時空のおっさん 夏の漁港

夜の港町と灯台

その夏、私は地方紙の文化部に配属されて二年目で、消えてゆく漁村の風景を追う連載を任されていた。

能登の北側、海岸線が大きく内側に折れたあたりに、戸数三十ほどの小さな集落がある。

町の名は伏せておくが、漁協と神社と、一本だけ通った県道と、防波堤の少し外側に小ぶりな灯台がある、そういう場所だ。

私はその集落に三日間ほど滞在し、最終日の朝、漁協の組合長への取材の前に、防波堤まで歩いて行く事にした。

時間は朝の四時を回ったところで、空はまだ濃い藍色のままだった。

夏とはいえ、能登の海風はひんやりとしていて、長袖のシャツを羽織っていなければ少し肌寒いくらいだった。

宿の主人は前日、防波堤の先まで歩く時は気を付けるようにと言っていた。

理由を訊ねると、別段何があるという訳ではなく、ただ夜明け前は霧が深いから足元に気を付けるように、というくらいの事だった。

それでも私は、何となく、もう一度確認するように防波堤の方を見たような記憶がある。

集落の家々はまだ灯りを点けておらず、漁協の事務所の窓だけが、白っぽい蛍光灯の光をぼんやりと漏らしていた。

防波堤に出ると、思っていたよりも霧が濃かった。

灯台の灯りが、霧の中で滲んで見えた。

海は穏やかで、波の音もほとんど聞こえなかった。

私は防波堤の付け根のところに立って、しばらく海の方を眺めていた。

何分くらいそうしていたかは、正確には覚えていない。

気が付くと、防波堤の中ほどに、誰か人が立っていた。

最初は漁師の誰かが網の様子を見に来たのだろうと思った。

だが、その人物は防波堤の中ほどでただこちらを向いて立っているだけで、何をするでもなかった。

私はそのまま、しばらくその人物の方を見ていた。

向こうも、こちらを見ているように思えた。

やがてその人物の方からゆっくりと、防波堤の付け根に向かって歩いて来た。

近付いて見ると、その人は六十代半ばくらいの男性で、灰色のジャンパーのようなものを着ていた。

ジャンパーには胸のあたりに、小さな縫い取りで「北信」と書かれた布が縫い付けられていた。

私が地方紙の記者で取材の途中だと名乗ると、その男性は軽く頷いて、「あんたも、何かを待っとるのかね」と言った。

その言葉遣いは、能登の方言というよりは、もう少し東の、新潟か富山あたりの言葉に近いような気がした。

私は「いえ、別に何かを待っているわけでは」と答えた。

すると男性は防波堤の外側に目をやって、「もうすぐ来るよ」と言った。

何が、と問う前に、男性は続けて、「南からの大型船だ。今朝は早かったから、もうすぐ汽笛が聞こえる」と言った。

私はその瞬間、少し違和感を感じた。

私の取材ノートには、この集落の漁港には大型船は寄港しないと書かれていた。

組合長への事前の電話取材で、この港は小型の沿岸漁業の船しか入らないと、はっきり聞いていたからだ。

私は、もしかしてどこか別の港の話と勘違いしているのかもしれないと思い、男性に「あの、ここに大型船は来るんですか」と訊ねた。

男性は私の方を見て、少し首を傾けた。

「来るよ。北信丸が、今朝も来る」と男性は言った。

「ホクシンマル」という名前を、私はその時初めて聞いた。

能登の港湾史を取材で何度も読んでいたが、その船名は出てこなかった。

だが、男性の言い方は淡々としていて、嘘や冗談を言っている風にも、認知が混乱している風にも聞こえなかった。

それで私は、もう少し話を聞いてみる事にした。

「北信丸というのは、貨物船ですか」と私が訊くと、男性は、

「貨物と、人も乗せる。月に四回、南から来て、また南へ戻る」と答えた。

「南、というと」

「敦賀の方だ。氷見の方からも、たまに乗って来る人がいる」

私はその時点でも、まだその話を、過去の話として聞いていた。

昔この港にそういう船が来ていたという、地元の人の懐かしい昔語りなのだろうと思っていた。

それで、「いつ頃まで来ていたんですか」と質問をした。

男性は私の質問に対して、少しの間黙っていた。

そして、「来ていた、というのは、どういう意味かね」と、静かに訊き返してきた。

私は、その時の男性の表情をはっきりとは覚えていない。

霧のせいで顔の輪郭がぼやけていたのか、それとも私が緊張していたせいなのか、それは今になってもわからない。

ただ、その「どういう意味かね」という言い方が、妙に耳に残った。

私は質問を変えて、「今でも、来ているんですか」と訊いた。

男性は、「今朝も来るよ」と、最初と同じ事を繰り返した。

そして、ジャンパーの胸ポケットから古いタイプの懐中時計のようなものを出して、ふたを開けて時間を確認した。

「あと、十分くらいだ」と男性は言った。

その懐中時計のような物は、私が今まで実物で見た事のない型だった。

何となく、戦前か、戦後すぐの時代のものに見えた。

だがそれを「古いものですね」と訊ねるのは、何故かしてはいけない事のように思えた。

私は黙って、その懐中時計のような物を見ていた。

「あんた、東京から来とるのかね」と男性は訊いた。

私は「金沢の支社から来ています」と答えた。

男性は「金沢か。金沢には、戦争中に一度行った」と言った。

その瞬間、私は、なるほど、この人は時々過去の記憶と現在を混同して話をする人なのかもしれないと、自分なりに解釈を作った。

そう解釈してしまえば、それまでの会話の違和感も、何となく説明がついた。

私は男性に対して、少し申し訳ないような気持ちになり、もう少し話を合わせる事にした。

「北信丸というのは、どのくらいの大きさの船ですか」と私が訊くと、男性は、

「三百トンくらいだったかな。もう少しあったかもしれん。煙突から黒い煙を出して、夜は灯りを点けて来る」と答えた。

「乗っているのは、漁師の方ですか」

「漁師ではない。商売の人が多い。あとは、用事で南へ行く人と、北へ戻る人だ」

男性の話は具体的で、私はいつの間にか、それが本当に存在した船の話のように感じていた。

今思うと、その時点ですでに、私は男性の話す世界に少し引き込まれていたのかもしれない。

霧はいつの間にか少し深くなり、灯台の光が前よりもぼんやりとして見えた。

そして、その時、確かに汽笛が聞こえた。

低く、長く、二回。

それは、明らかに小型の漁船の音ではなかった。

私はとっさに、防波堤の外側、霧の向こうの海の方を見た。

だが、霧が深くて、何も見えなかった。

男性は防波堤の先の方へ歩いて行った。

私はその後ろを少しだけ追ったが、防波堤の半ばまで来たところで足を止めた。

何となく、その先には行かない方が良いような気がしたからだ。

男性は防波堤の先で、手を上げて、霧の向こうに向かって振っていた。

誰かに合図をしているような、迎えに来た人を確認しているような、そういう仕草だった。

私が立ち止まって男性を見ていたのは、おそらく一分か二分くらいの事だったと思う。

だが、気が付いた時には、霧がさらに深くなって、防波堤の先の男性の姿はもう見えなくなっていた。

私は少しだけ前に進んでみたが、五メートルも進まないうちに、防波堤の先まで誰もいない事がわかった。

男性も、船も、汽笛の余韻も、もう何もなかった。

霧の向こうから波の音も聞こえず、ただ自分の靴の音だけが、コンクリートの上で固く響いていた。

私はしばらく防波堤の上に立っていた。

やがて、東の山の向こうから少しずつ空が明るくなり始め、霧も少しずつ薄くなっていった。

集落の方を振り返ると、漁協の事務所の灯りに加えて、何軒かの家が灯りを点け始めていた。

私はゆっくりと防波堤を戻り、宿に帰った。

宿に戻ると主人が「もう起きとったんか」と笑った。

私はその朝の事を、主人にすぐには話さなかった。

何となく、まだ自分の中で整理がついていないように思えたからだ。

朝食を済ませて、九時に漁協の事務所へ向かい、組合長への取材を始めた。

組合長は六十代の、よく日に焼けた人で、私の質問に丁寧に答えてくれた。

集落の漁業の歴史、若い人が減っている事、神社の祭りの事。

取材は一時間ほどで終わり、組合長は「せっかくだから、組合の歴史の写真でも見ていってくれや」と言った。

事務所の奥の壁には、額に入った古い写真が幾つも並んでいた。

昭和の漁港の風景、初代の組合長、戦後すぐの集落の運動会、そういった写真だった。

私は壁の写真を一枚ずつ見て行った。

取材のメモを取りながら、組合長が説明をしてくれた。

「これが、昔のこの港の写真や。今より船が多かった」

「これは、戦後の出航式や」

そのうちの一枚に、防波堤の上に並ぶ人々を写した写真があった。

モノクロで、画面の端に少し白い縞のような傷が入っていた。

写真の中央には、煙突から黒い煙を上げる船が、防波堤の外側に停泊していた。

船腹に「北信丸」と書かれているのが、かすかに見えた。

私はその写真の前で足を止めた。

組合長は、私が船の方を見ていると思ったのか、「この船はな、敦賀から来とった船で、もう廃止になって長いんや」と説明をしてくれた。

「いつ頃まで来ていたんですか」と私は訊いた。

「昭和三十八年が最終航海や。船が古うなって、それで終わりや」と組合長は答えた。

その時、私の目は写真の端に映っていた。

防波堤の付け根のところに、灰色のジャンパーを着た男性が立っていた。

胸のところに、小さな縫い取りがあった。

顔は少し小さくしか写っていなかったが、首をわずかに傾けたその立ち姿は、私が今朝、防波堤で会った人物と、全く同じだった。

私はその写真の説明書きを読んだ。

小さく、写真の下に貼られた紙には、その日付が手書きで書かれていた。

写真の日付は、昭和三十八年六月だった。

組合長は私の様子に気付いて、「どうかしたんかね」と訊いた。

私は咄嗟に「いえ、何でもありません」と答えた。

そして、その写真の事をそれ以上組合長に訊く事はしなかった。

取材を終えて宿に戻ってからも、その写真の事は何度も思い出された。

東京の本社にメールで原稿を送る間、私は何度か、写真の中の男性の事を考えた。

あれは別人だったのかもしれない。

よく似た親族か、あるいは先代か。

私はそう思おうとした。

だが、首をわずかに傾けたあの仕草、ジャンパーの胸の「北信」の縫い取り、懐中時計を取り出した時の手の動き。

そういう細部が、写真の中の人物と、防波堤で会った人物とで、あまりにも一致していた。

翌日、私は集落を離れて金沢に戻った。

帰りの車の中で、ラジオから昔の流行歌が流れていた。

私はその歌を聞きながら、男性が言っていた「あと十分くらいだ」という言葉を、何度か思い出していた。

それから何年か経ったが、私は今でも能登に取材で行く事がある。

その集落の近くを通る時は、必ず早朝に防波堤まで歩く事にしている。

霧の濃い朝もあれば、よく晴れた朝もある。

だが、あの男性に再び会えた事は、まだ一度もない。

それでも私は、防波堤の付け根に立って、しばらく海の方を眺める。

あれが何だったのか、今もはっきりとはわからない。

ただ、北信丸という船は、確かにあの朝、私の見えない場所まで来ていたのだろうと、そう思うようにしている。

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