五寸釘の女は謝りに来た(後編)

裏山

あれから五年。

俺たち三人はそれぞれ違う高校に進み、すっかり会わなくなっていた。

五寸釘の女の一件を忘れたことはない。

ただ、記憶は曖昧になり、恐怖もかなり薄れていた。

思い出そうとしなければ、思い出さずに済む。

中学の三年間で、あの山に入ったことは一度もない。

通学路も、遠回りになるほうを選んでいた。

意識してそうしていたわけではない。

気がついたら、そういう歩き方になっていた。

慎とは中学で別のクラスになり、そのまま疎遠になった。

淳也とは部活が違って、廊下ですれ違う程度だった。

三人とも、示し合わせたように、あの話をしなくなっていた。

その程度には遠くなっていた。

高一の冬休み、懐かしい奴から電話が掛かってきた。

淳也だ。

「おう、ひさしぶり」

挨拶もそこそこに、あいつは言った。

「実は単車で事故ってさあ。足折って入院してんだよ」

「だっせーな。どこの病院よ」

「市民病院」

「寂しいから見舞いに来いってか」

淳也は少し黙った。

「まあ、それもあるんだけどさあ」

声のトーンが落ちた。

「お前、五寸釘の女のことって覚えてる?」

「は?」

「事件のことじゃなくってさあ。顔、覚えてる?」

「……何で。何だよ急に」

「毎晩な」

淳也は言葉を選んでいた。

「面会時間終わってから、変なおばはんが俺のこと覗きに来るんだよ」

「そいつがさ」

その言葉を聞いた途端、女の顔が鮮明に戻ってきた。

初めて会ったあの夜の、歯を食いしばった顔。

下校時にすれ違ったときの、いやらしくニヤついた顔。

自宅の玄関で見た、あの顔。

それから、叫び声。

五年ぶんの距離が、一気に無くなった。

受話器を持ったまま、俺は廊下の壁に背をつけていた。

居間のテレビの音が、やけに遠く聞こえた。

俺は軽い調子で言った。

「何言ってんだよ。ほんっとオメーって気が小せぇーなあ」

自分に言い聞かせるためでもあった。

「そーだよな」

淳也も笑った。

「でも、こーゆーとこって妙に気が小さくなるんだよ」

「そーゆーとこ、変わってねーな」

病院の名前と病室を聞いて、電話を切った。

「近いうちに雑誌持って見舞い行くわ」

切る間際に、淳也がもう一度言った。

「なあ」

「何」

「顔、ちゃんと覚えてる?」

「覚えてるよ」

「そっか」

それで切れた。

淳也からの電話

受話器を置いた瞬間、胸騒ぎがした。

五寸釘の女。

その五文字が、頭から離れなくなった。

しばらく座ったまま考えた。

今さら現れるはずがない。

あいつは捕まったはずだ。

いや、釈放されたのか。

そもそも、俺たち三人はあの女に何をしたわけでもない。

呪いの儀式を見てしまっただけだ。

それなのに、いきなり襲われた。

俺たちは、あの女から何ひとつ奪っていない。

傷つけてもいない。

奪われたのは、こちらのほうだ。

ハッピーとタッチを奪われ、秘密基地を壊された。

何より、拭い去れない恐怖を植えつけられた。

怨むのは俺たちの側のはずだった。

それでも、こちらから何かをしたことは一度もない。

名前も、住んでいる場所も、結局は知らないままだ。

知りたいとも思わなかった。

母親には、あの一件のあと一度だけ聞かれたことがある。

「あの人、どこの人なん」

「知らん」

「ほんまに知らんの」

「知らん」

母親はそれ以上は聞かなかった。

うちの玄関にあの女が来た日のことを、家族はそれぞれの言い方で忘れようとしていた。

玄関の鍵は、あの年から二重になった。

理由を口に出した者はいない。

忘れることが、こちらの唯一のやり方だった。

二日後、俺はバイトを休んだ。

本屋でバイク雑誌を三冊買ってから、病院に向かった。

久しぶりに会える興奮と、電話の話の不安が、同じだけあった。

着いたのは昼過ぎだった。

淳也の病室は三階の三〇三号室。

ネームプレートを確かめて入った。

六人部屋だった。

一番奥、窓側の左手に、あいつがいた。

「よう、淳也。久しぶり」

「おう、まじひさしぶりやなあ」

思ったより元気そうで、少し安心した。

雑誌を渡すと、淳也は新しい玩具をもらった子どもみたいに喜んだ。

それから、他愛のない話をたくさんした。

淳也といると、小学生の頃に戻ったようだった。

無邪気に笑えた。

淳也は、事故の話を面白おかしく喋った。

夜のバイパスでカーブを曲がりきれず、ガードレールに当たったらしい。

「気ぃついたら、空が見えとった」

「空?」

「仰向けで、ヘルメットの中から」

「ようそんな笑えるな」

「笑わなやってられへんやろ」

隣のベッドの年寄りが、こちらを見て少し笑っていた。

六人部屋は、思ったより静かだった。

テレビはイヤホンで見る決まりらしい。

誰かの点滴が、一定の間隔で落ちている。

窓の外は駐車場で、白い線の引かれた区画が並んでいた。

淳也のベッドの脇には、小さなゴミ箱が置いてあった。

青いプラスチックの、蓋のないやつだ。

雑誌のビニールを剥がして、俺はそこに捨てた。

六人部屋の台車

あっという間に、面会終了の時間が近づいた。

帰ろうと腰を上げたとき、淳也が真顔になった。

「実はさあ、電話でも言ったんだけど」

「五寸釘の女の事だろ」

俺が先に言った。

「気のせいだとは思うんだけど」

淳也は視線を落とした。

「いつもこの時間に来るおばさんがいてさあ」

「何か、こう、引っ掛かるっつーか」

「だから、気のせいだって。ビクビクすんなよ」

強気に言った。

淳也はカチンときたらしい。

「だから、勘違いかもしんねーっつってんぢゃん」

「ビビりで悪かったな」

空気が重くなった。

せっかくの再会をこんな空気にするつもりはなかった。

謝ろうとした、そのときだった。

ガラガラガラ。

廊下に、台車のタイヤの音が響いた。

「来た」

淳也が呟いた。

俺は部屋の入口に目をやった。

音は次第に近づき、この部屋の前で止まった。

扉が開いた。

上下紺色の作業着を着たおばさんが立っていた。

「何だよ、脅かすなよ」

少し胸を撫で下ろした。

「ゴミ回収のおばさんじゃねーか」

女は患者ひとりひとりのゴミ箱を回り始めた。

最後に、淳也のベッドへ近づいてきた。

「見てくれよ」

淳也が小声で言った。

俺は顔をちらりと見た。

息を飲んだ。

似ている。

しばらく凝視してしまった。

顔の作りが似ているというのとは、少し違った。

輪郭も、髪の量も、五年前とは変わっている。

似ているのは、目の位置と、口を閉じたときの線だった。

あと、首の傾け方だ。

物を拾うとき、右にだけ少し傾ける。

女はこちらを向き、ぺこりと頭を下げて出て行った。

台車の音が、廊下を遠ざかっていく。

隣のベッドの年寄りが「ごくろうさん」と声をかけていた。

女は、そのたびに立ち止まって会釈していた。

「どう? やっぱ違うか?」

「俺ってビビりすぎ?」

「全然ちげーよ」

俺はそう答えた。

「ただの掃除おばさんじゃん」

いや、似ていた。

他人の空似だろうか。

「んじゃそろそろ帰るわ」

「あんま変な事考えてねーで、さっさと退院しろよ」

「そだな」

淳也は笑った。

「あの女が病院にいるわけねーよな」

「お前が違うって言うの聞いて安心したよ」

「また来てくれよ。暇だし」

病室を出て、階段を駆け降りた。

あの顔が、頭から離れなかった。

その日は、眠りに落ちるまでそのことばかり考えていた。

天井を見ながら、五年前の順番を思い返した。

裏山で見てしまった夜。

下校時のすれ違い。

玄関。

三つとも、こちらが探したわけではない。

向こうが、こちらの生活の中に入ってきた。

今度もそうだとしたら。

消灯後のロビー

次の日、俺はバイトを早めに切り上げた。

病院までは自転車で三十分。

着いたときには二十時を回っていた。

面会時間はとっくに過ぎている。

清掃の人も帰っている時間だろう。

正面玄関はもう閉まっていた。

自転車を裏の駐輪場に停めて、建物の裏側を回った。

窓の明かりは、四階と五階に数えるほどしかない。

三階は、廊下の非常灯だけが緑に光っていた。

急患用の出入口は開いていた。

受付の窓口に、人の姿はない。

消毒液の匂いが、昼より濃く感じられた。

念のため、急患用の出入口から入った。

淳也の病室に入ると、ベッドのカーテンが閉め切ってあった。

寝たのかと思い、そっと隙間から覗いた。

「うわっ」

淳也が飛び起きて、雑誌を枕の下に隠した。

俺はそこには触れなかった。

「暇だろーと思って来てやったんだよ」

「おぅ」

淳也は少し気まずそうだった。

「この時間暇なんだよ。ロビーでも行って茶でもしよか」

車椅子をベッドの横に持ってきて、両脇を抱えて乗せてやった。

「ロビー一階だからナースに見つからんよーに行かんとな」

俺たちはこそこそと、泥棒のように一階へ向かった。

看護師に見つかりそうになるたび、息をひそめて物陰に隠れた。

やっとの思いでロビーに着いた。

昼間と違い、真っ暗だった。

明かりは自動販売機と非常灯だけだ。

「何か、暗闇の中をお前とこそこそするの、あの夜を思い出すよなあ」

淳也が言った。

「そだな」

俺は缶コーヒーを二つ買った。

「何であの時、アイツのこと尾行しちまったんだろーな」

淳也は黙り込んだ。

俺は今日来た理由を言い出せずにいた。

あと一か月は入院する相手に、こんな話をしていいものか。

迷っているうちに、淳也のほうから言った。

「お前、あのおばさんのこと、気づいたんじゃないのか」

「え? 何が」

とぼけた。

「そーなんだろ」

淳也は真顔で詰め寄ってきた。

「やっぱり似てる。いや、五寸釘の女かもしれないんだろ」

その迫力に押された。

「たしかに似てた」

俺は認めた。

「雰囲気は全然違うけど。似てる」

淳也はうつむいた。

「やっぱり」

そして、低い声で語り始めた。

「俺が入院して二日目の夜な」

「足と腰が痛くて、なかなか眠れなかったんだ」

「寝返りもうてないし、消灯時間やし」

「仕方ないから目つむって、寝る努力しててん」

「そしたら少しウトウトしてきて」

「そのときに、視線を感じたんだ」

「見回りの看護師やろと思って無視しててんけど」

「喉の奥で我慢しとるような息遣いが聞こえてきて」

「隣の患者の寝息かなあ思て、薄目を開けてみたんよ」

淳也はそこで一度、唾を飲んだ。

「そしたら、俺のベッドのカーテンが少しだけ開いてて」

「その隙間から、誰かが俺を見てた」

「恐くて恐くて、寝たふりしてたんやけど」

「そのまま寝てたらしくて、気付いたら朝やった」

「後から考えたんだ」

「あの目」

「ニヤついた目」

「どこかで見覚えが。そーなんだよ」

「清掃おばさんの目にそっくりだったんだよ」

ニヤついた目。

俺はその目を知っている。

あの目で見つめられたことがある。

淳也が言う光景が、すぐに頭に浮かんだ。

「それにあの清掃おばさん、ゴミ回収に来たとき、やたら目が合うんだ」

「俺が見ると、俺のことをやたら見てる」

それを聞いて、俺の中の疑いは確信に変わった。

やっぱりそうだ。

あの女は社会に戻っている。

缶コーヒーを握る手が、少し震えた。

体が覚えているのだ。

そのとき、後ろから光が当たった。

「コラ」

振り向くと、見回りの看護師が立っていた。

「ちょっと淳也君、どこにもいないと思ったらこんなとこに」

「消灯時間過ぎてから勝手に出歩いちゃダメって言ってるでしょ」

「それに、お友達も面会時間はとっくに過ぎてるでしょ」

かなり怒っていた。

口を縛る別の紐

ロビーに残った缶コーヒーの表面に、指の跡がついていた。

自分の手のひらが汗をかいていたのだと、あとで気づいた。

「はいはい」

淳也は笑って、車椅子を押されていった。

「んぢゃまた近いうちに来てくれよな」

「おぅ。取り敢えず、気つけろよ」

俺は急患用の出入口に向かった。

それにしても、夜の病院は気味が悪い。

さっきまであの女の話をしていたせいもある。

廊下の先に、誰かがいた。

あれは清掃おばさんか。

いや、五寸釘の女か。

出入口の付近で、何かをしている。

俺はとっさに柱の陰に身を隠した。

向こうは気づいていないようだった。

中腰の姿勢で、手を動かしている。

目を凝らして、しばらく観察した。

大きな袋を開けて、中身をもう一方に小分けしているように見えた。

手を止めずに何かしている。

病院内で集めたゴミの分別だろうか。

足元に、袋が並べられていた。

数えてみた。

燃えるゴミ。

燃えないゴミ。

ペットボトル。

袋は三つのはずなのに、足元にもう一つ、口を別の色の紐で縛った袋があった。

その袋だけ、少し離れた場所に置いてある。

そのときは、施設用の分別が細かいのだろうと思った。

よく見ると、その袋だけ膨らみ方が違った。

中身が少ないのに、形が崩れていない。

一つずつ、丁寧に入れたのだろう。

そこまで見ておいて、俺は何とも思わなかった。

「ちょっと、まだいたの」

後ろから声がした。

さっきの看護師だった。

「私も遊びじゃないんだからいい加減にして」

「あ、いや、帰ります。どーも」

「全く」

看護師は俺を睨んで、また見回りに行った。

出入口に目を戻した。

女は、こちらに気づいていた。

まっすぐに俺を見ていた。

見つかった。

どうすればいい。

逃げるべきか。

さっきの看護師に助けを求めるべきか。

頭が回り始め、心臓が速くなった。

目を離せずにいると、女は視線を外した。

そして何事もなかったように、また分別を始めた。

えっ、と思った。

想定外だった。

しばらく突っ立ったまま見ていたが、女は黙々と手を動かしている。

俺のことなど気にしていない様子だった。

何かの作戦か。

そう疑いながら、もう一つの考えが浮かんだ。

清掃おばさんは、五寸釘の女ではないのではないか。

似ているだけの別人ではないのか。

俺と淳也が、疑心暗鬼になりすぎていただけではないのか。

考えている間も、女は黙々と働いている。

俺は意を決して、出入口へ歩き出した。

つまり、女の近くへだ。

少しずつ近づく。

相手は一向にこちらを見ない。

それでも警戒は解かず、目を離さずに歩いた。

何事もなく、俺は女の背後まで来た。

ゴム手袋をはめた手が、大量のゴミを分けている。

燃える。

燃えない。

ペットボトル。

手つきは丁寧だった。

やはり別人か。

そう思った瞬間だった。

女がバッとこちらを見た。

「大きくなったねぇ」

頭の中が真っ白になった。

大きくなったね。

俺の過去を知っている。

こいつだ。

やっぱりあの女だ。

五寸釘の女の謝罪

女は作業を中断して、ゴム手袋を外しながら近づいてきた。

その顔は、にこにこと笑っていた。

俺はどんな顔をしていただろう。

とてつもなく引きつった顔だったと思う。

「立派になって」

女は目の前まで来た。

「もう幾つになったの? 高校生?」

発言の意図が分からなかった。

黙っていると、女は続けた。

「お友達も大きくなったねぇ。淳也くん」

「可哀相に骨折してるけど」

「お兄ちゃんも気付けなあかんよ」

意味が分からなかった。

数年前に自分がしたことを、忘れているのか。

俺たちにあれだけのものを植えつけた本人の言葉とは思えない。

女は昔を思い出すように言った。

「もう一人いた。あの子も元気? 黒の子いたでしょ」

慎のことだ。

何なんだこいつは。

久しぶりに会った旧友のような口ぶりだった。

普通ではない。

わざとなのか。

何か目的があって、こんな態度を取っているのか。

俺は目を逸らさず、動きに注意を払い続けた。

「あの時はごめんね」

女は近づきながら言った。

「許してくれる?」

返す言葉が見つからなかった。

無言で、少し後退りした。

「ほんまやったら、もっと早くあやまらなあかんかってんけど」

耳を疑った。

何か企んでいるのか。

ついに、手を伸ばせば届く距離まで来た。

「三人にちゃんと謝るつもりやったんやで。ほんまやで」

息がかかるほどの距離だった。

あの頃とは違う。

俺のほうが二十センチは背が高い。

体格でも勝っている。

指一本でも触れられたら、ぶっ飛ばしてやる。

そう考えていた。

女は俺を見上げるようにして、目だけを見てくる。

その目に、怨みも憎しみも怒りも無かった。

まっすぐに、俺の目だけを見ている。

「あの時はどうかしててねぇ。酷い事したねぇ」

謝罪の言葉が並ぶ。

俺はその場の緊張に耐えられなくなった。

走って、その場を離れた。

途中で振り返った。

追ってくるかと思ったが、姿はなかった。

拍子抜けして、立ち止まった。

息が上がっていた。

走ったのは、十メートルほどだったはずだ。

それでも、膝が笑っていた。

さっきのは、本心から謝っていたのか。

俺には信じられなかった。

疑うことしかできなかった。

あの事件があるのだから、当たり前だ。

小走りで、さっきの場所の近くまで戻ってみた。

女はまたゴム手袋をはめて、大量のゴミを分けていた。

本当に改心したのだろうか。

必要以上に丁寧なその手つきを見ていると、昔の女とは思えない。

複雑な気持ちのまま、その日は帰った。

自転車を漕ぎながら、何度も後ろを見た。

誰も追ってこなかった。

家に着いて、玄関の鍵を二回確かめた。

五年前の癖が、体に残っていた。

呪いを信じる人

自室のベッドに横になって、一人で考えた。

人間は、あそこまで変われるものなのか。

鬼の形相でハッピーとタッチを奪い、俺と慎と淳也を追い詰め、火まで放った人間だ。

その人間が、ごめんねと心から言えるのか。

いや、逆かもしれない。

あの一件をきっかけに、俺のほうが変わってしまったのかもしれない。

疑心暗鬼になり、人を信じられない人間になったのかもしれない。

あの女の謝罪を信じれば、俺はあの夜から解放されるのか。

もう一度会って、直接話すべきだ。

今度は逃げない。

そう決めた。

次の日、俺はバイトを休んで病院に行った。

まず淳也の病室に入り、前の晩のことを説明した。

今日は直接話すつもりだと伝えた。

淳也は最初、反対した。

「あの女は変わってない」

「このまま一生、あの女に怯えてビクビクしながら生きていくのか」

俺がそう言うと、淳也は黙った。

「……あの女に会って話すんだったら、俺も付き合う」

二人とも黙ったまま、時間が過ぎた。

面会時間終了のチャイムが鳴った。

それと同時に、廊下の奥から台車の音が聞こえてきた。

「来たな」

淳也がぼそっと言った。

俺は固唾を飲んで、扉に視線を送った。

ガラガラガラ。

音が部屋の前で止まった。

扉が開いた。

作業服の女が、会釈しながら入ってきた。

俺と淳也は、その姿を目で追った。

女は奥のベッドから順に回収を始めた。

「ごくろうさん」

患者に声を掛けられ、笑顔で会釈を返している。

とても、昔のあの女と同じ人間には見えない。

ついに、淳也のベッドに来た。

女はこちらに一切目を合わせず、軽く会釈をして手を動かし始めた。

俺は何と声を掛けていいのか分からなかった。

先に口を開いたのは淳也だった。

「おばさん。どーゆーつもりだよ」

女はぴたりと手を止め、俯いたまま静止した。

「あんた、俺の事覚えてたんだろ」

「俺には謝罪の言葉一つも無いの?」

淳也がいきなりキレ口調になるとは思わなかった。

女は俯いたまま、か細い声を出した。

「……ごめんねぇ」

その素直さに驚いたのか、淳也は何か言いたげに俺を見た。

「おばさん、本当に反省してるんだよね」

俺は聞いてみた。

女はこちらを向いた。

「本当にごめんなさい」

「私があんな事したから、淳也君、こんな事故に遭っちゃって」

「私があんな事したから。ほんとゴメンね」

俺と淳也は、揃ってきょとんとした。

話がずれていないか。

「いや、昔あんた、犬に酷い事したり、俺ん家にきたり」

「全部ひっくるめて言ってんだよ」

女は泣きそうな声で繰り返した。

「本当にごめんなさい」

「私が、私があんな事さえしなければ、こんな事故」

「ごめんね。本当にごめんね」

病室の患者の視線が、一斉に集まっていた。

静まり返った部屋に、女の声だけが響く。

「ゴメンね。ごめんなさい。ゴメンなさぃ」

淳也は恥ずかしそうに吐き捨てた。

「もういいよ」

「だいたい、俺が事故ったのアンタとは一切関係ねーよ」

女はぺこぺこ頭を下げながらゴミを回収し、最後にもう一度言った。

「ごめんなさい」

そして、そそくさと出て行った。

しばらく、病室には変な空気が流れた。

「何なんだよ、あのオバハン」

淳也が枕を叩いた。

「俺は普通に事故っただけだっつーの」

「何勘違いしてやがんだよ」

俺は、女の言葉をずっと考えていた。

やはり、あの女はおかしい。

謝罪自体は心からだろう。

ただ、あの女が謝っていたのは、呪いの儀式をしたことについてだ。

呪いを、本気で信じている。

そして、淳也の事故を自分の呪いの結果だと思っている。

月末の快気祝い

淳也は妙に清々しい顔で言った。

「あの頃は無茶苦茶怖い存在やって、今だにトラウマでビビってたけど」

「さっき喋って思ったんは、単なるオカルト信者のおばはんやって事やな」

「ああ」

俺も調子を合わせた。

「昔と違って、俺らの方が体もデカくなったしな」

言いながら、俺は少しだけ引っかかっていた。

呪いを本気で信じている人間は、謝って終わりにするだろうか。

信じているなら、まだ続いていると考えるほうが自然ではないか。

その考えを、俺はその場で押しのけた。

淳也の顔が、久しぶりに明るかったからだ。

「さて、取り敢えず一件落着したし、俺帰るわ」

「おぅ。また暇な時来てや」

家に帰る途中、慎のことを思い出した。

あいつにも伝えてやろう。

聞けば、少なからず喜ぶだろう。

家に着いてから、慎と同じサッカー部だった奴に電話をして、番号を聞いた。

慎の携帯にかけた。

「おう、ひさしぶり」

懐かしい声だった。

近況を話したあと、順番に伝えた。

淳也が事故って入院していること。

その病院に、五寸釘の女が清掃員として働いていること。

その女が、昔とは別人のようになっていること。

慎は、謝罪の件にひどく驚いていた。

「マジか」

「マジ」

「あの女がか」

「あの女が」

最後に慎は言った。

「淳也が退院したら、三人で快気祝いをしよう」

もちろん賛成した。

翌日、病院で淳也に伝えると、あいつはとても喜んだ。

それから一週間ほど、見舞いには行かなかった。

理由はない。

新学期が始まって、時間が取りにくかったのもある。

女が更生しているようだったので、心配も以前ほどではなかった。

何かあれば淳也から電話があるだろうと思っていた。

その淳也から電話が来た。

「来週退院する」

「良かったな」

俺は祝福してから、一応聞いた。

「あの女、どうよ」

「普通にゴミ回収の仕事してる。特に何もない」

さらに一週間が経って、淳也は退院した。

学校帰りに家へ寄った。

チャイムを押すと、松葉杖をついた淳也が出てきた。

「おぅ、上がれよ」

足にはギプスが残っていたが、元気そうだった。

部屋でしばらく雑談をして、夕方に帰った。

夕飯のあと、慎に電話をした。

「淳也、退院したぜ」

「そっか。じゃあ快気祝いしなくちゃな」

「いつ来れる」

「すぐにでも行きたいけど、部活が忙しいから月末頃な」

そして月末の土曜日が来た。

俺、慎、淳也。

小学校以来、本当に久しぶりの三人だった。

昼に駅前の喫茶店で落ち合った。

慎は冬なのに浅黒く日焼けして、少しギャル男気味になっていた。

それはさておき、夕方まで話し込んだ。

それぞれの高校の話。

恋の話。

昔の思い出話。

当然、五寸釘の女の話題も出た。

あの頃はあれほど恐ろしかった相手が、今はゴミ回収のおばさんだ。

病院での顛末を二人で詳しく話すと、慎は笑い飛ばした。

「あの頃と違って、今ならアイツが襲って来てもブッ飛ばせるしな」

もう俺たちにとって、あの女は過去の人物だった。

喫茶店を出るとき、慎が伝票を持って言った。

「淳也の退院祝いやからな」

「俺、まだギプスやぞ」

「祝いは祝いや」

三人で笑った。

あの頃の笑い方に戻っていた。

店を出ると、駅前のイルミネーションが点いていた。

慎が「田舎のくせに」と笑った。

淳也が杖で慎の足を軽く叩いた。

三人で歩く速さが、自然と淳也に合っていた。

誰も、合わせているとは言わなかった。

遠い昔話のはずだった。

裏山のあの樹

夕方になって、俺たちはカラオケに入った。

久しぶりの三人だからと、酒を頼んだ。

酒といっても酎ハイだ。

当時の俺たちには十分だった。

四、五杯ずつ飲んで、全員がほろ酔いになった。

いい気分で歌って、かなりテンションが上がっていた。

二時間ほどで歌にも飽きた頃、慎が言い出した。

「よーし、今から秘密基地に行くぞ」

一瞬、空気が凍った。

「あの時、見捨てちまったハッピーとタッチの供養をしに行くぞ」

俺も淳也も、言葉を失った。

まさか、あの場所に。

慎は挑発してきた。

「オメーら変わってねーな。まだビビってんの?」

酔った淳也が反応した。

「あ? 誰がビビるかよ」

俺は空気を読んで止めに入った。

「おいおい、やめとけって」

「第一、淳也まだ杖突いてんだぜ」

慎はすかさず言った。

「あ、そっか。杖ついてちゃ逃げれねーしな?」

淳也はますますムキになった。

「うるせーよ。行きてーんなら行ってやるよ」

「お前こそ途中でビビんぢゃねーぞ」

小学生の頃の喧嘩そのままだった。

結局、ハッピーとタッチの供養という名目で行くことになった。

慎も淳也も、引くに引けなかったのだと思う。

供養はいずれしなければならないと思っていたので、いい機会かもしれないとも思った。

カラオケを出て、コンビニに寄った。

あの二匹が好きだったうまい棒とコーラを買った。

レジで慎が「線香は?」と言った。

コンビニには置いていなかった。

「まあ、あいつら犬やしな」

淳也がそう言って、話は終わった。

自宅に照明を取りに戻って、タクシーで小学校の裏山へ向かった。

山に続く林道の入口で降りた。

暗闇の中に、黒々とした山が広がっていた。

三人でよく遊んだ裏山だ。

懐かしさと一緒に、あの日のことが戻ってきた。

こんな夜更けに、また入ることになるとは。

そんな気持ちも知らず、淳也は意気揚々と言った。

「さあ、入ろうぜ」

杖をつきながら、ずかずかと入っていく。

その後ろを、慎がにやにやしながら照らして続いた。

「淳也、足元、気つけろよ」

俺は最後尾についた。

登りの途中、慎はずっとふざけていた。

「五寸釘の女がいたらどーする? 俺、お前置いて逃げるけど」

思いのほか、道は楽だった。

俺たちが大きくなったからだろう。

三十分ほどで、あの場所に着いた。

初めてあの女と会った場所だ。

俺たちは黙り込み、明かりで周囲を照らしながら、あの樹に近づいた。

あの日、女が儀式をしていた樹だ。

間近で光を当てた。

今は何も打ち込まれていない。

ただの大木だった。

それでも、古い釘の痕は残っていた。

所々に、穴が穿たれている。

しばらく三人で、その痕を眺めていた。

「ここらへんでハッピーが横たわってたんだよな」

慎が地面を照らした。

あのときの姿が、頭に浮かんだ。

俺はうまい棒とコーラを供えた。

三人で手を合わせた。

次はタッチのところだ。

秘密基地の跡へ向かった。

途中で淳也がぽつりと言った。

「色々あったけど、やっぱ懐かしいよな」

慎が答えた。

「ああ。あの夜、秘密基地に泊まりに来なければ、嫌な思い出なんて無かっただろうな」

確かにそうだ。

この山であの女に会わなければ、ここはいつまでも俺たちの秘密基地だった。

「ここらへんだったよな」

慎が立ち止まった。

跡形も無かった。

あの日ばらばらにされた材木すら、一枚も残っていない。

淳也が無言でしゃがみ、うまい棒とコーラを置いて手を合わせた。

俺と慎も手を合わせた。

木に打たれたゴミ

しばらく黙祷したあと、慎が口を開いた。

「あの二匹がいなけりゃ、今頃、俺達いなかったかもな」

「ああ」

淳也が短く答えた。

「そうだよな」

俺も言った。

「結局、五寸釘の女も更生して、なんだか、やっと悪夢から解放された感じだな」

沈黙が続いた。

ふと慎が、周囲と目の前の池を照らした。

「この場所、あの頃は俺らだけの秘密の場所だったのに」

「けっこう来てる奴いるみたいだな」

照らす先を見ると、スナック菓子の袋や空き缶がぱらぱらと落ちていた。

「ほんとだな」

「あの頃はゴミなんて全然無かったもんな」

「今の小学生、この場所知ってんのかな」

淳也が続けた。

「あの時は俺ら、まじめにゴミは持ち帰ってたもんな」

そのときだった。

「何だこれ」

慎が呟いた。

俺と淳也は、その声に驚いて明かりの先を見た。

一本の木に、何かが張り付いている。

菓子袋と、空き缶と、雑誌。

それが、釘で打ち付けられていた。

「なんだこれ」

慎が照らしながら近づいた。

俺と淳也も続いた。

「誰かのイタズラ?」

俺は打ち付けられたゴミを見た。

そのときだった。

「ああああ。これ。俺の、ゴミぃ」

淳也が震えた声を出して、硬直した。

「は?」

俺と慎は聞き返した。

「あ゛あああ。俺が、病院で捨てた」

淳也は後ずさりした。

「おい、淳也。しっかりしろ」

慎が怒鳴りながら、釘で打たれた菓子袋を一枚引きちぎった。

それを見て、淳也は奇妙な声を出して尻餅をついた。

その様子に呆気に取られていると、慎が手に持っていた袋を投げた。

俺は落ちた袋に目をやった。

裏に、マジックで書かれていた。

淳也呪詛。

まさか、と思った。

俺は木に打たれたゴミを片っ端から引き剥がし、裏を見ていった。

淳也呪詛。

淳也呪詛。

淳也呪詛。

淳也呪詛。

周囲に落ちているゴミにも、全部そう書かれていた。

淳也は口をぱくぱくさせたまま、尻餅をついた状態で固まっていた。

俺はそこで理解した。

あの女は、初めから更生などしていなかった。

ずっと俺たちを怨んでいた。

病院の出入口で、ゴム手袋をはめて丁寧に分けていたのは、分別ではなかった。

燃える、燃えない、ペットボトル。

その三つの袋の横に、口を別の色の紐で縛った袋が一つあった。

あの夜の四つ目の袋は、淳也のゴミだけを入れるためのものだった。

ごめんねと繰り返していたのも、全部そのための時間だった。

とてつもない寒気がした。

何も終わっていない。

ここにいてはいけない。

「おい、しっかりしろ。行くぞ」

淳也は「俺の、俺の」と繰り返すだけだった。

淳也は壊れていた。

慎と二人で担いで、山を降りた。

あの日以来、山には行っていない。

あの女とも会っていない。

まだ俺たちを怨んでいるのだろうか。

どこかで見ているのだろうか。

俺たち三人は、まだ生きている。

ただ、淳也はいまも歩くことができない。

ここに至るまでの経緯は、前編と中編に書いた(危険な好奇心(前編)・危険な好奇心(中編))。

山の中の場所で起きたことは、いつまでも終わらないのかもしれない(地下の浴槽だけ焦げていない)。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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