
あたえびとに会ったら、手を握ってはいけない。
タカシは子どもの頃、祖母から何度もそう聞かされていた。
あたえびとの言い伝え
タカシの村は、県境の山あいにある。
冬になると雪が深く、町へ出る道は、峠の森を一本通るだけになる。
祖母は囲炉裏の火をかき混ぜながら、よく言った。
「峠の森には、あたえびとが立つ」
「あたえびと、って何」
「与える人と書くんよ。夜道の人に、何かをくれる」
「いいものを、くれるの」
祖母は、少し間を置いた。
「くれるけど、必ず、同じ重さのものを持っていく」
火が、ぱちりと跳ねた。
「だから、差し出された手は、握ったらあかん。声をかけられても、答えたらあかん」
子どもだったタカシは、それを昔話だと思っていた。
冬の夜の森で、黒い影が人の形に立つ。
そんな話は、どの村にもあるものだ。
村の外れの家では、犬が峠の方角にだけ、決して吠えなかった。
子どもたちは、日が暮れる前に必ず家へ帰された。
大人たちは、夜に峠の話をすると、決まって話題を変えた。
誰も理由を言わないことが、かえって村の決まりのようになっていた。
大人になって町の工場で働くようになり、そんな言い伝えは、すっかり頭の隅に追いやられた。
その夜までは。
一月の終わり、残業が長引いて、タカシが工場を出たのは夜の十時を過ぎていた。
雪は昼から降り続き、道路には新しい轍しか残っていなかった。
軽トラックのヒーターは、足もとだけをかろうじて温めていた。
ワイパーが、雪を重たそうに押しのけていく。
助手席には、買ったばかりの缶コーヒーが、冷めかけたまま転がっていた。
タイヤのチェーンが、ざく、ざく、と鈍い音を立てている。
その音だけが、タカシを現実につなぎとめていた。
峠の森に入ると、街灯がなくなった。
ヘッドライトの光だけが、白い雪の筋を照らしていた。
ラジオは、ずっと雑音を流していた。
ざあ、ざあ、ざあ。
波の音に似ていると、タカシは思った。
ふいに、その雑音の底から、細い声が浮かんできた。
あ、た、え、び、と。
タカシは思わず、ラジオのつまみに手を伸ばした。
スイッチを切ると、車内は急に静かになった。
窓の外の雪が、音を失っていた。
風の音も、木々の揺れる音も、すべて消えていた。
自分の呼吸だけが、耳の奥で大きく響いていた。
車の速度は落とさなかった。
早く抜けてしまいたかった。
けれど、ヘッドライトの先で、雪の積もった道が、途中からぼんやりと白く曇って見えた。
霧ではなかった。
光が、何かに吸われているようだった。
そのとき、エンジンが、ぷすん、と鳴って止まった。
黒いマントの二人
ハンドルを握ったまま、タカシは動けなかった。
キーを回しても、セルは空回りするだけだった。
ヘッドライトが、少しずつ弱くなっていった。
森の木々の影が、迫ってくるように大きくなった。
その影の中から、ひとつ、輪郭のはっきりしたものが歩み出てきた。
黒いマントをまとった、背の高い人だった。
顔は、深い布に覆われて、見えなかった。
雪の上を歩いているのに、足跡がつかなかった。
その人は、運転席の窓の外で立ち止まった。
そして、ゆっくりと、片手を差し出した。
白い、細い指だった。
爪の先まで、雪のように冷たそうだった。
「あたえびと」
布の奥から、くぐもった声がした。
タカシの背中を、冷たい汗が伝った。
祖母の言葉が、頭の中で何度も鳴った。
握ってはいけない。
答えてはいけない。
タカシは、唇を固く結んだ。
しばらくして、助手席の窓の外にも、同じ黒いマントが立った。
二人目だった。
同じように顔を隠し、同じように手を差し出している。
「あたえびと」
「あたえびと」
二つの声が、重なって、車内に染み込んできた。
ダッシュボードの時計が、二十二時十三分で止まっていた。
バックミラーには、赤いテールランプの光さえ映らなかった。
森の奥から、凍った枝がぱきりと鳴る音が、ひとつ、またひとつと近づいてくる。
鼻の奥に、古い井戸のような、冷たい水の匂いがした。
窓ガラスが、内側から白く曇り始めた。
吐く息が、白くなった。
手足の先から、感覚が遠のいていった。
体が、座席に縫いつけられたように動かない。
タカシは、懸命に目を逸らそうとした。
けれど、視線は差し出された二つの手から離れなかった。
指が、ほんの少しだけ、曲がった。
招くような仕草だった。
その瞬間、ドアのロックが、かちりと外れた。
気がつくと、タカシは車の外に立っていた。
自分で降りた覚えはなかった。
足もとの雪が、膝まで沈んでいた。
二つの黒い影が、左右から静かに近づいてきた。
足音がなかった。
差し出された手が、タカシの目の前まで来た。
冷気が、頬を撫でた。
タカシは、両手を背中に回して、首を横に振った。
黒い影は、動かなかった。
しばらく、そのままだった。
やがて、片方の影が、低く囁いた。
「受け取れ」
「いやだ」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「受け取らないなら、持っていく」
「何を」
影は答えなかった。
代わりに、布の奥で、静かに笑った気配がした。
次の瞬間、左右の手が、タカシの手首を掴んだ。
氷のように冷たいのに、焼けるように痛かった。
タカシは叫んだが、声は雪に吸われて消えた。
視界が、黒く塗りつぶされた。
最後に見えたのは、マントの隙間からこぼれた、真っ白な唇だった。
その唇が、笑う形に、ゆっくりと歪んでいた。
耳の奥で、遠い鈴の音が、止むことなく鳴り続けていた。
門の向こうの光
目を開けると、タカシは大きな門の前に立っていた。
空はなく、足もとも闇だった。
門の隙間から、やわらかい光が漏れていた。
光には、懐かしい匂いが混じっていた。
炊きたての飯と、味噌汁の湯気の匂いだった。
タカシは、いつのまにか門に手をかけていた。
扉は、驚くほど軽く開いた。
その向こうには、春の景色が広がっていた。
桜が咲き、川が光り、遠くで子どもの笑い声がした。
見たことのない景色なのに、胸の奥が、きゅっと痛くなった。
そのとき、背後から声がした。
「これが、与えるもの」
振り返っても、誰もいなかった。
「そして」
声は続けた。
「もらうものも、ある」
タカシは、足がすくんだ。
門の向こうの景色が、急に遠のいていった。
光が薄れ、匂いが消え、闇が戻ってきた。
足もとの闇が、ぬるりと動いた。
どこからか、線香とも土ともつかない湿った匂いが漂ってきた。
遠くで、鈴のような音が一度だけ鳴った。
知らない顔の母
次に目を開けたとき、タカシは軽トラックの運転席にいた。
エンジンは、静かにかかっていた。
暖房の風が、凍えた指先をじんわりと溶かしていく。
その温かさが、かえって現実味を薄くしていた。
ラジオは消えていた。
フロントガラスの向こうに、見慣れた峠の出口が見えた。
空が、ほんのり白んでいた。
夜が明けかけていた。
タカシは、ハンドルに額をつけて、長く息を吐いた。
夢だったのだ、と自分に言い聞かせた。
けれど、両方の手首に、赤い痕が残っていた。
五本の指の形に、くっきりと。
家に着くと、母が玄関の戸を開けて待っていた。
「おかえり。遅かったね、心配したよ」
タカシは顔を上げた。
そして、固まった。
そこに立っている女の人を、タカシは知らなかった。
声は、確かに母の声だった。
話し方も、割烹着の柄も、見覚えがあった。
けれど、顔だけが、どうしても分からなかった。
目鼻立ちは見えているのに、それが誰の顔なのか、頭の中でどうしても結びつかなかった。
「どうしたの。具合でも悪いの」
知らない顔の女が、母の声で、心配そうに首をかしげた。
タカシは、声が出なかった。
あの夜のことを、タカシは誰にも話せなかった。
手首の痕は、三日たっても、消えなかった。
病院で見せても、医者は首をひねるばかりだった。
「凍傷でも、打撲でもありませんね」
「何か、強い力で掴まれたような」
医者は、そこで言葉を切った。
診察室の窓の外で、雪がまた降り始めていた。
タカシは、袖を下ろして、痕を隠した。
待合室の時計の音が、やけに遅く聞こえた。
母の顔は、その後もずっと、分からないままだった。
声と、癖と、匂いで、母だと理解するしかなかった。
写真を見ても、鏡を見ても、顔という顔が、少しずつ意味を失っていった。
あの門の向こうの景色だけは、鮮やかに残っている。
春の桜と、川の光と、子どもの笑い声。
毎年、冬になると、タカシは峠の森を避けて、遠回りをして帰る。
あたえびとが、まだ何かを待っているような気がするからだ。
祖母は、今も囲炉裏のそばで、同じ話をする。
「手を握ったら、同じ重さのものを持っていかれる」
そう言って、タカシの手首の痕を、黙って撫でる。
その指の冷たさに、タカシは、時々、あの夜の白い指を思い出す。
似た趣の話に、トンネルの少女、火葬場の坊さんが語った神と魔物があります。