
あの宿のことで、今でもひとつだけ確かめられずにいることがある。
押入れの上の段に、布団が入っていたかどうかだ。
見たはずなのだ。
着いてすぐ、襖を開けて、たしかに中を見た。
それなのに、後になって記憶のほうが自信をなくした。
甲府の先の、温泉街から外れた宿での話になる。
俺と彼女が付き合って一年ちょっとの頃だ。
記念に、と思って電車で旅行に出た。
目的地は決めていない。
泊まるところも、その日の夕方に探す。
そういうぶらり旅だった。
初日は山梨方面に向かった。
切符は、行き先を決めずに買った。
そのほうが面白いと、当時は思っていた。
彼女は文庫を一冊、鞄に入れていた。
車内でほとんど開かないまま、二日目が終わった。
その文庫は、いまも家の棚にある。
あの晩の駅で買った切符の半券が、栞の代わりに挟まっている。
何となく清里で降りて、駅前のホテルに泊まった。
次の日はホテルを出て、富士山のほうへ電車で向かった。
甲府駅で降りて、城跡を見た。
石垣の上から盆地を見おろして、彼女が「山ばっかりだね」と笑った。
夕方近くに、また電車に乗った。
途中で温泉街の看板が見えたので、そこで降りた。
駅に置いてある案内板を見て、片端から電話をかけた。
近場の旅館とホテルは、どこも満室だった。
最後に、温泉街から少し離れたところにある宿にかけた。
電話に出たのは、年配の男の声だった。
空いていると言う。
迎えに来てもらえるか聞くと、行きます、とだけ返ってきた。
受話器を置いたとき、彼女が「なんか、早口だったね」と言った。
案内板には、その宿の名前だけ、文字が新しかった。
ほかの旅館はどれも色が褪せている。
あとから貼り替えたのだろうと思った。
電話番号の市外局番だけが、温泉街のものと違っていた。
彼女がそれに気づいて、「隣の町なのかな」と言った。
駅前には、タクシーが一台も停まっていなかった。
平日の夕方だからだろうと思った。
そのときは、気にしなかった。
軽ワゴンの一時間
迎えは、三十分過ぎても来なかった。
結局、一時間後に軽のワゴンで到着した。
この時点で嫌な感じはあった。
霊的な意味ではない。
宿選びを失敗したかな、という意味だ。
迎えに来てもらっている手前、何も言わずに車に乗った。
車は、綺麗なホテルや旅館を尻目にずっと進んだ。
温泉街の明かりが、後ろに流れて小さくなっていく。
やがて山のほうへ入った。
周りには川しかない。
ガードレールの向こうは、もう真っ暗だ。
不安は、道が細くなるにつれて増していった。
対向車は、一台も来なかった。
途中に集落があったが、明かりが点いている家は二軒だけだった。
その二軒とも、玄関の灯だけが点いていた。
「このへん、人、少ないんですね」
彼女がそう言うと、運転手は少し黙った。
「泊まる人は、まあ、おりますよ」
住んでいる人の話をしたつもりだった。
運転していたおじさんは、一度も話しかけてこなかった。
彼女が「遠いんですね」と言うと、「まあ」とだけ返ってきた。
着いた宿は、ボロボロだった。
周りには店も何もない。
すでに辺りは暗く、本当に廃墟のようにしか見えなかった。
玄関に入っても、女将が迎える訳でもない。
仲居が来る訳でもない。
運転してきたおじさんが、そのまま部屋案内をする始末だった。
食事の時間だけ告げると、そのおじさんもすぐにどこかへ行ってしまった。
客は一応ほかにも居るようだった。
横の二部屋が埋まっていた。
廊下に、スニーカーと、女物のサンダルが二足出ていた。
部屋は八畳で、炬燵がひとつ置いてあった。
荷物を置いてから、俺は押入れを開けた。
部屋には、テレビが一台あった。
電源を入れると、砂嵐しか映らない。
チャンネルをひと回りさせて、彼女が消した。
窓のサッシは建て付けが悪く、半分しか開かなかった。
開けたところで、外は黒いだけだ。
川の音だけが、下のほうから上がってきていた。
水の音にしては、間隔が妙に長かった。
ざあ、と鳴って、しばらく止む。
また、ざあ、と鳴る。
川というより、何かを洗っているような音だった。
布団の位置を先に確かめる癖がある。
夜中に暗いところで探すのが嫌だからだ。
布団は下の段に、二組あった。
上の段は、空だった。
板が一枚張ってあるだけで、何も入っていない。
埃も、思ったより溜まっていなかった。
「布団、自分で敷くタイプだね」
彼女がそう言って、襖を閉めた。
食事まで時間があったので、先に風呂に入ろうということになった。
ところが風呂場へ着くと、風呂は一つしかない。
女性と男性の使用が、時間で交互に区切られていた。
その時間帯は女性の使用時間だった。
彼女だけ先に入ることになった。
俺は疲れていたので、部屋で炬燵に入りながらウトウトしていた。
ズズズ、ハァ
それから暫くして、いきなり金縛りになった。
炬燵の中に入れていた足先から、ゆっくりと何かが這い上がって来る。
そういう感じがしているのに、身動きが一切取れない。
ズズズという音が、耳元で聞こえ始めた。
瞼を開けようにも、開けられない。
眼球の上を、皮越しに誰かが押しているような感じだった。
耳元のズズズという、何かを引き摺るような音は近付いて来ていた。
ズズズに混じって、人の息遣いが聞こえる。
ズズズ、ハァ。
ズズズ、ハァ。
一定のリズムだった。
数えていたわけではないが、間隔は変わらなかった。
速くもならず、遅くもならない。
怖いのに、そのリズムに慣れそうになる。
それがいちばん嫌だった。
音は、炬燵のほうからではなかった。
もっと高いところ、俺の頭の斜め上あたりから聞こえていた。
誰かが、何かを運んでいるような感じの音と息遣い。
そして、小さく聞こえる呟き声。
「タスケテ。タスケテ」
足元からは、何かが這い上がって来ているように感じる。
そのとき、入り口の襖が開いた。
彼女が戻って来た。
それと同時に、金縛りも解けた。
体が動いた瞬間、俺は炬燵から転がるように離れた。
膝が畳を打つ音が、自分でも驚くほど大きかった。
彼女が「どうしたの」と言って立ち止まった。
その足元に、湯上がりの湿った足跡がついた。
足跡は、二つだけだった。
かなり汗を掻いていた。
息も荒くなっていた。
彼女は心配していたが、あまり心配させたくなかった。
自分自身も安心したかった。
「変な夢を見ただけ」
そう言って、風呂へ行く準備をした。
そのとき、押入れの襖が半分ほど開いていることに気づいた。
「開けた?」
「開けてないよ」
彼女はタオルで髪を拭きながら、そう答えた。
俺は襖を閉めた。
閉める前に、中を覗いた。
板の上に、うっすらと四角い線があった。
埃の積もり方が、そこだけ違う。
何かが、長いあいだ置いてあった跡に見えた。
大きさは、ちょうど布団くらいだ。
そのときは、前の客が上に入れたのだろうと思った。
思ったというより、そう思うことにした。
布団は下の段。
上の段は、やはり空だった。
男性の使用時間は、食事を持って来る時間と重なっていた。
だから先に食事を食べることになった。
この食事が不味い事、不味い事。
煮物は冷めていて、味噌汁の実は麩だけだった。
彼女が小声で「明日の朝は期待しないでおこう」と言った。
ぬるい湯と窓の音
食事をした後に風呂場へ向かうと、誰も居らず独占状態だった。
誰も居ないのを良い事に、風呂場で泳ごうと思った。
足を湯船につけると、ぬるい。
ぬるすぎる。
手を入れると、風呂の湯というより、雨水に近い。
湯口からは、たしかに湯が出ている。
触ると熱い。
それなのに、湯船の温度が上がらない。
底のほうだけが、やけに冷たかった。
湯船に入っても全然温まらず、寒くなる一方だった。
イライラしながら、更衣室に向かった。
その途中、窓を誰かが叩いた。
「コツコツ」
ビクッとして窓を見る。
外は真っ暗で、何も見えない。
先程の金縛りを思い出した。
怖さが急に湧いて来て、逃げ出すように更衣室のドアを開けようとした。
その瞬間、また誰かが窓を叩いた。
「コンコン」
コンコン、コンコンと、二度三度と繰り返し叩いてくる。
叩く高さが、だんだん低くなっていた。
最初は俺の目の高さだった。
次は胸の高さ。
その次は、膝より下だった。
何かを確かめようと、窓に目を向けかけたときだ。
コンコン、と音の合間に、ズズズ、と何かを引き摺る音が紛れて聞こえた。
すぐに更衣室へ行き、体も拭かずに浴衣を着た。
部屋へ逃げ込んだ。
部屋に戻り、彼女に先程までの事を話した。
彼女は笑って言った。
「ここお化け屋敷みたいだもんねー」
俺を落ち着かせるための顔だった。
「疲れよ、疲れ。温かい物でも買って来るね」
そう言って、部屋を出た。
俺は怖いのと、彼女にそんな醜態を見られて恥ずかしいのとで、複雑な気分で待っていた。
暫くして彼女がココアを持って来てくれた。
缶は、ぬるかった。
「自販機、廊下の突き当たりにあった」
「そんなところにあったか」
「うん。電気、点いてないのに動くの」
「どういうこと」
「照明が切れてるの。自販機の中の電気も。でもボタンは押せた」
「金は入ったのか」
「うん。お釣りも出た」
缶を手に取ると、たしかにぬるい。
冷えてもいないし、温かくもない。
ちょうど、人の手で持っていたくらいの温度だった。
「先に誰か買ったのかもな」
「誰も居なかったよ」
彼女はそう言って、自分のぶんの缶を両手で包んだ。
そのときは、聞き流した。
押入れの上の段から布団を出そうとして、彼女が手を止めた。
「下だよ」
「え」
「布団、下の段」
俺は自分で確かめたはずなのに、上の段に手を伸ばしていた。
下の段から布団を出して敷いた。
二人とも疲れていたため、すぐに眠りに就いた。
押入れの上の段
夜中に、いきなり横の部屋から叫び声が聞こえて目を覚ました。
彼女と二人で顔を見合わせた。
何があったのか、耳を澄ましていた。
横の部屋の客が、廊下にパタパタと逃げている音が聞こえる。
女性客二人らしく、二人でワーワー言いながら廊下で騒いでいる。
夜中に何を考えているんだ、と思った。
睡眠を邪魔されたのもあって、文句を言おうと怒り気味で廊下へ出た。
俺が廊下に出た事に驚いたようで、女性客は大泣きしながら叫び出した。
「キャーーーー」
その声に、彼女も何事かと廊下へ出て来た。
彼女達は泣きながらガクガク震えていた。
一人に至っては、ほとんど言葉になっていない。
流石に怒る事はせずに、俺は聞いた。
「どうしたんですか?」
震えるのみだった。
自分達の部屋へ呼んでも、拒否して首を振る。
暫くその状態が続いたが、彼女らは段々と落ち着いてきた。
しかし、質問には一切答えない。
ただ、彼女達の部屋に何かあるようだった。
片方の女性が、一度だけ、はっきりした声で言った。
「上」
「上?」
「上から、降りてきた」
それきり、また首を振るだけになった。
部屋は一階だ。
上には何もない。
ずっとその方向だけを見て、「あっ、あっ」と言う感じだ。
何か不審者でも出たのかと思った。
自分の部屋に戻り、入り口にあった箒を持って、彼女達の部屋へ入ろうとした。
「あ、や、やめたほうが…」
服を引っ張って止められた。
「あ、いや、大丈夫ですよ。何かあればすぐに逃げますから」
そう言って、中へ向かった。
中は明かりが点いており、入り口から部屋全体を見渡せる。
変わったところは何も無く、誰も居ない。
ひとつだけ、目に留まったことがあった。
この部屋の押入れは、襖が開いていた。
布団は、下の段に入っていた。
上の段は、空だ。
うちの部屋と同じだった。
廊下へ戻ろうとした時に、入り口の真横からズズズ、ズズズと音がした。
焦って廊下へ逃げ出した。
そこで、誰かが入り口横の押入れに居るんだな、と思った。
すぐに部屋のドアの前で身構えて、叫んだ。
「おい、出て来い」
すると横の部屋から男性客が出て来た。
また女性客たちの悲鳴が聞こえた。
男性客に事情を話した。
部屋の入り口横にある押入れに、誰かが隠れているのではないかと伝えた。
男性が、従業員を呼びに行くように女性達に指示した。
「私が中へ行くから援護してください」
男性客は自分の部屋から同じように箒を持って来て、中へ入った。
まずはドアを開けて部屋を見渡す。
誰も居ない。
次に横の押入れの前に立ち、開ける準備をした。
その時だ。
「ドン!! ドン!!」
押入れから音が鳴った。
ズズズ、ズズズという音と共に、襖が少しずつ開き始めた。
襖はゆっくりと開いて行った。
その間から、何かを引き摺っている音と共に、人の体の一部らしきものが見え始めた。
襖の間から手が出て来た瞬間、男性客は思い切り襖を閉めて、相手の手を挟んだ。
その手の主は、何も言わない。
それどころか、ズズズと挟まれた手を出してくる。
男性客は、その手を箒の柄で押し戻した。
相手は、やはり何も言わない。
俺は嫌な気分になり、箒で思い切り手を中に押し込めた。
窓に映った押入れ
その瞬間、後ろの窓が叩かれた。
「ガンガン、ガンガン」
「ああぁあぉっぁあ」
変な声が聞こえたので振り向いた。
窓ガラスが、まるで鏡の様な状態になっていた。
外が真っ暗だったからだ。
部屋の様子が、そのまま映っている。
箒を持って立っている俺。
その横に、同じように箒を持って立っている男性客。
部屋の様子は同じ。
ただ違うのは、窓ガラスに映っている押入れは開いていることだった。
そして、押入れの上の段に、何かが這い蹲ってこちらを見ている。
人の形をしているような、していないような、薄桃色の塊だった。
一瞬何が何だか解らないまま、すぐに押入れに向き直った。
部屋の押入れは、開いた状態になっている。
ただ、そこには誰も居ない。
男性客も同じものを見たらしく、キョトンとしている。
「見ましたよね」
「見ました」
「上のほうに」
「ええ。上の段に」
二人とも、同じ場所を言った。
そのことが、かえって怖かった。
どちらともなく再度窓ガラスを見るも、窓は部屋の様子を映しているのみ。
そこには先程の奇怪なものは居ない。
そこへ、従業員の女性を連れて彼女達が戻って来た。
男性客と俺は、何をどう説明すれば良いのか分からなかった。
それでも、起きたままの事を話した。
女性達は泣きながら叫んでいる。
「もう、いやー。帰る。もう、帰る」
従業員は一点張りだった。
「そんなことある訳ない。今までそんなことがあったことは一度もない」
男性客が、俺に聞いてくる。
「確かに居たはずなんですけどね…何だったんでしょうか」
彼女も不安そうに言った。
「本当に見た? 見間違いじゃなくて?」
俺も、本当に見たのかどうか段々と分からなくなる。
ただ、箒で押し戻した時の手応えはある。
そのとき、彼女が小さな声で言った。
「ねえ、鏡って、上下は逆にならないよね」
俺は、意味が取れなかった。
「左右は逆になるけど、上下は、そのままだよね」
「そうだな」
「あの窓の押入れ、上の段に何か居たよね」
そこで、背中が冷たくなった。
この部屋の押入れは、布団が下の段だ。
上の段は空で、板が一枚あるだけだ。
窓に映った押入れは、上の段に何かが這い蹲れる場所があった。
鏡は左右を裏返すが、上下は裏返さない。
窓に映っていたのは、この部屋ではなかった。
どこか別の、同じ造りの部屋だった。
俺は窓に近づいて、外を見ようとした。
ガラスには、俺の顔が映るだけだった。
その顔の後ろに、押入れが映っていた。
襖は、閉まっていた。
ロビーの毛布
従業員は、ムキになって部屋に入り、押入れを見渡した。
「誰も居ないじゃないですか、ただの見間違いです」
威圧的な態度だった。
ただ、振り向いた際に、小さく声を出して尻餅をついた。
「ヒッ」
俺は何が起きたのか解らずに、従業員が見ていた方向を見た。
窓には、何も映っていない。
従業員は押入れから離れて、廊下に逃げ出した。
「何ですか? どうしたんですか?」
「上。押入れの、上の段」
すぐに男性客が部屋に入り、押入れの上の段を見た。
板が一枚あるだけだった。
そこに、布団の四角い跡だけが、埃の上にくっきりと残っていた。
誰も、その部屋の上の段に布団を入れたことはないはずだった。
寒さを感じ始めた頃、男性客が全員に向かって言った。
「取り敢えず、ロビーかフロントにでも行きませんか?」
玄関前のロビーに向かい、他の従業員も駆けつけて暖房を入れてもらった。
毛布やら上に羽織る物やらを用意してもらった。
温かいお茶を飲みながら、朝まで無言で待った。
他の従業員達には、女性従業員から話をしていた。
「信じられない」
そう口にしていた。
大人が六人、揃って震えているのだから、信じるも何もないだろうが。
朝方になり、女性客達は荷物を取って来て欲しいと従業員に告げた。
「何でこんな目に遭うのよ。何なのこの旅館」
文句を言い始めた。
男性客と俺と彼女は、少し話をして、起こった事を整理しようとした。
「窓の外は墓地か神社でもあるんですか?」
彼女が従業員に聞いた。
「外は崖になっていて、直ぐ下に川があるだけです」
風呂場で起こった事も話した。
風呂の外も、川だけとのことだった。
最後に、俺はひとつだけ確かめた。
「この宿の押入れは、布団を下の段に入れるんですか」
従業員は、少し間を置いてから答えた。
「上の段には、入れません」
「決まりですか」
「昔から、そうしております」
理由は聞かなかった。
聞ける空気ではなかった。
外が明るくなってきた頃、朝食が運ばれてきた。
女性客達はタクシーを呼び、そのまま宿を後にした。
俺たちも荷物を纏めたが、部屋に戻るのは怖かった。
従業員に付いて来てもらった。
そして、運転手に車で駅まで送ってもらうことになった。
男性客は車で来ていたようで、そこで挨拶を交わして別れた。
車に乗り込み、駅へ向かう途中、車窓から川の方向を見た。
何かが居るような気がした。
ただ、何も見えなかった。
駅に着き、運転手が頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした。またの機会をお待ちしております」
二度と行くか、と思った。
彼女と色々考察してみた。
あの塊が霊だとしたら、何なのか。
誰かに憑いていたのか。
それとも、あの宿に居たのか。
金縛りの時に聞こえた「タスケテ」は、誰が言ったのか。
結局、判らないままだ。
ひとつだけ、彼女と意見が合ったことがある。
窓に映っていた部屋のほうが、先にあったのではないか、ということだ。
あとで宿の建物を写真で見返した。
三階建てに見えるが、外から数えると窓の列は四つある。
どこかの宿の話を、廊下の三枚の板は鳴らないという話でも読んだことがある。
あの晩の電話ボックスのような、誰もいないはずの場所が鳴る話も、幹線道路の電話ボックスで読んだ。
読むたびに、あの押入れの上の段を思い出す。
自分は二度と行く気はない。
ただ、その宿は、今もその温泉街で営業を続けている。
場所は書かない。
もし泊まることがあったら、最初に押入れを開けてみるといい。
布団が下の段に入っていたら、たぶん、そこは合っている部屋だ。