子どものころ、雑誌で読んだ記事がある。
海の向こうの、百年離れて生きた二人の指導者の経歴が、日付も名前の文字数も、気味が悪いほど重なっていたという話だ。
偶然を並べただけの記事だと、当時の私は思った。
並べれば、何だって重なる。
そう思っていた。
その考えが変わったのは、平成三年の春だ。
※
父の転勤で、私たち家族は甲府盆地の外れへ移った。
釜無川の堤防を下りたところにある、家が三十軒ほどの集落だった。
借りたのは、三階建ての大きな家だった。
元は養蚕をしていた農家で、二階と三階は蚕室だったという。
天井が低く、窓が横に長い。
床は板張りで、歩くと乾いた音がした。
家賃は、市内のアパートの半分だった。
私は十六で、姉は大学に入ったばかりだった。
母は「掃除が大変」と言いながら、庭の梅を見て機嫌を直していた。
集落には、店が一軒もなかった。
自動販売機が一台あって、それが夜のいちばん明るいものだった。
朝は、堤防の上を軽トラックが二台か三台通る。
それ以外は、川の音しかしない。
私の通う高校は、自転車で四十分かかった。
行きは下り、帰りは上りだ。
帰り道の最後の坂を上りきると、あの三階建てが正面に見えた。
横に長い窓が三つ、二階と三階に並んでいる。
灯りをつけていない時間帯に見ると、窓が全部同じ方向を向いているのがわかる。
養蚕の家は、風を通すために窓の高さが揃っているのだと、後で知った。
知る前は、ただ、こちらを見ているように見えた。
母は近くの製菓工場へパートに出た。
姉は月に一度、下宿から帰ってきた。
最初の一年は、何も起きなかった。
正確に言えば、起きていたことに、誰も気づいていなかった。
※
その家には、納屋がついていた。
引っ越して二週目の日曜、父と私で中を片づけた。
桑を刻む台と、繭を入れる竹籠と、錆びた自転車。
それから、油紙に包まれた紙の束が出てきた。
油紙は、蝋を引いたように固くなっていた。
納屋の梁の上、桑籠の裏に押し込んであった。
普通に片づけていたら、まず見つからない場所だ。
父は脚立に乗って、埃を払いながらそれを下ろした。
「隠してあるな、これ」
そう言った父の声を、いまでも憶えている。
父が広げると、それは手書きの見積書だった。
「大工の書いたもんだな」
父が言った。
七枚あった。
一枚目の日付は、昭和六年になっていた。
屋号と印が押してあって、宛名の欄だけが空だった。
一枚目には、こう書いてあった。
「北面 桁 雨仕舞 手直し」
父は「うちの雨漏りと同じところだ」と笑った。
笑い事ではなかった。
屋号は「相沢」とあった。
集落に相沢という家はもうない。
笹本さんに後で訊いたら、堤防の向こうにあった大工の家で、戦後に絶えたという。
その前の週、父は北側の天井のしみを見つけて、業者に電話をしたばかりだった。
※
二枚目は「東縁 敷居 沈み 直し」。
三枚目は「風呂場 土台 入替」。
四枚目は「三階 north 窓 建具 調整」。
四枚目だけ、なぜか一語だけ横文字が混じっていた。
大工が測量学校に通っていたのだと、後で聞いた。
父は面白がって、その七枚を居間の壁に貼った。
「うちの修繕の予定表だ」
母は嫌がった。
「よその家の紙でしょ」
その通りだった。
けれど父は剥がさなかった。
※
その年の梅雨、業者が北面の雨仕舞を直した。
秋には、東の縁側の敷居が沈んで、父が自分でかんなをかけた。
翌年の春、風呂場の土台が腐っているのが見つかった。
三つとも、紙の順番どおりだった。
父は最初、「古い家はどこも同じところから傷むんだ」と言っていた。
私も、そう思っていた。
実際、そういうものだろうと思う。
おかしいのは、順番だけではなかった。
金額だった。
風呂場の見積が業者から届いた日、父は電卓を置いて、しばらく黙っていた。
壁の三枚目には、昭和六年の値段が書いてある。
桁は当然違う。
けれど、三枚目と業者の見積は、下から三桁が一致していた。
偶然だと、父は言った。
言いながら、その晩は電卓を何度も叩いていた。
※
音のことを書いておく。
三階の蚕室から、夜になると音がした。
包丁で何かを刻むような、規則正しい音だ。
桑を刻む音だと、私は勝手に思っていた。
季節に関係なく鳴った。
真冬にも鳴った。
桑の葉がない季節に鳴るのは、おかしい。
それでも、慣れてしまえば雨樋の音と変わらなかった。
姉だけが嫌がって、三階には一度も上がらなかった。
「あそこ、床の埃が真ん中だけないんだよ」
姉はそう言った。
私は見に行った。
たしかに、三階の板の間は、真ん中の一畳分だけ埃がなかった。
誰かが毎晩、そこに座っているような残り方だった。
匂いもあった。
青くさい、草を折ったときのような匂いだ。
三階の階段を上りきったところで、いつも一瞬だけ鼻に来る。
その先へ進むと、もう匂わない。
ちょうど、誰かが通ったあとを歩いているような順番だった。
姉は一度だけ、三階の窓の外から中を見たことがあるという。
庭で洗濯物を干していて、ふと見上げたそうだ。
「横向きに座ってる人がいた」
私が父に言うと、父は取り合わなかった。
「窓が三つあるだろう。真ん中は木が映るんだ」
庭に木はなかった。
梅は、家の裏だった。
※
集落の一番奥に、笹本さんという老人が住んでいた。
元は郵便を配っていた人で、この集落の家の中を全部知っていた。
ある日、堤防で会って、うちの修繕の話になった。
笹本さんは、そこで足を止めた。
「あんたんとこ、納屋から紙が出たろう」
私は驚いて頷いた。
笹本さんは、堤防の草を見たまま言った。
「あの家はな、直す順番が決まっとる」
「飛ばしたらいけんよ」
意味がわからなかった。
「順番って、あの紙のですか」
「紙が先か、家が先かは、わしにもわからん」
笹本さんは、そこで初めて私の顔を見た。
「昭和のはじめにおった家族もな、同じ紙を持っとった」
「わしの親父が、その家の子と同い年でな」
「同じ日に学校をやめて、同じ日に町を出たそうだ」
私は、その家族のことを訊いた。
笹本さんは、しばらく黙ってから話しはじめた。
昭和のはじめ、あの家には七人が住んでいた。
繭の値が落ちて、蚕をやめる家が集落に増えた年だ。
あの家だけが、最後まで三階に火を入れていた。
「あの家は、やめられんかったんだ」
笹本さんはそう言った。
「順番が、残っとったからな」
ある年の春、七人は一晩で町を出た。
荷物は、ほとんど置いていったという。
「布団も、茶碗も、そのままだった」
私は、その荷物がどうなったのかを訊いた。
笹本さんは、堤防の草を靴の先でならしていた。
「次に入った家が使ったよ」
「そういうもんだ、田舎は」
「そのあと、また置いていく」
置いていく、という言葉の順番が引っかかった。
使って、置いていく。
その繰り返しを、あの家は何回見たのだろうと思った。
「大工に頼んどった仕事の、途中だった」
同じ日に、という言い方が、耳に残った。
※
そこから、私は数え始めた。
納屋の紙の隅には、細かい数字が鉛筆で書き込まれていた。
日付だと、最初は思った。
三枚目の隅に「八・二九」とある。
私の誕生日だった。
五枚目の隅に「四・一一」とある。
私たちがこの家に越してきた日だった。
六枚目の隅は「三・六」。
姉の誕生日だ。
すべて、昭和六年に書かれた紙の上にある。
私は、その日から三階へ上がらなくなった。
一度だけ、姉に見せた。
姉は紙の隅を指でなぞって、それから手を引っ込めた。
「これ、書いた人はさ」
「わたしたちの誕生日を、知ってたってこと?」
私は、うまく答えられなかった。
知っていたのなら、順序が逆だ。
知らなかったのなら、なぜ揃うのか。
どちらを選んでも、行き止まりだった。
姉は、その週から下宿に帰らなくなった。
正確には、この家に帰らなくなった。
母にはそれを、就職活動が忙しいからだと言っていた。
母も、それ以上は訊かなかった。
訊けば、自分でも数え始めることになるからだ。
※
もうひとつ、気づいたことがあった。
私は、この家の階段の七段目で、必ずつまずいた。
一度や二度ではない。
板が反っているのだろうと思って、手をついて確かめた。
反ってはいなかった。
ただ、七段目だけ、他の段より少しだけ音が高かった。
笹本さんに話すと、こう言われた。
「あの家の七段目はな、下に何も入っとらんのだと」
「ほかの段は詰め物がしてある」
「七段目だけ、空にしてある」
なぜ、と訊いた。
笹本さんは答えなかった。
代わりに、こう言った。
「数えるためだろう」
※
平成五年の冬、父が四枚目を飛ばした。
三階の窓の建具は、もう使わない部屋だからと後回しにした。
代わりに、五枚目の「台所 竈跡 床 張替」に取りかかった。
その週から、家の中の音が変わった。
刻む音が、二階へ下りてきた。
母が、夜中に台所の電気をつけたまま眠るようになった。
父は、笑わなくなった。
母が、家の中で歌を歌わなくなったのもその頃だ。
台所に立つとき、必ずラジオをつけた。
音を、音で埋めていたのだと思う。
私は夜、机に向かいながら、刻む音の間隔を数えた。
一分間に、いつも四十二回だった。
速くも遅くもならない。
人が手でやる作業に、そういう均一さは出ない。
それに気づいてから、私は数えるのをやめた。
父は五枚目の床を、業者に頼まず自分で張った。
竈の跡は、思っていたより浅かった。
灰が、乾いた粉のまま残っていた。
その灰の上に、丸い跡が三つ並んでいた。
釜を置いた跡だと父は言った。
三つとも、大きさが違った。
いちばん小さい跡は、湯呑みほどだった。
竈に湯呑みは置かない。
父は、その部分だけ写真も撮らずに板を張った。
「順番のことは、言うな」
父はそれだけ言って、六枚目に取りかかった。
六枚目は「玄関 上がり框 取替」。
取り替えた框の下から、古い草履が片方だけ出てきた。
小さかった。
子どもの足の大きさだった。
母は、それを見て台所へ行ってしまった。
その晩、両親が言い争った。
襖の向こうで、母の声だけが聞こえた。
「もう、あの紙は捨ててください」
父は、何も言わなかった。
翌朝、紙は壁に貼ったままだった。
父が捨てられなかった理由が、私にはわかる気がした。
あの七枚は、この家の予定表ではなかった。
この家に住む者の予定表だった。
捨てたところで、予定は進む。
父は、せめて何が来るかを知っていたかったのだと思う。
※
そして、七枚目になった。
七枚目には「三階 north 床 一畳 上ゲ」とだけ書いてある。
真ん中の一畳分。
埃のない、あの場所だ。
父は、業者を呼んで見積を取った。
取ってから、壁の紙を見て、動かなくなった。
七枚目の見積書の合計金額は、父が前の晩に電卓ではじいた数字と、一円まで同じだった。
桁が違うはずだった。
六十年も前の紙だ。
それなのに、七枚目だけは、下の桁まで揃っていた。
父はその夜、七枚とも壁から剥がした。
剥がして、納屋へ戻した。
三階の床は、上げなかった。
その代わりに、父は納戸から板を出してきた。
三階へ上がる階段の入口を、板で塞いだ。
釘を打つ音が、家じゅうに響いた。
打ち終わったあと、上から刻む音がした。
いつもより、少しだけ速かった。
一分間に、四十二回ではなかった。
父は板を見上げたまま、金槌を持っていた。
母が後ろから、何も言わずに電気をつけた。
その晩、家族の誰も三階の話をしなかった。
翌朝、板は打ったままの形で残っていた。
ただ、階段の七段目に、青い葉のかけらが一枚だけ落ちていた。
桑の葉だった。
三月の、まだ芽の出ない時期だった。
※
私たちは、その春に家を出た。
父の転勤が早まったのだと、母は近所に説明していた。
本当のところはわからない。
引っ越しの日、笹本さんが堤防のところに立っていた。
「上げんかったか」
父は頷いた。
笹本さんは、それでいいというふうに、何度も頷いた。
それから、思い出したように言った。
「昭和の家族もな、七枚目の前に出ていったんだ」
私は訊いた。
「八枚目は、ないんですか」
笹本さんは、堤防を下りながら答えた。
私は、もうひとつだけ訊いた。
「あの家は、何を数えてるんですか」
笹本さんは足を止めなかった。
「家は、数えん」
「数えるのは、いつも住んどるほうだ」
「八枚目を見た者の話は、聞いたことがない」
※
それから三十年以上が経った。
私は今、東京の郊外で、築四十年の家に住んでいる。
去年、北側の天井にしみが出た。
業者を呼んで直した。
今年になって、東の縁側の敷居が沈んだ。
自分でかんなをかけた。
先月、風呂場の土台が傷んでいるのが見つかった。
見積を見て、私は電卓を置いた。
下から三桁が、記憶にある数字と同じだった。
甲府の家の紙は、もう手元にない。
納屋に戻したまま、私は一枚も持ち出していない。
それなのに、順番だけは体が憶えている。
妻には、甲府の家の話をしていない。
話せば、順番の名前を教えることになる。
名前をつけたものは、家の中で場所を持ってしまう。
そういう気がして、口にできずにいる。
次が四枚目だということも。
四枚目を飛ばしてはいけないということも。
※
この家の階段は、十四段ある。
私は最近、七段目でつまずくようになった。
最初は、疲れているのだと思った。
けれど、つまずくのは決まって夜の同じ時間だ。
階段の電気をつけていても、つまずく。
手すりを持っていても、つまずく。
足が、そこだけ半歩ぶん先を測っている感じがする。
甲府の家の七段目と、同じ幅で。
板は反っていない。
確かめた。
ただ、七段目だけ、他の段より少しだけ音が高い。
妻に話したら、笑われた。
「気にしすぎ。前の家のことでしょ」
そうかもしれない。
あの雑誌の記事のように、並べれば、何だって重なるのかもしれない。
ただ、ひとつだけ、どうしても説明のつかないことがある。
先週、三階のない我が家の物置を片づけていて、油紙の包みが出てきた。
中身は、手書きの紙が七枚。
私が引っ越してくる二年前の日付で、宛名の欄は空になっていた。