神奈川県某駅の駅ビル

階段もエスカレーターも使わずに、私は四階へ行くことができた。

切符を買うように、決まった手順さえ踏めば、何度でも。

昭和の終わり頃、私がまだ小学校に上がる前後の話だ。

神奈川県の、ある私鉄の駅に、駅ビルが建っていた。

昭和四十六年築と、入口の銘板にあったのを覚えている。

地上五階建てで、屋上には小さな遊園地があった。

百円を入れると揺れるパンダの遊具と、回転する飛行機。

夏はソフトクリームの屋台が出て、金網越しに電車の屋根が見えた。

五階には大食堂があった。

旗の立ったお子様ランチと、クリームソーダ。

窓際の席からは、引込線で休む電車が見えた。

エスカレーターは三階までしかなく、その上はエレベーターと階段だけだった。

四階へ上がる階段は、踊り場の窓が磨りガラスで、昼間でも薄暗かった。

子どもたちはみんな、階段よりエレベーターが好きだった。

今思えば、あれでよかったのだ。

エレベーターには、制服を着た案内係のおばさんが乗っていた。

エレベーターは一基だけで、扉の上に半円形の階数表示があった。

真鍮の針が扇形の文字盤を滑っていく、古い型だった。

白い手袋で階数ボタンを押し、「上へ参ります」と歌うように言う人だった。

駅の改札階とビルの三階は、連絡通路で直接つながっていた。

青いタイルの通路を渡ると、そこはもう駅ビルの三階。

床のワックスと、新しい布と、食堂の出汁の匂いが混ざった、独特の空気があった。

あの匂いを、私は今でもはっきり思い出せる。

祖母は、このビルが建つ前の話をよくした。

戦後すぐまで、あの場所には古い闇市上がりの市場があったという。

市場のさらに前のことになると、祖母は言葉を濁した。

「掘ったら、いろいろ出た場所だから」

子どもの私には、意味がわからなかった。

わからないまま、覚えていた。

うちの家族は、土曜になるとよくそこへ行った。

母は三階の手芸店で布を見る。

父は二階のレコード店で試聴させてもらう。

私と姉は四階の文具売場で、香りつき消しゴムを選ぶ。

最後に屋上でソフトクリームを食べて帰る。

それが、我が家のいつもの順路だった。

土曜の駅ビルは、町でいちばん明るい場所だった。

誰もが知っていて、誰もが安心している建物。

だから余計に、誰も疑わなかったのだと思う。

最初にそれが起きたのは、母とはぐれた日だった。

三階の手芸店の前で、母は近所の人と立ち話を始めた。

退屈した私は、ひとりでフロアをうろつき始めた。

手芸店とレコード店の出張棚のあいだの通路に入る。

文具店の角を右に曲がる。

金物屋の前を通り過ぎる。

突き当たりを、左へ。

そこで、景色が変わった。

目の前に、四階の時計売場があった。

ガラスケースの中で、何十個もの置き時計が音もなく秒針を回していた。

私は階段を上っていない。

エスカレーターは、そもそも三階で終わっている。

エレベーターには近づいてもいない。

来た道を確かめようと振り返った。

そこにあるのは、四階の風景だった。

通ってきたはずの金物屋も、文具店の角も、どこにもない。

あったのは、寝具売場の白い布団の山だった。

私は泣きながらエレベーターで三階へ降りた。

母はまだ、同じ場所で立ち話をしていた。

「ママ、ぼく、四階にいた」

「あら、そう。階段、上ったんでしょ」

「上ってない。歩いてたら、着いたの」

母は隣の奥さんと顔を見合わせて、困ったように笑っただけだった。

「はいはい。手、つないでなさい」

取り合ってもらえなかった。

大人というのは、そういうものだ。

次の土曜、私はもう一度試した。

始点は、駅の連絡通路を渡りきった、青いタイルの切れ目。

手芸店とレコード棚のあいだ。

文具店の角を右。

金物屋の前。

突き当たりを左。

着いた。

また、四階の時計売場の前にいた。

再現できたのだ。

心臓がばくばくと鳴っていたのを覚えている。

怖さよりも先に、すごい遊びを見つけたという気持ちだった。

六歳というのは、そういう生き物だ。

私はこの「近道」を、三つ上の姉にだけ教えた。

姉は理科が得意で、何でも確かめないと気の済まない子だった。

「嘘ばっかり」

姉は笑ったが、ためしに二人で歩いてみると、姉の顔から笑いが消えた。

「……ここ、四階だ」

姉と手をつないだままでも、起きた。

あとで知ったが、家族と一緒に歩いても、同じことが起きた。

姉は翌週、自由帳に地図を書いた。

始点と、曲がる角に、赤鉛筆で番号を振った。

「条件を変えて試そう」と言い出したのも姉だ。

後ろ向きに歩いたら、起きなかった。

途中で一度でも立ち止まると、起きなかった。

しゃべりながらだと、起きるときと起きないときがあった。

「黙って、止まらずに歩く」が、どうやら条件だった。

あの自由帳は、今も実家のどこかにあるはずだ。

探す気には、なれない。

ただし、何も知らない父がメンバーにいると、なぜか最後の角の先は、ただの三階の売場だった。

それから、逆はできなかった。

四階から同じように角を曲がっても、三階には決して着かない。

何度やっても、四階をぐるぐる回るだけだった。

上りの片道切符。

私たちはそれを「四階の近道」と呼んで、誰にも言わずにいた。

正確には、一度だけ外で話したことがある。

クラスでいちばん足の速い男子と、その取り巻きが「見せろ」と言った。

土曜の午後、五人で青いタイルの始点に立った。

結果から言うと、起きなかった。

何度歩いても、ただの三階の売場に出た。

「嘘つき」と言われて、私はそれきり、この話を外でしなくなった。

帰り道、姉が小さく言った。

「人数が多いと、だめなのかもね」

「それか――選んでるのかもね」

選んでいる。

姉のその一言だけが、長く耳に残った。

近道を使ううちに、おかしなことに気づき始めた。

ひとつ。

三階の柱時計と、四階の柱時計は、いつも七分ずれていた。

四階のほうが、七分遅れている。

時計売場の上の柱時計だけではない。

近道で着いたときは、売場のガラスケースの中の時計まで、全部が揃って七分遅れていた。

エレベーターで上がったときは、ずれていない。

ふたつ。

一階の入口にある、フロア案内板。

四階の欄には「文具・玩具・時計・呉服」とあった。

けれど近道で着く四階には、それに加えて、布団屋があった。

「寝具の高砂屋」と、達筆の看板が掛かっていた。

案内板のどこにも、高砂屋の名前はなかった。

みっつ。

近道で着いた四階は、いつも少しだけ静かだった。

店員の声も、客のざわめきも、薄い膜の向こうから聞こえるようだった。

そして、すれ違う客の靴音が、しなかった。

自分の上履きの音だけが、ぺたぺたと床に響いた。

子どもの私は、それを「四階はじゅうたんだから」と思うことにしていた。

四階の床が、じゅうたんではないことを知っていながら。

よっつめは、ずっとあとになって思い出したことだ。

近道で着いた四階の窓からは、駅前のバスロータリーが見えなかった。

見えるのは、知らない瓦屋根の連なりだった。

あんな町並みは、駅の周りのどこにもなかった。

少なくとも、私が生まれてからは。

小学一年の、冬の夕方だった。

母は三階の手芸店で、セールの毛糸を選ぶのに夢中だった。

クリスマスセールで、館内にはジングルベルが流れていた。

「ここにいなさい」と言われた私は、けれど我慢できずに、ひとりで近道を歩いた。

外はもう暗くなりかけていて、連絡通路の窓に、自分の顔が薄く映っていた。

青いタイル。

手芸店とレコード棚のあいだ。

文具店の角。

金物屋。

突き当たりを、左。

四階に、誰もいなかった。

最後の角を曲がった瞬間、ジングルベルが、ぷつりと消えていた。

店員さえ、いなかった。

レジの上の小さな電球だけが、ぽつんと灯っていた。

夕方の駅ビルの、あの賑やかな時間にだ。

天井の蛍光灯が、奥のほうから一本ずつ、間を置いて消えていた。

時計売場のガラスケースを覗いて、肌が粟立った。

全部の時計が、止まっていた。

どれも同じ時刻で。

四時十四分。

午後の四時か、午前の四時かは、わからない。

秒針だけが、文字盤の同じ場所で、痙攣するように震えていた。

高砂屋の布団の山の奥に、人が立っていた。

こちらに背を向けて、微動だにせずに。

白い着物のような、寝間着のような服だった。

店の人だ、と思おうとした。

思えなかった。

その人の立っている場所は、積まれた布団と布団のあいだの、人の入れない隙間だったからだ。

目を離してはいけない気がして、後ずさりのまま見続けた。

その肩が、呼吸とは違う速さで、小さく上下していた。

足元から、冷たい空気が床を這って流れてきた。

古い建物の、湿った土のような匂いがした。

駅ビルで、土の匂いがするはずがないのに。

後ずさりした私の背中で、チン、と音が鳴った。

エレベーターの扉が開いていた。

いつもの案内係のおばさんが、白い手袋の手を、私のほうへ差し出していた。

「お乗りなさい」

私は転がるように乗り込んだ。

振り返る勇気は、もうなかった。

布団売場のほうから、衣擦れのような音が、一度だけ聞こえた気がした。

扉が閉まる。

おばさんは三階のボタンを押してから、前を向いたまま言った。

白い手袋の指先が、ほんの少しだけ汚れているのが見えた。

乾いた土のような色だった。

「ぼく、また歩いて来たのね」

「……うん」

「あのね、よく聞いて」

おばさんの声は、いつもの歌うような調子のままだった。

だから余計に、怖かった。

「四階はね、ときどき増えるのよ」

「増えた方の四階に入ったときはね、かならずエレベーターでお降りなさい」

「階段はだめよ。階段はね、増えた方にもあるの」

「どこに着くか、わからないから」

チン、と音がして、三階に着いた。

母はまだ、毛糸の棚の前にいた。

「早かったわね。トイレ?」

私は何も言えずに、母のコートの裾を握った。

腕時計を見た母が、首をかしげた。

「あら、この時計、進んでる」

母の時計は、七分進んでいた。

いや。

進んだのは、たぶん時計のほうではない。

お礼を言おうと、エレベーターを振り返った。

扉はもう閉まっていた。

階数表示のランプは「4」を指したまま、いつまで見ていても、動かなかった。

その夜、私は布団の中で考え続けた。

増えた方の四階に、私はこれまで何度入っていたのだろう。

時計が七分遅れていた日。

靴音のしない客とすれ違った日。

あれが全部「増えた方」だったのだとしたら。

私はそのたびに、何も知らずに、あの薄暗い階段で三階へ降りていた日もあった。

階段はだめ、と、おばさんは言った。

あの日の階段は、どこに着く階段だったのだろう。

考えているうちに、眠っていた。

子どもの眠りの深さに、今は感謝している。

その日から、私は近道を歩かなくなった。

平成に入って、駅ビルは大きな改築をした。

テナントは入れ替わり、青いタイルの通路は白い大理石風の床になった。

中学生になった私は、一度だけ確かめに行った。

同じ始点から、同じ順番に角を曲がった。

何度歩いても、ただの三階だった。

近道は、改築と一緒に消えていた。

安心したかと言えば、嘘になる。

消えたのが「近道」だけだったのか、私には確かめようがないからだ。

大人になってから、調べたことがある。

市立図書館で、商店会の記念誌をめくった。

歴代テナントの一覧に、「寝具の高砂屋」という店は、どの年にも載っていなかった。

記念誌には、開業当時の白黒写真も載っていた。

四階売場の写真の隅に、私は布団の山を見つけてしまった。

キャプションには『四階・呉服売場』とだけある。

布団の山のあたりだけ、印刷が滲んだように暗かった。

ついでに、母に電話で聞いてみた。

「あのエレベーターの案内係のおばさん、いたでしょう」

母は少し黙ってから言った。

「あんたが小学生の頃はもう、案内係なんていなかったわよ。あれは開業の頃だけ」

「乗ったよ、何回も。白い手袋の」

「ボタンなんて、自分で押してたじゃない」

「それより、あんた」

電話の向こうで、母は少し声を低くした。

「あのビルで迷子になったこと、あんたは一回もないのよ」

「迷子になって放送で呼ばれたのは、いつもお姉ちゃん。あんたは気がつくと、隣に戻ってた」

気がつくと、戻っていた。

母は感心した口ぶりだった。

私は受話器を持ったまま、しばらく何も言えなかった。

記憶と記録は、ここでも七分ずれている。

数年前の同窓会で、姉にこの話を振った。

姉が中学に上がる頃、近道の遊びは自然に終わっていた。

終わる少し前、姉は一度だけ、ひとりで歩いたことがあったらしい。

それを知ったのは、ずっとあとのことだ。

姉はグラスを置いて、はっきりと言った。

「四階の話は、やめて」

「覚えてるんだ」

「覚えてるから、やめて」

帰り際、姉は早口で付け足した。

「……私のときに迎えに来たの、エレベーターのおばさんじゃなかった」

誰だったのかは、教えてくれなかった。

ただ、姉は今でも、デパートの寝具売場を避ける。

娘の入学布団を買うときも、売場には近づかず、全部通販で済ませたと義兄が笑っていた。

義兄は笑っていた。

姉は、笑っていなかった。

今も教えてくれない。

訊くたびに、姉は同じ顔をする。

布団の隙間を見てしまった夜の私と、たぶん同じ顔を。

駅ビルは数年前に解体されて、今は背の高い複合ビルが建っている。

解体のとき、近所で小さな噂が立ったと聞く。

四階の床を剥がしたら、図面にない隙間があった、と。

真偽は知らない。

確かめる勇気も、ない。

四階には、保険の窓口とクリニックが入っているらしい。

私はまだ、新しいビルの四階に行ったことがない。

行く用事を、作らないようにしている。

それでも前を通るたび、一階の案内板だけは確かめてしまう。

四階の欄に、知らない店の名前が増えていないかどうか。

決まった角を、決まった順に曲がることが、私は今でも少しだけ怖い。

あの七分の遅れの中で、止まった時計に囲まれて、誰かがまだ布団の隙間に立っている気がするからだ。

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