
これは、私が一冬だけ世話になった湯宿の、怖い話である。
昭和四十八年の暮れのことだ。
当時の私は、町から町へと回る巡回映写技師をしていた。
発電機と映写機を背に負って、雪深い土地の宿や寄り合い所をめぐった。
夜ごと、古びた銀幕に光を投げ、村の人たちに映画を見せる仕事だった。
暮らしは楽ではなかったが、私はその仕事が嫌いではなかった。
暗がりに浮かぶ人々の横顔を、後ろから眺めているのが好きだった。
その年の十二月、見知らぬ宿から、ずいぶん長い手紙が届いた。
墨で書かれた、古風で丁寧な字だった。
ひと冬のあいだ住み込みで、毎晩、宿の客に映画を見せてほしいという。
宿の名は、鵺ノ湯といった。
地図を広げても、その名はどこにも載っていなかった。
ただ、最寄りらしい無人駅の名だけが、かろうじて端に小さく印してあった。
報酬は、当時の私には信じがたいほど良かった。
半年は遊んで暮らせる額が、ひと冬で約束されていた。
今思えば、その額の良さこそが、最初の警告だったのだ。
だがその時の私は、迷わず引き受けてしまった。
※
年の瀬の朝、私はその無人駅に降り立った。
ホームには雪が膝まで積もり、改札も人もなかった。
駅前に、一台の橇が、私を待つように止まっていた。
橇を引く老人は、頭巾を深くかぶり、ひと言も口をきかなかった。
私が荷を積むと、老人は黙って手綱を振った。
雪の中を、半日近く揺られた。
谷はだんだん深くなり、空はだんだん狭くなった。
日が傾く頃、ようやく宿の灯りが見えた。
鵺ノ湯は、こんな山奥には不釣り合いなほど、大きな宿だった。
黒い梁が低く渡され、廊下はどこまでも奥へと続いていた。
出迎えた女将は、年の頃の分からない、肌の白い人だった。
「ようおいでました」と、女将は静かに言った。
「遠いところを、まことにご苦労さまでございます」
声は柔らかかったが、目はどこも見ていないようだった。
「ここでは、決まりごとだけ守ってくだされば、何も困ることはありません」
決まりごとは、三つだと女将は言った。
一つ、夜に鈴の音が聞こえても、廊下に出ないこと。
二つ、いちばん奥の、十三号湯には近づかないこと。
三つ、帳場の宿帳には、決して触れないこと。
「それさえ守れば、あなたは無事に春を迎えられます」
私は、はいと答えるよりほかなかった。
その晩から、私の仕事は始まった。
※
宿で働く者は、私のほかに二人いた。
一人は、トヨという名の、ひどく年老いた仲居だった。
腰は曲がっていたが、その目だけは、不思議なほど澄んでいた。
トヨは私に、よくお茶を運んでくれた。
そして、決まって同じことを小声で言った。
「ここのことは、深く知ろうとせんほうがよろしいですよ」
もう一人は、三浦という、私と同じく外から雇われた若い男だった。
三浦は薪割りと風呂焚きを受け持っていた。
気のいい男で、夜になると私の部屋に来ては、町の話をした。
故郷に許嫁がいて、この冬の稼ぎで所帯を持つのだと、嬉しそうに話していた。
私たちは、すぐに打ち解けた。
雪に閉ざされた宿の中で、三浦の明るさだけが、唯一の救いだった。
夜になると、私は広間に幕を張り、映写機を回した。
客は、いつも同じ顔ぶれだった。
皆、古い着物を着て、背筋を伸ばし、じっと銀幕を見つめていた。
笑う場面でも、誰ひとり笑わなかった。
咳ひとつ、しなかった。
私はそれを、雪国の人は無口なのだと思おうとした。
宿は雪に閉ざされて、誰も出入りできないはずだった。
それなのに、客の数だけは、なぜか少しずつ増えていた。
昨夜は十二人、今夜は十三人、というふうに。
私は最初、自分の数え間違いだと思った。
だが、ある晩、玄関に並んだ下駄の数を、こっそり数えてみた。
泊まり客の数より、下駄のほうが、いつも三足だけ多かった。
その三足は、誰も履いていないのに、夜のあいだに、ひとりでに湿っていた。
濡れた跡が、奥の廊下のほうへと点々と続いていた。
私は、その跡を辿るのをやめた。
※
映写を続けるうちに、私はもう一つ、おかしなことに気づいた。
幕に映る光の中を、客の煙草の煙だけが、たなびいていた。
だが、何人かの客は、煙草を吸っていないのに、口元から白い息も上げていなかった。
生きた人が寒い広間にいれば、必ず白い息が立つはずだった。
私は映写機の後ろから、そっと客席を数え直した。
前のほうに座る数人は、何度数えても、息をしていなかった。
彼らはただ、銀幕の光を、いつまでも見つめていた。
私は手元のフィルムに目を戻し、見なかったことにした。
その晩、私は初めて、この宿が普通の宿ではないと、はっきり思った。
翌朝、トヨにそのことを話すと、トヨは静かに言った。
「前のほうのお客さまは、ずっと昔からここにおられる方々ですのや」
「あの方々は、もう向こうの客人」
「春になっても、宿を出ては行かれません」
私は、では自分は何のために雇われたのかと尋ねた。
トヨは、ふと悲しげな目をして、こう答えた。
「生きた人の灯りを、あの方々がご所望なのですよ」
その意味を、私はまだ分かっていなかった。
※
年が明けて、雪はいよいよ深くなった。
宿は完全に、白い谷の底に沈んだ。
ある夜更け、廊下のほうから、澄んだ鈴の音が聞こえた。
りん、りん、と、ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
私は女将の言いつけを思い出して、布団の中でじっとしていた。
鈴は私の部屋の障子の前で、ぴたりと止まった。
障子の向こうに、誰かが立っている気配があった。
私は息を殺し、目を固くつぶった。
しばらくして、鈴は、また奥のほうへと遠ざかっていった。
翌朝、客が一人、足りなくなっていた。
いつも幕の右端で観ていた、痩せた老人の姿がなかった。
私はトヨに、あの客はどうしたのかと尋ねた。
トヨは雑巾を動かす手を止めて、ぽつりと言った。
「あの方は、ゆうべ選ばれましたのや」
「あの鈴は、お迎えの鈴でございます」
「もう、こちらの人ではのうなられました」
私は、あの老人が向こうへ渡ったのだと、なんとなく察した。
だが、それ以上は聞けなかった。
トヨの澄んだ目が、聞いてはならぬと言っていた。
それでも私は、一度だけ、トヨにこの宿の昔を尋ねたことがある。
トヨは、長いあいだ黙ってから、ぽつりぽつりと話した。
昔、この谷で大きな飢饉があった年のことだという。
里の者は、山の神に灯りを捧げれば飢えがおさまると信じた。
そうして冬のあいだ、宿に旅人を招いては、もてなしたのだそうだ。
招かれた旅人は、春になっても里へは下りてこなかった。
「灯りを捧げる、という習わしだけが、今も残っておりますのや」
「あなたも、その灯りのひとつとして、呼ばれたのですよ」
私は、背中に冷たいものが伝うのを感じた。
だが、トヨはそれ以上は何も言わず、廊下の奥へ消えていった。
※
その日から、十三号湯のことが、頭から離れなくなった。
奥の廊下の、いちばん突き当たりに、その湯はあった。
いつも障子が固く閉ざされ、内側から薄い湯気が漏れていた。
近づくと、湯の流れる音にまじって、奇妙な物音がした。
誰かが、湯の中で小さく笑っているような声だった。
幾人もの声が、低く重なっているようにも聞こえた。
私は決まりを守り、それ以上は近づかなかった。
だが、三浦は違った。
三浦は、あの奥に何かがいると言って、夜ごと耳をそばだてた。
「なあ笹岡さん、あれはただの湯じゃねえよ」
「客が消えるのも、きっとあの湯と関わりがあるんだ」
「俺は、いっぺん覗いてみる」
私は、よせ、決まりだけは守れと止めた。
三浦は、薄く笑っただけだった。
その笑いが、なぜか作り物のように見えた。
思えば、その頃から、三浦の様子は少しずつ変わっていた。
飯をほとんど食わなくなり、夜中にひとりごとを言うようになっていた。
※
数日後の夜、また鈴が鳴った。
りん、りん、と、いつもより長く、廊下を流れていった。
私は布団の中で、息を殺していた。
すると、隣の部屋で、三浦が静かに起き上がる気配がした。
障子が、そっと開く音がした。
廊下の板が、一歩ずつ、きしむ音がした。
その足音は、鈴の音を追うように、奥へ奥へと向かっていった。
私は止めようと声を出そうとした。
だが、喉が貼りついたように、どうしても声が出なかった。
足音は、十三号湯のほうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
鈴の音も、いつのまにか消えていた。
あとには、しんしんと雪の降り積もる音だけが残った。
私は、朝まで一睡もできなかった。
※
朝になっても、三浦は戻らなかった。
薪は割られず、風呂は冷えきったままだった。
私は女将のところへ行き、三浦がいないと告げた。
女将は、いつもと同じ白い顔で、静かにうなずいた。
「あの人も、客人におなりになりましたのやな」
私は、客人とは何だと、思わず声を荒げた。
女将は答えず、ただ帳場のほうへ、ちらりと目をやった。
その目の動きが、私の中の何かを、決定的に冷やした。
決まりを破ると分かっていて、私は帳場へ回った。
そして、置かれていた分厚い宿帳を、開いてしまった。
帳面には、泊まり客の名が、墨で長々と並んでいた。
見覚えのない古い名が、何十、何百と続いていた。
墨の色は、古いものほど茶色く、新しいものほど黒かった。
いちばん古い名は、もう何百年も前の年号で書かれていた。
その一つひとつが、かつてここに招かれた灯りなのだと、私は悟った。
皆、春を待たずに、客人の欄へと送られていた。
その最後のほうに、三浦の名があった。
昨夜の日付で、泊まり客の欄から、客人の欄へと、一本の線で送られていた。
そして、その三浦の名のすぐ下に、もう一つ、名前が書き添えられていた。
それは、私の名だった。
帳場の宿帳には、まだ呼ばれてもいないはずの私の名が、客人の欄にもう書かれていた。
墨は、まだ濡れて、黒く光っていた。
つまり、次の鈴は、私のために鳴るということだった。
※
私は、その晩のうちに宿を出ようと決めた。
だが、表の戸も、裏の戸も、内側から固く閉ざされていた。
雪の重みのせいではなかった。
何か別の力が、戸の向こうから押さえつけているようだった。
窓もまた、開かなかった。
途方に暮れて立ちつくしていると、暗がりから、ふいにトヨが現れた。
「こちらへ、来なされ」と、トヨは小さく言った。
トヨは私を、炊事場の奥の、古い氷室の戸へと連れていった。
重い木の戸の奥に、雪の匂いのする闇が口を開けていた。
「ここから谷へ下りれば、朝までには里へ出られます」
「ただし、鈴が鳴っても、決して振り返ってはなりませんで」
私は、トヨも一緒に逃げようと言った。
トヨは、ゆっくりと首を横に振った。
「わたしは、もうずっと昔から、ここの客人ですのや」
「とうに、こちら側の者ではないのですよ」
そのとき初めて、私はあることに気づいた。
灯りの下なのに、トヨの足元には、影がなかった。
「お早く」とトヨは言い、私の背を、そっと闇へ押した。
※
私は雪の谷を、夜どおし下った。
膝まで雪に埋もれながら、ただ低いほうへ、低いほうへと進んだ。
背後では、りん、りんと、鈴が鳴り続けていた。
何度も振り返りたくなったが、私はトヨの言葉を守った。
鈴は、ときに私のすぐ後ろまで近づき、ぴたりと止まった。
耳のすぐそばで、衣ずれのような音がすることもあった。
そのたびに、私はただ前だけを見て、雪を踏みしめた。
汗と雪で、体の感覚はとうに失せていた。
それでも、足だけは前に出し続けた。
一度だけ、後ろから、私の名を呼ぶ声がした。
それは、まぎれもなく、三浦の声だった。
「笹岡さん、待ってくれよ」と、すぐ耳元で聞こえた。
私は奥歯を噛みしめ、声のほうを見ないようにした。
友の声で呼ばれることが、何より恐ろしかった。
三浦の声は、しばらく私のあとをついてきた。
やがてそれも、雪の音にまぎれて、聞こえなくなった。
夜がしらじらと明ける頃、谷の先に、里の灯りが見えた。
私は最後の力で、その灯りへ転がり込んだ。
灯りに足を踏み入れた瞬間、鈴の音は、ふっと消えた。
私は、それでも振り返らなかった。
だから、何がそこまで私を送ってきたのかは、今も知らない。
※
里の駐在所で、私は鵺ノ湯のことを、ありのままに話した。
だが、年老いた巡査は、ひどくけげんな顔をした。
この谷の奥に、湯宿などというものは、もう三十年も前から無いという。
昔そういう宿があったが、ある冬の大雪で、建物ごと谷に埋もれたのだと。
その冬、宿にいた者は、ひとりも里へ下りてこなかったのだとも。
私は、自分の荷物を確かめた。
映写機も発電機も、たしかに私の手元にあった。
ただ、フィルムの缶だけが、見覚えのない一本に入れ替わっていた。
缶の蓋には、墨で「鵺ノ湯」とだけ書かれていた。
中身を映写機にかけてみることは、とうとう、しなかった。
※
あれから、もう何十年も経つ。
私はとうに映写の仕事を辞め、いまは町で、ひとりひっそり暮らしている。
普段は、あの冬のことを思い出すこともない。
私はあの一本のフィルムを、長らく押し入れの奥にしまい込んでいた。
何度か捨てようとしたが、なぜか手放せなかった。
ただ、雪の降る夜にだけ、これは私の中で、思い出す怖い話になる。
しんしんと雪の積もる晩、ごく遠くで、りん、と鈴が鳴ることがある。
そういう夜は、玄関の戸を、決して開けないことにしている。
先だっての雪の朝、曇った窓ガラスに、指で書いたような字が浮いていた。
それは、三浦、という三文字だった。
私はそれを黙って拭き取り、何も見なかったことにした。
許嫁のもとへ帰れなかった三浦のことを思うと、今も胸がふさがる。
鵺ノ湯の、あの分厚い宿帳の、客人の欄。
あそこに書かれた私の名は、たぶん、まだ消されていないのだと思う。
鈴が里の灯りの中まで入ってくる夜のことを、私はただ静かに待っている。