私の仕事は、ずれを見つけることだ。
印刷会社の校正部にいる。
入稿された原稿と、刷り上がったゲラを並べて、一文字ずつ突き合わせる。
数字が一つ違う。
行が一つ落ちている。
そういうものを、一日中探している。
だから私は、日常の中の小さなずれに、少しばかり気づきやすい。
その癖がなければ、あの棟のことにも気づかずに済んだのだと思う。
校正には、原稿を読まずに突き合わせるという技術がある。
意味を追ってしまうと、脳が勝手に文章を補ってしまうからだ。
だから記号として見る。
形と、数と、位置だけを見る。
意味を考えないほうが、ずれはよく見える。
この話も、意味を考えないほうがいいのだと思う。
※
会社の借り上げ社宅は、埋立地の端にあった。
五棟が横一列に並んだ、築四十年ほどの団地だ。
元は造船関係の会社が建てたものらしく、玄関の扉がやけに重い。
私が入ったのは二号棟の三階だった。
間取りは二DKで、独り身には十分すぎた。
台所の窓から、三号棟の側面がちょうど正面に見える。
入居の日、私はその窓を開けて、しばらく風を入れていた。
潮の匂いがした。
案内してくれた不動産屋は、駐車場を横切りながら棟を指さした。
「一号棟、二号棟、四号棟、五号棟です」
「三号棟は」
「三号棟は、来年から解体で。もう誰も住んどりません」
見上げると、その棟だけ窓に何もなかった。
カーテンも、洗濯物も、エアコンの室外機さえない。
抜かれた歯みたいに、そこだけ黒く見えた。
「いつから空いてるんですか」
「三年前ですね。順番に移ってもらいまして」
「順番に」
「上の階の方から先に。下の階のほうが人気ありますでしょ」
私はうなずいた。
そのときは、引っ越しの話として聞いていた。
「十階建てですか」
「九階までですね。ほかは八階までなんですが、あれだけ一つ高いんです」
そのときは、ただの設計の都合だと思った。
※
私の帰りはいつも遅い。
校了前になると、終電の一本前になることも珍しくない。
駅から社宅までは、街灯の少ない道を十五分歩く。
その道の途中で、三号棟は必ず視界に入る。
十月の終わりだった。
いつものように坂を下りていて、私はふと足を止めた。
三号棟の、いちばん上の階に、灯りが点いていた。
白っぽい、蛍光灯の色だった。
私は立ち止まったまま、しばらくそれを見ていた。
その棟には、窓ガラスがまだ入っていた。
灯りは、そのガラス越しに滲んで見えた。
部屋の中央から漏れる、天井の灯りの光り方だった。
解体前の点検で、業者が入っているのだろうと考えた。
時刻は、零時を回っていた。
点検にしては、遅すぎる時間だった。
それに、灯りは一部屋だけだ。
点検で入るなら、廊下や階段にも灯りが要る。
翌朝、私は寝不足のまま出社した。
その日は数字の多いカタログの校正で、単位の誤りを二か所見つけた。
上司には褒められたが、あまり嬉しくなかった。
頭の隅に、あの灯りの位置が残っていた。
私はその晩、部屋に戻ってからベランダに出た。
二号棟の三階から、三号棟は斜めに見える。
灯りは、まだ点いていた。
三十分ほど見ていたが、人影は一度も横切らなかった。
朝になって窓を見ると、灯りは消えていた。
※
次の週、工事が始まった。
棟の周りに足場が組まれ、灰色の養生シートが張られていく。
朝、ゴミを出しに行くと、作業服の男性が煙草を吸っていた。
五十くらいの、日に焼けた人だった。
「うるさくてすんませんね」
「いえ。どのくらいかかるんですか」
「三か月ですね。上から順にやりますんで」
「上から」
「そら上からですよ。下から崩したら潰れてまう」
その人は笑った。
当たり前のことを聞いた私が、少し恥ずかしくなった。
「中は、もう空っぽなんですよね」
「空っぽですよ。先週、残置物も全部出しましたわ」
「電気は」
「止まっとります。止めんことには危のうて壊せませんわ」
その言葉を、私はあとで何度も思い返すことになる。
「上から順に、追い出しとるんですわ」
そう言って、その人は煙草を消した。
建物の中の空気を、という意味だったのだと思う。
※
その週の金曜、帰り道でまた灯りを見た。
九階ではなかった。
八階に点いていた。
私は職業柄、こういうときに数える。
屋上の手すりから、窓の段を下へ。
一、二。
間違いなく八階だった。
そして、九階部分にはもう窓がなかった。
上の一層が、その週のうちに崩されていたのだ。
※
私は、そこで手帳を使い始めた。
校正のときと同じやり方だ。
日付と、灯りの階と、解体の進んだ階を、三列に並べて書く。
十月三十一日、灯り九階、解体前。
十一月七日、灯り八階、九階解体済み。
十一月十四日、灯り七階、八階解体済み。
十一月二十一日、灯り六階、七階解体済み。
並べてみると、ずれが一つもなかった。
灯りは常に、その時点でいちばん上に残っている階に点いている。
誤植のない原稿を見たときのような、居心地の悪さがあった。
校正をしていると、たまにそういう原稿に当たる。
三十ページ通して、一字の誤りもない。
そういうとき、私たちはむしろ疑う。
見落としているのは、こちらのほうではないかと。
この手帳も、同じだった。
規則が完璧すぎて、私は自分の目を疑い始めた。
会社の同僚に、一度だけこの話をした。
「工事の灯りやろ。作業員が使うてるんちゃう」
「上から順に降りるんですよ」
「そら上から壊しとるからやん」
言われてみればそのとおりで、私は納得しかけた。
納得しかけて、それでも夜になると数えていた。
※
年末に、私は市の図書館へ行った。
この団地の来歴が知りたかった。
郷土資料の棚に、造船所の社史があった。
厚い箱入りの本で、借りている人はいなかった。
社宅の項に、竣工当時の配置図が載っていた。
五棟の平面図が、横一列に並んでいる。
私はそこで、手が止まった。
図には、六棟あった。
一号棟から五号棟までの西側に、もう一棟。
そこには番号が振られていない。
凡例にも記載がなかった。
本文を探すと、竣工の翌年に一棟が解体されたという一行だけが見つかった。
理由は書かれていない。
そのあとに、こうあった。
解体は上層階より順次実施した、と。
コピーを取ろうとして、やめた。
持ち帰りたくなかった。
私はその一行を、何度も読み返した。
普通、社史にそんなことは書かない。
どの建物も、解体は上からに決まっているからだ。
わざわざ書いたということは、そこが要点だったということになる。
※
司書の方に頼んで、当時の写真がないか調べてもらった。
竣工記念の一枚が出てきた。
横一列に並んだ棟を、正面から撮った写真だ。
私は棟を数えた。
六棟あった。
いちばん西の棟だけ、他より一層高い。
写真の下に、階数が書き添えてあった。
九階建て、とある。
私はその晩、団地に帰ってから、三号棟を見上げた。
九階建ての棟が、また一つ、この土地に建っていた。
いつ建て直されたのかは、どの資料にも書かれていない。
不動産屋にも聞いてみた。
「三号棟って、いつ建ったんですか」
「ほかの棟と同時ですよ。全部一緒です」
「でも、あそこだけ一階多いですよね」
「そうでしたかね」
電話の向こうで、書類をめくる音がした。
「うちの資料やと、全部八階建てになっとりますけど」
私は礼を言って電話を切った。
その晩も、灯りは九階から数えて三つ目に点いていた。
※
十二月に入って、私はもう一つのことに気づいた。
灯りの点いている部屋のベランダに、白いものが掛かっている。
双眼鏡を買って、確かめた。
タオルだった。
白い、細長い、ごく普通のフェイスタオルだ。
風のある晩でも、それはほとんど揺れなかった。
濡れているのだと思う。
手すりの、左から三本目のところに、一枚だけ掛かっている。
その翌週、灯りは一つ下の階に移っていた。
タオルも、一つ下の階の手すりに移っていた。
左から三本目。
同じ位置に、同じ一枚が掛かっていた。
私は写真に撮って、前の週の写真と並べた。
校正と同じやり方だ。
二枚を重ねて、ずらして、違いを探す。
タオルの端のほつれ方まで、同じだった。
階だけが、一つ下がっていた。
※
ある晩、私は音を聞いた。
養生シートの内側から、機械の唸る音がした。
低く、ゆっくりと巻き上げるような音だ。
それが止まって、少し間があって、また鳴る。
エレベーターだ、と思った。
思ってから、おかしいことに気づいた。
解体中の棟は、電気も水道も止めてある。
作業員が言っていた。
止めんことには危のうて壊せませんわ、と。
私は道の真ん中で立ち尽くしていた。
音は、三回鳴って止まった。
三回というのが、私にはひっかかった。
その週、灯りは四階に点いていた。
四階から一階まで、下りる回数は三回だ。
いや、そんなふうに数えるのはやめようと思った。
思いながら、私は数えていた。
翌朝、灯りは一つ下の階に移っていた。
その日は土曜で、工事は休みだった。
誰も壊していない日にも、灯りは下りるのだと私は知った。
※
年が明けて、私は例の作業員に世間話のふりで聞いてみた。
あの棟で、何か変わったことはありませんかと。
その人は、少し黙った。
「変わったことね」
「ええ」
「まあ、あるっちゃありますわ」
「たとえば」
「朝いちで入ると、いっちゃん上の階だけ、埃が積もっとらんのですわ」
私は返事ができなかった。
「そら毎日、下の階から粉塵が上がりますからね。普通は逆なんですけど」
「掃除は」
「せんですよ。壊す建物ですもん」
その人は肩をすくめた。
「まあ、風の通り道でしょ」
ただ、別れ際にその人が振り返って言った。
「お兄さん、二号棟でしたよね」
「はい」
「何階です」
「三階です」
その人は、少しだけ間を置いてうなずいた。
「まあ、下のほうがええですわ」
意味を聞き返す前に、その人は現場へ戻っていった。
それきり、その話はしなかった。
※
二月の半ばに、三号棟は二階まで下がった。
灯りも、二階に点いていた。
その頃には、双眼鏡を持って出るのが習慣になっていた。
鞄の内ポケットに、いつも入れていた。
同僚に見つかったときは、野鳥観察だと嘘をついた。
私は毎晩、その灯りを数えるようになっていた。
数えないと落ち着かなかった。
そして、私はある夜、一つだけ手帳のずれを見つけた。
二月十三日の欄だ。
灯りは二階に点いていた。
けれど作業の進捗は、その日の時点でまだ三階を壊している途中だった。
つまりその晩、灯りは、まだ残っている三階を飛ばして、二階に点いていたことになる。
初めて、規則が破れた。
あとから考えれば、規則が破れたのではなかった。
三階を飛ばしたのではなく、三階にはもう用がなかったのだ。
その日の午後、作業の記録によれば、三階の床板だけが先に抜かれていた。
壁は残っていても、床がなければ、そこには立てない。
灯りは、立てる場所にしか点かない。
そう考えると、規則は一度も破れていなかった。
私は手帳を閉じて、その週はカーテンを開けなくなった。
※
三月の第一週で、三号棟はなくなった。
基礎まで掘り返されて、そこは平らな土になった。
養生シートも足場も撤去されて、視界が急に広くなった。
夜、駅から歩いて帰るとき、私は何度もその空白を見た。
灯りはなかった。
当たり前だ。
建物がないのだから。
私は、ようやく終わったのだと思った。
更地になった土地は、思っていたより狭かった。
九階建てが載っていたとは思えないほどの、四角い空白だった。
フェンスが張られて、雑草の種が蒔かれていた。
近所の子どもが、フェンス越しに石を投げて遊んでいた。
誰も、その土地のことを気にしていなかった。
その晩は、久しぶりによく眠れた。
※
それから四日後の夜だった。
坂を下りていて、私はまた足を止めた。
灯りが点いていた。
更地のほうではない。
私の住む、二号棟だった。
いちばん上、八階の、いちばん端の部屋。
そこは去年から空き部屋になっている。
白っぽい、蛍光灯の色だった。
私は、ベランダを見た。
手すりの、左から三本目。
白いタオルが一枚、掛かっていた。
私は双眼鏡を下ろして、しばらく道の上に立っていた。
そのとき初めて、自分が何を見ていたのかがわかった気がした。
あれは、建物に憑いていたのではない。
建物は、ただの階段だったのだ。
上から下へ降りるための、九段の階段。
降りきってしまえば、次の階段に移る。
※
私は次の日から、また手帳を開いた。
三月十日、灯り八階。
三月十七日、灯り七階。
三月二十四日、灯り六階。
二号棟の解体予定はない。
工事もしていない。
それでも、灯りは一週間に一階ずつ、確実に下りてくる。
八階の部屋には、去年まで年配の男性が住んでいた。
去年の秋に、下の階の空き部屋へ移っている。
管理人に理由を聞いたら、膝が悪いからだと言われた。
それはそうなのだと思う。
ただ、その人が移ったのは十月の終わりだった。
三号棟の九階に、初めて灯りが点いた週だ。
上から順に、追い出しとるんですわ。
あの人の言葉を、私は毎晩思い出す。
建物を壊しているあいだ、あれは上から順に追い立てられていたのだと思っていた。
けれど、順番は初めから決まっていたのかもしれない。
壊す壊さないに関係なく、あれはただ、上から下へ降りていくものなのだ。
三号棟が九階建てだった理由も、たぶんそこにある。
一つ高くしておけば、下りきるまでに一週間多くかかる。
※
今週、灯りは四階に点いている。
私の部屋は三階だ。
会社に事情を話して、来月には引っ越すつもりでいる。
総務には、社宅を出るなら手当が減ると言われた。
理由を聞かれたので、日当たりが悪いからと答えた。
本当のことを話しても、あの同僚と同じ返事が返ってくるだけだ。
そら上から壊しとるからやん、と。
けれど、二号棟は壊していない。
誰も壊していないのに、上の階から順に空いていく。
ただ、一つだけ気になっていることがある。
昨日の朝、玄関を出るときに気づいた。
うちのベランダの手すりを、私は数えたことがなかった。
数えてしまえば、左から三本目がどこなのか、わかってしまう。