無人島ビデオ

大学の映像研究会には、開けてはいけない棚がある。

正確には、誰も開けないまま放置されている棚だ。

部室の奥、スチール 製のロッカーの上段。

そこに、ラベルのないミニDVテープが一本だけ入っている。

私がそれを知ったのは、三年になった春だった。

うちのサークルは、部員が二十人ほどいる。

年に二本、自主制作の短編を撮って、学園祭で流すだけの、ゆるい集まりだ。

機材は古いが、数だけはある。

棚には歴代の記録テープが何十本も並んでいて、ラベルには年度と場所が書いてある。

ラベルのないテープは、その一本だけだった。

だから余計に目についた。

きっかけは、夏の合宿の行き先を決める話し合いだった。

瀬戸内の無人島でロケハンをしよう、と誰かが言った。

その瞬間、四年の先輩の一人が、はっきりと顔色を変えた。

「島はやめとこう」

理由を聞いても答えない。

その場は結局、別の候補に流れた。

飲み会の帰り道で、私はその先輩に食い下がった。

先輩は歩きながら、前を向いたまま言った。

「去年、俺らの代が行ったんだよ。黒神島っていう島に」

「聞いたことないです」

「石切りの島。集落があったけど、四十年前に全員島を出てる」

「その合宿で、何かあったんですか」

先輩は答えなかった。

代わりに、こう言った。

「テープが部室にある。見るのは止めない」

「先輩は、見たんですか」

「一回だけな」

「なんで一回だけなんですか」

「二回目を見る気にならんかったから」

「そんなに怖いんですか」

先輩は、そこで初めて足を止めた。

「怖いというか、数え直したくなるんだよ」

「数え直す」

「見たらわかる」

そう言って、先輩は駅の改札に消えた。

その一回で、あの代の六人は全員サークルを辞めた。

私はあとからそのことを知った。

六月の、雨の降る平日の午後だった。

部室には私しかいなかった。

私はロッカーの上段からテープを取り出し、デッキに入れた。

ラベルの糊の跡だけが残っていて、何が書いてあったのかはわからない。

再生を押すと、最初に映ったのは渡船の甲板だった。

晴れている。

海面が白く光って、カメラが露出を合わせるのに手間取っている。

画面の中で、先輩たちが笑っていた。

私の知っている顔が四つと、知らない顔が二つ。

合わせて六人。

船室の中で、船頭らしい老人がカメラのほうを向いた。

日に焼けた、痩せた人だった。

「六人やな」

「はい、六人です」

「島に渡る前に、一つだけ言うとくで」

老人は、指を二本立てた。

「行きと帰りで、数が合わんと出さんよ」

船室が少し笑った。

誰かが冗談だと思って、置いていかれるってことですか、と聞いた。

老人は笑わなかった。

「そうやない。多いときの話をしとる」

船室が静かになった。

カメラを持っている先輩が、老人に聞いた。

「多いときって、あるんですか」

「昔は、あった」

「昔って」

「わしがまだ、石を運びよった頃や」

老人は、それきり口を閉じた。

先輩たちは顔を見合わせて、小さく笑った。

脅かされているのだと思ったのだろう。

私も、最初はそう思った。

そこで、画面が切り替わった。

次のカットは、島の砂浜だった。

まだ誰も上陸していない。

船の上から、これから降りる浜をカメラが舐めるように撮っている。

白い砂に、日差しが真上から落ちている。

誰の足跡もない、はずだった。

私は一度、再生を止めた。

巻き戻して、もう一度見た。

砂の上に、点々と足跡が続いていた。

波打ち際から、崖のほうへ向かって、一列に。

画面の中の先輩の一人が、それに気づいて言った。

「誰か先に来てんのかな」

「無人島やろ」

「まあ、釣り人ちゃう」

そこで会話は終わっている。

足跡は、その後のどのカットにも二度と映らない。

上陸してすぐの浜のカットにも、翌朝のカットにも、その足跡はない。

潮が満ちて消えたのだと考えれば、それで済む話だ。

ただ、一つだけ引っかかった。

足跡は、波打ち際から崖のほうへ向かっていた。

島に上がる向きだ。

島から降りてきて船に乗るなら、向きは逆になるはずだった。

島の映像は、しばらくのあいだ、ただの合宿記録だった。

船を降りて、荷物を担いで、草の伸びた道を上がっていく。

八月の光が強すぎて、画面はときどき白く飛んでいた。

蝉の声が、割れるほど大きく入っている。

先輩たちは、汗を拭きながら軽口を叩いていた。

「電波、一本も立たへん」

「そら無人島やもん」

「非常時どうすんの」

「船頭さんが明日来る」

今から思えば、この時点で誰も不安がっていないのが、いちばん不思議だった。

崩れた石垣。

井戸の跡に張られた、腐りかけの板。

屋根の落ちた家。

石切り場の跡に残った、四角く抉れた岩肌。

先輩たちは楽しそうだった。

私は、この時点までは、正直に言えば退屈していた。

石切り場の跡だけは、少し面白かった。

山の斜面が、階段状に四角く削り取られている。

切り出した跡が、そのまま巨大な階段になっていて、人の背丈の何倍もあった。

先輩の一人が、その段の上を歩きながらカメラに向かって話していた。

「ここ、昭和三十年代まで採ってたらしいで」

「何人くらい住んでたんですか」

「最盛期で百人ちょっとやって」

その数字を、私はあとで調べ直すことになる。

百人ちょっと、という言い方が、あとで妙に引っかかった。

ちょうど百人、ではない。

島の人たちは、自分たちの数を、はっきりとは言わなかったのかもしれない。

異変に気づいたのは、音のほうだった。

集落跡の細い道を、カメラが後ろから追いかけていくカットがある。

前を歩いているのは五人。

撮っている者を入れて六人。

砂利を踏む音が、規則正しく重なっている。

最初は気のせいだと思った。

足音というのは、砂利の上では特に重なりやすい。

けれど、その道は一列でしか歩けない幅だ。

両側を石垣に挟まれていて、横に並ぶ余地がない。

だから、足音の主は数えられる。

私はヘッドホンの音量を上げた。

そして、指で数えた。

足音は、七つ分あった。

私は何度も巻き戻した。

反響ではないかと考えた。

石垣に囲まれた道だから、音が跳ね返っているのかもしれない。

けれど、七つ目の足音だけ、歩幅が違っていた。

他の六人より、わずかに遅い。

そして一定だ。

立ち止まっても、それだけが二歩ぶん先まで続いてから止まる。

その二歩を、私は十回以上聞き返した。

途中で、ヘッドホンを外してみた。

スピーカーから出す音でも、やはり七つ聞こえた。

次に、右チャンネルだけを切った。

七つ目だけが、消えなかった。

中央に定位している。

つまり、カメラのすぐ後ろだ。

聞き返すたびに、部室の空気が冷たくなっていく気がした。

夜のカットに変わった。

石切り場の平らな場所に、テントを二つ張っている。

焚き火があって、缶ビールがあって、先輩たちが笑っている。

そこで一人が、ふと言った。

「なあ、さっきから思っとったんやけど」

「なに」

「飯、七つ作ってへんかった」

「作ってへんよ。六つや」

「そうか」

「なんで」

「いや、なんとなく」

その会話は、笑い声にかき消されて終わる。

けれど私は、その直前のカットを覚えていた。

飯盒の脇に、紙皿が並べて置いてある。

数えると、七枚あった。

枚数の写り込みは、ほんの二秒ほどだ。

コマ送りにして、私は三度確かめた。

七枚目は、他より少し離れた場所に置かれていた。

誰かが配ったというより、誰かが自分で取って置いたような位置だった。

私はテープを一度止めて、大学の図書館へ行った。

郷土資料の棚に、県内の島嶼をまとめた古い本があった。

黒神島の項目は、半ページしかない。

石材の産地として明治から採掘が続き、昭和三十九年に採石が終わったこと。

翌年、最後の十七世帯が本土へ移り、無人になったこと。

それだけだった。

その下に、小さな注が付いていた。

島の石は、切り出した数を必ず二度数えてから船に積んだ、とある。

一度目は山で、二度目は桟橋で。

数が合わない日は、その日の積み出しを取りやめた。

理由は書かれていない。

ただ、島の言い伝えとして、こんな一文が引いてあった。

島から余分に出してはならぬ。

私はその行を、指でなぞった。

石の話だと思って読んだ。

けれど、注の続きにこうあった。

数えるのは石だけではなく、人も同様であったという。

司書の人に頼んで、もう一冊出してもらった。

その島の分校の記念誌だった。

閉校のときに作られたもので、写真が多い。

運動会の写真。

石切り場で働く人たちの、昼休みの写真。

集合写真が何枚もあった。

そのうちの一枚に、私は目を留めた。

下に、人数と名前が書いてある。

十四名、と記されていた。

私は写真を数えた。

十五人いた。

名前は十四しか並んでいない。

並びの端の一人だけ、名前がなかった。

私はページを閉じて、しばらく机を見ていた。

誰かが数え間違えただけだ。

六十年前の記念誌の、ただの誤植だ。

そう思おうとした。

思おうとしたが、私はもう一度ページを開いて、数え直していた。

先輩の言っていた意味が、そのときやっとわかった。

翌朝のカットで、カメラのタイムコードが画面の隅に出た。

先輩の誰かが、設定を間違えて表示させたのだろう。

私はそれをメモした。

そして、最初のカットのタイムコードと引き算をした。

合宿は一泊二日だ。

船が出たのが朝の九時、帰りの便は翌日の正午。

二十七時間ほどのはずだった。

けれど記録されていた時間は、五十二時間を超えていた。

撮影の合間に電源を切るのだから、テープの長さと実時間が一致しないのは当たり前だ。

そう思おうとした。

思おうとしたが、タイムコードは撮っていない時間も進み続ける。

あの島で、二日ぶん余分な時間が流れていた。

私はもう一度、映像の中の日付を確認した。

先輩たちの服は、二日目も同じものだった。

髭も伸びていない。

本人たちにとっては、確かに一泊二日だったのだ。

余分な二日を経験したのは、あの人たちではない。

記録のほうだけが、余計に進んでいた。

最後の場面は、帰りの船着き場だった。

先輩たちが荷物を担いで、桟橋に並んでいる。

船頭の老人が、船縁に立って、一人ずつ指を差しながら数えていた。

一、二、三、四、五、六。

老人はもう一度、最初から数え直した。

一、二、三、四、五、六。

そして、こう言った。

「合うとる」

誰かが、当たり前でしょう、と笑った。

老人は笑わなかった。

先輩たちが、順に船に乗り込んでいく。

最後の一人が乗ったところで、老人はもう一度だけ桟橋を見た。

誰もいない桟橋を、たっぷり五秒。

それから、目を逸らすように舵のほうへ戻った。

「乗り」

その一言で、映像は終わっている。

私は再生を止めて、しばらく動けなかった。

合っている。

行きも六人、帰りも六人。

船頭の言った条件は満たされている。

だから船は出た。

それなら、あの七つ目の足音は何だったのか。

紙皿の七枚目は。

浜の足跡は。

記念誌の十五人目のことが、頭から離れなかった。

名前のない一人。

数えられなかった一人。

島の人たちは、それを知っていて、だから二度数えたのだ。

一度目は山で、二度目は桟橋で。

山で数えるのは、島にいる数を知るため。

桟橋で数えるのは、島から出ていく数を知るため。

二つの数字が合わない日は、船を出さない。

私は、答えに近づきたくなくて、けれど手が勝手にテープを巻き戻していた。

いちばん最初のカットまで。

渡船の甲板だ。

先輩たちが笑っている。

四つの知っている顔と、二つの知らない顔。

私は一時停止して、画面に顔を近づけた。

船室のガラスに、外の景色と一緒に、船内が映り込んでいる。

数えた。

一、二、三、四、五、六。

そして、いちばん右。

そこに、後頭部が七つ並んでいた。

髪の色も、肩の位置も、他の六人と何も変わらない。

変わらないから、誰も気づかなかったのだ。

船に乗る前から、もう七人だった。

数が合っていたのは、当たり前だった。

七人目は、行きの船から乗っていて、帰りの船にも乗っている。

老人が数えていたのは、島から余分に連れ出していないかどうかだ。

連れ出してはいない。

最初から一緒に来ていたのだから。

あの人が確かめていたのは、島の側の数ではなかった。

本土の側の数だ。

私はそこまで考えて、椅子から立ち上がった。

テープを取り出して、元の棚に戻した。

ラベルを貼る気にはならなかった。

名前を書くというのは、数に入れるということだ。

あの記念誌の写真で、名前を書かれなかった一人のことを思い出した。

書かなかったのか、書けなかったのか。

どちらにしても、島の人たちはそれを選んだのだと思う。

部室を出るとき、廊下は静かだった。

雨はまだ降っていた。

階段を下りながら、私は自分の足音を聞いていた。

コンクリートの踊り場で、一度だけ立ち止まった。

足音が、二歩ぶん先まで続いてから止まった。

私は振り返らなかった。

振り返って数えてしまえば、そこに数が生まれる。

そんな気がしたからだ。

そのまま階段を下りて、傘も差さずに雨の中へ出た。

その夜、私は部室の鍵を返しに行った職員室で、警備の人に聞かれた。

「今日、部室に何人おられました」

「一人です」

「そうですか」

警備の人は、手元の記録を見ていた。

「いや、モニターに二人写っとったように見えたもんで」

私は何も答えられなかった。

「まあ、影でしょうな」

そう言って、その人は記録に判を押した。

家に帰って、私は自分の撮ったロケハンの候補地リストを開いた。

瀬戸内の島は、全部消した。

それでも、夏の合宿は結局、別の場所で無事に済んだ。

何も起きなかった。

ただ、記録係だった後輩が、編集の途中で一度だけ私に聞いてきた。

「先輩、今回って何人で行きましたっけ」

「九人」

「ですよね」

後輩は、それ以上は何も言わなかった。

私も、何も聞かなかった。

私はそれから、あの棚を二度と開けていない。

ただ、去年の合宿の集合写真だけは、卒業アルバムの係に頼んで確認した。

先輩たちが、崩れた石垣の前に並んで撮った一枚だ。

アルバムの係は、ページを開いて私に見せてくれた。

付箋がついていて、下に人数が印刷されていた。

写っていたのは、六人だった。

数は合っている。

合っているのに、いちばん端の一人だけ、影が二つ伸びていた。

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