
今から話す出来事は、3年前。僕が高校2年生だった夏のことです。
その頃、僕は近所のコンビニでアルバイトをしていました。店には同い年の女の子と、50代くらいの店長、そして数人の年上の先輩たちが働いていました。
夏休みに入った翌朝、いつも通り店に向かうと、すでに同い年の女の子と3歳年上の先輩がレジに立っていました。
「おはようございまーす」
「おう、K君!早く入ってね〜」
軽いやりとりを交わし、僕は奥で制服に着替えて仕事を始めました。その日の仕事は商品の陳列が中心でした。
忙しい時間帯が過ぎ、客の波が落ち着いた頃、仲良くしていたその女の子が話しかけてきました。
「K君、夏休みって何か予定ある?」
「いや、ないよ。バイト以外は寝て過ごす(笑)」
彼女は少し声を潜めて言いました。
「K君、この近くの廃屋って知ってる?」
「ああ、知ってる。幽霊が出るって噂の屋敷だろ?」
それは町でもよく知られた場所でした。昔、家主が自殺したという噂があり、幽霊屋敷と呼ばれていました。
「そう、その廃屋。出るって噂は知ってるでしょ?」
「知ってるよ。自殺した家主の霊だって話だろ?」
「違うのよ。あそこに出るのは幽霊じゃなくて――虫なの」
あまりに真剣な顔で「虫」と言うので、僕は思わず吹き出してしまいました。
「違うの!普通の虫じゃなくて、人に憑く虫らしいの」
そう言いかけたところで自動ドアが開き、客が入ってきたため、会話はいったん途切れました。
※
夕方、僕たちのシフトが終わった後、店のそばの河原でまたその話の続きになりました。
「さっきの虫の話なんだけどね…」
普段は大人しく、どちらかと言えば聞き役に回ることの多い彼女が、この話題だけは異様に執着していました。
「私の友達がね、憑かれちゃったらしいの」
「……?」
「その子、夏休み前から学校を休みがちだったの。心配してお見舞いに行ったら、すっかり痩せていて、『屋敷の虫に憑かれた』って言うのよ。夢にまで出てきて、眠れないって」
僕は冗談半分に聞き流そうとしましたが、彼女の目は真剣でした。
「今、その子は体調を崩して入院してるの」
「……心の病じゃないの?学校で何かあったとか」
「そんなことない!むしろ明るくて、クラスの中心だった子なの。それがあんな風になっちゃって…」
言葉を失う僕に、彼女は不安そうに問いかけました。
「どうすればいいかなあ?」
「そんなこと言われても…。僕は信じないな。きっと心の問題だよ」
「違うの。あの廃屋には、絶対に何かいる」
その時の彼女の表情は、普段の彼女とはまるで別人のようで、底知れぬ恐怖を抱えているように見えました。
僕は無理に明るく言いました。
「じゃあ、行ってみる?」
「え?」
「行けばわかるじゃん。いるかいないか」
「バカ!」
彼女は笑顔を取り戻しました。その笑顔を見て、僕はようやく安心しました。
――だが、この時の選択こそが、間違いの始まりだったのです。
※
辺りはちょうど薄暗くなり始めていました。
僕は彼女を安心させようと、コンビニで懐中電灯を買いました。レジの知り合いの店員に「何に使うんだよ」と笑いながら聞かれましたが、目的は言えませんでした。
そして僕たちは、町で噂されるあの廃屋へと足を向けました。
※
屋敷に着いた時には、すっかり夜の闇が広がっていました。
「やっぱりよ、ここよ…」と彼女が小さく呟きました。
「せっかく来たんだし、中をちょっと覗くだけにしよう。大丈夫だって」
僕は努めて平然を装いました。正直、幽霊など信じていなかったし、怖いという感覚もほとんどありませんでした。――ただひとつ、先ほどの彼女の表情だけが頭に引っかかっていました。
玄関の引き戸は錆びていて、開けるときに「ギイイ」と耳障りな音を立てました。
中は真っ暗でした。廊下が伸び、その両側に四つの部屋が並んでいます。懐中電灯で照らすと、どの扉も古びた引き戸でした。
「気味が悪い…。もう帰ろうよ」
彼女の声は震えていました。
僕は笑って一番手前の扉を開け、中を照らしました。蜘蛛の巣だらけで、床には木材の破片が散らばっていました。
「やっぱり何も出ないじゃん」
軽く言いましたが、彼女は黙ったままでした。少し怖がらせすぎたと思い、次の部屋も覗いてから帰ろうと扉を開けました。そこも荒れ果てているだけで、何もいませんでした。
「というわけで、帰りますか。結局、噂だけだね」
僕は笑いかけ、玄関から外に出ました。
※
外は暗闇に包まれていました。僕は少し残念に思いながら歩き出しましたが、すぐに異変に気づきました。
――彼女が黙ったままなのです。
横にいるのは確かに彼女でした。けれど、髪が顔にかかっていて表情が見えません。うつむいたまま、何も喋らないのです。
その瞬間、説明のつかない恐怖が全身を駆け抜けました。
幽霊や虫ではない。彼女そのものに、何か得体の知れないものを感じたのです。
僕は理屈ではなく本能で「逃げなければ」と思いました。次の瞬間、彼女を廃屋の前に残したまま、一心不乱に走り出していました。
自分でも信じられない行動でした。顔見知りの女の子を置き去りにして逃げるなんて…。けれど、その時の僕にはどうしようもなかったのです。
家に着いた時、心の底から安堵しました。
今思えば、本当に奇妙です。彼女の姿を見ただけで、理屈を超えた恐怖を覚えたのですから。
その夜、僕は彼女に連絡を取りませんでした。
「明日は昼から同じシフトだ。明日謝ればいいさ」
そう自分に言い聞かせて眠りにつきました。
――しかし、それが最後の約束になるとは、この時の僕はまだ知る由もなかったのです。
※
その夜、僕は奇妙な夢を見ました。
知らない人々が僕の周囲に立ち、口々に何かを話しかけてくるのです。けれど、あまりにも同時に喋るものだから、言葉は渦を巻いて聞き取れませんでした。
ただひとつ、はっきりと耳に届いた言葉がありました。
――「運が良いね」
その瞬間、僕は目を覚ましました。
※
翌日、バイト先に行くと、彼女の姿はありませんでした。
「○○さんは?」
僕が店長に尋ねると、店長は眉をひそめて「今日は無断欠勤だ」と言いました。
嫌な予感がして、仕事どころではありませんでした。昨日の出来事、夢の中で聞こえた声――それらが頭の中でぐるぐると回っていました。
そして気づいたのです。夢の中で「運が良いね」と言ったのは、あの女の子の声だったのだと。
※
それから彼女は、二度とバイトに現れませんでした。
店長に理由を尋ねると、「病気で辞めた」とだけ言われました。詳しいことは教えてもらえませんでした。
僕はそれ以上聞くこともできず、ただ受験勉強に追われるように日々を過ごしました。高三に進級した春、僕もそのコンビニを辞めました。
結局、あの夜の出来事の真相はわからないままです。
※
今になっても思い出します。
あの廃屋の暗闇。無言でうつむいたままの彼女。
そして夢の中で告げられた「運が良いね」という言葉。
――もしかしたら、本当に「虫」とやらは存在したのかもしれません。
彼女は憑かれてしまい、僕は憑かれなかった。だから僕は「運が良かった」のではないだろうか。
稚拙な想像だと笑われるかもしれません。けれど、あの日、確かに「この世のものではない何か」に触れた感覚を、僕は今もはっきりと覚えています。
未知が身近な存在を変貌させ、恐怖へと変わる――それ以上に恐ろしい体験が、この世にあるでしょうか。
僕は一生、あの夏の記憶を忘れることはないでしょう。