
今からちょうど三十年ほど前のことだ。
当時の俺は二十三歳で、農業機械メーカーの営業マンとして就職して一年目だった。
担当エリアが東北の山間地域で、農家を一軒一軒回っては耕運機やトラクターの売り込みをする日々だった。都市部育ちの俺には、慣れない仕事だった。
その日は東北某県の山深い集落への訪問が入っていた。県庁所在地から車で一時間半ほど、峠を二つ越えた先にある小さな農家が客先だ。
いまのようなカーナビはない。助手席に広げた地図を片目で確認しながら、細い山道を走っていた。十月の山間は木々がもうすっかり色づいていて、陽が傾くにつれて急に肌寒くなってきた。
午後四時を回ったころだった。
エンジンが突然止まった。
バッテリーが上がったのだ。アクセルを踏んでも手応えがなく、ハンドルだけが重くなった。俺は慌てて路肩に車を寄せ、何度もエンジンをかけ直してみたが、もうどうにもならなかった。
携帯電話などというものがない時代だ。ポケットには財布と免許証しかなかった。
どうしたものかと地図を見ると、山を下りた先の谷あいに小さな集落が記されている。距離にして三キロほどか。歩けない距離ではない。俺は車にハザードランプをつけて鍵をかけ、歩いて下りることにした。
今思えば、その判断が正しかったのかどうか、今でも分からない。
山道には街灯がなかった。
歩き始めると、思っていたより静かだった。風が吹くたびに枯れ葉が舞い、遠くで鳥の声がした。それ以外に音はない。車の音も人の声も、何もなかった。
二十分ほど山道を下りたところで、段々畑が見えてきた。
山の傾斜を切り拓いた細長い畑が、幾段にも重なって広がっている。収穫が終わった後らしく、どの段も枯れた茎だけが残っていた。畑の向こうは杉林で、その稜線の向こうに、橙と紫が混ざり合った空が見えた。
俺はその段々畑の脇を通る農道を下りながら、早く電話を借りなければと思っていた。だから最初は、それをちゃんと見ていなかった。
段々畑の上の段。枯れた茎の合間に、人が立っていた。
ピンクというか、くすんだ朱色の古い作業着のような服を着た人影だ。背丈は普通の大人くらいある。俺は「農家の人かな」と思い、声をかけようとした。
そのとき、その人影が動き始めた。
腰を左右に、ゆっくりとくねらせている。両腕をわずかに広げて、体全体で弧を描くような動きだ。体操か、あるいはストレッチか。そう思ったのは一瞬だった。
次の瞬間、俺は気づいた。
その人影は、片足で立っていた。
もう片方の足を曲げたまま、ぴょこぴょこと地面を蹴りながら、こちらへ近づいてきている。腰のくねりと合わさって、なんとも形容のしがたい動きだった。
段々畑の斜面を、片足で、腰をくねらせながら、降りてきていた。
俺の足が止まった。
おかしい、と思った。しかしそれ以上に、うまく言葉にできない感覚が全身を走った。恐ろしいという気持ちより先に、ただその場から動けなくなった。
「すみません」と声をかけようとした。しかし声が出なかった。口は動いているのに、音が出てこなかった。
顔を見ようとした。
見えなかった。体や手は普通に見えるのに、頭の部分だけがぼやけている。ちょうど写真でピントがずれたときのような、あるいは激しく頭を振り続けているときのような、そういうぼんやりとした何かが顔の位置にあるだけだった。
何度も目を擦った。逆光のせいだと思いたかった。それでも顔は見えなかった。
それが段々畑の二段目まで差し掛かったとき、俺はふと案山子という言葉を思い出した。農村には案山子が立っている。風で揺れるから動いているように見えたのかもしれない。そう言い聞かせようとした。
だがそれは動いていた。意志を持って、こちらへ向かって。
どうやって意識を失ったのかは、今でも分からない。
※
気づいたら、見知らぬ家の縁側に寝かされていた。
老人が俺の顔を覗き込んでいた。七十代くらいの、腰の曲がった農家のじいさんだった。俺が目を開けると、「ああ、よかった」と言って立ち上がった。
聞くと、農道に倒れているところを見つけて、背負って連れてきてくれたらしかった。
俺は体を起こし、段々畑で見た人影のことを話した。片足で近づいてきた。顔が見えなかった。そう言うと、老人はしばらく黙っていた。
「田の番だ」と、老人は静かに言った。
田の番とは、畑を守る存在だという。この山間の集落では昔から、不作が続いたり野獣に畑を荒らされたりすると、田の番が現れるという言い伝えがあった。
「なぜ顔が見えないんですか」と、俺は聞いた。
老人はお茶を啜り、少し間を置いてから言った。
「昔はな、本物の人間を使ったんだ。役に立たなくなった者を、畑の杭に縛り付けて立てた。片足を切って。そうすると逃げられないから、腰をくねらせながらそこに立ち続ける。それが獣除けになったと言われてる。死ぬまで」
俺は何も言えなかった。
「顔は見えないように布を巻いてあった。顔が見えると、情が移ってできなくなるからな。そういう者が代々、田の番になって、畑を守り続けているんだと言われてる。土地に縛られてな」
老人は俺の顔をまっすぐ見て、穏やかな声で続けた。
「近くまで来たのか。それは運が良かった。気を失ったから連れて行かれなかったんだ。意識があるまま近づかれたら、一緒に田の番をさせられるぞ」
老人はそこで急須を置いた。
「なぜ、あんたが倒れていたのが不思議でな」と老人は言った。「あそこまで近づいて気を失うのは、珍しい」
俺は意味が分からなかった。珍しい、というのはどういうことだろう。
「大体の人はな、気を失う前に自分から引き込まれていくんだ。気づいたら畑の中に入っていて、杭の前に立っている。そこから先は、俺たちには手が出せない」
老人は窓の外の段々畑を一瞬だけ見てから、また俺の方に向き直った。
「あんたが倒れてたのは農道の上だった。畑の外だ。だから助けられた」
その夜は老人の家に泊めてもらった。翌朝、会社の同僚が車で迎えに来た。俺は老人に礼を言い、集落を後にした。
帰りの車の中で、同僚に昨夜の話をした。
同僚は少し笑ってから、「そういう田舎の話は大抵作り話だよ」と言った。
俺もそうかもしれないと思った。ただ、農道の上で倒れていたことだけは確かで、顔が見えなかったことだけは、今でも思い出せる。
※
その集落を再び訪れたのは、三年後のことだ。
別の客先への出張のついでに、老人の家を訪ねようと思った。だが集落に入ったとたん、何かがおかしいと気づいた。
家々は残っているのに、人の気配がない。
どの家も表札がはずされていた。畑は荒れ放題で、雑草が腰の高さまで伸びている。軒先に干してあったはずの農具も消えていた。
廃村になっていた。
理由は分からなかった。過疎化が進んでいたのは確かだが、あんなに急に全員いなくなるだろうか。近くの農協に立ち寄って聞いても、「いつの間にかみんないなくなった」としか教えてもらえなかった。
あの段々畑に目をやると、枯れた茎の合間に、古い木の杭が何本か並んでいた。
杭のひとつに、くすんだ朱色の布のようなものが引っかかっているのが見えた。
風が吹いた。布が、ゆっくりと左右に揺れた。
俺はそれ以上近づかなかった。そのまま車に乗り込み、来た道を戻った。
今でも、あの段々畑の景色は鮮明に思い出せる。ただ、どうしても思い出せないことが一つある。
あの人影は、杭の近くから近づいてきたのだろうか、それとも畑の真ん中から現れたのだろうか。
三十年経っても、そこだけがどうしても思い出せない。