あいつはいつも手を後ろで組んだ

あいつはいつも手を後ろで組んだ

毎年集まる五人と、その年のF

毎年、夏になると地元に帰って、高校の仲間五人で集まっている。

徳島の鳴門だ。

撫養の古い町並みの外れに、昔から使っている居酒屋がある。

その年も、例年どおり集まった。

ただ一つだけ、いまも説明のつかないことが起きた。

誰かに聞いてもらいたいと思う程度には、奇妙な話だ。

五人とも、三十代の半ばになった。

子どもが小学校に上がった者もいる。

家のこと、仕事のこと、体のこと。

話題は、そのあたりを行ったり来たりする。

そんななかで、Fの様子だけが明らかにおかしかった。

Fは昔から、場を回す側の人間だった。

笑い方が大きくて、最初に注文をまとめる役をやる。

その日は、終始黙っていた。

何かを抱え込んでいる顔だった。

「どうした」

俺が声をかけると、Fは静かに言った。

「ちょっと、みんなに聞いてほしいことがある」

「なんだよ、改まって」

Fは、コップの水を見たまま言った。

「なあ……いつ戦争、終わったんだっけ」

店の音が、一瞬遠くなった。

冗談にしては、言い方が重すぎた。

※

年表だけが、きれいにずれていた

俺たちは笑いながら、それでも詳しく聞いた。

Fの話は、こういうものだった。

二、三年前から、世界にうっすらとした違和感がある。

祝日の並びが、記憶と違う。

教科書で習ったはずの年号が、調べると別の数字になっている。

知っているはずの制度が、そもそも存在しない。

おかしいのはFの記憶のほうだ、と本人も分かっている。

それでも、感覚が納得しないのだという。

俺は酔った頭で、Fの言う年をいくつか書き出してみた。

紙ナプキンに、ボールペンで並べた。

そこで、変なことに気づいた。

ずれの幅が、全部同じだった。

どれも十一年。

Fの記憶では、世の中の出来事が、そろって十一年遅い。

「お前、それ、自分で計算したことあるか」

「ない」

Fは紙ナプキンをしばらく見ていた。

それから「冗談だよ、ごめん」と言って、話を切り上げた。

けれど、その切り上げ方が演技には見えなかった。

店を出るとき、Fは俺より先に暖簾をくぐった。

暖簾を、右手で上げていた。

俺は次の休みに、図書館で年表を調べてみることにした。

実際には、市立図書館の郷土資料室で半日つぶした。

Fが挙げた出来事を、片端から確かめていった。

制度の名前、施行の年、廃止の年。

どれも、Fの言う年より十一年早い。

一つの例外もなかった。

記憶違いというのは、普通、ばらつく。

三年ずれるものもあれば、一年しかずれないものもある。

全部が同じ幅でずれるのは、記憶違いの形ではない。

それは、目盛りごと動いている形だ。

俺はその日、資料室を出るときに閲覧票へ名前を書いた。

前のページに、同じ資料を三か月前に借りた人の名前があった。

Fの字だった。

左に倒れる、あの癖の強い字だ。

いまのFの字は、まっすぐ立っている。

※

あいつは左利きだったはずだ

俺とFは高校からの付き合いで、職場も近い。

俺は空調設備の保守をしていて、Fは建材の営業をしている。

普段からよく飲みに行く関係だ。

翌週の週末も、二人で居酒屋にいた。

酒が回ってきた頃、Fはまた同じ話を始めた。

今度は、冗談めいた調子が一切なかった。

俺は本気で心配になった。

F自身も、自分の感覚がおかしいと悩んでいた。

精神科はすでに三軒回っていて、自律神経のことだと言われたという。

目立った異常はない。

それでも「思い過ごしではない」と本人が言い続けていた。

その週の水曜、俺はFと二人で昼を食べた。

店は、鳴門の港のそばの定食屋だ。

ずっと引っかかっていた違和感が、そのときはっきりした。

Fは、箸を右手で持っていた。

Fは左利きだ。

幼い頃、祖父母と母親が何年もかけて右利きに直そうとした。

うまくいかなくて、結果として軽い吃音が残った。

それを、俺ははっきり覚えている。

高校の頃、板書を写すのが遅くて、俺のノートをよく借りに来た。

左手が紙をこするから、鉛筆の字がいつも横に伸びていた。

「お前、右利きだったっけ」

何気なく聞いてみた。

Fは笑って答えた。

「当たり前だろ」

俺はそれ以上、何も言えなかった。

その「当たり前」が、何よりも怖かった。

そして、その日のFは、一度も言葉に詰まらなかった。

三十年、あいつは自分の名字を言うときに必ず一拍置く男だった。

※

単身赴任先の部屋

Fの部屋には、一度だけ入ったことがある。

県境に近い工業団地のそばの、二階建てのアパートだった。

会社が借り上げている部屋だという。

訪ねたのは、剣山へ行く前の週だ。

玄関を開けた瞬間、俺は少し戸惑った。

物が、やけに少ない。

単身赴任の部屋は、たいてい生活の跡が偏る。

テレビの前だけ床が擦れているとか、流しに同じ形の器が重なっているとか。

Fの部屋には、その偏りがなかった。

座卓の湯呑みも、机の筆立ても、部屋の真ん中の線から等しい距離にある。

誰かが定規で置いたようだった。

「几帳面になったな」

俺がそう言うと、Fは自分でも不思議そうな顔をした。

「気づいたら、こうなってる」

その晩、俺はその部屋に泊まった。

夜中の二時頃、玄関のほうで金属の音がした。

錠が回る音だ。

俺は起きて、廊下の電気をつけた。

誰もいない。

ドアには、内側からきちんと鍵がかかっていた。

Fは布団の中で目を開けていた。

「毎晩なんだ」

「開くのか」

「開く。でも、誰も入ってこない」

Fはそう言って、また目を閉じた。

「入ってくるものなら、まだいいんだけどな」

意味を訊く気になれなかった。

朝、俺はドアの内側の錠を見た。

つまみの向きが、俺が寝る前に確かめたときと逆だった。

それでも、鍵はかかったままだった。

※

剣山の麓の道場

会社の先輩に相談すると、「知り合いに本物の行者がいる」と言われた。

先輩の伯母で、剣山の麓に道場を構えているという。

すぐに連絡を取ってもらい、翌週に三人で行くことになった。

山道を一時間半、対向車がほとんど来ない道を上がる。

道場は、杉に囲まれた古い平屋だった。

伯母さんは厳しい人だったが、どこか温かさもある人だった。

すでに、行者らしい人が三人待っていた。

その日は、二時間の滝行を受けることになった。

八月なのに、水は骨に刺さるほど冷たい。

俺はひたすら不安を抱えていた。

Fは、水の中で一度も目を閉じなかった。

道場に戻り、祝詞を唱えながら結界の中へ入った。

その直後、俺と先輩はその場で気を失った。

目を覚ますと、五時を回っていた。

伯母さんは、Fと向かい合って何か話していた。

お茶をいただきながら、俺たちは結論を聞いた。

「これは、私の範疇ではありません」

霊障でも憑依でもない。

祟りでも因縁でもない。

けれど、普通の人とは違うことだけは確かだという。

「あの人には、後ろに何もありません」

先祖の霊も、守り手のようなものも、一切感じられない。

「初めてのことです」と伯母さんは言った。

すべての命は繋がりの中にある。

だがFには、それがない。

この世の因果から外れている、というのだ。

F自身も、いくつか妙なことを話した。

単身赴任先の部屋の鍵が、夜中に勝手に開く。

荷物が消える。

付き合った相手が、必ず体を壊す。

それらについては「部屋そのものに問題がある」とのことだった。

けれど、本質はそこではない、とも言われた。

※

関わってはいけない

帰り際、伯母さんは俺にだけ、静かに告げた。

「Fさんとは、もう関わってはいけません」

「なぜですか」

「繋がりの中にいない人は、こちらからは救えないのです」

「理由を教えてください」

「あなたが理解する必要はありません」

伯母さんは、そこで一度だけ俺の顔を見た。

「あなたと、あの人は、同じ教室に長くいすぎました」

先輩も、黙り込んでいた。

伯母さんが「関わるな」と言ったのは、これが初めてだという。

山を下りる車の中で、Fは後部座席で眠っていた。

寝顔は、高校の頃と同じだった。

俺は、それが余計に怖かった。

数日後、Fと連絡が取れなくなった。

電話にもメールにも返事がない。

何日かして、仲間のAから電話があった。

「F、入院したらしい」

他府県の専門の病院にいるらしい。

詳しいことは分からない。

Fの妹の友人から、偶然耳に入っただけだった。

俺はFの実家に電話をかけた。

出たのは、Fのおばさんだった。

「もう関わらないでください」

そう言われて、一方的に切られた。

同じ頃、先輩にも異変が起きた。

月曜の朝、出社してこない。

連絡もつかず、部屋に行っても不在だった。

その夜、先輩の姉から会社に連絡が入った。

日曜の夜中に体調不良の連絡があって、駆けつけたら倒れていたという。

幸い、命に別状はなかった。

それでも、しばらく入院することになった。

代わりに、俺が北海道の工場へ出張することになった。

朝六時の便で発って、四日で戻る予定だった。

※

母親の記憶も、そうなっていた

関わるなと言われた翌週、俺はFの実家に電話をかけた。

言いつけを破っている自覚はあった。

それでも、確かめたいことが一つだけあった。

出たのは、Fの母親だった。

入院の話には触れず、俺は昔話のふりをして訊いた。

「Fって、小さい頃、左利きでしたよね」

受話器の向こうが、少しだけ静かになった。

「いえ。うちの子は、ずっと右利きですよ」

「矯正したって聞いたことが」

「そんなことしてません」

言い方に、迷いがなかった。

嘘をついている声ではない。

「あの子、しゃべりにくいところがありましたよね」

「ありませんよ。よくしゃべる子でした」

俺は礼を言って、電話を切った。

手のひらが濡れていた。

その晩、俺は実家の物置から高校のノートを掘り出した。

二年のときの数学のノートだ。

Fが何度も借りていって、返してきたものである。

返ってくるたび、ページの左端が黒くなっていた。

左手で書き写すと、手のひらが鉛筆の粉を横に引きずる。

俺はページをめくった。

四十ページ目から先、左端に黒い帯が続いていた。

Fが写した箇所だ。

指でこすると、いまでも黒くなる。

人の記憶は書き換わっても、紙は書き換わらなかった。

Aにも、それとなく訊いてみた。

Aは五人のうちで、いちばん記憶のいい男だ。

「F、左利きだったよな」

「え。右だろ」

即答だった。

「ノート借りに来てたの、覚えてないか」

「借りには来てた。左だったかは、覚えとらん」

もう一人にも訊いた。

答えは同じだった。

覚えているのは、俺だけだった。

それが二、三年前からのことなのか、もっと前からなのか。

誰の記憶がいつ書き換わったのかは、確かめようがない。

確かめようがない、ということだけが確かだった。

俺はノートを袋に入れて、押し入れの奥にしまった。

誰かに見せる気には、どうしてもなれなかった。

※

洗面所の左右

出張から帰った晩、俺は自分の部屋で足を止めた。

玄関の鍵は壊されていない。

盗まれた物もない。

それでも、何かが違った。

洗面所だ。

歯ブラシとコップの位置が、左右入れ替わっていた。

俺は十年以上、コップを右、歯ブラシ立てを左に置いている。

洗面台の鏡の前に立つと、いつもと逆になっている。

それだけだ。

それだけのことが、四日ぶんの疲れを一気に押し流した。

台所も見た。

包丁の柄の向きが逆だった。

食器の伏せ方も逆だった。

部屋の中の物が、順番に、左右だけ入れ替えられている。

俺は寝ないで朝を待った。

翌日、退院した先輩から電話が来た。

「すぐ、伯母のところに行こう」

今度は二人だけで山へ向かった。

もう一度祓ってもらい、数日、道場に泊まるよう言われた。

「とにかく、いまは静かにしていなさい」

伯母さんは、洗面所の話を聞いても顔色を変えなかった。

「向きを見ているだけです」

それ以上は、何も説明しなかった。

※

卒業アルバムを開いた晩

道場から戻った週末、俺は実家の押し入れを開けた。

高校の卒業アルバムを探した。

Fの写真が見たかったわけではない。

あいつの利き手が、写真に写っているはずだと思ったのだ。

ところが、一枚も写っていなかった。

運動会でも、修学旅行でも、教室のスナップでも。

Fは、写真を撮られるとき、必ず両手を後ろで組んだ。

三年ぶんのアルバムで、例外は一枚もない。

俺はその癖を、二十年、ただの照れだと思っていた。

手を後ろで組めば、どちらの手が利き手かは、写らない。

最後に、クラスの集合写真を見た。

三年二組、三十八人。

前列に女子、後列に男子が並んでいる。

Fは、後列の左から四番目だった。

両手は、やはり後ろだ。

俺は、写真を蛍光灯にかざした。

学生服の合わせが逆になっているのは、Fだけだった。

男子は全員、右の身頃を下にして留めている。

Fだけが、逆に留まっていた。

写真そのものが反転していれば、全員が逆になる。

俺は、その一枚を長いこと見ていた。

ついでに、自分の記憶も一つ足りないことに気づいた。

三年の秋の文化祭を、俺だけが覚えていない。

Aに電話して確かめた。

俺は、そこにいたらしい。

写真にも写っている。

けれど、その日のことは何ひとつ出てこない。

似たような記憶のずれの話は、白い霞の夕方にも書かれている。

あるはずのものが地図から消える話なら、消えた京都の路地のほうが近い。

※

今のFは、手を後ろに回さない

それからしばらくして、騒ぎは静かに収まった。

ある日、F本人から連絡が来た。

「久しぶり。今、普通にやってるよ」

以前と変わらない、いや、以前より明るい声だった。

笑いながら、Fはこう言った。

「いやあ、実はさ……ちょっと入れ替わってたかも」

冗談めかしていた。

俺は何も言えなかった。

元のFなのか、別のFなのかは分からない。

それでも、昔と同じように酒を飲み、昔話で笑い合った。

Fはいまも俺の友人だ。

それだけは、確かだった。

去年の夏、五人で集まったとき、店の人に写真を撮ってもらった。

Fは、俺の隣に立った。

両手は、体の前で軽く組んでいた。

後ろには回さなかった。

撮った写真を、俺はまだ確かめていない。

Fの実家の表札は、いまも二枚重ねのままだ。

上の一枚と下の一枚で、名字の一文字だけが違っている。

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