った。

教室は、ひとつきりだった。

小さな机が、整然と並んでいる。

大人の腰ほどの高さしかない、子どもの机だった。

黒板に、白い字の名残があった。

何と書いてあったのかは、読めなかった。

ただ、消し残しの、白い粉が、溝にたまっていた。

「ここで、二十人ほどが学びました」と、先生が言った。

「先生も、子どもも、雪の間は、ここで暮らしたのです」

私は、なんとなく、机を数えた。

一、二、三と、指で追った。

十二、あった。

窓から、午後の光が差し込んでいた。

埃が、その光の中で、ゆっくりと舞っていた。

その埃の動きを見ていると、時が、止まったようだった。

教室の隅に、古い柱時計があった。

背の高い、黒ずんだ箱の時計だった。

振り子は、止まっていた。

硝子の中で、埃をかぶっていた。

田中さんが、その前に立った。

「もう、何十年も止まったままでしょうね」

私も、そう思った。

思ったのに。

耳の奥で、かすかに、時を刻む音がした。

こつ、こつ、と。

振り子は、たしかに、止まっていた。

私は、自分の腕時計を見た。

二時十分。

なんでもない時刻だった。

そのとき、窓の外を、何かが、よぎった気がした。

小さな、白い影。

目を向けたときには、もう、なかった。

杉の枝から、雪のように、何かが落ちただけかもしれない。

まだ、雪の季節では、なかったのに。

帰り際、近くの畑で、老人に会った。

分校の世話を、長く任されていた人だという。

腰の曲がった、小さな老人だった。

鍬の手を止めて、私たちを見ていた。

「あの学校を、見に来なさったか」と、老人は言った。

「ええ、講座の、見学で」と、私は答えた。

老人は、しばらく黙っていた。

日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていた。

それから、ぽつりと言った。

「冬には、近づきなさんなよ」

「雪が、深いからですか」と、私は訊いた。

老人は、答えなかった。

ただ、山の上のほうを、見ていた。

その目が、何かを諦めたように、静かだった。

「鐘が鳴る日が、あるでなあ」

老人は、それだけ言って、また鍬を握った。

鳴るはずのない鐘の話を、私は、聞き流した。

バスが来て、私たちは山を下りた。

窓の外は、まだ晩秋だった。

赤い葉が、風に一枚、二枚と落ちていく。

私は、止まった柱時計のことを、考えていた。

耳の奥の、こつ、こつ、という音を。

気のせいだ、と思おうとした。

思おうとするほど、その音は、はっきりとしてくる。

翌週の講座で、田中さんが来なかった。

風邪でも引いたのだろう、と先生は言った。

私は、なぜか落ち着かなかった。

その夜、田中さんに電話をかけた。

呼び出し音が、いつもより、長く続いた。

「ああ、広川さん」と、田中さんの声がした。

妙に、遠かった。

水の底から、話しているような声だった。

「あの分校で、写真を撮ったでしょう」と、田中さんが言った。

「ええ、何枚か」

「見てみてください。机を」

言われて、私は、撮った写真を見た。

教室の、机の写真。

一、二、三と、また指で数えた。

十三、あった。

私が、あの日、数えたのは、十二だったはずだ。

何度数えても、写真の中の机は、十三あった。

いちばん後ろに、ひとつだけ、向きの違う机があった。

こちらを、向いていた。

その上に、白いものが、置かれている。

指で、画面を拡大した。

それは、子どもの上履きだった。

片方だけの、小さな上履き。

つま先のあたりが、灰色に汚れていた。

私は、電話の向こうの田中さんに、それを伝えた。

田中さんは、長いあいだ、黙っていた。

受話器の向こうで、かすかに、水の滴る音がした。

「私の写真にも、ありました」と、やがて言った。

「同じ机が。同じ、上履きが」

「広川さん。あれは、誰の机でしょうね」

私は、答えられなかった。

私は、もう一度、あの分校へ行こうと思った。

確かめずには、いられなかった。

戸籍の仕事をしてきた者の、性かもしれない。

合わない数字を、そのままにしておけなかった。

先生に頼んで、鍵を借りた。

先生は、いい顔をしなかった。

「広川さん。あそこは、ひとりで行く場所ではありません」

そう言われても、私は行った。

路線バスを乗り継ぎ、終点から、歩いた。

その日は、朝から、雲が低かった。

山に入ると、空気が、急に冷えた。

息が、白くなった。

前に来たときには、白くならなかったのに。

沢の音が、消えていた。

風も、鳥の声も、なかった。

耳が痛くなるほどの、静けさだった。

分校の戸を開けると、あの匂いが、また流れ出た。

今度は、その中に、雪の匂いが混じっていた。

教室は、しんとしていた。

私は、机を数えた。

一、二、三。

十三、あった。

いちばん後ろに、向きの違う机が、ひとつ。

その上に、片方の上履きが、置かれていた。

写真の、通りだった。

私は、その上履きに、手を伸ばした。

指で触れると、冷たかった。

濡れていた。

まるで、たった今、雪の中から拾ってきたように。

私は、柱時計を見た。

振り子は、止まっている。

だが、こつ、こつ、と、音がしていた。

今度は、耳の奥では、なかった。

部屋じゅうに、その音が、満ちていた。

窓の外が、暗くなりはじめた。

まだ、昼を過ぎたばかりのはずだった。

私は、腕時計を見た。

針が、止まっていた。

二時十分で。

あの日と、同じ時刻で。

そのとき、鐘が鳴った。

屋根の上の、あの鐘楼から。

こん、こん、と、低く。

下校を告げる鐘だと、なぜか、わかった。

廊下に、足音がした。

小さな、たくさんの足音。

裸足が、板を踏むような、湿った音だった。

私は、動けなかった。

足の裏が、床に、貼りついていた。

背中を、冷たいものが、ゆっくりと這った。

声を出そうとして、喉の奥が、乾いていた。

足音は、教室の戸の前で、止まった。

戸は、開かなかった。

ただ、すりガラスの向こうに、影が並んだ。

背の低い、いくつもの影。

肩を寄せ合うように、並んでいた。

その影が、こちらを、見ていた。

窓の外で、白いものが、舞いはじめた。

雪だった。

晩秋のはずの山に、雪が降っていた。

硝子を、白い粒が、つぎつぎと叩いた。

私は、ようやく、声を絞り出した。

「君たちは、もう、帰っていい」

なぜ、そう言ったのか、わからない。

戸籍係を、長く務めたからかもしれない。

帰る場所を失った名前を、いくつも見てきたからかもしれない。

「もう、誰も、君たちを、待たせない」

私の声は、震えていた。

それでも、最後まで、言いきった。

影が、ひとつ、またひとつと、薄れていった。

足音が、遠ざかっていく。

廊下の奥へ、奥へと。

鐘の音が、やんだ。

気づくと、机は、十二に戻っていた。

いちばん後ろの、向きの違う机だけが、消えていた。

その上履きも、なかった。

柱時計の音も、止まっていた。

外に出ると、雪は、もう止んでいた。

だが、地面には、薄く積もっていた。

私が来たときには、無かった雪だった。

杉の木立が、白く、静まりかえっていた。

夕方の光が、その雪を、青く染めていた。

私の足跡のほかに、小さな足跡が、雪の上に残っていた。

裸足の、子どもの足跡。

いくつも、いくつも、あった。

それが、山のほうへ、点々と続いていた。

私は、それを、追わなかった。

追ってはいけない、と、どこかでわかっていた。

バス停まで、ただ、黙って歩いた。

里に下りると、雪は、どこにもなかった。

晩秋の、赤い葉が、風に揺れていた。

何事も、なかったように。

私の靴の裏だけが、まだ、濡れていた。

後日、三浦先生に、土地の記録を見せてもらった。

古い、役場の控えだった。

私の、かつての職場の、書きものだった。

その冬季分校は、ある年の冬に、閉じていた。

豪雪の年だった。

記録は、淡々と、その冬のことを記していた。

下校の途中で、子どもたちが、雪に巻かれたのだという。

先生が、何度も、雪をかき分けて捜したと、ある。

幾人かは、とうとう、里へ帰らなかった。

記録の隅に、小さな字で、こう添えられていた。

「鐘を、鳴らさぬこと」

私は、その一行を、長いあいだ、見ていた。

鐘は、子どもらに、家へ帰る合図だった。

その合図を、もう、鳴らしてはならない。

そういう意味だと、私は思った。

「広川さんは、鐘を、聞きましたか」と、先生が訊いた。

私は、答えなかった。

ただ、首を、横に振った。

嘘をついたのは、はじめてだったかもしれない。

講座は、その年の冬に、終わった。

私は、修了の証書を、一枚もらった。

七十を過ぎて、はじめての、卒業だった。

証書を、妻の写真の前に、立てかけた。

田中さんとは、今も、ときどき会う。

あの喫茶店で、珈琲を飲む。

分校の話は、どちらからも、しない。

ただ一度だけ、田中さんが、こう言った。

「広川さん。あの子たちは、帰れたんでしょうか」

私は、わからない、と答えた。

本当に、わからなかった。

ただ、あの足音が、廊下の奥へ消えていったことを、思い出していた。

今でも、雪の降る夜には、ふと、耳を澄ます。

こつ、こつ、という、あの音を。

あれが、止まった柱時計の音だったのか。

それとも、雪を踏む、小さな足音だったのか。

私には、まだ、わからない。

七十の手習いは、まだ、終わらない。

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