二人目の花嫁は鏡の奥で待っている

幽玄な白無垢と鏡の間

帯は、結び目の向きだけで、誰が結んだかわかる。

海沿いの式場の地下で、私は和装の着付けをしている。

その朝、着付け室の奥にある姿見から、黒い布が外れていた。

前の晩、私が掛けたはずの布だ。

床にも、椅子の上にも、見当たらない。

先輩の久米さんは、布のない鏡の前に立って、黙っていた。

「見ました?」と私は聞いた。

「何を」

「いえ、何も」

久米さんは、いつもの調子で笑った。

その笑いが、ほんの少し遅れて聞こえた。

この着付け室には、昔からの決まりがある。

予約表に名前のある花嫁のほかに、もう一人、二人目の花嫁が来る日がある。

入社した日、久米さんはそう教えてくれた。

「二人目の花嫁には、話しかけないこと」

「それから、帯を結ぶときは、必ず壁に背をつけること」

私は半分も本気にしなかった。

久米さんは帯を結ぶとき、いつも壁に背をつけていた。

私はそれを、先輩の癖だと思っていた。

壁を背にした先輩

久米さんは、小柄で、よく食べる人だ。

昼は決まって、梅干しのおにぎりを二つ食べる。

「壁に背をつけたまま食べるの、行儀悪くないですか」と私は言った。

「着付けの延長よ。背中が空くと落ち着かないの」

「壁と結婚するんですか」

「あなたこそ、早く誰かに結んでもらいなさい」

久米さんは、梅の種を紙に包みながら笑った。

入社の日、久米さんは私の腕の長さを測った。

メジャーを首から肩、手首へと滑らせて、小さく頷いた。

「ちょうどいい人が来たわ」

「何のですか」

「衣装合わせよ。気にしないで」

地下の着付け室は、海からの湿気が上がってくる。

樟脳と白粉の匂いが、畳の目に染みている。

衣桁にはその日の白無垢が掛かり、隅の小部屋には帯や小物が仕分けてある。

桐箪笥の一番下の引き出しだけ、久米さんは鍵を掛けたことがない。

私は左手首に、祖母の形見の小さな腕時計をはめている。

帯を結ぶ前に、必ず時間を確かめる癖がある。

ヘアメイクの中里さんは、この部屋が苦手だと言っていた。

「ここで髪を結うとね、床に落ちる影がいつも多いのよ」

「天井の電球が三つあるからじゃないですか」

「数えたの。人の数より、影が一つ多いの」

「中里さん、それ、本番前に言わないでください」

「ごめん、ごめん。でも事実なんだもの」

中里さんは肩をすくめて、櫛を持ち直した。

その日の花嫁は、小野寺さんといった。

肌襦袢、裾よけ、長襦袢。

紐を一本結ぶたびに、小野寺さんの肩から力が抜けていく。

「重いんですね、白無垢って」

「重いのは、衣装じゃなくて、気持ちのほうですよ」と久米さんが言った。

「それ、毎回言ってますよね」

「毎回、本当だからね」

小野寺さんが笑った、そのときだった。

隅の小部屋から、きゅっ、と絹が鳴った。

帯を引き締めるときの、あの音だ。

小部屋には誰もいない。

小野寺さんは、気づかなかったようだった。

久米さんは私の顔を見て、小さく首を振った。

返事をするな、という合図だった。

私は黙って、小野寺さんの襟を整え続けた。

きゅっ、ともう一度音がして、それきり止んだ。

二人目の花嫁の帯

翌朝、緋色の帯揚げが衣桁に掛かっていた。

昨夜、私が畳んで桐箪笥にしまったものだ。

それが、ひとりでに広がるように掛けられている。

真ん中に、結び目が一つだけ作られていた。

私の結び目は、いつも右へ倒れる。

習ったときから直らない、生まれつきの癖だ。

衣桁の結び目も、右へ倒れていた。

「久米さん、これ、私がやったんでしょうか」

「やったの?」

「覚えがないんです」

「じゃあ、違うわね」

久米さんは、結び目をほどかずに、そのまま箪笥へしまった。

ほどくと、長居を許したことになるのだそうだ。

意味はわからなかったが、私は何も聞かなかった。

その週の終わり、私は一人で残って帯の数を揃えていた。

地下は静かで、遠くの波の音だけが壁を伝ってくる。

黒い布を掛け直そうとして、手が止まった。

布が、温かかったのだ。

人の背中に触れたあとのような、湿った温もりだった。

慌てて布を掛け、壁に背をつけた。

背中の壁は冷たく、そこだけが現実のように思えた。

白粉の匂いが、さっきより濃くなっている。

畳が、私の足元から少し離れた場所で、ゆっくり沈んだ。

誰かが、私の前をまたいで、小部屋へ入っていく。

私は、息をするのをやめて数を数えた。

絹の鳴る音がして、足音は止んだ。

その夜は、地下の電気を消さないまま、帰った。

数日後、別の式の控室で、花嫁の祖母に呼び止められた。

品のいい、小さなおばあさんだった。

「さっき地下で、あなたの隣に、もう一人お嬢さんがいらしたわね」

「いえ、私は一人でしたが」

「あら。背の高さも手つきも、あなたそっくりで」

「白無垢を着て、壁のほうを向いて立っていたのよ」

私は、すぐには返事ができなかった。

「帯を持って、ずっと待っていらしたわ」

おばあさんは、少しも怖がっていなかった。

むしろ、親切に教えてくれる顔をしていた。

地下に戻って、記録写真を確かめた。

支度の前後を、必ず一枚ずつ撮る決まりになっている。

小野寺さんの後ろ姿の奥の姿見に、白いものが小さく映っていた。

撮影日時は、来年の三月二十二日になっていた。

「カメラの時計、狂ってます」

「毎年、私が合わせてるわよ」

久米さんは写真を見て、しばらく何も言わなかった。

やがて、ぽつりとこう言った。

「いつも、途中で消えるの。帯の最後まで、行かせたことはない」

「行かせたら、どうなるんです」

「それは、言わない」

その日の夕方、中里さんが廊下で私を呼び止めた。

「今日、影が二つ多かったの」

「二つ、ですか」

「ひとつは、あなたの後ろにいたわ。もうひとつは、まだ誰のでもない」

私は笑おうとして、うまく笑えなかった。

中里さんは、翌週から別の式場へ移っていった。

裄丈の合う白無垢

久米さんは、その月いっぱいで辞めることになっていた。

腰を悪くした、というのが表向きの理由だ。

最後の週に、私は鍵の束を預かった。

昼休みに、久米さんは珍しく自分から話し始めた。

「私のときはね、三月の雨の日だったの」

「何がですか」

「二人目が来た日。私の手は、途中で止められたの」

「誰にですか」

「それも言わない。だから私は、まだここにいるのよ」

久米さんは、おにぎりの包みを静かに畳んだ。

それ以上は、何を聞いても笑ってはぐらかされた。

その午後、久米さんは私に、帯の結び方をもう一度見せた。

背を壁につけ、息を吐くと同時に、帯を引く。

「最後の一巻きだけは、鏡を見ずに締めるの」

「どうしてですか」

「見てしまうとね、手が覚えてしまうから」

「覚えたら、いけないんですか」

「覚えた手は、持ち主を選ぶのよ」

久米さんは、自分の掌を、しばらく見つめていた。

引き継ぎの夜、一人で地下に残り、一番下の引き出しに手をかけた。

薄紙に包まれた白無垢が、一枚だけ入っていた。

肩に当てると、袖の長さも肩幅も、息が合うように合った。

裄丈は、入社の日に久米さんが測ったものと同じだった。

襟の内側に、付け札が縫い付けてある。

担当の欄に、私の字で、私の名字が書いてあった。

日付は、来年の三月二十二日。

こんな札を書いた覚えは、ない。

けれど、はねの癖も点の打ち方も、どう見ても私の字だった。

これが二人目の花嫁の白無垢なのだと、そのとき初めて思った。

薄紙を元に戻し、引き出しを閉めた。

閉めてから、手が震えていることに気づいた。

翌朝、久米さんに挨拶をした。

「お世話になりました」

「こちらこそ。梅干しは、ちゃんと食べなさいね」

久米さんは、最後まで壁に背をつけて立っていた。

私は、引き出しのことを聞かなかった。

二十二日の地下室

一年が過ぎ、久米さんのいない春が来た。

前の晩、久米さんから電話があった。

「明日は、壁に背をつけてね」

「久米さんは、来られないんですか」

「行けないの。去年のうちに、決まっていたことだから」

「鏡の布は、どうしましょう」

「掛けても外れるから、気にしないで」

電話はそこで切れた。

三月二十二日は土曜日で、予約表には結城さんという名前があった。

私は朝から、一人で地下に降りた。

階段を降りる足音が、私のものより一拍遅れて、後ろに続いた。

振り返らずに、最後の段を降りた。

机の上に、梅干しのおにぎりが一つ置いてあった。

包みの折り方は、久米さんと同じだった。

支配人が、地下まで様子を見に来た。

「久米さんの代わりで心配しましたが、落ち着いていますね」

「ありがとうございます」

「この部屋は、昔から、一人では回らないんですよ」

「そうですね」と私は答えた。

支配人は、なぜか私の背後に向かって軽く会釈をして、出ていった。

姿見には、黒い布を掛けておいた。

結城さんは、緊張で口数の多い人だった。

「地下って、思ったより涼しいんですね」

「海が近いので、湿気もこもるんです」

「あの、お仕事、長いんですか」

「まだ、それほどではありませんよ」

「でも、手つきが落ち着いてます。何度も同じことをしてきたみたい」

私は笑って、答えなかった。

白無垢をまとわせ、最後に帯を手に取った。

気づけば私も、壁に背をつけて帯を結んでいた。

帯を締める直前、結城さんがふいに言った。

「あの、後ろの方、帯が少しゆるくないですか」

「後ろの方、ですか」

「鏡に映ってます。お連れさんですよね?」

私は、顔を上げなかった。

話しかけてはいけない、と久米さんは言っていた。

鏡の隅だけを、見た。

黒い布が、いつのまにか床に落ちていた。

結城さんの背後に、白無垢の女が立っていた。

壁のほうを向き、帯の結び目が崩れかけている。

その背に、二本の腕が回って、帯を締め直していた。

袖口は、見慣れた黒い作業着だった。

手首には、祖母の形見の小さな腕時計があった。

鏡の中で帯を結んでいたのは、腕時計をはめた私の手だった。

私の手は、結城さんの帯の上で止まっていた。

それなのに、鏡の中の手だけが、きゅっ、と絹を鳴らした。

式のあと、私は地下の小部屋をのぞいた。

衣桁に、白無垢が一枚、掛かっていた。

二人目の花嫁は、最初から鏡の奥で待っていたのだと思う。

帯は、最後まで結ばれていた。

結び目は、私と同じ右へ倒れていた。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。