名札の裏に私の名前があった

秋の園舎で親子を見送る風景

名札は、安全ピンではなく紐で結ぶ決まりだった。

子どもの首にかけるための、木綿の細い紐だ。

私が働いていた港南ひまわり園には、名札にもう一つ決まりがあった。

名札は、卒園する子から、次に入る子へそのまま引き継ぐ。

表には、新しい子の名前を白いシールで貼る。

裏には、歴代の持ち主の名前が鉛筆で並んでいる。

名前の横には、卒園した日の日付が必ず添えてある。

名札の裏に書かれた名前は、四十年ぶん近くあるそうだ。

園長はそれを「縁をつなぐおまじない」と呼んでいた。

私が最初にその話を聞いたのは、着任した春の歓迎会だった。

隣に座った田所先生が、焼き鳥の串を持ったまま言った。

田所先生は六十代で、この園に三十年いる人だ。

「あの名札ね、たまに、来たことのない子の名前が混じるのよ」

「同じ地区の子じゃなくて、ですか」

「ううん。園児だった記録がまったくない名前」

「誰かの悪戯でしょう」

「かもね。でも、いつも子どもの字なの」

先生は串を置いて、少しだけ笑った。

「そういう名前の人はね、あとから先生になって、ここに戻ってくるって言うの」

「縁起がいい話ですね」

「そうなのよ。縁起がいいの」

田所先生はそう言って、ビールを飲み干した。

私は笑って聞き流した。

四年目の春を迎えたとき、その話はもう忘れていた。

担当は年少のひなた組、十二人。初めて、一人で受け持つクラスだった。

朝は七時半に園を開け、窓を開けて空気を入れ替える。

靴箱の札を揃え、出席簿を机に出し、連絡帳の束を日付順に並べる。

そうして毎日、同じ手順で一日が始まった。

二年前の四月、その子が来るまでは。

靴箱の前の三歳児

ミオが入園したのは、入園式の翌日だった。

三歳になったばかりの女の子で、前髪が目にかかるほど長かった。

母親は玄関で、少し申し訳なさそうに言った。

「人見知りはしないんです。ただ、手を選ぶ子で」

「手、ですか」

「ええ。握ってくれる人が、決まっているみたいで」

母親が笑ったので、私も笑って流した。

子どもにはそういう癖がある。そのくらいに思っていた。

私は名札の紐を、ミオの首にかけた。

白いシールには、ひらがなで「みお」とある。

紐を結ぶと、ミオは玄関の床を見つめたまま言った。

「ただいま」

母親が慌てて口を押さえた。

「すみません、おはようございます、でしょ」

「いいんですよ。おかえりなさい」

私がそう返すと、ミオは初めて顔を上げた。

そして、私の左手の小指だけを握った。

他の保育士が手を差し出しても、ミオは首を振った。

ミオが握るのは、いつも私の左手の小指だけだった。

母親が帰ったあとも、ミオは一度も泣かなかった。

他の子が先生の足にしがみついて泣く中、ミオだけは窓際で園庭を眺めていた。

「さびしくない?」

「ううん。ここ、しってる」

「前に来たことがあるの?」

ミオは首を横に振った。

「ない。けど、しってる」

私は「そっか」としか返せなかった。

三日目の朝、ミオは職員用の靴箱の前に立っていた。

「せんせいの、ここ」

指さしたのは、私の靴箱だった。いちばん下の段の、右から二つ目。

園児は、職員の靴箱には近づかない。

誰も、教えていないはずだった。

同僚の岡本先生が笑った。

「ミオちゃん、観察力すごいね。後ろ姿で覚えたんじゃない」

「そうかもしれませんね」

私もそう答えて、その話は笑い話で終わった。

給食の時間、ミオはにんじんだけを残した。

「かたいの、いや」

そう言って口をへの字にする顔は、どこにでもいる三歳児のものだった。

その日は、それで安心して眠れた。

ある雨の日、お絵かきの時間があった。

ミオは、画用紙いっぱいに女の人を描いた。

「これ、だあれ」

「せんせい」

絵の中の私は、園児と同じ背丈で、首から名札をさげていた。

「せんせいは、もっと大きいよ」

「ううん。ちいさいとき」

ミオは、クレヨンの先で名札のところを何度もなぞった。

名札の裏にまで色がしみるほど、強く塗っていた。

「そこは、うら。おもてじゃないよ」

そう言うと、ミオはなぜか満足そうにうなずいた。

絵は連絡帳に挟んで、母親に渡した。

母親は絵を見て、首をかしげた。

「この子、先生のこと、いつもこんなふうに描くんです」

「家でも、ですか」

「ええ。ずっと前から、何度も」

入園して一か月もたたないのに、と言いかけて、私は口を閉じた。

昼寝の時間の歌

ミオが来て三週間が過ぎた頃だった。

四月の終わりの園庭には、散りきらない桜の花びらが、砂場の縁に吹き寄せられていた。

どの子も園の暮らしに慣れ、泣く子はもういなかった。

ミオだけは、最初の日から変わらず、窓際の同じ席に座っていた。

午後の光が長くなり、教室に干したタオルの匂いが満ちていた。

昼寝の前は、いつも一騒ぎだった。

ゆうとくんは毎日、枕を頭にのせて「ぼうし」と言う。

さくらちゃんは、寝たふりのまま片目を開けて、私を見ている。

それが、ようやく静まる時間だった。

昼寝の時間、教室は静まり返っていた。

カーテン越しの光が、マットの上に格子の影を落としている。

私は部屋の隅で、連絡帳にその日のできごとを書いていた。

小さな声が聞こえた。

ミオの寝言だった。

歌っている。

「ねんねの舟は 浅瀬まで」

「ひとつ戻って また浅瀬」

ペンを持つ手が止まった。

その歌を、私は知っていた。

母方の祖母が、私にだけ歌ってくれた子守唄だ。

歌詞は祖母の作で、節にも祖母の口癖が混じっていた。

祖母は、私が小学生のうちに先に逝った。

私はその歌を、誰にも教えたことがない。

園で歌ったことも、一度もない。

ミオは目を閉じたまま、最後の一節まで正しく歌い切った。

「ひとつ戻って また浅瀬」

そこで寝返りを打ち、また静かになった。

翌日、岡本先生が廊下で首をかしげた。

「ミオちゃん、寝言で歌ってたでしょう。知らない曲だった」

「そうでしたか。私は聞こえませんでした」

嘘をついた。

言えば、何かが決まってしまう気がした。

その翌日の昼寝の時間、私は祖母の歌の出だしだけを、息だけで口ずさんでみた。

ミオの眉が、ぴくりと動いた。

眠ったまま、口もとだけが、続きを探すように動いた。

私はすぐにやめた。

胸の奥が冷たくなって、しばらく、マットの格子の影から目を離せなかった。

実家への電話

その夜、実家に電話をかけた。

母は、夕飯の片付けの途中らしかった。

「港南ひまわり園って、聞いたことある?」

「ないわよ。どうしたの、急に」

「私、そこに通ったことないよね」

「ないない。あんたは最初から最後まで、こっちの幼稚園」

「何かあったの?」

「ううん。園のことで、ちょっと気になって」

「あんた、昔から変なところで勘が鋭かったからねえ」

少しの間があった。

「あ、でも。一度だけ、変なことがあったわね」

「何」

「あんたの卒園式の日。式のあとで、急に泣き出してね」

「名札を返さなきゃ、って言って聞かないの」

「返すって、誰に」

「それがわからないのよ。あんた自身も説明できなくて」

母は声を落とした。

「園の先生が言ってたの。あんたは式のあと、誰もいない廊下で、左手の小指だけを握って離さなかった、って」

誰の指かは、母も、その先生も言わなかった。

「ねえ、お母さん。おばあちゃんの子守唄って、まだ覚えてる?」

「あれは、おばあちゃんが作ったのよ。誰にも教えなかったはずなのにね」

「あんた、三歳のとき、一度だけ寝言で歌ってたわよ」

「それとね」

「まだ何かあるの」

「あんたの卒園アルバム、最後のページに日付が手書きで入ってるでしょう」

「あれ、先生が書いてくれたのかと思ってたけど、あんたが自分で書いたんだったわ」

「小さい字で、ぎゅうぎゅうに」

「それ、いつ頃の話?」

「卒園式のあと。誰もいない廊下から戻ってきたとき、あんた、鉛筆の粉で手が真っ黒だったのよ」

母は笑っていたが、私は笑えなかった。

電話を切ってから、私は自分の左手の小指を見た。

子どもの手が握りやすい、ちょうどいい細さだった。

名札の裏の鉛筆

翌日の昼寝の時間に、ミオの名札が外れた。

あの名札の裏を、私は入園の日から一度も見ていなかった。

紐が緩んだのか、枕元に落ちていた。

結び直そうとして、何気なく裏を返した。

鉛筆の匂いがした。

削ったばかりのような、木と黒鉛の匂いだった。

四十年前の字も混じっているはずなのに。

縦に一列、古い順に名前が並んでいる。

名前の横には、卒園した日の日付が必ず添えてある。

どれも子どもの字だった。

大きさも傾きもばらばらで、筆圧の強い字ばかりだ。

いちばん下の行は、まだ空いていた。

私は指で行をたどった。

下へ、下へ。

教室では、他の子の寝息が揃っていた。

壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。

私は膝の上で名札を持ったまま、息をひそめた。

途中で、見覚えのある名前があった。

牧野ゆかり。

三年前に退職した、前任の保育士と同じ名前だった。

字は、子どもの字だった。

田所先生の声が、頭の中で繰り返された。

あとから先生になって、ここに戻ってくる。

真ん中あたりで、指が止まった。

志水ななみ。

私の名前だった。

ひらがなと漢字の混じった、五歳の字だ。

「な」の最後の払いが、紙を突き抜けそうなほど強い。

私が子どもの頃、必ずそう書いていた癖だった。

私は、この園の卒園児ではない。

実家は別の県にあり、幼稚園もそちらで卒園している。

私の卒園式の日は、実家の玄関に飾られた写真に、毎年書き添えてある。

そのことを、私は思い出した。

日付を見た。

その日付は、私が卒園した日と同じだった。

翌朝、ミオは母親と手をつないで登園した。

玄関で膝をついて、目線を合わせた。

「おはよう、ミオちゃん」

ミオは、少しだけ大人びた顔で言った。

「おかえり、せんせい」

母親は「また間違えて」と頭を下げた。

私は笑えなかった。

昼寝の前、ミオは自分で名札を外し、裏を返して、真ん中の行を指さした。

「ここ、せんせいのじゅんばんだったよ」

「だった?」

「うん。つぎは、わたし。そのつぎは、またせんせい」

ミオは首をかしげて、困ったように笑った。

「ぐるぐるだから、だいじょうぶ」

名札の裏には、その日も、私の名前が残っていた。

私の爪の先には、鉛筆の粉がついていた。

いつ触れたのか、覚えがない。

名札は、安全ピンではなく紐で結ぶ決まりだった。

ほどく役目は、いつも、あとから来る人のほうだった。

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