白い大蛇の医者と戻ってきた未来

医師と蛇

いとこの話をひとつ書こうと思う。

白い大蛇の医者の夢を、一年半のあいだ見続けた男の話だ。

オレは、その夢の始まりの日付を、ずっとあとになってから知ることになった。

知らなければよかった、とは思っていない。

ただ、順番が違っていた、というだけだ。

いとこはオレと同い年で、小さい頃から兄弟みたいに育った。

頭もキレるし、人に対しても真っすぐで、頼まれごとを断れないような性格をしていた。

そんな彼が二十五歳のとき、末期のがんを告げられた。

家族はもちろん、オレを含めて親戚一同が、信じられない気持ちのまま何日かを過ごした。

知らせを聞いたのは、職場の駐車場だった。

車のドアに手をかけたまま、二十分ほど動けなかった。

あいつとは小学校まで同じ団地に住んでいた。

階段の踊り場で、よく二人でカードを並べた。

あいつは、勝っても喜ばない子だった。

負けた相手の顔を先に見る。

そういう目の使い方をする人間だった。

高校を出てからは、会う回数が減った。

それでも年に二度は飲んだ。

店はいつも同じで、駅裏の古い焼き鳥屋だった。

あいつは必ず、先に来て奥に座っていた。

「なんで毎回、奥なん」

「入口のほう、寒いけん」

そのくせ、店を出るときは自分が先に立って、扉を押さえていた。

別れを告げた嘘

いとこには、そのとき真剣に付き合っていた彼女がいた。

だが彼は、あえて「他に好きな人ができた」と嘘をついて、別れを告げた。

自分の病気で彼女の人生を縛りたくなかったのだと思う。

その話をオレが聞いたのは、別れたあとだった。

「なんで先に言わんかった」

「言うたら、止めるやろ」

「止めるわ」

「やけん、言わんかった」

病室の窓は西向きで、夕方になるとカーテンが橙色に光った。

その光の中で、あいつはずっと天井を見ていた。

天井には、丸い照明の枠がひとつある。

その周りに、薄い染みがいくつか広がっていた。

「あれ、蛇に見えん」

あいつが言ったのは、まだ髪があった頃だ。

「どこが」

「輪んなっとるとこ」

オレには、ただの水漏れの跡にしか見えなかった。

あとで考えると、あの会話は、この話のいちばん最初にある。

けれど当時は、天井の染みの話でしかなかった。

それから一年半、いとこは薬でなんとか持ちこたえていた。

ただ、その薬も次第に効かなくなり、検査のたびに腫瘍は少しずつ大きくなっていった。

副作用で髪も抜け、吐き気で眠れない日も増えた。

それでも最初の頃の彼は驚くほど前向きだった。

「次の検査こそ数値が下がってるはずだ」

そう言って笑ってみせていた。

だが、さすがに自分の残り時間を察したのだろう。

ある時期から、終わりについての言葉が、冗談交じりではなく現実として出るようになった。

「オレ、もう長くないかもな」

「向こうに行くときって、どんな感じなんだろうな」

そんな言葉を、オレは何度も聞かされるようになった。

どうにか励ましたくて、ある日、半分は気休めのようなことを言ってしまった。

「がんの特効薬ってさ、もしかしたら人間の身体の中にあるのかもしれないぞ」

「なんやそれ」

「今日から頭の中で、治る呪文を唱え続けてみろよ」

どこかで読んだ記事を、いい加減にアレンジしただけの話だった。

根拠なんて、何ひとつなかった。

それでも彼は、いつものようにニヤっと笑った。

「じゃあ今日から毎日やってみるか」

真面目なのか冗談なのか分からない返事だった。

オレはその日のことを、六月の暑い日だったとだけ覚えている。

病室の窓は開けられない造りだった。

空調の風が、カーテンの裾だけを揺らしていた。

帰りのエレベーターで、オレは自分の言葉を思い返した。

呪文、という言葉を選んだのは、たぶん逃げだった。

祈れ、とは言えなかった。

祈れと言うのは、もう手がないと認めるのと同じだからだ。

駐車場で煙草を一本吸って、車に乗った。

ラジオが野球の中継をやっていた。

回の途中で、オレはスイッチを切った。

点数の話を聞いていられる気分ではなかった。

信号待ちで、フロントガラスの上のほうを見た。

空はまだ明るくて、雲が細く並んでいた。

蛇のようだ、とは思わなかった。

思わなかったことを、あとになって何度も確かめた。

白い大蛇の医者の夢

それから一ヶ月ほど経った頃、見舞いに行くと、いとこが妙なことを話し始めた。

「このところさ、変な夢ばっかり見るんだよ」

白衣を着た人間が、真っ白な大蛇に乗ってやってくるのだという。

大蛇は天井から音もなくすべり降りてきて、ベッドに横たわる彼の体の周りをぐるりと巻きつく。

その背に乗った白衣の人物が、無言のまま、彼の患部に冷たい手をかざす。

それが一週間に一度くらいの頻度で繰り返されているらしい。

「いやいや、オレ、ついに脳に転移でもしたんじゃないか」

そう言って、彼は笑った。

オレも「マンガみたいな話だな」と一緒になって笑った。

白い大蛇の医者、とオレが呼び始めたのはそのときだ。

面白がって名前をつけただけだった。

名前をつけると、話は急に扱いやすくなる。

あいつも、その呼び方をすぐに使い始めた。

「きのう、白い大蛇の医者、来んかった」

「来んかったんか」

「来ん日は、なんか調子が悪い」

それも冗談の続きだと、オレは思っていた。

看護師さんたちも、その呼び名を面白がっていた。

「今日は先生、来ました」

検温のときに、そんなふうに冗談を言う人もいた。

病室の空気は、その頃がいちばん軽かった。

軽くなった理由を、オレたちは薬の効き方だと思っていた。

扱いやすくなったぶん、オレたちは深く考えなくなった。

夢の細かいところを、一度だけ詳しく聞いたことがある。

大蛇の鱗は、乾いていたという。

濡れてもいないし、冷たくもない。

紙の束を撫でたときの手触りに近い、と言っていた。

白衣の人物の顔は、毎回よく見えなかった。

顎の線だけが、はっきりしていたそうだ。

「女か男かもわからん」

「声は」

「声は、しとらん。口も動いとらん」

それなのに、言われたことだけはわかる。

夢とは、たいていそういうものだ。

オレはそう言って片づけた。

ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。

あいつは、夢の中で一度も怖がっていない。

天井から白い大蛇が降りてくるのだ。

普通は、目が覚めるはずだ。

「怖くないんか」

「怖くない」

「なんで」

「順番が決まっとるけん」

意味がわからなかったので、聞き返さなかった。

あのとき聞き返していれば、と思うことがある。

しかし、その夢を境に、奇妙な変化が現れ始めた。

まず、ほとんど寝たきりに近かった彼に、少しずつ体力が戻ってきた。

食欲が出て、久しぶりに「カレーが食べたい」と言い出した。

次の検査では、がん細胞の増殖が止まっているどころか、ほんのわずかだが縮小し始めていた。

担当医は慎重な言い方をしながらも、こう口にした。

「もしかしたら、次は切れるかもしれません」

前回の手術は、腫瘍の一部を取るだけで終わっていた。

だからオレたちはその言葉を、半分は信じられず、半分は信じたくてたまらない気持ちで聞いた。

叔母は、廊下でしばらく壁を見ていた。

「今度は、うちは信じるけんね」

誰に言ったのかは、わからなかった。

叔母は数年前に、夫を病で見送っている。

信じる、という言葉の使い方が、あの人だけ違っていた。

叔父が入院していたのも、同じ病院だったと聞いた。

棟は違うが、廊下の匂いは同じだろう。

叔母は、消毒液の匂いを嗅ぐと手が震えると言っていた。

それでも毎日、あの人は来ていた。

「うちは、二度目やけんね」

そう言って笑う顔が、笑っていなかった。

標本の瓶が並んだ部屋の話や、人に取り憑くものの噂を、オレは昔から嫌いではなかった。

標本室の番号のない瓶のような話を、面白がって人に聞かせる側の人間だった。

自分の身内にそういうことが起きるとは、一度も思っていなかった。

手術室の前の廊下

手術の前日、いとこはまた、あの夢を見たという。

ただ、その夜の夢はいつもと少し違っていた。

白い大蛇の医者が彼の枕元に立ち、はっきりとした声でこう告げたそうだ。

「今日が最後の治療になる」

驚いた彼は、思わず尋ねた。

「あなたはいったい何者なんですか」

白衣の人物は、一瞬だけ口元を動かして、短く答えた。

「お前が作り出した者だよ」

そこで夢は終わったという。

翌日、予定どおり手術が行われた。

オレは家族と一緒に、手術室の前で何時間も落ち着かない時間を過ごした。

長い時間が経ったあと、ようやく医者が出てきて、少し驚いたような顔で言った。

「手術はうまくいきました」

「正直に言うと、腫瘍はほとんど残っていませんでした」

さらに、医者は首をかしげながら、こんなことも口にした。

「どこか別の病院で、治療を受けましたか」

「いえ、ここ以外では何もしていませんが」

家族がそう答えると、医者はカルテをめくりながら続けた。

「私の記録には無いタイプの処置を受けたような痕が、わずかに見えたんです」

「私の記憶違いかもしれませんが……不思議ですね」

その言葉を聞いた瞬間、オレの背中に、ぞわりとした感覚が走った。

もちろん、現実世界で通用する話ではない。

医者に夢のことを話しても、笑われるか、困らせるだけだろう。

だからオレは、その答えを自分の胸の中だけにしまうことにした。

それでも一度だけ、看護師さんに遠回しに訊いてみたことがある。

夜中に病室を見回るとき、変わったことはありませんかと。

看護師さんは、少し困った顔をした。

「あの部屋、扉がよく開いてるんですよね」

「開いてる」

「閉めても、朝には少し」

風でしょうけど、と言って、その人は台車を押していった。

病室は三階で、廊下の窓はいつも閉まっていた。

退院の日、オレは荷物を運ぶのを手伝った。

段ボール二つと、洗面器と、スリッパ。

それだけの荷物で、一年半が終わった。

最後にあいつは、天井をもう一度見上げた。

「染み、消えとる」

オレも見上げた。

照明の枠の周りは、たしかに白かった。

塗り替えたんやろ、と看護師さんが言った。

「先月、上の階の水漏れを直したんです」

直した日を、オレはそのとき訊かなかった。

訊かなかったことが、いくつもある。

この話は、そういう抜けた穴でできている。

いとこはそこから順調に回復した。

やせ細っていた体には、少しずつ健康な肉が戻ってきた。

髪も生え、笑顔も増え、やがて完全寛解という言葉を告げられるまでになった。

普通の生活に戻った彼が最初にしたのは、仕事探しでも旅行でもなかった。

数年前に嘘をついて別れた彼女に、きちんと謝ることだった。

何年かぶりに連絡を取り、病気のこと、嘘をついて遠ざけたこと、ずっと心残りだったことを打ち明けた。

彼女がどう返事をするか、オレは内心はらはらしていた。

でも彼女は、時間をかけて彼の話を全部聞いたうえで、涙ながらにこう言ったそうだ。

「生きて帰ってきてくれて、よかった」

それから二人は、少しずつ距離を縮めていった。

人に取り憑くものの噂を集めた人に憑く虫の噂という話を読んだことがある。

取り憑くものは、たいてい悪いものとして語られる。

そうでない例を、オレは一つだけ知っている。

見舞いノートの日付

先日、二人はようやく結婚した。

披露宴の会場で、新郎側の席は涙、涙だった。

夫を病で見送ったオレの叔母も、目を真っ赤にしながら笑っていた。

乾杯のあと、オレはこっそりいとこに近づいて、小声で聞いてみた。

「なあ、あの白い大蛇の医者、まだ夢に出てくるのか」

いとこは一瞬きょとんとしたあと、ぽつりと言った。

「いや、あれ以来、一度も出てこない」

「たぶん、もう仕事が終わったんだろうな」

そう言って、彼はとなりに座る花嫁の手をそっと握った。

ひとつだけ、気になったことがある。

「最後の夜のあれ、お前の顔見て言ったんか」

「いや」

いとこは、少し考えてから答えた。

「オレのほうは見とらんかった。ドアのほうを見とった」

あの夜、オレは仕事が長引いて、病院に着いたのが面会時間を過ぎていた。

詰所で断られて、廊下からドアの磨りガラスだけ見て帰った。

入らなかったことを、あいつには言っていない。

帰り際、叔母がオレを呼び止めて、古いノートを一冊渡してくれた。

病室に置いてあった見舞いノートだ。

来た人が日付と一行だけ書いていく、あの薄いノートだった。

あいつにも、日付と一行だけ書く癖があった。

体温や、食べたもののことが、鉛筆で短く残っている。

オレは新幹線の中でそれをめくった。

表紙は薄い緑で、角が丸くすり切れていた。

最初のページは、入院した日の日付から始まっている。

看護師の字、叔母の字、友人の字。

そのあいだに、あいつの細い鉛筆の字が混じっている。

「三十七度二分」

「うどん半分」

「雨」

「面会、多い」

「誰も来ん日」

どれも一行だった。

呪文の話をした日は、六月十一日だった。

その日の欄には「いとこ来る。呪文の話。あほらしい」と書いてあった。

笑って、ページを戻した。

戻したところで、指が止まった。

六月十一日より前のページに、見覚えのある字が並んでいた。

日付を追って、ゆっくり遡った。

六月四日。

「白い蛇の夢。白衣の人。五度目」

五度目、とあった。

さらに前へ戻した。

五月三十日の欄に、こう書いてあった。

「白い蛇の夢。白衣の人。三度目」

三度目、とあった。

白い大蛇の医者が最初に来た日は、オレが呪文の話をするより、ひと月近く前だった。

あの日、あいつは笑って「じゃあ今日から毎日やってみるか」と言った。

もう始まっていることを、黙って受け取っただけだったのだ。

オレはノートを閉じて、窓の外を見た。

それが怖い話なのか、不思議な話なのかは、いまもわからない。

ただ、あいつの笑顔が戻ってきたという事実だけは、動かしようがない。

白い大蛇の医者がドアのほうを見て言った言葉を、オレは時々、思い出す。

廊下に立っていたのは、オレだった。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。