無人マンション

私の仕事は、ずれを見つけることだ。

印刷会社の校正部にいる。

入稿された原稿と、刷り上がったゲラを並べて、一文字ずつ突き合わせる。

数字が一つ違う。

行が一つ落ちている。

そういうものを、一日中探している。

だから私は、日常の中の小さなずれに、少しばかり気づきやすい。

その癖がなければ、あの棟のことにも気づかずに済んだのだと思う。

校正には、原稿を読まずに突き合わせるという技術がある。

意味を追ってしまうと、脳が勝手に文章を補ってしまうからだ。

だから記号として見る。

形と、数と、位置だけを見る。

意味を考えないほうが、ずれはよく見える。

この話も、意味を考えないほうがいいのだと思う。

会社の借り上げ社宅は、埋立地の端にあった。

五棟が横一列に並んだ、築四十年ほどの団地だ。

元は造船関係の会社が建てたものらしく、玄関の扉がやけに重い。

私が入ったのは二号棟の三階だった。

間取りは二DKで、独り身には十分すぎた。

台所の窓から、三号棟の側面がちょうど正面に見える。

入居の日、私はその窓を開けて、しばらく風を入れていた。

潮の匂いがした。

案内してくれた不動産屋は、駐車場を横切りながら棟を指さした。

「一号棟、二号棟、四号棟、五号棟です」

「三号棟は」

「三号棟は、来年から解体で。もう誰も住んどりません」

見上げると、その棟だけ窓に何もなかった。

カーテンも、洗濯物も、エアコンの室外機さえない。

抜かれた歯みたいに、そこだけ黒く見えた。

「いつから空いてるんですか」

「三年前ですね。順番に移ってもらいまして」

「順番に」

「上の階の方から先に。下の階のほうが人気ありますでしょ」

私はうなずいた。

そのときは、引っ越しの話として聞いていた。

「十階建てですか」

「九階までですね。ほかは八階までなんですが、あれだけ一つ高いんです」

そのときは、ただの設計の都合だと思った。

私の帰りはいつも遅い。

校了前になると、終電の一本前になることも珍しくない。

駅から社宅までは、街灯の少ない道を十五分歩く。

その道の途中で、三号棟は必ず視界に入る。

十月の終わりだった。

いつものように坂を下りていて、私はふと足を止めた。

三号棟の、いちばん上の階に、灯りが点いていた。

白っぽい、蛍光灯の色だった。

私は立ち止まったまま、しばらくそれを見ていた。

その棟には、窓ガラスがまだ入っていた。

灯りは、そのガラス越しに滲んで見えた。

部屋の中央から漏れる、天井の灯りの光り方だった。

解体前の点検で、業者が入っているのだろうと考えた。

時刻は、零時を回っていた。

点検にしては、遅すぎる時間だった。

それに、灯りは一部屋だけだ。

点検で入るなら、廊下や階段にも灯りが要る。

翌朝、私は寝不足のまま出社した。

その日は数字の多いカタログの校正で、単位の誤りを二か所見つけた。

上司には褒められたが、あまり嬉しくなかった。

頭の隅に、あの灯りの位置が残っていた。

私はその晩、部屋に戻ってからベランダに出た。

二号棟の三階から、三号棟は斜めに見える。

灯りは、まだ点いていた。

三十分ほど見ていたが、人影は一度も横切らなかった。

朝になって窓を見ると、灯りは消えていた。

次の週、工事が始まった。

棟の周りに足場が組まれ、灰色の養生シートが張られていく。

朝、ゴミを出しに行くと、作業服の男性が煙草を吸っていた。

五十くらいの、日に焼けた人だった。

「うるさくてすんませんね」

「いえ。どのくらいかかるんですか」

「三か月ですね。上から順にやりますんで」

「上から」

「そら上からですよ。下から崩したら潰れてまう」

その人は笑った。

当たり前のことを聞いた私が、少し恥ずかしくなった。

「中は、もう空っぽなんですよね」

「空っぽですよ。先週、残置物も全部出しましたわ」

「電気は」

「止まっとります。止めんことには危のうて壊せませんわ」

その言葉を、私はあとで何度も思い返すことになる。

「上から順に、追い出しとるんですわ」

そう言って、その人は煙草を消した。

建物の中の空気を、という意味だったのだと思う。

その週の金曜、帰り道でまた灯りを見た。

九階ではなかった。

八階に点いていた。

私は職業柄、こういうときに数える。

屋上の手すりから、窓の段を下へ。

一、二。

間違いなく八階だった。

そして、九階部分にはもう窓がなかった。

上の一層が、その週のうちに崩されていたのだ。

私は、そこで手帳を使い始めた。

校正のときと同じやり方だ。

日付と、灯りの階と、解体の進んだ階を、三列に並べて書く。

十月三十一日、灯り九階、解体前。

十一月七日、灯り八階、九階解体済み。

十一月十四日、灯り七階、八階解体済み。

十一月二十一日、灯り六階、七階解体済み。

並べてみると、ずれが一つもなかった。

灯りは常に、その時点でいちばん上に残っている階に点いている。

誤植のない原稿を見たときのような、居心地の悪さがあった。

校正をしていると、たまにそういう原稿に当たる。

三十ページ通して、一字の誤りもない。

そういうとき、私たちはむしろ疑う。

見落としているのは、こちらのほうではないかと。

この手帳も、同じだった。

規則が完璧すぎて、私は自分の目を疑い始めた。

会社の同僚に、一度だけこの話をした。

「工事の灯りやろ。作業員が使うてるんちゃう」

「上から順に降りるんですよ」

「そら上から壊しとるからやん」

言われてみればそのとおりで、私は納得しかけた。

納得しかけて、それでも夜になると数えていた。

年末に、私は市の図書館へ行った。

この団地の来歴が知りたかった。

郷土資料の棚に、造船所の社史があった。

厚い箱入りの本で、借りている人はいなかった。

社宅の項に、竣工当時の配置図が載っていた。

五棟の平面図が、横一列に並んでいる。

私はそこで、手が止まった。

図には、六棟あった。

一号棟から五号棟までの西側に、もう一棟。

そこには番号が振られていない。

凡例にも記載がなかった。

本文を探すと、竣工の翌年に一棟が解体されたという一行だけが見つかった。

理由は書かれていない。

そのあとに、こうあった。

解体は上層階より順次実施した、と。

コピーを取ろうとして、やめた。

持ち帰りたくなかった。

私はその一行を、何度も読み返した。

普通、社史にそんなことは書かない。

どの建物も、解体は上からに決まっているからだ。

わざわざ書いたということは、そこが要点だったということになる。

司書の方に頼んで、当時の写真がないか調べてもらった。

竣工記念の一枚が出てきた。

横一列に並んだ棟を、正面から撮った写真だ。

私は棟を数えた。

六棟あった。

いちばん西の棟だけ、他より一層高い。

写真の下に、階数が書き添えてあった。

九階建て、とある。

私はその晩、団地に帰ってから、三号棟を見上げた。

九階建ての棟が、また一つ、この土地に建っていた。

いつ建て直されたのかは、どの資料にも書かれていない。

不動産屋にも聞いてみた。

「三号棟って、いつ建ったんですか」

「ほかの棟と同時ですよ。全部一緒です」

「でも、あそこだけ一階多いですよね」

「そうでしたかね」

電話の向こうで、書類をめくる音がした。

「うちの資料やと、全部八階建てになっとりますけど」

私は礼を言って電話を切った。

その晩も、灯りは九階から数えて三つ目に点いていた。

十二月に入って、私はもう一つのことに気づいた。

灯りの点いている部屋のベランダに、白いものが掛かっている。

双眼鏡を買って、確かめた。

タオルだった。

白い、細長い、ごく普通のフェイスタオルだ。

風のある晩でも、それはほとんど揺れなかった。

濡れているのだと思う。

手すりの、左から三本目のところに、一枚だけ掛かっている。

その翌週、灯りは一つ下の階に移っていた。

タオルも、一つ下の階の手すりに移っていた。

左から三本目。

同じ位置に、同じ一枚が掛かっていた。

私は写真に撮って、前の週の写真と並べた。

校正と同じやり方だ。

二枚を重ねて、ずらして、違いを探す。

タオルの端のほつれ方まで、同じだった。

階だけが、一つ下がっていた。

ある晩、私は音を聞いた。

養生シートの内側から、機械の唸る音がした。

低く、ゆっくりと巻き上げるような音だ。

それが止まって、少し間があって、また鳴る。

エレベーターだ、と思った。

思ってから、おかしいことに気づいた。

解体中の棟は、電気も水道も止めてある。

作業員が言っていた。

止めんことには危のうて壊せませんわ、と。

私は道の真ん中で立ち尽くしていた。

音は、三回鳴って止まった。

三回というのが、私にはひっかかった。

その週、灯りは四階に点いていた。

四階から一階まで、下りる回数は三回だ。

いや、そんなふうに数えるのはやめようと思った。

思いながら、私は数えていた。

翌朝、灯りは一つ下の階に移っていた。

その日は土曜で、工事は休みだった。

誰も壊していない日にも、灯りは下りるのだと私は知った。

年が明けて、私は例の作業員に世間話のふりで聞いてみた。

あの棟で、何か変わったことはありませんかと。

その人は、少し黙った。

「変わったことね」

「ええ」

「まあ、あるっちゃありますわ」

「たとえば」

「朝いちで入ると、いっちゃん上の階だけ、埃が積もっとらんのですわ」

私は返事ができなかった。

「そら毎日、下の階から粉塵が上がりますからね。普通は逆なんですけど」

「掃除は」

「せんですよ。壊す建物ですもん」

その人は肩をすくめた。

「まあ、風の通り道でしょ」

ただ、別れ際にその人が振り返って言った。

「お兄さん、二号棟でしたよね」

「はい」

「何階です」

「三階です」

その人は、少しだけ間を置いてうなずいた。

「まあ、下のほうがええですわ」

意味を聞き返す前に、その人は現場へ戻っていった。

それきり、その話はしなかった。

二月の半ばに、三号棟は二階まで下がった。

灯りも、二階に点いていた。

その頃には、双眼鏡を持って出るのが習慣になっていた。

鞄の内ポケットに、いつも入れていた。

同僚に見つかったときは、野鳥観察だと嘘をついた。

私は毎晩、その灯りを数えるようになっていた。

数えないと落ち着かなかった。

そして、私はある夜、一つだけ手帳のずれを見つけた。

二月十三日の欄だ。

灯りは二階に点いていた。

けれど作業の進捗は、その日の時点でまだ三階を壊している途中だった。

つまりその晩、灯りは、まだ残っている三階を飛ばして、二階に点いていたことになる。

初めて、規則が破れた。

あとから考えれば、規則が破れたのではなかった。

三階を飛ばしたのではなく、三階にはもう用がなかったのだ。

その日の午後、作業の記録によれば、三階の床板だけが先に抜かれていた。

壁は残っていても、床がなければ、そこには立てない。

灯りは、立てる場所にしか点かない。

そう考えると、規則は一度も破れていなかった。

私は手帳を閉じて、その週はカーテンを開けなくなった。

三月の第一週で、三号棟はなくなった。

基礎まで掘り返されて、そこは平らな土になった。

養生シートも足場も撤去されて、視界が急に広くなった。

夜、駅から歩いて帰るとき、私は何度もその空白を見た。

灯りはなかった。

当たり前だ。

建物がないのだから。

私は、ようやく終わったのだと思った。

更地になった土地は、思っていたより狭かった。

九階建てが載っていたとは思えないほどの、四角い空白だった。

フェンスが張られて、雑草の種が蒔かれていた。

近所の子どもが、フェンス越しに石を投げて遊んでいた。

誰も、その土地のことを気にしていなかった。

その晩は、久しぶりによく眠れた。

それから四日後の夜だった。

坂を下りていて、私はまた足を止めた。

灯りが点いていた。

更地のほうではない。

私の住む、二号棟だった。

いちばん上、八階の、いちばん端の部屋。

そこは去年から空き部屋になっている。

白っぽい、蛍光灯の色だった。

私は、ベランダを見た。

手すりの、左から三本目。

白いタオルが一枚、掛かっていた。

私は双眼鏡を下ろして、しばらく道の上に立っていた。

そのとき初めて、自分が何を見ていたのかがわかった気がした。

あれは、建物に憑いていたのではない。

建物は、ただの階段だったのだ。

上から下へ降りるための、九段の階段。

降りきってしまえば、次の階段に移る。

私は次の日から、また手帳を開いた。

三月十日、灯り八階。

三月十七日、灯り七階。

三月二十四日、灯り六階。

二号棟の解体予定はない。

工事もしていない。

それでも、灯りは一週間に一階ずつ、確実に下りてくる。

八階の部屋には、去年まで年配の男性が住んでいた。

去年の秋に、下の階の空き部屋へ移っている。

管理人に理由を聞いたら、膝が悪いからだと言われた。

それはそうなのだと思う。

ただ、その人が移ったのは十月の終わりだった。

三号棟の九階に、初めて灯りが点いた週だ。

上から順に、追い出しとるんですわ。

あの人の言葉を、私は毎晩思い出す。

建物を壊しているあいだ、あれは上から順に追い立てられていたのだと思っていた。

けれど、順番は初めから決まっていたのかもしれない。

壊す壊さないに関係なく、あれはただ、上から下へ降りていくものなのだ。

三号棟が九階建てだった理由も、たぶんそこにある。

一つ高くしておけば、下りきるまでに一週間多くかかる。

今週、灯りは四階に点いている。

私の部屋は三階だ。

会社に事情を話して、来月には引っ越すつもりでいる。

総務には、社宅を出るなら手当が減ると言われた。

理由を聞かれたので、日当たりが悪いからと答えた。

本当のことを話しても、あの同僚と同じ返事が返ってくるだけだ。

そら上から壊しとるからやん、と。

けれど、二号棟は壊していない。

誰も壊していないのに、上の階から順に空いていく。

ただ、一つだけ気になっていることがある。

昨日の朝、玄関を出るときに気づいた。

うちのベランダの手すりを、私は数えたことがなかった。

数えてしまえば、左から三本目がどこなのか、わかってしまう。

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