生まれ変わり

物心がついたころから、僕にはひとつ、おかしな口ぐせがあったらしい。

「僕、前にもここにいたことがあるよ」

そう言っては、母をたびたび困らせていたそうだ。

母の話では、まだ二歳か三歳のころには、もうその言葉を繰り返していたという。

ここ、というのは、母の実家のことだった。

父方の家ではなく、母方の、山あいにある古い一軒家。

年に一度、盆の時期に帰るだけの、遠い家だ。

それなのに僕は、初めて連れていかれたときから、その家を知っているような気がしていた。

盆に帰ると、家じゅうに、線香と、古い畳の匂いが満ちていた。

蝉の声が、朝から晩まで、途切れることなく鳴いていた。

大人たちは縁側でお茶を飲み、子どもたちは、庭先で花火をした。

どこにでもある、田舎の夏の風景だ。

けれど僕にとって、その家だけは、ほかのどことも、少しちがっていた。

どこに便所があるか。どこの床板が鳴るか。裏の井戸の水がどれほど冷たいか。

教わってもいないのに、僕の体は、それを最初から覚えていた。

いとこたちは、そんな僕を、少し気味悪がっていたようだ。

「また変なこと言ってる」と、年上のいとこに笑われたこともある。

それでも僕は、その言葉を、やめることができなかった。

だって、本当に知っていたのだから。

知っている、というより、体の芯に、しみついているような感じだった。

母の実家は、少し変わったつくりをしていた。

ひとつの広い敷地のなかに、母屋と、隠居と呼ばれる別棟が建っている。

隠居には、祖父と祖母のふたりが暮らしていた。

母屋には、母の兄夫婦と、その子どもたちが住んでいた。

そして、その母屋と隠居のあいだに、細い道が一本、通っていた。

車が一台、ようやく通れるくらいの、短い砂利道だ。

両側を古い板塀にはさまれて、昼でも少し薄暗い。

僕は、その細い道が、幼いころから、どうしても苦手だった。

はっきりとした理由は、自分でもわからなかった。

ただ、その道のまんなかあたりに立つと、決まって足がすくむのだ。

見えない手で、足首をつかまれているような感じがした。

母によると、歩きはじめたばかりの僕は、その場所でだけ、いつも火がついたように泣いたという。

ほかのどこでもないのに、あの道のまんなかでだけ。

「この子は、あそこが嫌いなのねえ」

祖母は、そう言って笑っていたそうだ。

けれど、その笑い方が、どこか少しこわばっていたのを、母は今でも覚えているらしい。

小学校にあがったころ、一度だけ、いとこにけしかけられたことがある。

「あの道のまんなかで、十を数えてみろよ」と。

僕は、意地を張って、その細い道に足を踏み入れた。

けれど、まんなかまで来たところで、どうしても、足が前に出なくなった。

体じゅうから、冷たい汗がふきだしてきた。

見えない何かが、地面から、僕の足首に巻きついてくるようだった。

いとこたちは、遠くから、はやしたてていた。

けれど、僕の様子がおかしいことに気づくと、しだいに声をひそめた。

「もういい、戻ってこいよ」と、上のいとこが、少しあわてた声で言った。

結局、僕は三つも数えられずに、泣きながら道を引き返した。

あとで祖母が、僕の頭を、そっとなでてくれた。

「無理しなくていいんだよ」と、やさしく言った。

けれど、そのときの祖母の目は、僕ではなく、細い道のほうを見ていた。

何かを、見きわめようとするような目だった。

その夜、僕は熱を出して寝こんだ。

うなされながら、ずっと、あの細い道の夢を見ていたらしい。

朝、目を覚ますと、枕もとに、祖母が座っていた。

「大丈夫。もう、大丈夫だからね」と、繰り返していた。

いとこたちは、それきり、二度とその遊びを口にしなかった。

僕の言う「前にいたときの記憶」は、いつも同じ場面から始まる。

僕は、あの細い道の、ちょうどまんなかに立っている。

ふと見上げると、まわりをぐるりと、大人たちが取りかこんでいる。

祖父も、祖母も、母も、それから顔も知らない親戚たちも。

みんな、そろって無表情だった。

誰ひとり、笑っていない。

誰ひとり、口をきかない。

ただ、じっと、下にいる僕を見おろしているのだ。

その視線の高さが、僕にはやけに遠く感じられた。

まるで自分が、地面すれすれの、とても小さな生きものにでもなったかのように。

そして、その場面には、いつも独特の匂いがついてまわった。

土と、藁と、饐えたような、あたたかく湿った匂い。

目が覚めても、その匂いだけは、しばらく鼻の奥に残っていた。

おかしなことは、ほかにもあった。

まだ小さいころ、近所の農家で鶏の鳴き声を聞いただけで、僕は激しくおびえたという。

コッ、コッ、という、あのなんでもない声に、体がすくんでしまうのだ。

母には、その理由が、どうしてもわからなかったらしい。

そしてもうひとつ。

取りこわされて、跡形もなくなっていたはずの鶏小屋の場所を、僕は正確に指さすことができた。

「昔、ここに、鳥のおうちがあったでしょう」と。

その小屋は、僕が生まれるずっと前に、もう壊されていたのだという。

あるとき僕は、隠居の奥にある物置のことを、母に話した。

僕は一度も、入ったことのない部屋だった。

「あそこの棚の、いちばん上にね、古い籠がしまってあるよ」

「その籠の底には、羽根が一枚、落ちてるんだ」

母は、妙な顔をした。

そんな薄暗い物置に、幼い僕を入れた覚えなど、まるでなかったからだ。

念のためにと、母がそっと祖母に確かめた。

すると祖母は、しばらくのあいだ、黙りこんでしまった。

それから、ひとりごとのように、ぽつりと言った。

「あの籠のこと、この子は、なんで知ってるんだろうねえ」

物置のいちばん上の棚には、たしかに古い竹の籠があった。

そしてその底には、色のあせた羽根が、ちょうど一枚だけ、落ちていたのだという。

母は、それを聞いて、しばらく声が出なかったと言っていた。

それからというもの、母は、僕の言うことを、頭から否定しなくなった。

けれど、家族のなかで、そのことを話題にするのは、どこか避けられていた。

触れてはいけないもの。

そういう空気が、いつもうっすらと、家のなかに漂っていた。

ただ、祖父だけは、僕に対して、どこか特別な態度をとった。

口数の少ない、こわい人だった。

その祖父が、僕を見るときだけは、なぜか、少し悲しそうな目をするのだ。

一度、僕の頭に手を置いて、こう言ったことがある。

「おまえは、よう帰ってきたなあ」

帰ってきた、という言い方が、幼い僕には、うまく飲みこめなかった。

僕は、毎年、ちゃんと帰ってきているのに、と思っていた。

今なら、その言葉の意味が、わかる気がする。

僕は幼稚園のころ、一度だけ、忘れられない絵を描いたことがある。

先生が、みんなで家族の絵を描きましょう、と言った日のことだ。

けれど、僕が画用紙に描いたのは、家族ではなかった。

細い一本の道と、それをぐるりと取りかこむ、背の高い人影ばかり。

そして、その人影の足もとに、小さな、鳥のようなものを一羽。

クレヨンで、ていねいに塗った、茶色い羽根の生きものだった。

先生は、その絵を見て、どう言葉をかけていいか、困っていたらしい。

母がその絵を家に持ちかえると、祖母が、それをじっと見つめた。

「これは……あの、細い道だねえ」

祖母は、ひとりごとのように言った。

「それで、この足もとにいるのは……」

言いかけて、祖母は、ふいに口をつぐんでしまった。

そして、それ以上は、何も言わなかった。

ただ、その絵を、祖母は捨てなかった。

仏壇の引き出しに、大事そうにしまいこんだのだ。

あとで母が見たとき、その絵は、古い一枚の写真と一緒に置かれていたという。

色のあせた、白黒の写真だった。

そこには、今はもうない鶏小屋と、その前に並んだ、昔の家族が写っていた。

写真の裏には、色あせたインクで、日付だけが書かれていた。

僕が生まれるより、ずっと前の日付だった。

それなのに、その並んだ人たちの顔ぶれや立ち位置を、僕はなぜか、知っている気がした。

見たことのない写真のはずなのに。

みんな、そろって、少しこわばった顔をして、こちらを見ていたそうだ。

その夜のことだった。

祖母が、母を相手に、古い話を聞かせているのが聞こえてきた。

僕は、隣の部屋で眠ったふりをしながら、それに耳をすませていた。

昔、この家では、たくさんの鶏を飼っていたのだという。

隠居のわきの、ちょうどあの細い道のところに、大きな鶏小屋があった。

そして、卵を産まなくなった鶏は、家族総出で「還す」のが、この家の習わしだった。

還す、というのが、幼い僕には、どういうことなのか、よくわからなかった。

ただ、そのときは、家じゅうの者が、みんなであの細い道に集まったのだそうだ。

「粗末にしちゃいけないって、じいさんがそりゃあうるさくてね」

祖母は、なつかしそうに、そう言った。

「命をひとつもらうんだから、ちゃんと見送ってやるんだって」

だから、家族みんなで、その一羽をぐるりと囲んで、静かに手を合わせた。

無表情だったのではなかった。

あの、僕を見おろす顔は、見送るための、真剣な顔だったのだ。

僕の記憶の場面と、祖母の話は、細かいところまで、そっくり重なっていた。

還すときは、日を選んだのだという。

風のない、よく晴れた日の、朝のうち。

あの細い道に、むしろを一枚敷いて、その上で見送った。

祖父が、いちばん年長として、短い言葉を唱えた。

それが済むまで、子どもたちも、みんなじっと手を合わせていたそうだ。

「動いちゃいけない、しゃべっちゃいけないって、きつく言われてねえ」

祖母は、そう言って、小さく笑った。

だから、みんな、あんなにも無表情だったのだ。

僕は、聞いていて、背すじが冷たくなっていくのを感じた。

僕の夢のなかの、あの遠い視線。

見おろす、たくさんの動かない顔。

それは、僕が想像でつくりあげたものではなかった。

確かに、この土地で、繰り返されてきた光景だったのだ。

「でもねえ」

そこで、祖母の声が、ふっと低くなった。

「一羽だけ、どうしても、還しそこねた子が、いたんだよ」

何かの手ちがいで、その一羽だけ、きちんと見送ってやれなかったのだという。

「あの道のどこかで、今もまだ、待ってるのかもしれないねえ」

祖母は、そう言って、長いため息をついた。

「待ちくたびれて……今度は、人の子の姿を借りて、帰ってきたのかもしれないよ」

僕は、布団のなかで、息をひそめていた。

心臓が、耳の奥で鳴っているのが、自分でもわかった。

あの細い道で、いつも足がすくむ理由が、やっとわかった気がした。

僕は、あそこで、みんなに見送られたことがあるのだ。

見送られて、けれど、どうしても還りきれなかった。

だから今も、あの場所から、うまく動くことができない。

それでも、祖母は、こうも言った。

「でもね、待っててくれるってことは、悪いことばかりじゃないんだよ」

還りきれなかったものは、この家を、ずっと見守っていてくれるのだ、と。

祖母は、そう信じているようだった。

「だからおまえも、こわがらなくていい」

祖母は、僕の手を、両手でそっと包んで、そう言ってくれた。

その手は、かさかさに乾いて、けれど、とてもあたたかかった。

祖母のその言葉を、僕は、今でもよく思い出す。

こわがらなくていい。

見守ってくれているのだから。

あの細い道でおびえていた僕にとって、それは、何よりの救いだった。

還りきれなかったものが、恨みではなく、見守りに変わる。

そういう土地の考え方が、僕には、どこかあたたかく感じられた。

僕は今、三十を過ぎた。

母の実家は、とうに取りこわされて、その土地には、もう何も残っていない。

祖父も、祖母も、それぞれの季節に、静かに旅立った。

あの細い道も、古い鶏小屋も、今では跡形もなくなっている。

数年前、僕は一度だけ、その土地を訪ねてみたことがある。

更地になったそこには、名前も知らない雑草が、ただ生い茂っていた。

あの細い道が、どこにあったのかも、もうわからなかった。

それでも、敷地の、ある一点まで来たとき、僕の足は、ぴたりと止まった。

理由は、考えるまでもなかった。

そこが、あの、細い道のまんなかだったのだ。

風のない、よく晴れた朝だった。

祖母の話にあった、還すのにふさわしい日と、同じような天気だった。

僕は、しばらく、そこから動けなかった。

けれど、以前のように、こわいわけではなかった。

ただ、なつかしいような、申し訳ないような、不思議な気持ちがした。

僕は、その場所に向かって、そっと手を合わせた。

何に手を合わせているのか、自分でもわからないまま。

僕は、しばらくその場に立って、空を見上げた。

見おろしてくる顔は、もう、どこにもなかった。

ただ、風が、雑草をひとしきり揺らして、通りすぎていった。

それが、まるで返事のように思えて、僕は、少しだけ泣いた。

長いあいだ、あの細い道で待っていたものに、ようやく静かに会えたような、そんな気がしたのだ。

それでも、ときおり、あの土と藁の湿った匂いが、ふいによみがえることがある。

そして決まって、その晩は、あの同じ夢を見るのだ。

僕は、細い道のまんなかに立っている。

見上げると、みんなが、無表情で、僕を見おろしている。

けれど、今はもう、こわいとは思わない。

あれは、僕をちゃんと見送ろうとしてくれた、やさしい顔だったのだから。

ただ、ひとつだけ、いまだにわからないことがある。

あの夢のなかで、僕はいつも、うまく人の言葉が出せない。

何かを伝えようと、けんめいに口を動かすのに。

出てくるのは、鳥が鳴くような、かぼそい音ばかりなのだ。

僕は、いったい、あの細い道で、何を還してもらえなかったのだろう。

それとも、まだ、還してはもらえていないのだろうか。

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