
深夜のタクシー無線には、ときおり嘘のような住所が流れ込む。
私は個人タクシーで二十年以上、東京の郊外を走っている。
昼間は流しを避け、もっぱら夜十時過ぎから朝までの時間帯を担当している。
夜十二時を過ぎた住宅街は、車内のラジオだけが音を立てる静かな海だ。
客を降ろしたあとの空車移動中、無線のざらついた声がぽつぽつと耳に入ってくる。
「三時五分、◯◯町三丁目、男性客、ご自宅から病院まで」
私たちはこういう無線を、単なる記録のようにして聞いている。
夜勤の運転手にとっては、他車への配車指示が唯一の人の気配のようなものだ。
※
同業のなかに、「三時台の住所」と呼ばれる噂がある。
深夜二時台の後半から三時台にかけて、ときおりおかしな配車指示が無線に流れるという話だ。
指示された住所に行くと、そこには人どころか家すら建っていない。
更地や、とうに取り壊された家の跡地ばかりだという。
最初は新人をからかう作り話だと思っていた。
先輩連中の与太話として、夜勤明けの休憩所で何度か耳にしたことがある程度だった。
私はその頃、深夜無線に流れる住所をいちいち書き留める習慣もなく、ただ聞き流していた。
※
その夜、私の無線に、確かにその指示が入った。
「三時十分、緑ヶ丘四丁目一二の八、女性客、ご自宅から病院まで」
聞いたことのない住所だったが、四丁目は自分の担当区域だった。
了解の返事をして、アクセルを踏み現場へ向かう。
到着すると、番地の示す場所は街灯の白い光が届かない小さな空き地だった。
夏草が膝の高さまで生えていて、古い玄関口のコンクリートだけがかろうじて残っていた。
人影はない。
私はしばらく車を路肩に寄せて待ってみた。
窓の外ではセミが鳴き、空き地の向こうの民家に小さな明かりが灯っている。
十分経っても誰も来ないので、一度営業所の配車台に確認を入れた。
※
配車係の女性が、怪訝な声で応答した。
「そのご案内、こちらからは出していませんが」
さらに確認してもらったが、三時十分に入力された配車指示はデータに残っていないという。
「無線の交信記録も、念のためあとで見ておきます」
そう言って通話は切れた。
私は少し気味が悪くなり、そのまま別のエリアへ車を走らせた。
その晩は、結局ふつうに仕事を終えて車庫に戻った。
翌日も、翌々日も、同じ時間帯に似たような指示が無線に入るようになった。
住所は毎回違ったが、訪ねてみると決まって取り壊された家の跡地か、空き地だった。
いずれも、ここ数年のうちに住人が亡くなったか、売地に出されたきりの土地だった。
※
休憩所で先輩の運転手にその話をすると、珈琲を口につけかけた手を止めた。
「お前にも来たか」
それだけ言って、しばらく窓の外を見ていた。
「指示には返事をしてもいい。ただ、現場には行くな」
「行っても、人はいないんですよね」
「いないに越したことはない」
それ以上のことは、自分も知らないから話しようがない、と先輩は笑わずに言った。
ただ、ひとつだけ忠告された。
「乗せてくれと言ってくる客がいたら、乗せるなよ」
乗ってきたらどうなるのか、とは聞けなかった。
※
数日後の夜勤中、例の空き地の近くを通りがかった。
信号待ちでふと車窓を見ると、空き地のコンクリートの上に、人影のようなものが立っていた。
白い寝間着のような布の揺れが、膝のあたりに見えた。
しかし街灯に照らされているはずの顔の部分が、なぜか薄く曇って見えた。
目を凝らすと、人影は少しずつ薄くなり、やがて風景に溶けた。
私は反射的に車を発進させた。
信号が変わったことにも気づかず、ハンドルを握り直した手のひらが少し冷たくなっていた。
※
その晩、また無線にあの指示が入った。
「三時二十分、桜台二丁目、女性客、ご自宅から病院まで」
私は応答のスイッチを一度握りかけて、止めた。
しばらく迷ってから、こう答えた。
「三時二十分、該当車、今はそちらに向かえません」
無線は沈黙した。
一拍おいて、聞き慣れた配車台の男性の声が返ってきた。
「了解しました、別車で手配します」
けれど、この夜の配車指示も、あとで確認すると営業所からは出ていないものだった。
別車がどこに向かったのかも、営業所の誰に聞いても要領を得なかった。
※
何週間かして、新人の若い運転手が仕事を辞めた。
休憩所での噂では、夜勤明けの帰路に一度だけ、誰かを乗せて戻ってきたのだという。
車庫に着いたとき、後部座席にはもう誰もいなかった。
ただ、ドアの内側に、濡れたような長い髪の毛が一房だけ張り付いていたそうだ。
その後の彼は、運転中にたびたび後ろを振り返るようになった。
上司に注意されても続け、ついには自分から辞表を出した。
最後の挨拶のとき、彼は一言だけ言い残した。
「先に降りて欲しかったんです」
誰に向かって言ったのかは、分からない。
※
それ以来、私は三時台に入る無線指示には、返事だけをするようにしている。
現場に向かったことは一度もないし、これから先、向かう気もない。
それでも時おり、夜の住宅街を走っていると、あの更地の前で、なにかがこちらを見ている気がすることがある。
一度だけ、その視線のほうに軽く会釈をしてみたことがある。
そのときから、無線の指示のなかに、自分の名前だけが時々混じるようになった。