カスパー・ハウザー

カスパー・ハウザー

終点のバス停に、その人は、朝からずっと立っていたそうです。

昭和四十年の、春の初めのことでした。

私の生まれた町は、山あいの、製材で食べている小さな町でした。

製材所の鋸の音が、町の時計がわりでした。

朝八時に鳴き始めて、昼にやんで、日暮れにやむ。

バスは一日に四本。

終点の停留所は、うちの製材所の、すぐ前にありました。

※

最初に気づいたのは、バスの運転手さんでした。

「あの兄さん、朝の一便からおるよ。乗りもせんし、誰も迎えに来ん」

夕方になっても、その人は立っていました。

歳の頃は、二十歳すぎ。

色の抜けたような、白い顔をしていました。

古い型の、けれど汚れていない服を着て、荷物はなし。

手には、木彫りの馬を、ひとつだけ握っていました。

祖父が声をかけました。

「兄さん、どこへ行きなさる」

その人は、ゆっくりこちらを向いて、言いました。

「上ん屋敷に、帰ります」

祖父の顔色が、変わりました。

私はまだ中学生で、その言葉の意味を知りませんでした。

ただ、夕方の風が急に冷たくなったことだけ、覚えています。

※

その人は、うちの離れに泊まることになりました。

駐在さんが調べても、身元のわかるものが何ひとつ出てこなかったからです。

名前を聞くと、少し考えて、「わかりません」と言いました。

生まれた年を聞いても、「わかりません」。

どこから来たのかには、こう答えました。

「暗いところから」

春に来たので、みんなは「ハルさん」と呼ぶことにしました。

ハルさんは、それを嫌がりませんでした。

呼ばれるたび、名前を初めてもらった子どもみたいに、口の中で繰り返していました。

※

ハルさんは、いろいろなことを知りませんでした。

電話が鳴ると、跳び上がって壁に張りつきました。

テレビを裏から覗いて、「この人たちは、どこから入ったんですか」と真顔で聞きました。

味噌汁の湯気を、火事だと思って怖がりました。

食べられるのは、白い飯と、水と、ゆでた芋だけ。

魚を出すと、匂いだけで青くなって、席を立ちました。

離れに床を延べても、ハルさんは布団で眠れませんでした。

朝になると、いつも部屋の隅の、壁と壁の合わさるところで、膝を抱えて丸くなっていました。

「狭いほうが、落ち着くんです」

申し訳なさそうに、そう言うのでした。

祖母が塩むすびを握ったとき、ハルさんは、両手で受け取って、長いこと見つめていました。

「あたたかい飯は、はじめてです」

それから、ひと口ごとに目をつぶって、ゆっくりゆっくり食べました。

祖母は台所で、前掛けの端を、ずっと目に当てていました。

そのくせ、妙なことだけ、誰よりもよくできるのです。

※

まず、目でした。

停電の晩、うちは大騒ぎになったのに、ハルさんだけ平気な顔で、暗がりで縫い物の針に糸を通してみせました。

「ハルさん、見えるの」

「はい。夜のほうが、よう見えます」

昼間は逆に、まぶしがって、いつも目を細めていました。

日なたに十分もいると、白い肌が、火に炙られたように赤くなりました。

それから、鼻でした。

「明日の昼から、雨です」

雲ひとつない日に言うのです。

「なんでわかるの」

「山の匂いが、濡れる前の匂いになりました」

翌日の昼、本当に降るのです。

製材所の人たちは、しまいに天気予報より、ハルさんの鼻をあてにするようになりました。

耳も、並外れていました。

裏山の沢の音を聞き分けて、「今日は上の沢だけ濁っています」と言う。

見に行くと、そのとおりでした。

※

ただ、ひとつだけ、誰も笑えない癖がありました。

ハルさんは、どの階段でも、十三段目でぴたりと止まるのです。

うちの離れの階段は、十五段ありました。

ハルさんは十三段目まで上ると、そこで必ず立ち止まって、目をつぶるのです。

それから、手すりを強く握って、残りの二段を、他人の足を借りたみたいに、ぎこちなく上る。

神社の石段でも、同じでした。

十三段目で、止まる。

目をつぶる。

「どうして止まるの」

一度だけ、聞いたことがあります。

ハルさんは、困ったように笑いました。

「ここから先は、ない、はずなので」

意味を聞き返す前に、鋸の音が鳴って、その話はそれきりになりました。

※

「上ん屋敷」のことを、私は祖父から聞き出しました。

裏山の中腹に、昔、大きな屋敷があったのだそうです。

庄屋の流れをくむ旧家で、町の者は屋号で「上ん屋敷」と呼んでいた。

けれどその屋敷は、大正の終わりの冬に、火事で焼けて失われました。

一家は町を離れ、その後の消息を知る者もなく、係累も絶えたと聞く、と。

「焼けたんは、わしが子どもの時分じゃ。もう四十年も前になる」

祖父は、囲炉裏の火を見ながら言いました。

「屋号を憶えとるんは、この町でも、もう年寄りだけよ。……あの兄さん、なんでその名を知っとるんかのう」

ハルさんは、どう見ても、二十歳をいくつか出たばかりでした。

四十年前に焼けた家に、「帰る」と言ったのです。

※

それでも、ハルさんとの日々は、不思議と明るいものでした。

ハルさんは製材所の手伝いを覚え、木の扱いだけは、最初から名人でした。

木っ端をもらっては、小刀ひとつで、馬を彫るのです。

たてがみの一本まで彫り込まれた、今にも駆け出しそうな馬でした。

「上手ねえ。誰に習ったの」

「……教えてくれる声が、あったんです。壁の向こうから」

「壁?」

「はい。顔は、見たことがありません」

そういうことを、ハルさんは、なんでもないことのように言うのでした。

彫った馬は、町の子どもたちに配りました。

子どもらはハルさんによくなつき、ハルさんは子どもらの前でだけ、声を出して笑いました。

私はその笑い声を、いまでも耳の奥で再生できます。

※

夏の晩、縁側で夕涼みをしていると、ハルさんが空を見上げたまま、動かなくなったことがありました。

満月でした。

「ハルさん、どうしたの」

「月は……こんなに、大きいものでしたか」

「大きいよ。いつもあのくらい」

「わたしの知っとる月は、爪の先ほどでした」

ハルさんは、壁の高いところの、拳ほどの穴の話をしました。

一年にいく晩か、その穴を、白い光がゆっくり横切るのだそうです。

それがハルさんの、月の全部でした。

「今夜のは、大きすぎて、すこし、こわい」

そう言いながら、ハルさんは月から目を離しませんでした。

蛍が一匹、庭を横切りました。

ハルさんは、それも初めて見たと言いました。

きれいなものを数えるには、ハルさんの来し方は、あんまり暗すぎました。

湿った木の香りと、鋸の音と、あの笑い声。

あの春から夏が、ハルさんの一生でいちばん明るい季節だったのだと、あとになって思います。

※

秋口に、県の新聞社から、記者が来たことがあります。

身元不明の若者の話を、どこかで聞きつけたのでしょう。

けれど記者がカメラを構えたとたん、ハルさんは細い悲鳴を上げて、離れの押し入れに入ってしまいました。

「レンズが、あの穴に似とるんかもしれん」

祖父はそう言って、記者を、静かに帰しました。

「あの子はな、見世物やない」

記事は、結局、載りませんでした。

だからハルさんのことは、いまも、この町の外では誰も知らないのです。

※

夏の盆に、寺の和尚さんが、ハルさんをひと目見たいと言ってきました。

和尚さんは、この町でいちばんの物知りでした。

縁側でハルさんと少し話して、帰りぎわ、祖父と私を呼び止めました。

「あの子の言葉づかいはな、いまの言葉やない」

「と、言いますと」

「わしの祖父さんの世代の言い回しが、混じっとる。『へっつい』やの『行灯』やの、いまどき年寄りでも使わん言葉を、あの子は暮らしの言葉として使うとる」

和尚さんは、声を落としました。

「それとな。あの子、時計が読めん。そのくせ、日の傾きと腹の空き具合で、刻限をぴたりと当てよる。……あれはな、時計のない暮らしを、長うした者の体じゃ」

「いまどき、時計のない家なんて」

「家やない」

和尚さんは、裏山のほうを見ました。

「窓のない場所じゃよ」

※

秋の彼岸の前の日、ハルさんが、いなくなりました。

朝、離れに膳を運ぶと、布団は畳まれていて、枕元に木彫りの馬が一頭、山のほうを向いて置いてありました。

町じゅうで探しました。

見つからないまま日が傾いた頃、祖父がぽつりと言いました。

「……上ん屋敷か」

男衆が提灯を持って、裏山に入りました。

私も、止められたけれど、ついて行きました。

焼け跡は、藪の中にありました。

黒い礎石と、崩れた竈の跡。

四十年分の草いきれの中に、そこだけ、焦げた匂いがまだ薄く残っている気がしました。

「おおい、ハルさん」

呼ぶ声に、藪の奥で、提灯の火がひとつ揺れました。

ハルさんは、屋敷の裏手の、竹に呑まれた一角に立っていました。

足元に、地面へ降りていく石段が、口を開けていました。

蔵の下の、穴倉に続く段だったのでしょう。

石段は、数えてみると、十三段で途切れていました。

その先は、崩れた土に埋まって、闇になっていました。

ハルさんは、十三段目のところを、じっと見下ろしていました。

「ここです」

振り向いたハルさんの顔を、私は一生忘れません。

帰る家を見つけた顔と、帰る家を失った顔が、同じ顔の上に、同時にあったのです。

※

男衆が土をどけると、石段の下から、小さな部屋が出てきました。

三畳ほどの、石積みの部屋でした。

窓というものが、その部屋には、ひとつもありませんでした。

壁の高いところに、拳ほどの通気の穴がひとつ。

隅には、藁の寝床の跡と、欠けた椀がひとつ。

それから、壁ぎわに、木彫りの馬が、何十頭も並んでいました。

大きさも彫りも、ハルさんの馬と、同じ手のものでした。

古いものは黒ずんで、新しいものは、まだ木の色をしていました。

並んだ馬は、みんな、石段のほうを向いていました。

出口のほうを、です。

駐在さんが、藁の下から、湿った帳面を一冊掘り出しました。

開いた頁に、鉛筆の細い字で、正の字が延々と続いていたそうです。

何千という正の字が。

最後の頁の途中で、字は、ふつりと途切れていました。

※

わからないことだらけでした。

屋敷が焼けたのは四十年前で、ハルさんは、どう見ても二十歳そこそこです。

和尚さんが、焼け跡で、誰にともなく言いました。

「あの人が帰りたがっとった家はな、あの人が生まれるより先に、燃えてしもうとるんよ」

誰も、何も言えませんでした。

穴倉の椀を検分した駐在さんが、首をひねっていました。

欠けた椀の底に、飯粒が、まだ乾ききらずに残っていたからです。

四十年前の穴倉の、昨日の飯粒。

大人たちはそれを、口に出さないことに決めたようでした。

※

それと、もうひとつ。

この町には、古い習わしがありました。

盆と彼岸に、裏山の焼け跡へ、握り飯と水を上げに行くのです。

「上ん屋敷の火を鎮める」ためだと、年寄りたちは言っていました。

当番は組ごとの持ち回りで、供物は翌朝には下げに行く。

下げに行くと、椀は、いつもきれいに空になっていました。

「山のけものが食うんじゃろ」と、みんな言っていました。

四十年、誰もそれを、不思議がりませんでした。

不思議がらないことで、この町は、何かをずっと養っていたのかもしれません。

和尚さんだけが、あの秋から、供物の当番表を、黙って燃やしました。

私は子どもだったから、聞いてしまいました。

「ねえ、ハルさんは、いつから、あそこにいたの」

誰も、答えてくれませんでした。

ハルさん本人は、穴倉を見つけた晩から、口をきかなくなっていました。

ただ一度だけ、私にだけ聞こえる小さな声で、言いました。

「数を、かぞえとったんです。壁の向こうの声が、千でひとつ増える、言うたから」

「……何が、増えるの」

「階段が」

※

ハルさんは、冬の来る前に、いなくなりました。

今度は、本当に。

朝の一便のバスが来る前の、霧の濃い時刻だったろうと言われました。

終点のベンチに、木彫りの馬が一頭、置いてありました。

山のほうを向いて。

駐在さんが手を尽くしても、行き先は知れませんでした。

来たときと同じでした。

どこから来たのかわからない人は、どこへ行ったのかも、わからないのです。

祖父は、ベンチの馬を家に持ち帰って、神棚の隣に置きました。

「帰れたんならええ。……帰れたんなら、な」

それきり、この話は、うちの家で口にされなくなりました。

※

いなくなる前の晩、ハルさんは、私に馬を一頭くれました。

彫りたての、木の匂いのする馬でした。

「これは、あんたの分です」

「ありがとう。……ハルさん、どこか行くの」

ハルさんは、答えるかわりに、妙なことを言いました。

「数をかぞえるのは、もう、やめました」

「うん」

「かぞえんでも、朝は来るんですね。こっちでは」

それが、ハルさんと交わした、最後の言葉になりました。

あの晩の馬は、いまも私の箪笥の上にいます。

たてがみの一本まで、駆け出しそうなままで。

※

図書館で、カスパー・ハウザーという名前に出会ったのは、それから十年もあとのことです。

百五十年前のドイツに、素性の知れない少年が、ある日ふいに町へ現れた。

長いこと、光の届かない狭い場所に閉じ込められて育ったらしく、暗がりで目が利き、五感が並外れて鋭かった。

生い立ちの全部が語られる前に、少年は謎のまま、この世を去った。

本には、そう書いてありました。

頁をめくる手が、止まりました。

挿絵の少年が、木彫りの馬を、抱えていたからです。

閉じ込められていた部屋で、少年に与えられていた玩具は、木の馬だったのだそうです。

私は図書館の机で、長いこと、動けませんでした。

百五十年前の異国と、昭和四十年の山あいの町に、同じ形の話が落ちている。

そのことの意味を、私はいまも、考え続けています。

※

製材所は、父の代で畳みました。

バスの路線も、とうに廃止になりました。

それでも私は、年に一度、彼岸の頃に裏山へ登ります。

焼け跡の石段は、また土に埋もれて、竹の根に抱かれて眠っています。

去年、その帰り道で、ふと気づいたことがあります。

神棚の隣の、あの木彫りの馬。

五十年あまり、埃を払い続けてきたあの馬が、いつのまにか、向きを変えていたのです。

山のほうではなく、バス停のあったほうへ。

家の者は、誰も動かしていないと言います。

私は、そっと元に戻しました。

それから、思い直して、もう一度、バス停のほうへ向け直しました。

待っている誰かがいるなら、せめて向きくらいは、と思ったのです。

ハルさんは、どこかへ帰れたのでしょうか。

それとも今も、どこかの十三段目で、止まっているのでしょうか。

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