ピアノの部屋は先に通される

月夜の回廊と海辺の家

その家では、玄関を上がるとスリッパが二組、揃えて出してある。

私は一人で来ている。

それでも奥さんは、毎年きちんと二組を並べる。

二組目は、一回り小さい。

客用にしては、妙に小ぶりなスリッパだ。

「どうぞ、お上がりください」

私は調律師をしている。

この家のアップライトを見に来るのは、今年で三度目になる。

郊外の丘の中腹に建つ、古い平屋だ。

坂の途中で車を停め、残りは歩いて登る。

門の脇に、白い猫が座っている。

猫は私を見ても動かない。

ただ、私の肩のすぐ後ろを、じっと見ている。

玄関から廊下がまっすぐ奥へ延び、突き当たりの引き戸の先が庭になっている。

その廊下の途中に、ピアノの部屋がある。

ふすまは外されていて、廊下から部屋の中まで、遮るものが何もない。

部屋には家具がなく、ピアノだけが壁際に据えてある。

奥の掃き出し窓は、季節を問わず、少しだけ開いている。

乾いた木と古い布のにおいがする。

風が通り抜けるための家だな、というのが最初の印象だった。

「お道具は、廊下に置かないでくださいね」

奥さんは毎年、同じことを言う。

最初の訪問のとき、私は癖で道具箱を廊下へ下ろしかけた。

奥さんは、私の腕をつかんで止めた。

爪が食い込むほどの力だった。

あの日から、私は箱を廊下に置いたことがない。

この家は、同業の先輩から引き継いだ。

引き継ぎの日、先輩は鍵の束と一緒に、短い注意書きをくれた。

『廊下に物を置くな』。

書いてあったのは、それだけだった。

理由を聞こうとして、聞かなかった。

先輩とは、それきり連絡がついていない。

「ピアノの部屋の中へ、運んでください」

私は頷いて、道具箱を部屋の隅へ運んだ。

廊下の壁に、柱時計がかかっている。

針は二時四十八分を指していた。

私の腕時計は、三時ちょうどだった。

「あの時計、遅れていますよ」

そう言うと、奥さんは少し笑った。

「いいんです。うちはそれで合わせてありますから」

理由を尋ねる前に、奥さんは台所へ下がっていった。

ピアノの部屋を抜ける風

作業の手順は、毎年変わらない。

蓋を開け、鍵盤の下の板を外して、弦の様子を見る。

音叉を鳴らし、中央のラから合わせていく。

古い楽器だが、手入れは行き届いている。

ただ、低音側の弦だけが、毎年きまって同じ向きに狂う。

年月で下がるのではない。

上がるのだ。

湿度でも、説明がつかない。

弦の癖から外れた音には、たいてい楽器の外に理由がある。

それが、この仕事で身についた私の経験則だった。

低音のハンマーのフェルトを、指でなぞってみた。

細い溝が、毎年ひとつずつ増えている。

爪で引いたような、浅い線だ。

弾いていないはずの楽器に、弾かれた跡がある。

私は見なかったことにして、フェルトを元に戻した。

調律師は、聞こえる音を整える仕事だ。

聞こえないはずの音を前にしたとき、放っておくか、直すか。

私はいつも、直す側にいた。

締め直しを終え、和音で確かめるために、私は椅子に座った。

座るとき、私はいつも椅子の左を少し空ける。

癖だ。

いつからそうなのか、自分でも思い出せない。

子どもの頃から、そうだった気がする。

和音を押さえると、部屋いっぱいに音が満ちた。

その余韻の底で、低いラの弦が、ひとりで鳴った。

共鳴だろう、と私は思った。

だが、私はその低いラに指を置いていない。

音は細く長く、廊下のほうへ流れていった。

振り返って、私は廊下の床板を見た。

玄関から庭まで、床板の中央だけが、人の幅で白く磨かれている。

両側には薄く埃が積もっているのに、その一本だけが、濡れたように光っている。

筋はピアノの部屋の中にも続いていた。

ピアノの前でゆるく弧を描き、椅子の脇をかすめて、掃き出し窓へ抜けていく。

私は自分の足元を見た。

靴下が踏んでいるのは、筋の外側だった。

廊下を見張る猫

「お茶をお持ちしました」

気づくと、奥さんが廊下に立っていた。

盆を持ったまま、部屋の中へは入ってこない。

渋い緑茶に、栗の羊羹が添えてあった。

「家の庭で採れた栗なんですよ」

奥さんはそう言って、いつもの顔で笑った。

湯気のおかげで、少しだけ肩の力が抜けた。

「あの床の跡は、お掃除の跡ですか」

「いいえ。誰も、あそこは拭きません」

「では、どうして」

「通る方が、いらっしゃるからです」

奥さんは、郵便配達の話でもするように言った。

「この家は、昔から道の上に建っているんです」

「道、ですか」

「人がうちへ来ると、その後ろから、もうひとり来る。うちは、通すだけの家です」

私は何も言えなかった。

窓の外で、風鈴が鳴った。

風は、なかった。

「だから、廊下に物を置かないでと申し上げるんです。ぶつかると、そこで立ち止まってしまいますから」

「立ち止まると、どうなりますか」

「居ついてしまうんです」

奥さんは盆を廊下の端に置き、私のほうを見ずに続けた。

「前に来ていた調律の方は、道具箱を廊下に置いたまま帰られました」

「その方は」

「それきり、連絡が取れなくなりました」

それは、私に仕事を譲った先輩のことだった。

引き継ぎの日、先輩は箱をどこに置いたのだろう。

考えかけて、やめた。

「奥さんは、この部屋には入らないんですか」

「ええ。通る方の邪魔になりますから」

「夜は、どうされているんです」

「戸を全部開けて、奥の座敷で休みます。廊下の先を、見ないようにして」

奥さんは笑ったまま、湯呑みを下げた。

奥さんが台所へ戻ったあとも、私はしばらく手が動かなかった。

話を面白くしようとする客は、珍しくない。

古い家の言い伝えを、上手に語っているだけだ。

そう考えて、窓のほうへ目をやった。

庭の石の上に、さっきの白い猫が伏せていた。

いつの間に回り込んだのだろう。

背中の毛が、逆立っていた。

目は、私ではなく、廊下の白い筋を追っていた。

ゆっくりと。

人が歩く速さで。

玄関のほうから、庭のほうへ。

左を空けた椅子

替えの弦を取りに、いったん車へ戻った。

坂の下で、近所の人らしい老人が、箒で道を掃いていた。

「ご苦労さまです。毎年、お二人でいらっしゃるんですね」

「いえ、私ひとりです」

「あら、そうでしたか」

老人は箒を止めて、首をひねった。

「足音が、二人分だったもので」

私は礼だけ言って、坂を登り直した。

登りながら、自分の足音を聞いた。

こつ、こつ、と、砂利を踏む音が続く。

半歩ぶんだけ遅れて、もうひとつ、軽い音がついてきていた。

私は歩幅を変えてみた。

遅れた音も、同じ歩幅に変わった。

それきり、足音の数は数えないことにした。

振り向かなかった。

振り向けなかった、と書くほうが正確かもしれない。

私は残りの弦に取りかかった。

低いラは、締めるたびに、ほんのわずかずつ上がった。

一本合わせるごとに、廊下の柱時計が、こつ、と鳴った。

時刻を打つ音ではない。

振り子が壁を叩くような、乾いた一つきりの音だった。

私は数えていた。

一つ、二つ、三つ。

十二個目の音のあとで、部屋の空気が動いた。

低いラが、鳴り始めた。

続いてシ、ド、と、鍵盤を押す者のないまま、音が一つずつ上がっていく。

階段を上がるような順序だった。

最後の音が止まったのは、掃き出し窓の手前だった。

風が一筋、窓へ向かって通っていった。

私の背中ではない。

椅子の左側を、通ったのだと思う。

座面の左のクッションが、ゆっくり沈み、ゆっくり戻った。

子どもの頃の記憶が、ふいに浮かんだ。

食卓で、私はいつも、左隣の椅子を引いておいた。

母は何度も私を叱った。

「誰の席を空けているの」

私は答えられなかった。

答えられないまま、癖だけが大人になった。

私は鍵盤から手を離せなかった。

秋口の午後なのに、吐いた息が白かった。

鍵盤の左端、いちばん低いラの鍵だけが、指の幅に沈んだまま戻らない。

私は指を伸ばして、その鍵に触れた。

鍵は冷たく、少し湿っていた。

誰かの手を握ったあとのように。

冷たい音叉を握ると、金属の感触だけが現実だった。

古い布のにおいが、少し濃くなった。

誰かが、隣で聴いていた。

そう書くしかない。

事実として、私にはそう感じられた。

怖いとは、不思議と思わなかった。

ただ、左半身だけが、ひどく冷えていた。

やがて音は止み、部屋は元の静けさに戻った。

低いラの弦は、狂うことなく、正しい高さで止まっていた。

つま先の向き

作業を終えたのは、柱時計が五時を打つ頃だった。

腕時計は、五時十二分を示していた。

道具を片づけながら、私は先輩の注意書きを思い出していた。

廊下に物を置くな。

置かなければ、どうなるのか。

その先を、先輩は書いていなかった。

道具箱を提げて、廊下へ出る。

白い筋は、もう見えなかった。

いや、見えなくなったのではない。

私の足の下に、いま、その筋があった。

私は筋の上を歩いていた。

玄関で靴を履いていると、奥さんが台所の窓から顔を出した。

「ありがとうございました。また来年も、お願いします」

「はい。あの、一つだけ伺ってもいいですか」

「どうぞ」

「スリッパは、どうして二組なんですか」

「お連れ様の分ですよ」

奥さんは不思議そうに首を傾げた。

「最初の年から、ずっとご一緒でしたでしょう」

「私は、一人で来ています」

「ええ。でも、先生が呼び鈴を押す前から、すりガラスには二人分の影が映っていましたから」

「最初の年に、お連れ様の分のお茶も出したんです」

「それで」

「戻ったら、湯呑みが空になっていました」

奥さんは、声を低くした。

「うちを通る方は、みなさん行き先をご存じなんです。でも先生のお連れ様だけは、いつも庭の手前で、少し立ち止まります」

「立ち止まる」

「先生の仕事が終わるのを、待っているみたいに」

私はそれ以上、何も尋ねなかった。

玄関を出る前に、一度だけ振り返った。

スリッパが二組、つま先を外へ向けて、きちんと揃えてあった。

脱いだのは、私の一足だけだ。

揃えたのは、私ではない。

門のそばで、白い猫が、私の左側を見上げていた。

車に乗り、エンジンをかける。

助手席のシートベルトの警告灯が、点いていた。

私の荷物は、後部座席に積んである。

助手席には、何も置いていない。

私は左を空けたまま、丘を下った。

警告灯は、私が車を降りるまで、消えなかった。

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