終電後の無人駅に現れた二両の列車

電車

去年の十一月、秋田への出張の帰りのことだ。

俺は、東京の中堅メーカーで働く営業職で、年に何度か、東北へ出張に出る。

実家は、岩手の山あいの小さな町にある。

盆に帰らなかったのは、これで三年連続だった。

俺は、時間にルーズな人間だった。

待ち合わせには、たいてい遅れた。五分、十分。悪気はなかった。

遅れても、相手は待っていてくれる。そう思い込んでいた。

あの日も、午後の商談に、十五分遅れて入った。

商談が長引き、取引先の担当者と、駅前の居酒屋で軽く飲んだのがいけなかった。

店を出たとき、時計は二十三時を回っていた。

新幹線の最終は、とうに出たあとだった。

在来線を乗り継いで、なんとか仙台まで出ようと考えた。

ホテルの予約アプリは、どこも満室と表示された。近くで大きな学会があったらしい。

調べておいた時刻表は、土日ダイヤだった。

結局、乗り換えの駅で終電を逃し、完全に足止めを食らった。

そこで俺は、時刻表にない二両の列車に乗った。

あれを、ただの夢だったと片づけられたら、どれだけ楽だろう。

だが、俺の手元には、その証拠が、いくつも残ってしまった。

駅の名前は覚えている。けれど、ここには書かないでおく。

理由は、最後まで読めば分かる。

二両の列車に乗った夜のことを、順番に書いていく。

記憶が薄れないうちに、書き留めておきたかった。

誰かに信じてもらうためではない。

0時47分の回送

地方の小さな駅だった。

改札は無人で、待合室には、プラスチックの長椅子が四脚あるだけだった。

十一月の東北は、夜になると、容赦なく冷え込む。

コートの襟を立てて、スマホで近くのホテルを探した。

徒歩圏内には、一軒もなかった。

駅前の通りは、シャッターの下りた商店が並ぶだけで、自販機の明かりが、いちばん明るかった。

待合室の壁には、手書きの時刻表が貼ってあり、最終は二十二時五十八分と、鉛筆で消した跡があった。

タクシー会社に電話をかけても、呼び出し音が鳴り続けるばかりだった。

諦めて、始発を待つことにした。

あと五時間。長い夜になりそうだった。

缶コーヒーを買って、両手で握りしめた。

待合室の隅で、白い猫が、丸くなっていた。

猫は、零時四十七分の少し前に、ふっと顔を上げ、ホームのほうを、じっと見つめた。

尻尾の先が、一度だけ、揺れた。

熱さが、指先から、じんじんと染み込んでくる。

風が、ホームの屋根を鳴らしていた。

母に電話しようとして、画面を見た。

零時三十分だった。

夜中に起こすのは悪いと思い、結局、発信ボタンを押さなかった。

その音が、だんだん、誰かの足音に聞こえはじめた。

暇つぶしにLINEを開くと、母からのメッセージが、いちばん上に残っていた。

『お盆に帰れなかったなら、せめて、声だけでも聞かせてね』

母からのLINEは、先月から既読のまま、返信していなかった。

忙しい、という言い訳を、俺は何度、母に使っただろう。

画面を閉じると、待合室の蛍光灯が、ジジ、と小さな音を立てて瞬いた。

うとうとしかけた頃だった。

ホームの方から、微かな音が聞こえてきた。

ブザーでも、アナウンスでもない。古い木の床を踏みしめるような、低い音だった。

レールの軋む音。

列車が近づいてくる気配。

時計を見ると、零時四十七分だった。

終電は、とっくに終わっている。

回送列車だろうと思い、なんとなくホームに出てみた。

そこへ、二両編成の古い列車が、音もなく滑り込んできた。

塗装は、くすんだ深い緑色。

窓枠は、木でできているように見えた。

今どき、こんな車両が走っているのかと思った。

それ以上に気になったのは、ドアが、静かに開いたことだった。

回送なら、客扱いはしないはずだ。

覗き込むと、車内には、誰も乗っていなかった。

座席はモケット張りの古いタイプで、照明は、白熱灯のような柔らかい橙色だった。

暖房が効いているのか、ドアの隙間から、ほんのりと温かい空気が流れてきた。

時刻表にない、二両の列車。

誰も乗っていない。

ドアは、開いている。

普通なら乗らない。乗るべきじゃないことも、分かっていた。

けれど、あのときの俺は、どうかしていたのだと思う。

寒さと、疲れと、酒の残りが、判断力を鈍らせていた。

気がつくと、俺は、その温かい空気のなかに、足を入れていた。

二両の列車が呼ぶ日付

ドアが閉まり、列車は、音もなく動き出した。

加速は、穏やかだった。

線路の継ぎ目を踏む規則正しいリズムが、不思議なほど心地よかった。

窓の外は、墨を流したような闇で、遠くに民家の灯りが、点々と見えるだけだった。

窓ガラスに映る車内には、俺のほかに、もうひとり、座っているのが見えた。

振り向くと、誰もいなかった。

もう一度ガラスを見ると、その席は、空いていた。

網棚に、色あせた風呂敷包みがひとつ、載っていた。

吊り革は、風もないのに、一定の間隔で揺れていた。

窓枠の木には、誰かが爪で彫った、小さな字が残っていた。

「まってる」と、ひらがなで。

俺が乗ったときには、なかった気がした。

十分ほど走った頃、天井のスピーカーが、ざらりと鳴った。

男の声だった。

年老いた、穏やかな声だった。

「次は、十一月四日、午後六時十二分。十一月四日、午後六時十二分」

駅名ではなかった。

日付と、時刻だった。

列車が減速し、ホームに滑り込んだ。

駅名標には、同じ日付と時刻が、そのまま書かれていた。

ホームには、傘を差した若い女が、ひとり立っていた。

彼女は、列車を見上げて、小さく首を傾げた。

そして、腕時計に目を落とし、ため息をついた。

俺は、その横顔に見覚えがあった。

けれど、名前が出てこなかった。

降りようと思い、ドアの前に立った。

ドアは、開かなかった。

ボタンも、取っ手もない。

両手で押しても、びくともしなかった。

列車は、また動き出した。

次の駅も、その次の駅も、同じだった。

「次は、七月二十日、午後二時四十分」

「次は、三月十五日、午前九時五分」

どの駅のホームにも、人がひとり、立っていた。

そして誰もが、腕時計を見て、困ったような顔をしていた。

車内を、端から端まで歩いた。

運転席の仕切りのガラスは、不透明で、中は見えなかった。

非常用のコックも、見当たらない。

窓を開けようとしたが、木の窓枠は、釘で打ちつけたように動かなかった。

指先に、ざらりとした木目の感触だけが残った。

スマホを見た。電波は、ゼロだった。

時計の表示は、零時四十七分のまま、動いていなかった。

窓の外に、月が出ていた。

見たこともないほど大きな月が、低い位置にかかっていた。

色は、淡い橙で、表面の模様が、いつもと違って見えた。

「嘘だろ」

声に出して呟いたが、音は車内に響かず、壁に吸い込まれた。

網棚の風呂敷包みは、停車のたびに、ほんの少しずつ、こちらに寄ってきているように見えた。

俺は、その包みに、触れないようにした。

ホームで待つ人

七月二十日の午後二時四十分。

その日付に、俺は、はっとした。

三年前の夏、後輩の結婚式の日だった。

前の晩、飲み過ぎて寝坊し、会場の最寄り駅に、一時間遅れて着いた。

改札の前で、花束を持った先輩が、一時間、ずっと俺を待っていてくれた。

ホームに立っていたのは、あの先輩だった。

俺が着いたとき、先輩は怒らなかった。

「大丈夫、間に合ったから」とだけ、言った。

その優しさに、俺は甘え続けてきたのだ。

白い開襟シャツを着て、腕時計を何度も見ていた。

俺は、窓を叩いた。

「先輩!」

声は、ガラスの内側で、むなしく跳ね返った。

先輩は、列車に気づいたふうでもなく、ただ、時計を見続けていた。

そこで、気づいた。

十一月四日、午後六時十二分。

雨の日の、待ち合わせだ。

ホームにいた女は、当時の恋人だった。

映画の約束に、俺は、二十分遅れた。

二十分が三十分になり、彼女は傘を握りしめたまま、俺を待っていた。

三月十五日、午前九時五分。

就職の面接に、俺は、五分遅れた。

五分遅れただけなのに、面接官が時計を見て、静かに首を振った。

どのホームの人も、俺が待たせた人だった。

待たせた時間の分だけ、その人は、俺の記憶のなかのホームに、立たされ続けている。

そんな馬鹿げた理屈が、窓の外の光景から、一つの間違いもなく導き出されてしまった。

次の駅は、八月十二日、午後四時。

ホームには、野球のグローブを持った男の子が、ひとりで立っていた。

隣の家の子だった。

「今度の日曜、キャッチボール、教えてやる」

そう約束して、俺は、前の晩、二日酔いで、起きられなかった。

あの子は、夕方まで、あの原っぱに立っていたのだと、後から母に聞いた。

男の子は、グローブを胸に抱いて、うつむいていた。

列車が通り過ぎても、顔を上げなかった。

次の駅は、二月三日、午前十時。

ホームに立っていたのは、パジャマの上にカーディガンを羽織った、白髪の老人だった。

杖を握る手が、小刻みに震えていた。

祖父だった。

入院先の病院で、「今度来るときは、あの蕎麦屋に連れていってくれ」と言われた。

「必ず行く」と、俺は答えた。

仕事を理由に、二度と、行けなかった。

祖父は、亡くなった今も、ホームで俺を待っている。

列車は、止まらずに、その前を通り過ぎた。

祖父は、窓の中の俺に気づいたのか、気づかないのか、小さく、頷いた。

列車は、淡々と、俺の「遅刻」の駅を、ひとつずつ回っていった。

車内の暖房が、いつのまにか、止まっていた。

吐く息が、白く濁った。

何度目かの駅に停まったとき、ホームに、小さな人影が見えた。

割烹着を着た、小柄な女の人だった。

手に、新聞紙に包んだ柿を、いくつか抱えていた。

母だった。

母は、ホームのベンチに座って、腕時計を見ていた。

けれど、時計を見る目は、不安というより、慣れていた。

待つことに、慣れてしまった人の目だった。

俺は、窓に額を押しつけた。

「母さん」

声は、出なかった。

母は、列車に向かって、にこりと笑った。

そして、口を動かした。

声は聞こえなかったが、唇の動きで、何と言っているのか分かった気がした。

「ごはん、食べたの」

いつもの、それだった。

ホームの時計は、零時四十七分で止まっていた。

母は、その時計を見上げて、もう一度、笑った。

列車は、無情に、動き出した。

母の姿が、遠ざかっていった。

網棚の風呂敷包みが、さっきより、ずっと近くにあった。

ちょうど、俺の真上だった。

包みの端から、湿った土の匂いが、した。

五時十二分の駅

どのくらい走っただろう。

体感では、二、三時間だったが、スマホの時計は、零時四十七分から、一秒も進まなかった。

眠気が、限界に来ていた。

まぶたの裏で、ホームに立つ人々の顔が、順番に、浮かんでは消えた。

どの顔も、怒ってはいなかった。

それが、いちばんこたえた。

このまま眠ったら、どうなるのか。

もっと遠くへ、連れていかれるのか。

それとも——

そこで、意識が途切れた。

ガタン、という大きな揺れで、目が覚めた。

列車が、停まっていた。

ドアが、開いている。

反射的に、ホームに飛び出した。

足がホームについた瞬間、背後でドアが閉まり、列車は、するすると闇のなかに消えていった。

振り返ると、そこは、最初に乗った駅だった。

風呂敷包みは、もう、どこにもなかった。

同じプラスチックの長椅子。同じ蛍光灯。同じ無人の改札。

コートの肩には、雪ではなく、古い木の粉のようなものが、薄く積もっていた。

ただ、ベンチの上に、新聞紙に包んだ柿が、三つ、置いてあった。

新聞の日付は、先月のものだった。

スマホを見ると、時計が動いていた。

五時十二分。

電波も、復活している。

画面には、通知が、一件だけ表示されていた。

不在着信は、零時四十七分。母だった。

指が、勝手に動いていた。

呼び出し音は、二回で、途切れた。

「……はい」

眠そうな、母の声だった。

「あ、母さん。ごめん、こんな時間に」

「あんた、風邪ひいてない? 声が、かすれてる」

「大丈夫。寒かっただけ」

「ああ、あんた。ちょうどよかった」

母は、少し笑った。

「夜中にね、夢を見たの。あんたが、寒そうな駅で待ってるの」

「待ってたのは、俺のほうだよ」

「そうかい。じゃあ、どっちでもいいわ」

「……ごめん。お盆、帰れなくて」

「いいのよ。ごはん、食べたの」

「そういえば、母さん、柿は」

「柿? ああ、いま包んでたところよ。三つ、あんたの分」

母は、台所で、新聞紙を畳む音を立てた。

「どうして知ってるの。まだ誰にも言ってないのに」

俺は、答えられなかった。

俺は、ホームのベンチで、声をこらえきれずに泣いた。

「母さん、今年は、ちゃんと帰る」

「待ってるよ。待つのは、得意だから」

母は、いつものように、笑った。

翌日、東京に戻ってから、あの路線について調べた。

午前五時四十分、始発の列車が、ホームに入ってきた。

運転士は、窓を開けて、俺の顔を、じっと見た。

「お客さん、夜中も、ここにいたんですか」

「ええ。終電を逃して」

「……そうですか。無事で、何よりです」

運転士は、それだけ言って、窓を閉めた。

何が無事なのかは、尋ねなかった。

仕事仲間に話すと、疲れていたんだよ、と笑われた。

一週間後、岩手の実家から、小包が届いた。

新聞紙に包んだ柿が、三つ、入っていた。

新聞の日付は、あの夜の、翌日だった。

昭和四十年代に、いくつかの駅が廃止されていた。

地元の古い掲示板の過去ログに、二〇〇三年の書き込みが、一件だけ残っていた。

「乗った。降りられた。でも関口さんは降りられなかった」

関口さんが、誰なのかは分からない。

ただ、誰かを待たせたまま、降りなかった人なのかもしれない。

調べるうちに、境目の話ばかりを、読むようになった。

『霊感の彼女が差し出した両手』も、『海辺の食堂と三つの湯呑み』も、待つ側の話だった。

俺は、その駅名を、ここには書かない。

あの列車は、待たせた人の数だけ、駅を持っている。

次に乗る人の駅が、どこにあるのかは、分からない。

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