岬の立石を動かした町

海岸の月夜と神社

今でも、岬の突端にだけは、鑿を持って近づかない。

私は石を生業にしてきた男だ。

墓石を磨き、石碑に文字を彫り、社の狛犬の目を刻む。

石の声を聞くなどと言えば笑われるだろうが、三十年もこの仕事をしていると、触れただけで据えていい石と、動かしてはならぬ石の区別くらいはつくようになる。

これは、昭和が終わろうとしていた頃の、北の半島の小さな港町であった話だ。

町は、背後に杉山を負い、前に鉛色の海を抱いた、ただそれだけの町だった。

冬になると海鳴りが夜通し続き、家々は身を寄せ合うように軒を低くしていた。

私の店は、その町で三代続く石屋だった。

祖父の代から、この町の墓石は、ほとんどがうちの手によるものだった。

石を彫るというのは、石の中に元からあった形を、掘り出してやることだと、親方は言った。

余計なものを削るだけで、仏の顔も、獣の牙も、石の内から現れてくる。

ならば、あの立石の内には、いったい何が眠っていたのだろう。

その町の岬の先に、人の背丈の倍はある灰色の立石があった。

誰が据えたともしれぬ、古い石だった。

表面には、髪を梳いたような細い筋が、幾重にも走っていた。

波風に削られた自然の筋だと、町の者は言った。

だが石を扱ってきた私の目には、あれは鑿で刻まれた筋にしか見えなかった。

細く、執拗で、同じ場所を幾度もなぞったような筋だった。

私に石の手ほどきをした親方は、その立石の話になると、決まって手元の鑿を布で包み直した。

「あれには近づくな」

口数の少ない人だったが、それだけははっきりと言った。

「昔、あの石に願をかけた者がいる。かけた願は、まだ解けておらん」

願とは何かと聞いても、親方は答えなかった。

ただ、岬の古い社の宮司の家だけが、代々あの石を祀ってきたのだ、とだけ教えてくれた。

年に一度、宮司はあの立石に注連縄を巻き替え、塩と酒を供え、祝詞をあげた。

宮司の家は、この岬の社を、幾代にもわたって守ってきた家系だった。

その家の当主だけが、あの立石が何を封じているのかを、口伝で受け継いでいるのだと聞いた。

封じているのだ、と親方は言った。

何を、とは、やはり言わなかった。

一度だけ、私は若い頃に、あの立石に触れたことがある。

親方の言いつけを破り、どんな石か確かめてやろうと、岬に登ったのだ。

手を当てた瞬間、指先が、氷を握ったように冷たくなった。

夏の、陽の高い昼だったにもかかわらず。

私はそれきり、二度とあの石には触れなかった。

触れてはならぬ石がある、ということを、私はその冷たさで覚えた。

私はまだ若く、そういう話を半分は聞き流していた。

石は石だ。

願も祟りも、老人の作り話だと思っていた。

その考えが、後になって幾度も私を苦しめることになる。

私には省吾という幼馴染がいた。

港の網元の家に生まれた、気のいい男だった。

私が石の道に入り、省吾が父の跡を継いで漁に出るようになっても、付き合いは続いた。

潮の匂いのする男で、笑うと目尻に深い皺が寄った。

その省吾が、子供の頃から一つだけ、妙な癖を持っていた。

近所の子らが度胸試しに岬の立石へ小石を投げても、省吾だけは決して投げなかった。

「あれに石をぶつけると、ぶつけた分だけ返ってくる」

祖母にそう言い聞かされて育ったのだと、彼は照れくさそうに話していた。

私はその話を、微笑ましい昔語りとして聞いていた。

町が変わり始めたのは、その年の春だった。

県の予算がついて、港を大きく広げる工事が始まったのだ。

防波堤を延ばし、岬の岩場を削り、船着き場を作る。

設計図の上では、あの立石のある場所が、ちょうど新しい岸壁の真下に当たっていた。

石は、どかされることになった。

宮司は町役場に幾度も足を運び、あれだけは動かしてくれるなと頼んだそうだ。

だが工期は決まっており、代々の言い伝えだけでは、重機を止める理由にはならなかった。

宮司は最後に、せめて祓いをさせてくれと願い出た。

工事の朝、白装束の宮司が立石の前で長い祝詞をあげた。

私も遠くからそれを見ていた。

潮風に祝詞がちぎれて、途切れ途切れに岬へ流れていった。

祓いが済むと、宮司は青い顔で工事の人夫たちに頭を下げた。

「くれぐれも、丁寧に。石に詫びながら動かしてください」

人夫たちは苦笑いしていた。

その日の昼、人夫の一人が、石にかけた鎖を外そうとして、鑿で指を深く裂いた。

たいした傷ではないと、皆は笑った。

血は多かったが、骨には障っていなかった。

私はその笑い声を、今でもよく覚えている。

立石は、一日では動かなかった。

根が思いのほか深く、地中で岩盤と噛み合っていたのだ。

重機のワイヤーが二度切れ、三日目にようやく石は横倒しになった。

石が倒れた瞬間、地の底から、低い唸りのような音がしたと、その場にいた者は口を揃えた。

私はその場にいなかったが、遠い店先まで、地面を伝う微かな震えが届いた気がした。

倒れた石の下からは、白い小石を敷き詰めた古い祭壇のようなものと、錆びた鎌が一挺、出てきた。

刃の欠けた、農具の鎌だった。

宮司はそれを見て、その場に膝をついた。

「あの人のものだ」

宮司だけが、その鎌の主を知っているようだった。

彼が語ったのは、この町がまだ貧しかった時代の話だった。

岬のそばに、一人の女が住んでいた。

気の荒い夫に長く痛めつけられ、心を病んでいた女だったという。

女は夜ごと岬に立ち、あの石に鎌の刃を打ちつけ、何ごとかを念じていた。

町の者は遠巻きにして、誰も近づかなかった。

やがて夫は、岬の下の岩場で冷たくなって見つかった。

足を滑らせたのだと、皆はそう言うことにした。

その後、女は石のそばで独り、静かに眠りについた。

残された鎌を、当時の宮司が石の下に埋め、上に立石を据えて封じたのだ、と。

「石は蓋だった。掘り返してはならなかったのです」

宮司の声は、震えていた。

私は背筋が冷えるのを感じたが、それでもまだ、どこかで作り話だと思っていた。

石の下から古い遺物が出ることなど、珍しくもない。

そう自分に言い聞かせた。

だが、その言い聞かせは、長くは続かなかった。

異変は、静かに、順を追って始まった。

まず、石にかけた鎖を外した、あの指を裂いた人夫が、工事場に来なくなった。

風邪をこじらせて寝込んでいると聞いた。

次に、重機で石を横倒しにした運転手が、家の階段を踏み外して腕を折った。

三人目は、倒れた石を割るために鏨を打ち込んだ若い衆で、ある朝から片耳が聞こえなくなったという。

四人目は、祭壇の白い小石を土嚢袋に詰めて運び出した男だった。

その男は、夜ごと同じ夢を見るようになったと、酒場でこぼしていた。

会ったこともない痩せた女が、枕元に立ち、

「すまない、すまない」

と、何度も繰り返すのだという。

五人目は、割った石を町の外へ運ぶ手配をした、役場の若い職員だった。

その職員は、ある日を境に右手が小刻みに震えて、字が書けなくなったという。

初めは誰も、それらを結びつけて考えなかった。

工事場では怪我はつきものだし、風邪も、悪い夢も、珍しくはない。

だが、宮司だけは違った。

彼は毎晩、倒れた立石のもとに通い、詫びの祝詞をあげ続けた。

「順に、詫びて回っているのです。石を動かした手の順に」

その言葉の意味を、私はしばらく後に思い知ることになる。

たいした傷ではないと笑った、あの最初の人夫の名を、私はそれきり港で聞かなかった。

身内が来て、荷物をまとめて町を出ていったのだ、という噂だけが残った。

工事は、立石の一件を境に、しばらく止まった。

作業を嫌がる人夫が増え、人が集まらなくなったのだ。

宮司は、倒した石をせめて元の向きに戻し、もう一度祀り直させてくれと役場に掛け合った。

だが、割られた石はもう据え直せる形ではなかった。

宮司は、砕かれた石の破片を一つ残らず集め、社の裏に運び、小さな塚を築いた。

私はその塚に据える石を、無償で彫らせてもらった。

石工として、それが私にできる唯一の詫びのように思えたからだ。

彫りながら、私は妙なことに気づいた。

破片の一つに、あの髪を梳いたような細い筋が、はっきりと刻まれていた。

自然の筋ではなかった。

誰かが鑿で、同じ場所を、何百回となくなぞった筋だった。

私は初めて、あの女の念というものを、指先で確かに感じた。

町では、いつしか立石のことが囁かれるようになっていた。

あの石を動かしたのが、そもそもの間違いだったのだ、と。

誰もが口々に、石のせいにした。

それでいて、誰一人、あの岬に近づこうとはしなかった。

塚が出来上がった頃には、夏が終わろうとしていた。

宮司の祓いのおかげか、町の異変はいったん収まったように見えた。

私も、ようやく肩の力が抜けた。

だがその秋、思いもよらぬところから、それは省吾の家に回ってきた。

省吾の父が、漁の最中に海へ落ち、戻らぬ人となった。

凪いだ日の、穏やかな海だった。

船には省吾の父のほか、若い衆が二人乗っていたが、誰も父が落ちる瞬間を見ていなかった。

ただ一人、舳先にいた若い衆が、こう言った。

「親方が、誰かに呼ばれたみたいに、ふっと海のほうを向いたんです」

葬儀の晩、省吾は私を家に呼んだ。

彼の顔からは、いつもの目尻の皺が消えていた。

「なあ、お前は石をやってるだろう。あの岬の立石のこと、知ってるか」

私は、知っている、と答えるしかなかった。

省吾は、青い顔で打ち明けた。

父は工事が始まった頃、役場に頼まれて、船で立石の破片の一部を沖へ運び、海に沈めていたのだという。

邪魔になった大石の残りを、漁師の船で処分していたのだ。

つまり省吾の父もまた、あの石に手をかけた一人だった。

「石を投げなかった俺の家にまで、それは回ってきた」

省吾は、絞り出すようにそう言った。

私は言葉を返せなかった。

その日から、省吾の家の柱時計が、時刻を違えるようになったという。

巻いても巻いても、決まって明け方に止まってしまうのだと、彼は言った。

その夜から、省吾もまた、痩せた女の夢を見るようになった。

「すまない、すまない」

枕元でそう繰り返す女の顔は、なぜか、少しだけ亡き父に似ていたという。

私は宮司のもとへ走り、省吾を救う手立てはないかと縋った。

宮司は、疲れ切った顔で首を振った。

「石を動かした者の因は、その者の血筋を、順に伝っていく。詫びで遅らせることはできても、断つことは、私にはできません」

血筋を、順に。

私は、あの詫びの祝詞の意味を、ようやく完全に理解した。

石を動かした手の順に、詫びて回っている。

それは、次に回る先を、あらかじめ告げて回っているということだった。

省吾の父の次は、省吾なのだ。

私は、宮司に問うた。

ならば、その順の、いちばん最後は誰になるのか、と。

宮司は、しばらく私の顔を見つめてから、静かに目を伏せた。

その沈黙が、どんな答えよりも、私を怯えさせた。

私はそれから、暇さえあれば省吾のもとへ通った。

彼を岬から遠ざけ、祈祷師のもとを幾つも一緒に回った。

山の奥の拝み屋、隣県の霊媒、名の知れた寺の住職。

私たちは、藁にもすがる思いで、噂を頼りに幾つもの戸を叩いた。

だが、どこでも同じことを言われた。

「これは、土地に据えられた古い願だ。人の手には、負えない」

省吾は初め、笑ってそれに付き合ってくれた。

だが年が明ける頃には、彼はもう笑わなくなっていた。

冬の終わり、省吾は床に伏せた。

進みの早い病だと、医者は言った。

省吾は、まだ三十を少し過ぎたばかりだった。

私が見舞いに行くと、彼は別人のように痩せて、それでも私を見ると、ようやく目尻に皺を作って笑った。

「呪いだよ」

彼は静かにそう言った。

私は、そんなものはない、と言い返すことができなかった。

この目で、順に回っていくものを見てきてしまったからだ。

省吾は、痩せた手で私の袖を握った。

「なあ、俺の家系は、もう俺で終いなんだ」

その声に、恨みも怒りもなかった。

ただ、疲れ果てた者の、静かな諦めだけがあった。

省吾には、千代という許婚がいた。

隣町の、穏やかな娘だった。

ある日、省吾は私に、思いもよらぬ頼みごとをした。

「千代と、別れさせてくれ。お前の口から」

私は耳を疑った。

省吾は、途切れがちに理由を語った。

石の因は、血筋を伝っていく。

もし千代が省吾の家に入り、子を生せば、その子にまで因は回っていくのではないか。

自分の代で、この血筋を終いにしたい。

だから、千代を遠くへ逃がしてやってほしい、と。

「俺の家の因を、あの子や、あの子の腹の子にまで、負わせたくないんだ」

腹の子、という言葉に、私は凍りついた。

千代は、すでに省吾の子を身ごもっていたのだ。

千代の腹は、まだ目立たなかった。

その中に宿る小さな命に、すでに因の順番が向けられているのだと思うと、私は言葉を失った。

私は、その晩は何も答えられずに帰った。

眠れぬまま、幾度も自問した。

何が、この二人にとって最も救いになるのか。

答えは、出なかった。

翌日、私は千代に会った。

彼女は、私が何を言いに来たのか、初めから察しているようだった。

「別れる気はありません」

私が口を開く前に、千代はそう言った。

その目は真っ赤だった。

私は、石の因のことを、隠さずすべて話した。

岬の立石のこと、順に回っていくもののこと、省吾がなぜ別れを望むのかを。

千代は長いあいだ黙って聞き、それから、静かに言った。

「それでも、逃げません。逃げたら、あの人が独りになる」

私は、その言葉に胸を打たれた。

同時に、恐ろしくもあった。

この娘は、因の回る先へ、自ら歩み入ろうとしている。

私は千代に、せめて子だけは、と言いかけて、言葉を呑んだ。

彼女の穏やかな目が、それを許さなかった。

私たちは、これからのことを夜まで話した。

人の一生を、こんなに真剣に考えたのは、初めてだったかもしれない。

春の初め、省吾は静かに息を引き取った。

私が駆けつけたとき、彼の手からはもう、温もりが引いていた。

枕元には、私が塚のために彫った石の、小さな写しが、布に包まれて置かれていた。

省吾は、自分が向こうへ渡ったあとのことを、細やかに書き残していた。

千代に宛てた手紙、私と千代に宛てた手紙、そして私だけに宛てた手紙。

私と千代への手紙には、ただ深い感謝の言葉が綴られていた。

だが、私一人に宛てた手紙は、違っていた。

その封を開けたのは、葬儀のすべてが終わった、静かな夜だった。

中には、一枚の紙と、婚姻届が入っていた。

紙には、省吾の筆で、こう書かれていた。

『千代の腹の子は、俺の子だが、戸籍の上では、お前の子にしてくれ』

『石の因は、俺の血筋を順に伝う。ならば、この子を俺の血筋から切り離せば、因は俺で終わる』

『千代を、そして子を、お前の名で守ってくれ。頼む』

私は、その紙を持つ手が震えるのを、抑えられなかった。

省吾は、最後まで、自分ではなく、残される者のことだけを考えていた。

そして紙の隅には、髪を梳いたような細い筋が、幾重にも引かれていた。

省吾の子の名を書いた欄の、そのすぐ下に、私の名が、同じ筆で書き足されていた。

私は、その細い筋を、指先でそっとなぞった。

岬の立石に刻まれていた、あの筋と、寸分違わなかった。

私は、婚姻届を手に、幾晩も迷った。

省吾の願いを叶えることは、彼の血筋を偽ることでもあった。

だが、叶えなければ、千代と、腹の子は、行き場を失う。

私は結局、その紙に判を押した。

岬の工事は、いつのまにか取りやめになった。

予算がつかなくなったのだと、役場は言った。

削られかけた岩場だけが、今も無残な形で残っている。

社の裏の塚には、宮司が今も、年に一度、注連縄を巻き替えている。

千代は無事に子を産み、その子は、私の名を継いで育っている。

健やかな子だ。

私は石を投げたことも、あの立石に手をかけたこともない。

だから、私には因の回ってくる筋合いなど、何一つないはずだった。

そう思いたい。

だが、省吾があの手紙に私の名を書き足したとき、因の順番は、書き換えられてしまったのではないか。

私は今でも、それがわからない。

私は、石を生業にしながら、動かしてはならぬ石を、止められなかった。

あの朝、工事場へ走って、たった一言、やめろと叫べばよかったのかもしれない。

その悔いだけが、今も胸の底に、小さな錘のように残っている。

夜ごと、痩せた女が枕元に立つ夢は、まだ見ない。

まだ、と、そう書いてしまう自分が、いる。

今でも私は、岬の突端にだけは、鑿を持って近づかない。

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