雪に閉ざされた湯宿の十三号

雪の中の旅人

これは、私が一冬だけ世話になった湯宿の、怖い話である。

昭和四十八年の暮れのことだ。

当時の私は、町から町へと回る巡回映写技師をしていた。

発電機と映写機を背に負って、雪深い土地の宿や寄り合い所をめぐった。

夜ごと、古びた銀幕に光を投げ、村の人たちに映画を見せる仕事だった。

暮らしは楽ではなかったが、私はその仕事が嫌いではなかった。

暗がりに浮かぶ人々の横顔を、後ろから眺めているのが好きだった。

その年の十二月、見知らぬ宿から、ずいぶん長い手紙が届いた。

墨で書かれた、古風で丁寧な字だった。

ひと冬のあいだ住み込みで、毎晩、宿の客に映画を見せてほしいという。

宿の名は、鵺ノ湯といった。

地図を広げても、その名はどこにも載っていなかった。

ただ、最寄りらしい無人駅の名だけが、かろうじて端に小さく印してあった。

報酬は、当時の私には信じがたいほど良かった。

半年は遊んで暮らせる額が、ひと冬で約束されていた。

今思えば、その額の良さこそが、最初の警告だったのだ。

だがその時の私は、迷わず引き受けてしまった。

年の瀬の朝、私はその無人駅に降り立った。

ホームには雪が膝まで積もり、改札も人もなかった。

駅前に、一台の橇が、私を待つように止まっていた。

橇を引く老人は、頭巾を深くかぶり、ひと言も口をきかなかった。

私が荷を積むと、老人は黙って手綱を振った。

雪の中を、半日近く揺られた。

谷はだんだん深くなり、空はだんだん狭くなった。

日が傾く頃、ようやく宿の灯りが見えた。

鵺ノ湯は、こんな山奥には不釣り合いなほど、大きな宿だった。

黒い梁が低く渡され、廊下はどこまでも奥へと続いていた。

出迎えた女将は、年の頃の分からない、肌の白い人だった。

「ようおいでました」と、女将は静かに言った。

「遠いところを、まことにご苦労さまでございます」

声は柔らかかったが、目はどこも見ていないようだった。

「ここでは、決まりごとだけ守ってくだされば、何も困ることはありません」

決まりごとは、三つだと女将は言った。

一つ、夜に鈴の音が聞こえても、廊下に出ないこと。

二つ、いちばん奥の、十三号湯には近づかないこと。

三つ、帳場の宿帳には、決して触れないこと。

「それさえ守れば、あなたは無事に春を迎えられます」

私は、はいと答えるよりほかなかった。

その晩から、私の仕事は始まった。

宿で働く者は、私のほかに二人いた。

一人は、トヨという名の、ひどく年老いた仲居だった。

腰は曲がっていたが、その目だけは、不思議なほど澄んでいた。

トヨは私に、よくお茶を運んでくれた。

そして、決まって同じことを小声で言った。

「ここのことは、深く知ろうとせんほうがよろしいですよ」

もう一人は、三浦という、私と同じく外から雇われた若い男だった。

三浦は薪割りと風呂焚きを受け持っていた。

気のいい男で、夜になると私の部屋に来ては、町の話をした。

故郷に許嫁がいて、この冬の稼ぎで所帯を持つのだと、嬉しそうに話していた。

私たちは、すぐに打ち解けた。

雪に閉ざされた宿の中で、三浦の明るさだけが、唯一の救いだった。

夜になると、私は広間に幕を張り、映写機を回した。

客は、いつも同じ顔ぶれだった。

皆、古い着物を着て、背筋を伸ばし、じっと銀幕を見つめていた。

笑う場面でも、誰ひとり笑わなかった。

咳ひとつ、しなかった。

私はそれを、雪国の人は無口なのだと思おうとした。

宿は雪に閉ざされて、誰も出入りできないはずだった。

それなのに、客の数だけは、なぜか少しずつ増えていた。

昨夜は十二人、今夜は十三人、というふうに。

私は最初、自分の数え間違いだと思った。

だが、ある晩、玄関に並んだ下駄の数を、こっそり数えてみた。

泊まり客の数より、下駄のほうが、いつも三足だけ多かった。

その三足は、誰も履いていないのに、夜のあいだに、ひとりでに湿っていた。

濡れた跡が、奥の廊下のほうへと点々と続いていた。

私は、その跡を辿るのをやめた。

映写を続けるうちに、私はもう一つ、おかしなことに気づいた。

幕に映る光の中を、客の煙草の煙だけが、たなびいていた。

だが、何人かの客は、煙草を吸っていないのに、口元から白い息も上げていなかった。

生きた人が寒い広間にいれば、必ず白い息が立つはずだった。

私は映写機の後ろから、そっと客席を数え直した。

前のほうに座る数人は、何度数えても、息をしていなかった。

彼らはただ、銀幕の光を、いつまでも見つめていた。

私は手元のフィルムに目を戻し、見なかったことにした。

その晩、私は初めて、この宿が普通の宿ではないと、はっきり思った。

翌朝、トヨにそのことを話すと、トヨは静かに言った。

「前のほうのお客さまは、ずっと昔からここにおられる方々ですのや」

「あの方々は、もう向こうの客人」

「春になっても、宿を出ては行かれません」

私は、では自分は何のために雇われたのかと尋ねた。

トヨは、ふと悲しげな目をして、こう答えた。

「生きた人の灯りを、あの方々がご所望なのですよ」

その意味を、私はまだ分かっていなかった。

年が明けて、雪はいよいよ深くなった。

宿は完全に、白い谷の底に沈んだ。

ある夜更け、廊下のほうから、澄んだ鈴の音が聞こえた。

りん、りん、と、ゆっくり、こちらへ近づいてくる。

私は女将の言いつけを思い出して、布団の中でじっとしていた。

鈴は私の部屋の障子の前で、ぴたりと止まった。

障子の向こうに、誰かが立っている気配があった。

私は息を殺し、目を固くつぶった。

しばらくして、鈴は、また奥のほうへと遠ざかっていった。

翌朝、客が一人、足りなくなっていた。

いつも幕の右端で観ていた、痩せた老人の姿がなかった。

私はトヨに、あの客はどうしたのかと尋ねた。

トヨは雑巾を動かす手を止めて、ぽつりと言った。

「あの方は、ゆうべ選ばれましたのや」

「あの鈴は、お迎えの鈴でございます」

「もう、こちらの人ではのうなられました」

私は、あの老人が向こうへ渡ったのだと、なんとなく察した。

だが、それ以上は聞けなかった。

トヨの澄んだ目が、聞いてはならぬと言っていた。

それでも私は、一度だけ、トヨにこの宿の昔を尋ねたことがある。

トヨは、長いあいだ黙ってから、ぽつりぽつりと話した。

昔、この谷で大きな飢饉があった年のことだという。

里の者は、山の神に灯りを捧げれば飢えがおさまると信じた。

そうして冬のあいだ、宿に旅人を招いては、もてなしたのだそうだ。

招かれた旅人は、春になっても里へは下りてこなかった。

「灯りを捧げる、という習わしだけが、今も残っておりますのや」

「あなたも、その灯りのひとつとして、呼ばれたのですよ」

私は、背中に冷たいものが伝うのを感じた。

だが、トヨはそれ以上は何も言わず、廊下の奥へ消えていった。

その日から、十三号湯のことが、頭から離れなくなった。

奥の廊下の、いちばん突き当たりに、その湯はあった。

いつも障子が固く閉ざされ、内側から薄い湯気が漏れていた。

近づくと、湯の流れる音にまじって、奇妙な物音がした。

誰かが、湯の中で小さく笑っているような声だった。

幾人もの声が、低く重なっているようにも聞こえた。

私は決まりを守り、それ以上は近づかなかった。

だが、三浦は違った。

三浦は、あの奥に何かがいると言って、夜ごと耳をそばだてた。

「なあ笹岡さん、あれはただの湯じゃねえよ」

「客が消えるのも、きっとあの湯と関わりがあるんだ」

「俺は、いっぺん覗いてみる」

私は、よせ、決まりだけは守れと止めた。

三浦は、薄く笑っただけだった。

その笑いが、なぜか作り物のように見えた。

思えば、その頃から、三浦の様子は少しずつ変わっていた。

飯をほとんど食わなくなり、夜中にひとりごとを言うようになっていた。

数日後の夜、また鈴が鳴った。

りん、りん、と、いつもより長く、廊下を流れていった。

私は布団の中で、息を殺していた。

すると、隣の部屋で、三浦が静かに起き上がる気配がした。

障子が、そっと開く音がした。

廊下の板が、一歩ずつ、きしむ音がした。

その足音は、鈴の音を追うように、奥へ奥へと向かっていった。

私は止めようと声を出そうとした。

だが、喉が貼りついたように、どうしても声が出なかった。

足音は、十三号湯のほうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

鈴の音も、いつのまにか消えていた。

あとには、しんしんと雪の降り積もる音だけが残った。

私は、朝まで一睡もできなかった。

朝になっても、三浦は戻らなかった。

薪は割られず、風呂は冷えきったままだった。

私は女将のところへ行き、三浦がいないと告げた。

女将は、いつもと同じ白い顔で、静かにうなずいた。

「あの人も、客人におなりになりましたのやな」

私は、客人とは何だと、思わず声を荒げた。

女将は答えず、ただ帳場のほうへ、ちらりと目をやった。

その目の動きが、私の中の何かを、決定的に冷やした。

決まりを破ると分かっていて、私は帳場へ回った。

そして、置かれていた分厚い宿帳を、開いてしまった。

帳面には、泊まり客の名が、墨で長々と並んでいた。

見覚えのない古い名が、何十、何百と続いていた。

墨の色は、古いものほど茶色く、新しいものほど黒かった。

いちばん古い名は、もう何百年も前の年号で書かれていた。

その一つひとつが、かつてここに招かれた灯りなのだと、私は悟った。

皆、春を待たずに、客人の欄へと送られていた。

その最後のほうに、三浦の名があった。

昨夜の日付で、泊まり客の欄から、客人の欄へと、一本の線で送られていた。

そして、その三浦の名のすぐ下に、もう一つ、名前が書き添えられていた。

それは、私の名だった。

帳場の宿帳には、まだ呼ばれてもいないはずの私の名が、客人の欄にもう書かれていた。

墨は、まだ濡れて、黒く光っていた。

つまり、次の鈴は、私のために鳴るということだった。

私は、その晩のうちに宿を出ようと決めた。

だが、表の戸も、裏の戸も、内側から固く閉ざされていた。

雪の重みのせいではなかった。

何か別の力が、戸の向こうから押さえつけているようだった。

窓もまた、開かなかった。

途方に暮れて立ちつくしていると、暗がりから、ふいにトヨが現れた。

「こちらへ、来なされ」と、トヨは小さく言った。

トヨは私を、炊事場の奥の、古い氷室の戸へと連れていった。

重い木の戸の奥に、雪の匂いのする闇が口を開けていた。

「ここから谷へ下りれば、朝までには里へ出られます」

「ただし、鈴が鳴っても、決して振り返ってはなりませんで」

私は、トヨも一緒に逃げようと言った。

トヨは、ゆっくりと首を横に振った。

「わたしは、もうずっと昔から、ここの客人ですのや」

「とうに、こちら側の者ではないのですよ」

そのとき初めて、私はあることに気づいた。

灯りの下なのに、トヨの足元には、影がなかった。

「お早く」とトヨは言い、私の背を、そっと闇へ押した。

私は雪の谷を、夜どおし下った。

膝まで雪に埋もれながら、ただ低いほうへ、低いほうへと進んだ。

背後では、りん、りんと、鈴が鳴り続けていた。

何度も振り返りたくなったが、私はトヨの言葉を守った。

鈴は、ときに私のすぐ後ろまで近づき、ぴたりと止まった。

耳のすぐそばで、衣ずれのような音がすることもあった。

そのたびに、私はただ前だけを見て、雪を踏みしめた。

汗と雪で、体の感覚はとうに失せていた。

それでも、足だけは前に出し続けた。

一度だけ、後ろから、私の名を呼ぶ声がした。

それは、まぎれもなく、三浦の声だった。

「笹岡さん、待ってくれよ」と、すぐ耳元で聞こえた。

私は奥歯を噛みしめ、声のほうを見ないようにした。

友の声で呼ばれることが、何より恐ろしかった。

三浦の声は、しばらく私のあとをついてきた。

やがてそれも、雪の音にまぎれて、聞こえなくなった。

夜がしらじらと明ける頃、谷の先に、里の灯りが見えた。

私は最後の力で、その灯りへ転がり込んだ。

灯りに足を踏み入れた瞬間、鈴の音は、ふっと消えた。

私は、それでも振り返らなかった。

だから、何がそこまで私を送ってきたのかは、今も知らない。

里の駐在所で、私は鵺ノ湯のことを、ありのままに話した。

だが、年老いた巡査は、ひどくけげんな顔をした。

この谷の奥に、湯宿などというものは、もう三十年も前から無いという。

昔そういう宿があったが、ある冬の大雪で、建物ごと谷に埋もれたのだと。

その冬、宿にいた者は、ひとりも里へ下りてこなかったのだとも。

私は、自分の荷物を確かめた。

映写機も発電機も、たしかに私の手元にあった。

ただ、フィルムの缶だけが、見覚えのない一本に入れ替わっていた。

缶の蓋には、墨で「鵺ノ湯」とだけ書かれていた。

中身を映写機にかけてみることは、とうとう、しなかった。

あれから、もう何十年も経つ。

私はとうに映写の仕事を辞め、いまは町で、ひとりひっそり暮らしている。

普段は、あの冬のことを思い出すこともない。

私はあの一本のフィルムを、長らく押し入れの奥にしまい込んでいた。

何度か捨てようとしたが、なぜか手放せなかった。

ただ、雪の降る夜にだけ、これは私の中で、思い出す怖い話になる。

しんしんと雪の積もる晩、ごく遠くで、りん、と鈴が鳴ることがある。

そういう夜は、玄関の戸を、決して開けないことにしている。

先だっての雪の朝、曇った窓ガラスに、指で書いたような字が浮いていた。

それは、三浦、という三文字だった。

私はそれを黙って拭き取り、何も見なかったことにした。

許嫁のもとへ帰れなかった三浦のことを思うと、今も胸がふさがる。

鵺ノ湯の、あの分厚い宿帳の、客人の欄。

あそこに書かれた私の名は、たぶん、まだ消されていないのだと思う。

鈴が里の灯りの中まで入ってくる夜のことを、私はただ静かに待っている。

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