カルテに混ざる名

静かな廊下の幽玄な孤独

勤めている病院の旧棟が、来月取り壊されることになった。

築四十年を超える古い建物で、廊下の床は歩くたびに小さく軋む。

窓枠はどこも傾いていて、雨の日にはカタカタと細かく鳴る。

もう七年、私は同じフロアで夜勤をしている。

新棟の方が広くて明るくて、誰もが移りたがっていた。

けれど、最後の二週間だけは、誰かが旧棟の患者を看なければならなかった。

残っているのは長期入院のお年寄りが三人と、一時的に転棟してきた方が一人。

ほとんどが既に新棟へ移ったあとで、フロアは半分以上が空室になっていた。

「希望者がいないなら、私が入りますよ」

そう言って、私はその夜勤を引き受けた。

面倒なシフトを買って出る人間は、少しは重宝される。

そういう損得ばかり考えていた時期だったと思う。

※

夜の九時を回ると、旧棟は嘘のように静かになる。

新棟の方からは時々ストレッチャーの音や、非常階段の扉が閉まる音が漏れてくる。

けれど、こちら側は本当に何も聞こえなかった。

空調の風音さえ、新棟と比べると一段低い気がする。

ナースステーションに一人で座っていると、自分の呼吸音だけがやけにはっきり聞こえた。

気がついたのは、シフト二日目の夜だった。

ナースコールの表示盤の、いちばん左下のランプが、ほんの一瞬だけ点いてすぐ消えた。

ピッ、という呼び出し音も鳴らないまま、光だけが触れて、引いていった。

表示盤の下には、各病室の番号と、入院している患者の名前が小さく印字されている。

そのランプの位置に対応する病室は、もう半年以上前から空室のはずだった。

確認のために過去の記録を遡ったが、一週間に一度ほど、同じ部屋のランプが瞬いている。

引き継ぎノートには、誰もそのことを書き残していなかった。

装置の故障は、どこの病院でも珍しい話ではない。

そう自分に言い聞かせて、その夜は何もせずに記録だけ残した。

※

三日目の夜、新人の佐藤さんが応援で入った。

まだ二年目で、夜勤に慣れていない真面目な子だった。

引き継ぎを終えてしばらくすると、佐藤さんが患者一覧表を指さして首を傾げた。

「先輩、この方……うちのフロアの患者さんですか」

覗き込むと、四人いるはずの担当患者が、五人になっていた。

追加されているのは、中条治子、という名前だった。

入院日は三年前で、退院日の欄は空白のままになっていた。

電子カルテを開くと、確かに中条さんのカルテは存在していた。

ただし、最後の記録は三年前の春で、それ以降の処置や看護メモは一行も入っていない。

担当医の欄には、もう退職している先生の名前が残っていた。

カルテの最終ページには、点滴の指示と、簡単な体温の記録だけが残っていた。

それ以降の経過は、まるで途中で止まってしまった日記のように途切れていた。

システムの不具合だろう、と私は言った。

「経過観察が止まっているだけよ。明日、医事課に確認しておくね」

佐藤さんは少し安心したような顔で頷いた。

けれど、それから数時間後、彼女はまったく違うことを言い出した。

「奥の方の部屋、さっきから誰か呼んでません?」

表示盤を見たが、ランプはどこも点いていなかった。

耳をすませても、私には何の音も聞こえない。

佐藤さんだけが、廊下の奥を真っ直ぐに見つめていた。

「気のせいかも、しれません」

そう言いながらも、彼女の目は廊下から離れなかった。

※

その晩、私たちは一緒に病室を見回った。

旧棟の奥は廊下灯が半分間引かれていて、足音がやけに大きく響く。

暗がりに消えていく床のリノリウムが、薄く光って見えた。

佐藤さんが「ここです」と指したのは、あの空室だった。

私はドアノブに手をかけて、ゆっくり押し開けた。

中はベッドメイクが整えられたままの、何もない部屋だった。

けれど、シーツの中央に、人が一人寝ていたあとのような、薄い窪みが残っていた。

枕にも、頭の重みで沈んだ跡がある。

清掃班は前日、確かにこの部屋もチェックしている。

窓は閉まっていて、空気は冷えていて、けれど少しだけ湿っていた。

佐藤さんが「戻りましょう」と小さな声で言った。

私は無言で部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。

表示盤に戻ると、左下のランプが、ふたたび一瞬だけ瞬いて消えた。

その夜以降、私は中条さんの名前を担当一覧から外して引き継いだ。

佐藤さんには、深く尋ねないようにしてほしいと頼んだ。

翌日、医事課に問い合わせると、入院患者リストに中条さんの名前は載っていないと言われた。

けれど、電子カルテの中ではちゃんと「在院」のフラグが立ったままだった。

そのことを伝えると、相手はしばらく黙り込んでから「システムの古い残骸でしょう」と低い声で言った。

翌朝、長く勤めている先輩看護師に、それとなく聞いてみた。

「中条治子さんって、覚えてる?」

先輩は少しだけ目を伏せて、それから静かに頷いた。

「私が新人のときに看取った方よ」

「もう、ずいぶん前」

「あの病室で、ね」

それ以上、先輩は何も言わなかった。

私も、続きの言葉を持たなかった。

※

取り壊しの前日、最後の夜勤が回ってきた。

残っていた患者はすべて新棟へ移されていて、旧棟のフロアには私一人になった。

消灯時刻のあとも、念のためすべての病室を順番に覗いて回った。

どの部屋もきちんと整えられていて、ベッドの足元には新しい段ボールが置かれていた。

あすの解体作業に備えて、業者が運び出すためのものらしかった。

消灯された病室の並びを歩くと、自分の足音が誰かの足音のように後ろからついてきた。

休憩室に戻って、温いお茶を飲みながら、何気なくタブレットを開いた。

自分のIDの操作履歴を遡った瞬間、息が止まった。

三時十四分、私のIDで「中条治子」のカルテが開かれた、という記録が残っていた。

その時刻、私は休憩室の奥のソファで座って、目を閉じていた。

タブレットにも、ナースステーションのパソコンにも触れていない。

ログイン形式の欄には、ICカードと指紋による二段階認証、と表示されていた。

誰かが、私のカードと、私の指紋で、そのカルテを開いたことになっていた。

顔を上げて、表示盤の方を振り返った。

フロアじゅうのランプが、一斉に点いていた。

音はしない。

ただ赤い点が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と並んで、何かを呼んでいた。

いちばん左下、空室の表示の横にだけ、見覚えのない古い文字で病室番号が浮かんでいた。

新しい装置に切り替わる前の、旧式のラベルが残っていたのだろう。

その番号は、私の知らない番号だった。

けれど後で記録を調べたら、三年前まで、ちょうどその位置にあった病室の番号と一致していた。

※

翌朝、旧棟は予定通り取り壊された。

重機が壁に入った瞬間、私はちょうど夜勤明けで、新棟の窓からそれを見ていた。

白い埃が立ち上がって、見慣れた屋根の輪郭が、少しずつ崩れていった。

新棟へ移ってから、私はあの夜のことをほとんど誰にも話さなかった。

佐藤さんは結婚を機に退職し、しばらく顔を合わせていない。

表示盤の不具合のことは、もう引き継ぎノートにも書かれていない。

半年ほど経って、ようやく忘れかけたある夜のことだった。

夜勤明けで自宅に戻り、シャワーを浴びて寝室に入った時、業務用のタブレットの通知が鳴った。

本来、持ち帰ってはいけない端末だった。

けれどその夜は、なぜか鞄に入れたままになっていた。

暗い画面の上に、ぼんやりと文字が浮かんでいた。

「中条治子さんのカルテが閲覧されました」

時刻は、三時十四分だった。

私は、その日からIDを変えた。

ICカードも、勤務先の許可を取って、新しいものに作り替えた。

ただ、指紋を変えることだけは、どうしてもできなかった。

左の人差し指の腹に、薄く滲んだ古い傷が、まだ残っている。

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