物心がついたころから、僕にはひとつ、おかしな口ぐせがあったらしい。
「僕、前にもここにいたことがあるよ」
そう言っては、母をたびたび困らせていたそうだ。
母の話では、まだ二歳か三歳のころには、もうその言葉を繰り返していたという。
ここ、というのは、母の実家のことだった。
父方の家ではなく、母方の、山あいにある古い一軒家。
年に一度、盆の時期に帰るだけの、遠い家だ。
それなのに僕は、初めて連れていかれたときから、その家を知っているような気がしていた。
盆に帰ると、家じゅうに、線香と、古い畳の匂いが満ちていた。
蝉の声が、朝から晩まで、途切れることなく鳴いていた。
大人たちは縁側でお茶を飲み、子どもたちは、庭先で花火をした。
どこにでもある、田舎の夏の風景だ。
けれど僕にとって、その家だけは、ほかのどことも、少しちがっていた。
どこに便所があるか。どこの床板が鳴るか。裏の井戸の水がどれほど冷たいか。
教わってもいないのに、僕の体は、それを最初から覚えていた。
いとこたちは、そんな僕を、少し気味悪がっていたようだ。
「また変なこと言ってる」と、年上のいとこに笑われたこともある。
それでも僕は、その言葉を、やめることができなかった。
だって、本当に知っていたのだから。
知っている、というより、体の芯に、しみついているような感じだった。
※
母の実家は、少し変わったつくりをしていた。
ひとつの広い敷地のなかに、母屋と、隠居と呼ばれる別棟が建っている。
隠居には、祖父と祖母のふたりが暮らしていた。
母屋には、母の兄夫婦と、その子どもたちが住んでいた。
そして、その母屋と隠居のあいだに、細い道が一本、通っていた。
車が一台、ようやく通れるくらいの、短い砂利道だ。
両側を古い板塀にはさまれて、昼でも少し薄暗い。
僕は、その細い道が、幼いころから、どうしても苦手だった。
はっきりとした理由は、自分でもわからなかった。
ただ、その道のまんなかあたりに立つと、決まって足がすくむのだ。
見えない手で、足首をつかまれているような感じがした。
母によると、歩きはじめたばかりの僕は、その場所でだけ、いつも火がついたように泣いたという。
ほかのどこでもないのに、あの道のまんなかでだけ。
「この子は、あそこが嫌いなのねえ」
祖母は、そう言って笑っていたそうだ。
けれど、その笑い方が、どこか少しこわばっていたのを、母は今でも覚えているらしい。
小学校にあがったころ、一度だけ、いとこにけしかけられたことがある。
「あの道のまんなかで、十を数えてみろよ」と。
僕は、意地を張って、その細い道に足を踏み入れた。
けれど、まんなかまで来たところで、どうしても、足が前に出なくなった。
体じゅうから、冷たい汗がふきだしてきた。
見えない何かが、地面から、僕の足首に巻きついてくるようだった。
いとこたちは、遠くから、はやしたてていた。
けれど、僕の様子がおかしいことに気づくと、しだいに声をひそめた。
「もういい、戻ってこいよ」と、上のいとこが、少しあわてた声で言った。
結局、僕は三つも数えられずに、泣きながら道を引き返した。
あとで祖母が、僕の頭を、そっとなでてくれた。
「無理しなくていいんだよ」と、やさしく言った。
けれど、そのときの祖母の目は、僕ではなく、細い道のほうを見ていた。
何かを、見きわめようとするような目だった。
その夜、僕は熱を出して寝こんだ。
うなされながら、ずっと、あの細い道の夢を見ていたらしい。
朝、目を覚ますと、枕もとに、祖母が座っていた。
「大丈夫。もう、大丈夫だからね」と、繰り返していた。
いとこたちは、それきり、二度とその遊びを口にしなかった。
※
僕の言う「前にいたときの記憶」は、いつも同じ場面から始まる。
僕は、あの細い道の、ちょうどまんなかに立っている。
ふと見上げると、まわりをぐるりと、大人たちが取りかこんでいる。
祖父も、祖母も、母も、それから顔も知らない親戚たちも。
みんな、そろって無表情だった。
誰ひとり、笑っていない。
誰ひとり、口をきかない。
ただ、じっと、下にいる僕を見おろしているのだ。
その視線の高さが、僕にはやけに遠く感じられた。
まるで自分が、地面すれすれの、とても小さな生きものにでもなったかのように。
そして、その場面には、いつも独特の匂いがついてまわった。
土と、藁と、饐えたような、あたたかく湿った匂い。
目が覚めても、その匂いだけは、しばらく鼻の奥に残っていた。
おかしなことは、ほかにもあった。
まだ小さいころ、近所の農家で鶏の鳴き声を聞いただけで、僕は激しくおびえたという。
コッ、コッ、という、あのなんでもない声に、体がすくんでしまうのだ。
母には、その理由が、どうしてもわからなかったらしい。
そしてもうひとつ。
取りこわされて、跡形もなくなっていたはずの鶏小屋の場所を、僕は正確に指さすことができた。
「昔、ここに、鳥のおうちがあったでしょう」と。
その小屋は、僕が生まれるずっと前に、もう壊されていたのだという。
※
あるとき僕は、隠居の奥にある物置のことを、母に話した。
僕は一度も、入ったことのない部屋だった。
「あそこの棚の、いちばん上にね、古い籠がしまってあるよ」
「その籠の底には、羽根が一枚、落ちてるんだ」
母は、妙な顔をした。
そんな薄暗い物置に、幼い僕を入れた覚えなど、まるでなかったからだ。
念のためにと、母がそっと祖母に確かめた。
すると祖母は、しばらくのあいだ、黙りこんでしまった。
それから、ひとりごとのように、ぽつりと言った。
「あの籠のこと、この子は、なんで知ってるんだろうねえ」
物置のいちばん上の棚には、たしかに古い竹の籠があった。
そしてその底には、色のあせた羽根が、ちょうど一枚だけ、落ちていたのだという。
母は、それを聞いて、しばらく声が出なかったと言っていた。
それからというもの、母は、僕の言うことを、頭から否定しなくなった。
けれど、家族のなかで、そのことを話題にするのは、どこか避けられていた。
触れてはいけないもの。
そういう空気が、いつもうっすらと、家のなかに漂っていた。
ただ、祖父だけは、僕に対して、どこか特別な態度をとった。
口数の少ない、こわい人だった。
その祖父が、僕を見るときだけは、なぜか、少し悲しそうな目をするのだ。
一度、僕の頭に手を置いて、こう言ったことがある。
「おまえは、よう帰ってきたなあ」
帰ってきた、という言い方が、幼い僕には、うまく飲みこめなかった。
僕は、毎年、ちゃんと帰ってきているのに、と思っていた。
今なら、その言葉の意味が、わかる気がする。
※
僕は幼稚園のころ、一度だけ、忘れられない絵を描いたことがある。
先生が、みんなで家族の絵を描きましょう、と言った日のことだ。
けれど、僕が画用紙に描いたのは、家族ではなかった。
細い一本の道と、それをぐるりと取りかこむ、背の高い人影ばかり。
そして、その人影の足もとに、小さな、鳥のようなものを一羽。
クレヨンで、ていねいに塗った、茶色い羽根の生きものだった。
先生は、その絵を見て、どう言葉をかけていいか、困っていたらしい。
母がその絵を家に持ちかえると、祖母が、それをじっと見つめた。
「これは……あの、細い道だねえ」
祖母は、ひとりごとのように言った。
「それで、この足もとにいるのは……」
言いかけて、祖母は、ふいに口をつぐんでしまった。
そして、それ以上は、何も言わなかった。
ただ、その絵を、祖母は捨てなかった。
仏壇の引き出しに、大事そうにしまいこんだのだ。
あとで母が見たとき、その絵は、古い一枚の写真と一緒に置かれていたという。
色のあせた、白黒の写真だった。
そこには、今はもうない鶏小屋と、その前に並んだ、昔の家族が写っていた。
写真の裏には、色あせたインクで、日付だけが書かれていた。
僕が生まれるより、ずっと前の日付だった。
それなのに、その並んだ人たちの顔ぶれや立ち位置を、僕はなぜか、知っている気がした。
見たことのない写真のはずなのに。
みんな、そろって、少しこわばった顔をして、こちらを見ていたそうだ。
※
その夜のことだった。
祖母が、母を相手に、古い話を聞かせているのが聞こえてきた。
僕は、隣の部屋で眠ったふりをしながら、それに耳をすませていた。
昔、この家では、たくさんの鶏を飼っていたのだという。
隠居のわきの、ちょうどあの細い道のところに、大きな鶏小屋があった。
そして、卵を産まなくなった鶏は、家族総出で「還す」のが、この家の習わしだった。
還す、というのが、幼い僕には、どういうことなのか、よくわからなかった。
ただ、そのときは、家じゅうの者が、みんなであの細い道に集まったのだそうだ。
「粗末にしちゃいけないって、じいさんがそりゃあうるさくてね」
祖母は、なつかしそうに、そう言った。
「命をひとつもらうんだから、ちゃんと見送ってやるんだって」
だから、家族みんなで、その一羽をぐるりと囲んで、静かに手を合わせた。
無表情だったのではなかった。
あの、僕を見おろす顔は、見送るための、真剣な顔だったのだ。
僕の記憶の場面と、祖母の話は、細かいところまで、そっくり重なっていた。
還すときは、日を選んだのだという。
風のない、よく晴れた日の、朝のうち。
あの細い道に、むしろを一枚敷いて、その上で見送った。
祖父が、いちばん年長として、短い言葉を唱えた。
それが済むまで、子どもたちも、みんなじっと手を合わせていたそうだ。
「動いちゃいけない、しゃべっちゃいけないって、きつく言われてねえ」
祖母は、そう言って、小さく笑った。
だから、みんな、あんなにも無表情だったのだ。
僕は、聞いていて、背すじが冷たくなっていくのを感じた。
僕の夢のなかの、あの遠い視線。
見おろす、たくさんの動かない顔。
それは、僕が想像でつくりあげたものではなかった。
確かに、この土地で、繰り返されてきた光景だったのだ。
※
「でもねえ」
そこで、祖母の声が、ふっと低くなった。
「一羽だけ、どうしても、還しそこねた子が、いたんだよ」
何かの手ちがいで、その一羽だけ、きちんと見送ってやれなかったのだという。
「あの道のどこかで、今もまだ、待ってるのかもしれないねえ」
祖母は、そう言って、長いため息をついた。
「待ちくたびれて……今度は、人の子の姿を借りて、帰ってきたのかもしれないよ」
僕は、布団のなかで、息をひそめていた。
心臓が、耳の奥で鳴っているのが、自分でもわかった。
あの細い道で、いつも足がすくむ理由が、やっとわかった気がした。
僕は、あそこで、みんなに見送られたことがあるのだ。
見送られて、けれど、どうしても還りきれなかった。
だから今も、あの場所から、うまく動くことができない。
それでも、祖母は、こうも言った。
「でもね、待っててくれるってことは、悪いことばかりじゃないんだよ」
還りきれなかったものは、この家を、ずっと見守っていてくれるのだ、と。
祖母は、そう信じているようだった。
「だからおまえも、こわがらなくていい」
祖母は、僕の手を、両手でそっと包んで、そう言ってくれた。
その手は、かさかさに乾いて、けれど、とてもあたたかかった。
祖母のその言葉を、僕は、今でもよく思い出す。
こわがらなくていい。
見守ってくれているのだから。
あの細い道でおびえていた僕にとって、それは、何よりの救いだった。
還りきれなかったものが、恨みではなく、見守りに変わる。
そういう土地の考え方が、僕には、どこかあたたかく感じられた。
※
僕は今、三十を過ぎた。
母の実家は、とうに取りこわされて、その土地には、もう何も残っていない。
祖父も、祖母も、それぞれの季節に、静かに旅立った。
あの細い道も、古い鶏小屋も、今では跡形もなくなっている。
数年前、僕は一度だけ、その土地を訪ねてみたことがある。
更地になったそこには、名前も知らない雑草が、ただ生い茂っていた。
あの細い道が、どこにあったのかも、もうわからなかった。
それでも、敷地の、ある一点まで来たとき、僕の足は、ぴたりと止まった。
理由は、考えるまでもなかった。
そこが、あの、細い道のまんなかだったのだ。
風のない、よく晴れた朝だった。
祖母の話にあった、還すのにふさわしい日と、同じような天気だった。
僕は、しばらく、そこから動けなかった。
けれど、以前のように、こわいわけではなかった。
ただ、なつかしいような、申し訳ないような、不思議な気持ちがした。
僕は、その場所に向かって、そっと手を合わせた。
何に手を合わせているのか、自分でもわからないまま。
僕は、しばらくその場に立って、空を見上げた。
見おろしてくる顔は、もう、どこにもなかった。
ただ、風が、雑草をひとしきり揺らして、通りすぎていった。
それが、まるで返事のように思えて、僕は、少しだけ泣いた。
長いあいだ、あの細い道で待っていたものに、ようやく静かに会えたような、そんな気がしたのだ。
それでも、ときおり、あの土と藁の湿った匂いが、ふいによみがえることがある。
そして決まって、その晩は、あの同じ夢を見るのだ。
僕は、細い道のまんなかに立っている。
見上げると、みんなが、無表情で、僕を見おろしている。
けれど、今はもう、こわいとは思わない。
あれは、僕をちゃんと見送ろうとしてくれた、やさしい顔だったのだから。
ただ、ひとつだけ、いまだにわからないことがある。
あの夢のなかで、僕はいつも、うまく人の言葉が出せない。
何かを伝えようと、けんめいに口を動かすのに。
出てくるのは、鳥が鳴くような、かぼそい音ばかりなのだ。
僕は、いったい、あの細い道で、何を還してもらえなかったのだろう。
それとも、まだ、還してはもらえていないのだろうか。