カルテに混ざる名

静かな廊下の幽玄な孤独

勤めている病院の旧棟が、来月取り壊されることになった。

築四十年を超える古い建物で、廊下の床は歩くたびに小さく軋む。

窓枠はどこも傾いていて、雨の日にはカタカタと細かく鳴る。

もう七年、私は同じフロアで夜勤をしている。

新棟の方が広くて明るくて、誰もが移りたがっていた。

けれど、最後の二週間だけは、誰かが旧棟の患者を看なければならなかった。

残っているのは長期入院のお年寄りが三人と、一時的に転棟してきた方が一人。

ほとんどが既に新棟へ移ったあとで、フロアは半分以上が空室になっていた。

「希望者がいないなら、私が入りますよ」

そう言って、私はその夜勤を引き受けた。

面倒なシフトを買って出る人間は、少しは重宝される。

そういう損得ばかり考えていた時期だったと思う。

夜の九時を回ると、旧棟は嘘のように静かになる。

新棟の方からは時々ストレッチャーの音や、非常階段の扉が閉まる音が漏れてくる。

けれど、こちら側は本当に何も聞こえなかった。

空調の風音さえ、新棟と比べると一段低い気がする。

ナースステーションに一人で座っていると、自分の呼吸音だけがやけにはっきり聞こえた。

気がついたのは、シフト二日目の夜だった。

ナースコールの表示盤の、いちばん左下のランプが、ほんの一瞬だけ点いてすぐ消えた。

ピッ、という呼び出し音も鳴らないまま、光だけが触れて、引いていった。

表示盤の下には、各病室の番号と、入院している患者の名前が小さく印字されている。

そのランプの位置に対応する病室は、もう半年以上前から空室のはずだった。

確認のために過去の記録を遡ったが、一週間に一度ほど、同じ部屋のランプが瞬いている。

引き継ぎノートには、誰もそのことを書き残していなかった。

装置の故障は、どこの病院でも珍しい話ではない。

そう自分に言い聞かせて、その夜は何もせずに記録だけ残した。

三日目の夜、新人の佐藤さんが応援で入った。

まだ二年目で、夜勤に慣れていない真面目な子だった。

引き継ぎを終えてしばらくすると、佐藤さんが患者一覧表を指さして首を傾げた。

「先輩、この方……うちのフロアの患者さんですか」

覗き込むと、四人いるはずの担当患者が、五人になっていた。

追加されているのは、中条治子、という名前だった。

入院日は三年前で、退院日の欄は空白のままになっていた。

電子カルテを開くと、確かに中条さんのカルテは存在していた。

ただし、最後の記録は三年前の春で、それ以降の処置や看護メモは一行も入っていない。

担当医の欄には、もう退職している先生の名前が残っていた。

カルテの最終ページには、点滴の指示と、簡単な体温の記録だけが残っていた。

それ以降の経過は、まるで途中で止まってしまった日記のように途切れていた。

システムの不具合だろう、と私は言った。

「経過観察が止まっているだけよ。明日、医事課に確認しておくね」

佐藤さんは少し安心したような顔で頷いた。

けれど、それから数時間後、彼女はまったく違うことを言い出した。

「奥の方の部屋、さっきから誰か呼んでません?」

表示盤を見たが、ランプはどこも点いていなかった。

耳をすませても、私には何の音も聞こえない。

佐藤さんだけが、廊下の奥を真っ直ぐに見つめていた。

「気のせいかも、しれません」

そう言いながらも、彼女の目は廊下から離れなかった。

その晩、私たちは一緒に病室を見回った。

旧棟の奥は廊下灯が半分間引かれていて、足音がやけに大きく響く。

暗がりに消えていく床のリノリウムが、薄く光って見えた。

佐藤さんが「ここです」と指したのは、あの空室だった。

私はドアノブに手をかけて、ゆっくり押し開けた。

中はベッドメイクが整えられたままの、何もない部屋だった。

けれど、シーツの中央に、人が一人寝ていたあとのような、薄い窪みが残っていた。

枕にも、頭の重みで沈んだ跡がある。

清掃班は前日、確かにこの部屋もチェックしている。

窓は閉まっていて、空気は冷えていて、けれど少しだけ湿っていた。

佐藤さんが「戻りましょう」と小さな声で言った。

私は無言で部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。

表示盤に戻ると、左下のランプが、ふたたび一瞬だけ瞬いて消えた。

その夜以降、私は中条さんの名前を担当一覧から外して引き継いだ。

佐藤さんには、深く尋ねないようにしてほしいと頼んだ。

翌日、医事課に問い合わせると、入院患者リストに中条さんの名前は載っていないと言われた。

けれど、電子カルテの中ではちゃんと「在院」のフラグが立ったままだった。

そのことを伝えると、相手はしばらく黙り込んでから「システムの古い残骸でしょう」と低い声で言った。

翌朝、長く勤めている先輩看護師に、それとなく聞いてみた。

「中条治子さんって、覚えてる?」

先輩は少しだけ目を伏せて、それから静かに頷いた。

「私が新人のときに看取った方よ」

「もう、ずいぶん前」

「あの病室で、ね」

それ以上、先輩は何も言わなかった。

私も、続きの言葉を持たなかった。

取り壊しの前日、最後の夜勤が回ってきた。

残っていた患者はすべて新棟へ移されていて、旧棟のフロアには私一人になった。

消灯時刻のあとも、念のためすべての病室を順番に覗いて回った。

どの部屋もきちんと整えられていて、ベッドの足元には新しい段ボールが置かれていた。

あすの解体作業に備えて、業者が運び出すためのものらしかった。

消灯された病室の並びを歩くと、自分の足音が誰かの足音のように後ろからついてきた。

休憩室に戻って、温いお茶を飲みながら、何気なくタブレットを開いた。

自分のIDの操作履歴を遡った瞬間、息が止まった。

三時十四分、私のIDで「中条治子」のカルテが開かれた、という記録が残っていた。

その時刻、私は休憩室の奥のソファで座って、目を閉じていた。

タブレットにも、ナースステーションのパソコンにも触れていない。

ログイン形式の欄には、ICカードと指紋による二段階認証、と表示されていた。

誰かが、私のカードと、私の指紋で、そのカルテを開いたことになっていた。

顔を上げて、表示盤の方を振り返った。

フロアじゅうのランプが、一斉に点いていた。

音はしない。

ただ赤い点が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と並んで、何かを呼んでいた。

いちばん左下、空室の表示の横にだけ、見覚えのない古い文字で病室番号が浮かんでいた。

新しい装置に切り替わる前の、旧式のラベルが残っていたのだろう。

その番号は、私の知らない番号だった。

けれど後で記録を調べたら、三年前まで、ちょうどその位置にあった病室の番号と一致していた。

翌朝、旧棟は予定通り取り壊された。

重機が壁に入った瞬間、私はちょうど夜勤明けで、新棟の窓からそれを見ていた。

白い埃が立ち上がって、見慣れた屋根の輪郭が、少しずつ崩れていった。

新棟へ移ってから、私はあの夜のことをほとんど誰にも話さなかった。

佐藤さんは結婚を機に退職し、しばらく顔を合わせていない。

表示盤の不具合のことは、もう引き継ぎノートにも書かれていない。

半年ほど経って、ようやく忘れかけたある夜のことだった。

夜勤明けで自宅に戻り、シャワーを浴びて寝室に入った時、業務用のタブレットの通知が鳴った。

本来、持ち帰ってはいけない端末だった。

けれどその夜は、なぜか鞄に入れたままになっていた。

暗い画面の上に、ぼんやりと文字が浮かんでいた。

「中条治子さんのカルテが閲覧されました」

時刻は、三時十四分だった。

私は、その日からIDを変えた。

ICカードも、勤務先の許可を取って、新しいものに作り替えた。

ただ、指紋を変えることだけは、どうしてもできなかった。

左の人差し指の腹に、薄く滲んだ古い傷が、まだ残っている。

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