
うちの会社には、開かずの間がある。
嘘みたいな話だが、本当にある。
会社は三階建てで、その三階の端に資材倉庫がある。
倉庫の奥には、いつも閉まったままの扉がある。
この文章は、その開かずの間と、新人Kのことを記録したものだ。
書いておかないと、何かが薄れていく気がした。
そして、それが一番怖かった。
読んだ人が、同じ会社の人でないことを願っている。
もし、似た扉に心当たりがあるなら、どうか近づかないでほしい。
名前や場所は、伏せさせてもらう。
ただ、起きたことは、すべて事実だ。
行方不明になったKのご家族にも、会ったことがある。
母親は、Kの席に置かれていた湯呑みを、静かに持ち帰った。
その背中を、俺は黙って見送るしかなかった。
俺はまだ、あの会社に籍を置いている。
倉庫の奥にある扉
新人の頃、資材を取りに倉庫へ行った。
棚の列の突き当たりに、灰色の扉があった。
ドアノブは古く、塗装が少し剥げていた。
不思議に思って、当時の先輩に聞いてみた。
「あの扉、何の部屋ですか」
先輩は手を止めずに答えた。
「気にすんな」
それだけだった。
それ以上は、聞けない空気があった。
会社の外から見上げて、気づいたことがある。
あの日は、取引先からの帰りで、たまたま会社の裏手を歩いていた。
三階の端に、見慣れない小さな窓があるのが目に入った。
倉庫の奥の壁には、小さな窓がついている。
つまり、あの扉の先には、部屋がある。
窓には、いつも厚手のカーテンが引かれていた。
昼でも、夜でも、その様子は変わらなかった。
中を覗こうとしても、布の継ぎ目すら見えない。
それでも俺は、深くは考えなかった。
倉庫の一部だろう、と思っていた。
古い会社には、そういう部屋がひとつくらいある。
そう決めつけて、忙しさの中に忘れていった。
入社したばかりの頃の俺は、覚えることで頭がいっぱいだった。
毎朝、誰よりも早く出社して、机を拭いていた。
同期は五人いたが、倉庫の扉に気づいたのは、俺だけだった。
ほかの四人は、そこが壁の一部にしか見えなかったと言う。
言われてみれば、扉の色は、壁とほとんど同じ灰色だった。
意識して見なければ、通り過ぎてしまう造りだ。
それなのに、俺には最初から、はっきりと見えた。
資材の発注も、在庫の数え方も、すべて先輩に教わった。
倉庫に入るたびに、古い紙と鉄のにおいがした。
天井の蛍光灯は、一本だけ、いつもちかちかと瞬いていた。
その瞬きが、奥の扉のあたりで、特に目立った。
一度だけ、灯りを替えてほしいと総務に頼んだことがある。
「そこは、触らなくていいから」
総務の人は、書類から顔を上げずに言った。
理由を聞いても、同じ答えが返ってくるだけだった。
あとで知ったが、あの蛍光灯は、何年も替えられていないらしい。
年に数回、資材を取りに行くたびに、扉は視界に入った。
ある冬の日、倉庫の中が異様に冷えていたことがあった。
暖房は入っているはずなのに、息が白く曇った。
扉の前だけ、床の冷気が濃かった。
靴の裏から、冷たさが這い上がってくる。
慌てて資材を抱え、早足で倉庫を出た。
あれ以来、冬の倉庫は、なるべく避けている。
同じ日、棚の影で、微かな衣擦れの音を聞いた気がした。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
ただ、扉のノブが、少し揺れていたように思う。
昼休みに、同僚と雑談をしていて、ふと話題にしたこともある。
「三階の奥の扉、あるだろう」
「あぁ、あれな」
同僚は笑ってから、急に声を小さくした。
「あんまり話さないほうがいいぞ」
それ以上は、誰も何も言わなかった。
そうして、話題は別のことに流れていった。
そのたびに、少しだけ首筋が冷えた。
理由は、自分でも分からなかった。
扉の前の床だけ、埃が薄いことにも気づいていた。
誰かが、時々そこに立っているような跡だった。
最初は、掃除の人が通るからだと思った。
けれど、掃除の人は倉庫に入らない決まりだった。
鍵を持っているのは、資材担当の数人だけだ。
その数人も、扉の前には、立ち止まらなかった。
まるで、見えない線が引かれているようだった。
俺も、いつの間にか、そこを避けて歩くようになっていた。
けれど、気のせいだと思うことにしていた。
その後、十年近くが過ぎた。
俺は中堅と呼ばれる年齢になっていた。
扉のことは、すっかり頭の隅に沈んでいた。
新人Kと内側の鍵
今年の春、部署に新人のKが配属された。
研修を終えたばかりの、ピカピカの一年生だった。
雑用を頼むことも多く、自然と話す機会が増えた。
ある日、Kが少し言いにくそうに話しかけてきた。
「○○さん、この前、資材倉庫に行ったんですけど」
俺はすぐにピンときた。
「あの扉のことか?」
「そうです。何ですかね、あの扉」
「奥の部屋も、倉庫なんでしょうか」
昔の自分と同じだと思い、少し微笑ましくなった。
「俺もよく知らないんだ」
「昔、先輩に聞いたら、気にすんなって言われたよ」
「そうですか…」
「鍵が掛かっているみたいなんですが」
「倉庫の鍵で、開くんでしょうか」
「どうだろうな。試したことはないけど」
言いながら、自分の声が少し上ずっているのに気づいた。
Kは気づかなかったのか、そのまま続けた。
「倉庫の鍵って、申請すれば借りられますよね」
「あぁ、総務で貸出票を書けばいい」
「じゃあ、借りてみます」
Kの背中を見送りながら、少しだけ嫌な予感がした。
けれど、それは言葉にならないまま消えた。
軽い調子だったので、俺も止めなかった。
今思えば、あのとき止めておくべきだった。
「倉庫の鍵なら、開くんじゃないか」
Kは少し考えて、うなずいた。
「今度、行ってみます」
なかなか好奇心の強い奴だ。
俺も、少しだけ気になってきた。
「中に何かあったら、教えてくれよ」
半分は冗談のつもりで、そう言った。
翌日、Kがまた俺のところへ来た。
「○○さん、ダメでした」
「あの扉、倉庫の鍵では開きません」
どうやら、あの後すぐに試したらしい。
「そうか。じゃあ、別の鍵があるんだろう」
「いえ、違うんです」
Kは声を落とした。
「あの扉、こっち側からは開けられないんです」
Kは、自分の手のひらを見つめながら言った。
「ドアノブを回しても、びくともしませんでした」
「引いても、押しても、動かないんです」
「それに、扉の向こうから、何か聞こえた気がして」
「何かって、何だ」
「…カチ、って。鍵を回すような音です」
「気のせいだろう」
言い切ったものの、その音の正体を、俺は知りたくなかった。
鍵穴のない扉から、鍵を回す音がするはずがないのに。
俺は、そう答えるしかなかった。
「どういうことだ」
「鍵穴が、こちら側に無いんですよ」
俺は、背中がすっと冷えるのを感じた。
倉庫の入口には、あの蛍光灯の瞬きが浮かんだ。
扉の前の、埃の薄い床も思い出した。
内側に誰かがいるのなら、あの跡にも説明がつく。
けれど、そんなはずはない、とも思った。
人が住めるような場所ではないはずだ。
窓には明かりも点かないのだから。
鍵穴が無い。つまり、鍵は内側にある。
内側から鍵が掛かっているのなら、部屋の中に誰かがいる。
「引きこもりの人でも、いるんですかね」
Kは笑って言ったが、笑い声は乾いていた。
その日は、それ以上、何も話さなかった。
Kは自分の席に戻り、黙々と伝票を打ち始めた。
けれど、時々、手を止めて天井を見ていた。
視線の先は、三階の奥の方角だった。
俺はその横顔を、気づかないふりで見ていた。
退社するとき、Kは小さく会釈をして帰っていった。
それが、俺が見たKの最後の背中になった。
届いていたメール
俺は、もう一つの矛盾に気づいてしまった。
奥の扉を、仮に中の人間が開けられるとする。
それでも、倉庫の入口の鍵は内側から開けられない。
資材を出す時以外、倉庫はいつも施錠されている。
つまり、そいつは倉庫ごと閉じ込められている。
それとも、出入りする別の道があるのだろうか。
設計図を見れば分かるかもしれない、と考えた。
けれど、古い図面は、書庫の奥に仕舞われているはずだ。
借りるには、部長の判子がいる。
理由を聞かれたら、うまく答えられる気がしなかった。
結局、そのままにしてしまった。
それも、今になって悔やんでいる。
「それに、あの部屋、夜も明かりが点かないですよね」
Kが言った。
そう言われて、思い出した。
残業で遅くなった帰り道に、何度も窓を見上げた。
街灯の下から見ると、三階の端の窓は、真っ暗な四角に見えた。
隣の窓には、残業の灯りが点いている。
その隣の隣にも、灯りが並んでいる。
ただ、あの窓だけが、夜より暗かった。
暗闇が、そこだけ濃く固まっているようだった。
一度も、明かりが漏れていたことはなかった。
カーテンの隙間はあるのに、光だけが無い。
「気になりますね。ちょっと調べてみましょうか」
「ほどほどにしておけよ」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
翌日から、俺は三日間の出張に出た。
客先で頭を下げ、接待で不味い酒を飲んだ。
ホテルの部屋に戻っても、なかなか眠れなかった。
Kのことが、なぜか頭から離れなかった。
理由は分からない。ただ、胸の奥がざわついていた。
枕元の携帯電話を何度も手に取っては、置いた。
会社のメールを確認する余裕は、その日はなかった。
疲れた体で、そのまま眠りに落ちてしまった。
本社に戻ったとき、最初に聞いたのはこのニュースだった。
「Kが会社に来ていない」
その翌日には、別の話を聞いた。
「アパートにも、帰っていないらしい」
実家にも連絡はなく、Kは行方不明になった。
俺は、すぐにあの扉を思い浮かべた。
けれど、溜まった書類に追われて、倉庫へ行けなかった。
上司に、扉のことを話すべきか迷った。
けれど、うまく説明できる自信がなかった。
鍵が内側にある扉と、新人の行方不明を、どうつなげればいい。
笑われるか、気にするなと言われるだけだろう。
そう考えて、結局、口をつぐんでしまった。
警察も会社に来たが、資材倉庫の話は、出なかったようだ。
その間に、気づくのが遅れたものがある。
出張へ出た翌日に、Kからメールが届いていた。
出張先でも、特定の相手のメールだけは受け取れる設定にしていた。
Kは新人だったので、その対象に入れていなかった。
言い訳にしかならないが、本当にそうだった。
メールは、たった一行だった。
『あきました』
それだけが、書かれていた。
送信時刻は、俺が出発した翌日の夕方だった。
最後に確認したとき、Kはまだ倉庫にいたのだろうか。
それとも、すでに扉の向こうにいたのだろうか。
あの二文字は、扉が開いたという報告にも見える。
あるいは、俺に向けた合図だったのかもしれない。
いくら考えても、答えは出ない。
ただ、Kが最後に頼ったのが俺だったことだけは、確かだ。
その事実が、今も重くのしかかっている。
開かずの間の噂
数週間が経っても、Kは見つかっていない。
俺は、あれから倉庫に近づいていない。
扉が原因かどうかは、今も分からない。
ただ、何か関わっているという確信だけがある。
先日、昔の先輩に数年ぶりに会った。
今は支社に勤めている先輩に、Kの話をした。
先輩はしばらく黙ってから、教えてくれた。
十年ほど前にも、扉に関心を持った社員がいたそうだ。
先輩の同期で、やはり行方が分からなくなったという。
「ここは、場所が悪いんだ」
「霊が集まりやすい土地だと、聞いたことがある」
会社を設立したとき、特別な部屋を作ったそうだ。
そこに「何か」を置いて、誰も入れないようにした。
何が置かれているのかは、先輩も知らない。
先輩は、ビールのグラスを両手で包んで話していた。
その指先が、かすかに震えているのに気づいた。
「同期のあいつもな、最後に連絡をよこしたんだ」
「何て、来たんですか」
「あいた、と書いてあった」
それを聞いて、背筋が凍った。
俺のところに来た文面と、ほとんど同じだった。
先輩は、そのメールを今も消せずにいるという。
先輩は、その文面を声に出さずに、唇だけで読み返していた。
俺は何も言えず、グラスの氷が溶ける音だけを聞いていた。
社長なら知っているかもしれないが、聞けるはずがない。
会社が建ったのは、この土地が空き地だった頃のことらしい。
それ以前に何があったのかを、知る人はもういない。
ただ、古い社員の間では、昔から決まりごとがあった。
倉庫の奥には近づかないこと。
扉には触れないこと。
あの窓は見上げないこと。
誰が言い出したのかは、誰も知らない。
それでも、新入社員は毎年のように入ってくる。
そして誰かが、あの扉に気づいてしまう。
止める人間は、いつの間にか、いなくなっている。
御神体だとか、怪しげな壺だとか、噂だけは尽きなかった。
俺は、ずっと引っかかっていたことを聞いた。
「どうして、扉をつけたんでしょうか」
「部屋なんだから、扉がないとおかしいだろう」
もっともな答えだった。
もう一つ、聞いてみた。
「じゃあ、窓は、無くてもいいですよね」
先輩は、そこで黙り込んだ。
長い沈黙のあとで、低い声が返ってきた。
「誘き寄せるには、必要なんだろう」
「お前、もうあの窓は見るなよ」
「何か見えても、見なかったことにしろ」
その言葉が、耳から離れない。
窓の向こうでKが手招きする絵が、頭に浮かぶ。
窓側の通りを歩くたび、どこからか視線を感じる。
先日、厚手のカーテンの端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
その隙間から、誰かがこちらを見ている気がした。
窓の向こうで、カーテンが、内側から静かに揺れた。
いつか見上げてしまう予感がある。
夜、眠ろうとすると、あのカーテンの布目が瞼の裏に浮かぶ。
布の向こうには、何があるのだろう。
考えてはいけないと分かっているのに、止められない。
耐え切れず、俺は転勤願いを出すことにした。
先輩と同じように。
荷物をまとめながら、ふと机の引き出しを開けた。
そこには、Kから渡された付箋が入っていた。
扉の位置を、几帳面な字で描いた略図だった。
その端に、小さく、こう書き込まれていた。
「なかから、よばれている」
俺は、その付箋を、そっと握りつぶした。
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