六つ目の膳

膳は六つ——あの家の台所で、十六の私が最初に教わった決まりだった。

昭和四十一年の春のことである。

私は伊那谷の在から、柊さんという旧家へ、住み込みの手伝いに上がった。

かつて製糸で財を成した家だと聞いていた。

石垣の上に長い塀が続き、母屋は明治の建てだという二階屋。

背後に、繭蔵と呼ばれる白壁の蔵が三つ並んでいた。

最も栄えた時分には、女工さんが五十人も寝起きしていたという。

糸を取りながらうたう唄が、谷の下の道まで聞こえた、と近所の年寄りは懐かしがった。

私が上がった頃には工場はとうに畳まれ、広い屋敷は静かなものだった。

廊下を歩くと、自分の足音だけが、やけに遠くまで届いた。

家族は五人だった。

御隠居様、旦那様、奥様、それに中学生と小学生の坊ちゃんが二人。

五人である。

上がって三日目の朝、私は旦那様に呼ばれて、給金と休みの話のあとで、こう言われた。

「うちには、うちの決まりがある。分からんことがあっても、キヨの言うとおりにしなさい」

「はい」

「ええ子や。長う、おってくれると助かる」

物柔らかな人だったが、決まり、と言うときだけ、声が半音、低くなった。

なのに、夕餉の膳は、六つ出した。

台所を仕切っていたのは、キヨさんという六十がらみの女中頭だった。

最初の晩、私が膳を五つ用意すると、キヨさんは黙って六つ目を足した。

「あの、お客様がお見えですか」

「お客やないよ」

キヨさんは、それだけ言った。

六つ目の膳は、奥の八畳の、床の間の前に据える。

誰も座らない席である。

飯と汁と、菜をひと品。家族と同じものを、同じように盛る。

「ええかい。奥のお膳はな、名前は呼ばん。数も口にせん。並べるだけ並べて、湯気が消えたら下げる」

「どなたの、お膳なんですか」

「訊かんの」

キヨさんの声は、叱るというより、庇うような響きだった。

下げた六つ目の膳の飯は、竈の神様に上げるのだと教わった。

「食べもんを、無駄にはせん家やでな」

減っていることは、一度もなかった。

少なくとも、見た目には。

ただ、盛った時と箸の向きが、ほんのわずか、違う晩があった。

気のせいだと、思うことにしていた。

「お膳は六つ。六つで足りとるうちは、それでええんやよ」

妙な言い方をする人だと、その時は思っただけだった。

もうひとつ、キヨさんに念を押されたことがある。

「この家では、おらん人の名前を、口にせんこと」

「おらん人、というのは」

「誰でもや。名前を呼ぶとな、聞いとる者が、増える」

意味は分からなかったが、うなじのあたりが薄ら寒くなったのを覚えている。

奉公に慣れた頃、細かなことが目につくようになった。

最初は、茶碗である。

六つ目の膳を下げると、茶碗の縁が、湿っていることがあった。

汁椀ではない。飯の茶碗の、口の当たるあたりが、である。

湯気の露だろうと、初めは思った。

けれど同じ膳の汁椀は、乾いている。

次に気づいたのは、二階の東の間だった。

誰も使っていない部屋だと聞かされていた。

なのに冬になると、その部屋の障子だけ、内側から結露した。

人のいる部屋の障子が、そうなるのだ。

廊下の拭き掃除のたび、私はその部屋の前で、足が速くなった。

坊ちゃんたちは、六つ目の膳を、当たり前のものとして育っていた。

ある晩、下の坊ちゃんが、ぽつりと言った。

「ねえや。ゆうべ、うたがきこえたよ」

「唄、ですか」

「二階のほうで。いととり、の唄」

糸取り唄など、坊ちゃんが習い覚えるはずのない唄である。

「ふしが、ちょっとちがうの。ふるいうたなんだって、おばあちゃまがいってた」

奥様が、坊ちゃんの口を、やんわりと塞いだ。

「夢のお話は、ごはんの時にはしないの」

その手が、少し震えているのを、私は見てしまった。

秋の初め、町の呉服屋の番頭さんが、反物を届けに来た。

台所でお茶を出すと、番頭さんは声を低くして言った。

「今年も、お一人分の誂えやったよ」

「お一人分、ですか」

「毎年秋にな、決まって一人分。もう何十年になるかなあ」

番頭さんは、湯呑みを両手で包んで、妙なことを付け足した。

「寸法がな、少うしずつ、育っとるんやわ」

「育つ……」

「子供の寸法やったもんが、いつの間にか大人の寸法になって。ほんで今も、年にほんの少しずつ、変わるんや」

誰の寸法かは、番頭さんも知らないという。

寸法書きは、キヨさんが口で伝える。

紙には、書かない決まりなのだそうだ。

春先には、番頭さんはもうひとつ、奇妙な荷を受け取っていく。

洗い張りに出す、一揃いの着物である。

「今年のも、ようお召しやわ」

番頭さんは、袖口を私に見せた。

擦り切れて、糸が浮いていた。

箪笥に仕舞われたきりのはずの着物が、一年経つと、袖から先に、確かに着古されて戻るのだ。

「どなたが、お召しなんでしょうね」

「訊かんのやろ、この家では」

番頭さんは、風呂敷を締めながら、目だけで二階を指した。

年に一度、蔵の前が白粉の匂いになる日があった。

秋祭りの、宵のことである。

古い白粉の、甘いような、粉っぽいような匂い。

家の女は誰も白粉をつけないのに、繭蔵の前だけ、ふっとあの匂いが立つ。

「今夜は蔵のほうへ行かんの」と、その晩だけキヨさんは言った。

私は言われたとおりにした。

訊いてはいけないことが、この家には一つある。

それだけは、もう分かっていた。

奥様は奥様で、黙って続けていることがあった。

季節の変わり目ごとに、東の間の前の廊下に、小さな花を活けるのである。

春は桃、夏は桔梗、秋は竜胆。

活けた花は、三日と保たずに萎れた。

家じゅうのどの花より、早く萎れた。

「よう、飲まはるでしょう」

一度だけ、奥様はそう言って、私に笑いかけた。

どう返事をしたものか、私には分からなかった。

一度だけ、東の間に入ったことがある。

大掃除の日、キヨさんが腰を痛めて、私が代わりに雑巾を持たされたのだ。

「拭くだけ拭いて、何も動かさんと、出てくるんやよ」

襖を開けると、畳の匂いがした。

青畳の、あの匂いである。

誰も使わぬはずの部屋に、埃はひとつもなかった。

箪笥がひと棹、鏡台がひとつ。

鏡には、覆いが掛けてあった。

そして畳が、一枚だけ、おかしいほど青かった。

人が寝起きに使う場所だけ畳が焼ける、というのなら分かる。

その部屋は逆だった。

一枚だけが新しいように青く、まわりが日に焼けていた。

まるでその一枚の上にだけ、いつも誰かがいて、日を遮っているかのように。

私は言いつけどおり、何も動かさず、拭くだけ拭いて部屋を出た。

襖を閉める間際、覆いの掛かった鏡が、こと、と小さく鳴った。

その晩、私は夜中に目が覚めた。

厠へ立った帰り、廊下の奥で、微かな音がしていた。

からから、から、と規則正しく回る、木の音である。

糸車の音だと気づいたのは、布団に戻ってからだった。

この家に、糸車はもう一台も残っていないはずだった。

音は東の間のあたりから、夜明け近くまで続いた。

怖い、というのとは少し違った。

誰かが、夜通し、手を動かしている。

そう思うと、なぜだか泣きたいような心持ちになった。

九月の野分の晩には、こんなこともあった。

嵐の来る前に、家じゅうの雨戸を閉てて回るのが私の役だった。

二階の東の間だけ、雨戸が、もう閉まっていた。

内側から、である。

キヨさんに告げると、キヨさんは針を持つ手も止めずに言った。

「あの部屋はな、昔から、仕舞いが早いんや」

それ以上は、お互い、何も言わなかった。

風の唸る夜半、東の間のあたりだけ、嵐の音が、心なしか遠かった。

御隠居様は、離れで盆栽をいじって暮らしていた。

ある夕方、水やりを手伝った私に、御隠居様はふいに言った。

「柊の家はな、六人で五人の家や」

「……はい」

「分からんでええ。分からんまま、膳だけ運んどいておくれ」

しわ深い横顔は、笑っているようにも、詫びているようにも見えた。

秋も深まった、ある晩のことだった。

私は膳を運びながら、疲れていたのだと思う。

つい、声に出して数えてしまった。

「ひとつ、ふたつ……むっつ、と」

台所の空気が、変わった。

振り向くと、キヨさんが、こちらを見ていた。

あんな顔のキヨさんを、私は後にも先にも見たことがない。

「数えたんかい」

「す、すみません」

「……ええよ。ええけどな」

キヨさんは、竈の火を見つめて言った。

「今夜は、下げるんを、うちがやるで」

その晩、六つ目の膳の湯気は、いつまで経っても消えなかった。

飯からも、汁からも、細い湯気がいつまでも立ちのぼり続けた。

四半時経っても、半時経っても、である。

キヨさんは膳の前に正座して、湯気が果てるのを、じっと待っていた。

私は廊下の陰から、その背中を見ていることしかできなかった。

湯気が絶えたのは、夜半を過ぎてからだったという。

その冬、私は御隠居様の部屋へ、炭を運ぶ役になった。

ある雪の午後、御隠居様は火鉢に手をかざしたまま、誰にともなく話し始めた。

「わしの大叔母にあたる人でな。糸の上手な、よう笑う妹様やったそうな」

私は炭籠を抱えたまま、動けなくなった。

「明治の半ばのことや。先々代がな、家の建て直しに金の要る年で、言うたんやと。おらん者の膳に飯を盛る家があるか、とな」

「それで、おやめに……」

「一年だけな。膳も、誂えも、やめた」

御隠居様は、火箸で灰に何かの字を書いて、すぐに消した。

「七つ目のお膳が出た年から、妹さまは二階から降りてこん人になった」

私は、はじめ、聞き違いかと思った。

七つ目、と御隠居様は言ったのだ。

「あの、六つ目では、ないのですか」

「六つ目の膳は、妹さまのぶんやない」

御隠居様は、灰を均しながら、静かに言った。

「妹さまは、七つ目やった。」

あの家の膳は、昔から、家族の数より一つ多い。

多いぶんの一つが、誰のものかは、誰も知らない。

知らないまま、何代も、盛って、下げてきた。

それを一年やめた。

すると家族が一人、「多いほうの側」へ、数え直されたのだ。

六人で五人の家、という御隠居様の言葉の意味を、私はそこで初めて知った。

見える家族が五人。膳の上では、六人。

そして二階の東の間には、七つ目だった人が、まだいる。

誂えの寸法が今も少しずつ育つのは、あの部屋で歳月が、ゆっくりと流れ続けているからだ。

「妹様は、どんなお人やったんですか」

訊いてから、しまった、と思った。

訊かない決まりの家である。

けれど御隠居様は、咎めなかった。

「糸の上手な人でな。取った糸が、いっとう白かったそうな」

「機嫌のええ日は、朝から唄がやまなんだと。工場の女工らが、あの唄で目を覚ましたそうや」

下の坊ちゃんの言葉を、私は思い出していた。

ふしがちょっとちがう、ふるいうた。

「御隠居様。あの、二階で、糸車の音を」

「聞いたか」

御隠居様は、驚かなかった。

「働き者やでな、あの人は。百年経っても、手ぇが止まらんのやわ」

御隠居様は、それから小さく笑って、付け足した。

「怖がらんでもええ。あの人はな、この家の誰より、この家のことを好いとってや」

「ほやから出て行かんのや。数え直された晩も、泣きも喚きもせなんだと、ばあ様から聞いとる」

「ただな、それからこっち、あの人の唄だけは、誰も聞き取れんふしになった」

火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜた。

私は炭籠を置いて、逃げるように離れを出た。

廊下の窓の外は、いつの間にか、雪になっていた。

私は二十で嫁に出て、あの家を離れた。

キヨさんは、別れの朝、駅まで送ってくれた。

「あんたは、ようやってくれた。数えたんも、あれきりやったしな」

「キヨさん。あの、最後にひとつだけ」

「訊かんの」

キヨさんは笑って、それから、ほんの少しだけ教えてくれた。

「うちが先代から聞いとるんはな、これだけや。膳をやめたらいかん。やめた年に、次の誰かが数え直される。ほんでな、その順番は、若い者からやそうな」

汽車の窓から見えたキヨさんは、いつまでも頭を下げていた。

嫁ぎ先で、私は初めての正月に、姑に注意された。

「あんた、湯呑みがひとつ多いよ」

「あ……癖で。すみません」

直そうとして、直らなかった。

多いほうの湯呑みを下げるたび、胸の奥が、すうすうと薄ら寒くなるのだ。

六つで足りとるうちは、それでええんやよ。

キヨさんの声が、そのたび耳の奥で聞こえた。

やがて姑も、何も言わなくなった。

キヨさんとは、年に二度、文のやり取りが続いた。

平成に入って間もなくの葉書が、最後になった。

震える字で、二行だけ書いてあった。

「代替わりでな。奥のお膳、しもうたそうな」

膳を、やめたのだ。

あの家が絶えたのは、それから三年と経たぬうちだった。

後年、海の向こうの大きな家にも、家族の話から消された妹がいた、と何かの本で読んだ。

栄えた家というものは、洋の東西を問わず、数に入れない一人を抱えるものなのかもしれない。

柊の家は、平成の初めに絶えた。

屋敷が取り壊されると聞いて、私は一度だけ見に行った。

重機の入る前の庭で、解体屋の若い衆が、首をかしげながら話していた。

「二階の東の間な、畳が一枚だけ、下ろしたてみたいに青いんやわ」

「この家、空き家になって十年やろ。おかしいなあ」

「箪笥もな、中は空っぽやのに、樟脳の匂いだけ真新しいんや」

「誰か出入りしとるんかなあ」

若い衆は、それきり別の話を始めた。

私は何も言わずに、塀の外から手を合わせて、帰った。

膳は、もう誰も出していない。

やめたらいかん、と言われていた膳を、である。

次の誰かが、どこで数え直されたのか。それとも、まだなのか。

私には、分からない。

ただ、ひとつだけ。

八十を過ぎた今も、私には抜けない癖がある。

湯呑みを、家族の数より一つ多く、出してしまうのだ。

娘には、年寄りの数え間違いだと笑われている。

それでいい。そう思ってきた。

けれど先日の朝、下げようとした余分の湯呑みに、指が触れて、私は手を止めた。

その湯呑みが、ほんのりと、温かかった。

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