
私の家は、山あいの細い谷の、いちばん奥にある。
両隣の家まで、歩いて十分はかかる。
祖父の代から続く田を継いで、もう八年になる。
三十代も、半ばを過ぎた。
妻と二人、米と、わずかな畑で暮らしている。
夏は茄子と胡瓜、秋は里芋。
それと、谷一面の、稲。
朝は鶏より早く起きる。
妻が竈に火を入れる音で、目が覚める。
暗いうちに、長靴を履いて、水を見にいく。
懐中電灯の輪の中に、朝靄が白く浮かぶ。
それが、この谷の百姓の習いだ。
代々、誰もが、そうしてきた。
谷の田は、湧き水で育つ。
沢の水ではない。
向かいの山の腹から滲み出す、冷たい地下の水だ。
夏でも、手を浸すと骨まで痛くなる。
その水を、谷のこちら側へ引いてくる道がある。
山をひとつ、横に刳り抜いた古い隧道。
素掘りの、人ひとりがやっと屈んで通れるほどの穴だ。
誰が掘ったのかは、はっきりしない。
祖父は「ご先祖が、一鍬ずつ掘った」と言っていた。
幾代もかけて、山の腹に穴を通したのだと。
その隧道の向こうに、水の湧き口がある。
枯れ葉や泥が詰まれば、人が入って浚う。
子供の頃、祖父について、一度だけ入ったことがある。
冷たくて、暗くて、水の音だけがしていた。
祖父の背中だけを見て、ついて歩いた。
「ここの水を絶やすな」と、祖父は言った。
「絶やせば、この谷は終わる」と。
幼かった私には、その意味が分からなかった。
ただ、祖父の声が、いつになく低かったのを覚えている。
「水は、先祖から借りとるもんだ」
「使うだけ使うて、返さん者は、いずれ咎められる」
祖父は、そんなことも言っていた。
意味の分からぬまま、私は頷いた。
祖父を見送ってからは、水が止まることもなかった。
だから、長いこと、私はその穴に入る必要がなかった。
今年は、梅雨が早く明けた。
七月を待たずに、谷が乾きはじめた。
沢が痩せ、川床の石が白く灼けた。
蝉の声だけが、日に日に濃くなっていった。
畑の土は、握っても固まらないほど乾いた。
井戸の水位も、目に見えて下がっていた。
谷じゅうが、雨を待っていた。
それでも、田の水だけは絶えなかった。
湧き水は、いつも変わらず冷たかったからだ。
ところが、ある朝のことだ。
水口に手を当てても、湿りしか伝わってこない。
水が、止まっていた。
上の田から順に、土がひび割れはじめた。
稲の葉が、昼を待たずに巻いた。
私は、隣の山口さんに電話をかけた。
「うちも上の段が乾いてきた」と、山口さんは言った。
「湧き口が詰まっとるんと違うか」と。
「あんたんとこの隧道、ずっと浚うとらんやろ」
「親父さんが入っとったきりや」
私は、そうですね、とだけ答えた。
「気いつけや」と、山口さんは、声を落とした。
「あの隧道は、昔から、いわくのある穴やでな」
「入ったまま、帰ってこんかった人もおる、と聞いとる」
「ほんまかどうか、わしも知らんが」
私は、笑って受け流した。
子供を脅す、よくある言い伝えだと思った。
電話を切ると、谷は、もう蝉の声で満ちていた。
祖父がしていたように、隧道の向こうを浚うしかない。
私は、鍬と、祖父の遺した古い角灯を用意した。
電灯もあったが、湿気で点かないのが怖かった。
古い角灯のほうが、こういう穴では確かだと、祖父が言っていた。
隧道の口に立つと、中から、ひやりとした風が吹き出していた。
真夏の朝とは、思えない風だ。
秋の谷の、底のような風。
腕に、鳥肌が立った。
けれど、水を絶やすわけにはいかない。
私は、身を屈めて、穴の中へ足を踏み入れた。
※
角灯を点して、ゆっくりと進んだ。
足元を、水がくるぶしまで浸している。
水は冷たく、思っていたよりも澄んでいた。
壁には、鑿の跡がそのまま残っている。
黒く濡れて、灯りを鈍く返した。
十歩も進むと、外の蝉の声が、ふつりと消えた。
聞こえるのは、自分の息と、水を踏む音だけ。
それと、ときおり、天井から落ちる雫の音。
子供の頃の記憶では、隧道はすぐに抜けたはずだった。
祖父の歩幅で、五十も数えれば向こうだった。
だが、いくら進んでも、向こうの光が見えてこない。
百を数えても、暗いままだった。
角灯の油は、まだ十分にある。
それなのに、足を前に出すたび、奥が遠のく気がした。
途中、壁の窪みに、何かが置かれていた。
灯りを近づけると、古い、欠けた湯呑みだった。
中に、乾いた米粒が、いくつか残っていた。
供え物のようだった。
祖父が供えたものか。
それとも、もっと前の、誰かのものか。
私は、立ち止まって、手を合わせた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。
ただ、そうしなければいけない気がした。
祖父も、ここで手を合わせていたのだろうか。
角灯の灯りが、ふいに、大きく揺れた。
風など、ないはずだった。
炎が、向こうへ向かって、傾いだ。
誰かが、奥から私を呼んでいるようだった。
また、足を進めた。
壁を伝う水の量が、少しずつ増えていく。
膝の下まで、冷たい水が来た。
歩くたび、波紋が前へ前へと走っていった。
その先の暗がりへ、灯りの届かぬ奥へ。
ふと、後ろを振り返った。
入ってきたはずの口の光も、もう見えなかった。
前も、後ろも、ただ黒い水の道だけ。
引き返すべきか、と一瞬迷った。
けれど、田の、ひび割れた土が頭をよぎった。
稲の、巻いた葉が。
私は、奥へ進むことにした。
水の匂いも、変わった。
土と、苔と、それから、かすかに煙のような匂い。
こんな穴の奥で、煙の匂いがするはずがない。
私は、足を止めた。
耳を澄ますと、水音に、別の音が混じっていた。
木の軋む、規則正しい音。
ぎい、ぎい、と、何かが、ゆっくり回っている。
水車だ、と、すぐに分かった。
けれど、この谷に、水車などない。
とうの昔に朽ちて、礎石だけが川辺に残っている。
祖父の、そのまた祖父の頃に、回っていたきりだと聞いた。
それなのに、その音が、確かに前から聞こえてくる。
ぎい、ぎい、と、私を招くように。
前方に、ぼんやりと、光が見えはじめた。
朝の、白い光ではなかった。
夕方のような、黄金色の、傾いた光だ。
おかしい、と思った。
穴に入ったのは、まだ六時前だ。
外が、夕暮れのはずがない。
それでも、足は、光のほうへ向かっていた。
水音と、水車の音が、だんだん大きくなる。
煙の匂いも、濃くなった。
薪を、どこかの竈でくべている匂い。
私は、最後の数歩を、駆けた。
そして、隧道を抜けた。
※
外は、私の谷だった。
だが、私の知る谷では、なかった。
見渡すかぎり、田だった。
段々に連なる、青い稲の田。
私の代では、半分が杉山に還った、あの斜面まで。
谷を埋めつくして、稲が風に揺れていた。
川のほとりに、大きな水車が回っていた。
黒く濡れた羽根が、水を掬っては、こぼしている。
ぎい、ぎい、と、さっきの音。
煙は、谷の方々の家から、立ちのぼっていた。
茅葺きの、低い家々。
私の谷に、茅葺きの家など、もう一軒も残っていない。
どれも、瓦か、トタンの屋根に変わっている。
畦には、紫の花を咲かせた豆が植わっていた。
祖母が、田の畦で作っていたという、あの豆だ。
私が継いだ頃には、もう誰も作っていなかった。
蛙の声が、田の一面から湧き上がっていた。
私の谷では、近頃、ほとんど聞かなくなった声だ。
夕暮れの光が、田の水面を、金色に染めていた。
私は、自分の長靴と、鍬を見た。
確かに、私のものだ。
夢ではない、と思った。
けれど、では、これは、どこなのか。
畦道の先に、人がいた。
菅笠をかぶり、腰を曲げて、水口の泥を掻いている老人。
私は、声を張った。
「すみません」
老人は、顔を上げなかった。
掻く手も、止めなかった。
「この谷の、水のことで、お訊きしたいんです」
「上の田が、乾いてしまって」
老人は、泥を掻きながら、低い声で言った。
「知っとる」
谷の底から響くような、声だった。
「おまえの田だな」
私は、ぞっとした。
なぜ、それを知っているのか。
「上の段から、乾いていったろう」と、老人は続けた。
「水が止まったのは、ここが詰まったからだ」
「浚えば、また回る」
「だが、急ぎなさい」
老人は、ようやく顔を上げた。
日に灼けた、皺の深い顔。
けれど、その目だけが、妙に若かった。
「日が傾くと、水が変わる」
「そうなれば、おまえは戻れん」
私は、足元の水を見た。
さっきまで澄んでいた水が、わずかに濁りはじめていた。
底の泥が、ゆっくりと舞い上がるように。
「あなたは」と、私は訊いた。
「この谷の、人ですか」
「いつの、人なんですか」
老人は、答えなかった。
ただ、濁りはじめた水を、じっと見ていた。
「水に、いつもなどない」
「昔も、今も、みな、同じ水だ」
老人は、笑ったようだった。
口の端だけが、わずかに動いた。
「おまえの田に水を回しとるのは、ずっとわしらだ」
背中を、冷たいものが、すうっと這った。
声が、出なかった。
「わしら」と、老人は、また言った。
「掘った者も、浚うた者も」
「みな、この水の中におる」
私は、思わず、後ずさった。
「おまえも、いずれ、こちら側だ」
老人は、淡々と、そう言った。
脅すでもなく、ただ、事実を告げるように。
「水を絶やさんかぎり、田は続く」
「田が続くかぎり、わしらも、ここにおる」
喉の奥が、からからに乾いていた。
鍬を握る手だけが、汗で濡れていた。
老人は、もう私を見ていなかった。
また、黙々と、泥を掻きはじめた。
「早う戻れ」
「向こうの田が、待っとる」
水車の音が、ひときわ大きく軋んだ。
金色だった光が、少しずつ、赤みを帯びていく。
日が、傾きはじめている。
※
私は、隧道へ駆け戻った。
黄金の光を背にして、暗い穴へ飛び込んだ。
水は、もう、くるぶしを越えていた。
さっきより、ずっと冷たかった。
一度だけ、振り返った。
光のなかで、水車が、まだ回っていた。
ぎい、ぎい、と、その音が、遠ざかっていく。
畦道に、老人の姿は、もう見えなかった。
私は、前だけを見て、走った。
どれほど走ったか、覚えていない。
息が切れ、角灯の灯りが、激しく揺れた。
やがて、前方に、白いものが滲んだ。
蝉の声が、戻ってきた。
土と草の、夏の匂い。
私は、隧道を抜けた。
外は、白い、朝の光だった。
谷は、私の知る谷だった。
杉山に、半分還った斜面。
水車のない、静かな川。
茅葺きの家など、どこにもない。
私は、腕の時計を見た。
六時を、少し回ったところだった。
穴に入ってから、十分と、経っていない。
あの谷で過ごした時間が、嘘のようだった。
私は、放心したまま、田へ戻った。
そして、水口を見て、息を呑んだ。
水が、来ていた。
細く、けれど確かに、冷たい水が。
ひび割れた田の土を、ゆっくりと潤しはじめていた。
私は、その場に、しゃがみこんだ。
手を浸すと、骨まで痛むほど、冷たかった。
いつもの、湧き水の冷たさだった。
※
その日の夜、私は、祖父の遺した古い箱を開けた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。
箱の底に、黄ばんだ写真が、一枚あった。
谷の水口で、泥を掻く男たちを写したものだ。
菅笠をかぶった、何人もの男。
そのいちばん年嵩の老人の顔に、私は見覚えがあった。
今朝、隧道の向こうで会った、あの老人だった。
同じ、皺の深い顔。
妙に若い、あの目。
写真の裏に、薄い墨で、年が記してあった。
私が生まれるよりも、ずっと前の年だった。
祖父が、まだ生まれてもいない頃の。
写真の隅に、小さな水車が写っていた。
私が、隧道の向こうで見た、あの水車だ。
黒く濡れた羽根の形まで、同じだった。
私は、長いこと、その写真を見ていた。
妻には、何も話していない。
話したところで、信じてもらえないだろう。
あれから、私は、隧道に入っていない。
水は、今も、止まっていない。
私は、その穴を、時空の隧道と、心のなかで呼んでいる。
ただ、乾いた朝に、ときどき、口から冷たい風が吹き出す。
秋の谷の底のような、あの風が。
そんな朝は、私は、水口に米を少し供える。
壁の窪みで見た、あの欠けた湯呑みのように。
乾いた米粒を、いくつか。
妻は、何も訊かずに、米を分けてくれる。
ただ、私の顔を、少し心配そうに見る。
山口さんには、一度だけ、話そうとした。
けれど、言葉にしかけて、やめた。
あの黄金の谷のことは、うまく言えない。
言えば、何かが、壊れてしまう気がした。
向こうの谷で、今も誰かが、泥を掻いてくれている気がするから。
あの、黄金色の光の谷で。
私の知らない、けれど、確かに私の谷で。
水を絶やすな、と、祖父は言った。
絶やせば、この谷は終わる、と。
今なら、その言葉の重さが、少し分かる気がする。
あの水を回しているのは、たぶん、私たちだけではないのだ。
今朝も、田には、冷たい水が来ていた。
稲が、青々と、風に揺れていた。
私は、ただ、それを絶やさぬように生きていく。
いつか、私も向こうの谷で、泥を掻く日まで。