カスパー・ハウザー

終点のバス停に、その人は、朝からずっと立っていたそうです。

昭和四十年の、春の初めのことでした。

私の生まれた町は、山あいの、製材で食べている小さな町でした。

製材所の鋸の音が、町の時計がわりでした。

朝八時に鳴き始めて、昼にやんで、日暮れにやむ。

バスは一日に四本。

終点の停留所は、うちの製材所の、すぐ前にありました。

最初に気づいたのは、バスの運転手さんでした。

「あの兄さん、朝の一便からおるよ。乗りもせんし、誰も迎えに来ん」

夕方になっても、その人は立っていました。

歳の頃は、二十歳すぎ。

色の抜けたような、白い顔をしていました。

古い型の、けれど汚れていない服を着て、荷物はなし。

手には、木彫りの馬を、ひとつだけ握っていました。

祖父が声をかけました。

「兄さん、どこへ行きなさる」

その人は、ゆっくりこちらを向いて、言いました。

「上ん屋敷に、帰ります」

祖父の顔色が、変わりました。

私はまだ中学生で、その言葉の意味を知りませんでした。

ただ、夕方の風が急に冷たくなったことだけ、覚えています。

その人は、うちの離れに泊まることになりました。

駐在さんが調べても、身元のわかるものが何ひとつ出てこなかったからです。

名前を聞くと、少し考えて、「わかりません」と言いました。

生まれた年を聞いても、「わかりません」。

どこから来たのかには、こう答えました。

「暗いところから」

春に来たので、みんなは「ハルさん」と呼ぶことにしました。

ハルさんは、それを嫌がりませんでした。

呼ばれるたび、名前を初めてもらった子どもみたいに、口の中で繰り返していました。

ハルさんは、いろいろなことを知りませんでした。

電話が鳴ると、跳び上がって壁に張りつきました。

テレビを裏から覗いて、「この人たちは、どこから入ったんですか」と真顔で聞きました。

味噌汁の湯気を、火事だと思って怖がりました。

食べられるのは、白い飯と、水と、ゆでた芋だけ。

魚を出すと、匂いだけで青くなって、席を立ちました。

離れに床を延べても、ハルさんは布団で眠れませんでした。

朝になると、いつも部屋の隅の、壁と壁の合わさるところで、膝を抱えて丸くなっていました。

「狭いほうが、落ち着くんです」

申し訳なさそうに、そう言うのでした。

祖母が塩むすびを握ったとき、ハルさんは、両手で受け取って、長いこと見つめていました。

「あたたかい飯は、はじめてです」

それから、ひと口ごとに目をつぶって、ゆっくりゆっくり食べました。

祖母は台所で、前掛けの端を、ずっと目に当てていました。

そのくせ、妙なことだけ、誰よりもよくできるのです。

まず、目でした。

停電の晩、うちは大騒ぎになったのに、ハルさんだけ平気な顔で、暗がりで縫い物の針に糸を通してみせました。

「ハルさん、見えるの」

「はい。夜のほうが、よう見えます」

昼間は逆に、まぶしがって、いつも目を細めていました。

日なたに十分もいると、白い肌が、火に炙られたように赤くなりました。

それから、鼻でした。

「明日の昼から、雨です」

雲ひとつない日に言うのです。

「なんでわかるの」

「山の匂いが、濡れる前の匂いになりました」

翌日の昼、本当に降るのです。

製材所の人たちは、しまいに天気予報より、ハルさんの鼻をあてにするようになりました。

耳も、並外れていました。

裏山の沢の音を聞き分けて、「今日は上の沢だけ濁っています」と言う。

見に行くと、そのとおりでした。

ただ、ひとつだけ、誰も笑えない癖がありました。

ハルさんは、どの階段でも、十三段目でぴたりと止まるのです。

うちの離れの階段は、十五段ありました。

ハルさんは十三段目まで上ると、そこで必ず立ち止まって、目をつぶるのです。

それから、手すりを強く握って、残りの二段を、他人の足を借りたみたいに、ぎこちなく上る。

神社の石段でも、同じでした。

十三段目で、止まる。

目をつぶる。

「どうして止まるの」

一度だけ、聞いたことがあります。

ハルさんは、困ったように笑いました。

「ここから先は、ない、はずなので」

意味を聞き返す前に、鋸の音が鳴って、その話はそれきりになりました。

「上ん屋敷」のことを、私は祖父から聞き出しました。

裏山の中腹に、昔、大きな屋敷があったのだそうです。

庄屋の流れをくむ旧家で、町の者は屋号で「上ん屋敷」と呼んでいた。

けれどその屋敷は、大正の終わりの冬に、火事で焼けて失われました。

一家は町を離れ、その後の消息を知る者もなく、係累も絶えたと聞く、と。

「焼けたんは、わしが子どもの時分じゃ。もう四十年も前になる」

祖父は、囲炉裏の火を見ながら言いました。

「屋号を憶えとるんは、この町でも、もう年寄りだけよ。……あの兄さん、なんでその名を知っとるんかのう」

ハルさんは、どう見ても、二十歳をいくつか出たばかりでした。

四十年前に焼けた家に、「帰る」と言ったのです。

それでも、ハルさんとの日々は、不思議と明るいものでした。

ハルさんは製材所の手伝いを覚え、木の扱いだけは、最初から名人でした。

木っ端をもらっては、小刀ひとつで、馬を彫るのです。

たてがみの一本まで彫り込まれた、今にも駆け出しそうな馬でした。

「上手ねえ。誰に習ったの」

「……教えてくれる声が、あったんです。壁の向こうから」

「壁?」

「はい。顔は、見たことがありません」

そういうことを、ハルさんは、なんでもないことのように言うのでした。

彫った馬は、町の子どもたちに配りました。

子どもらはハルさんによくなつき、ハルさんは子どもらの前でだけ、声を出して笑いました。

私はその笑い声を、いまでも耳の奥で再生できます。

夏の晩、縁側で夕涼みをしていると、ハルさんが空を見上げたまま、動かなくなったことがありました。

満月でした。

「ハルさん、どうしたの」

「月は……こんなに、大きいものでしたか」

「大きいよ。いつもあのくらい」

「わたしの知っとる月は、爪の先ほどでした」

ハルさんは、壁の高いところの、拳ほどの穴の話をしました。

一年にいく晩か、その穴を、白い光がゆっくり横切るのだそうです。

それがハルさんの、月の全部でした。

「今夜のは、大きすぎて、すこし、こわい」

そう言いながら、ハルさんは月から目を離しませんでした。

蛍が一匹、庭を横切りました。

ハルさんは、それも初めて見たと言いました。

きれいなものを数えるには、ハルさんの来し方は、あんまり暗すぎました。

湿った木の香りと、鋸の音と、あの笑い声。

あの春から夏が、ハルさんの一生でいちばん明るい季節だったのだと、あとになって思います。

秋口に、県の新聞社から、記者が来たことがあります。

身元不明の若者の話を、どこかで聞きつけたのでしょう。

けれど記者がカメラを構えたとたん、ハルさんは細い悲鳴を上げて、離れの押し入れに入ってしまいました。

「レンズが、あの穴に似とるんかもしれん」

祖父はそう言って、記者を、静かに帰しました。

「あの子はな、見世物やない」

記事は、結局、載りませんでした。

だからハルさんのことは、いまも、この町の外では誰も知らないのです。

夏の盆に、寺の和尚さんが、ハルさんをひと目見たいと言ってきました。

和尚さんは、この町でいちばんの物知りでした。

縁側でハルさんと少し話して、帰りぎわ、祖父と私を呼び止めました。

「あの子の言葉づかいはな、いまの言葉やない」

「と、言いますと」

「わしの祖父さんの世代の言い回しが、混じっとる。『へっつい』やの『行灯』やの、いまどき年寄りでも使わん言葉を、あの子は暮らしの言葉として使うとる」

和尚さんは、声を落としました。

「それとな。あの子、時計が読めん。そのくせ、日の傾きと腹の空き具合で、刻限をぴたりと当てよる。……あれはな、時計のない暮らしを、長うした者の体じゃ」

「いまどき、時計のない家なんて」

「家やない」

和尚さんは、裏山のほうを見ました。

「窓のない場所じゃよ」

秋の彼岸の前の日、ハルさんが、いなくなりました。

朝、離れに膳を運ぶと、布団は畳まれていて、枕元に木彫りの馬が一頭、山のほうを向いて置いてありました。

町じゅうで探しました。

見つからないまま日が傾いた頃、祖父がぽつりと言いました。

「……上ん屋敷か」

男衆が提灯を持って、裏山に入りました。

私も、止められたけれど、ついて行きました。

焼け跡は、藪の中にありました。

黒い礎石と、崩れた竈の跡。

四十年分の草いきれの中に、そこだけ、焦げた匂いがまだ薄く残っている気がしました。

「おおい、ハルさん」

呼ぶ声に、藪の奥で、提灯の火がひとつ揺れました。

ハルさんは、屋敷の裏手の、竹に呑まれた一角に立っていました。

足元に、地面へ降りていく石段が、口を開けていました。

蔵の下の、穴倉に続く段だったのでしょう。

石段は、数えてみると、十三段で途切れていました。

その先は、崩れた土に埋まって、闇になっていました。

ハルさんは、十三段目のところを、じっと見下ろしていました。

「ここです」

振り向いたハルさんの顔を、私は一生忘れません。

帰る家を見つけた顔と、帰る家を失った顔が、同じ顔の上に、同時にあったのです。

男衆が土をどけると、石段の下から、小さな部屋が出てきました。

三畳ほどの、石積みの部屋でした。

窓というものが、その部屋には、ひとつもありませんでした。

壁の高いところに、拳ほどの通気の穴がひとつ。

隅には、藁の寝床の跡と、欠けた椀がひとつ。

それから、壁ぎわに、木彫りの馬が、何十頭も並んでいました。

大きさも彫りも、ハルさんの馬と、同じ手のものでした。

古いものは黒ずんで、新しいものは、まだ木の色をしていました。

並んだ馬は、みんな、石段のほうを向いていました。

出口のほうを、です。

駐在さんが、藁の下から、湿った帳面を一冊掘り出しました。

開いた頁に、鉛筆の細い字で、正の字が延々と続いていたそうです。

何千という正の字が。

最後の頁の途中で、字は、ふつりと途切れていました。

わからないことだらけでした。

屋敷が焼けたのは四十年前で、ハルさんは、どう見ても二十歳そこそこです。

和尚さんが、焼け跡で、誰にともなく言いました。

「あの人が帰りたがっとった家はな、あの人が生まれるより先に、燃えてしもうとるんよ」

誰も、何も言えませんでした。

穴倉の椀を検分した駐在さんが、首をひねっていました。

欠けた椀の底に、飯粒が、まだ乾ききらずに残っていたからです。

四十年前の穴倉の、昨日の飯粒。

大人たちはそれを、口に出さないことに決めたようでした。

それと、もうひとつ。

この町には、古い習わしがありました。

盆と彼岸に、裏山の焼け跡へ、握り飯と水を上げに行くのです。

「上ん屋敷の火を鎮める」ためだと、年寄りたちは言っていました。

当番は組ごとの持ち回りで、供物は翌朝には下げに行く。

下げに行くと、椀は、いつもきれいに空になっていました。

「山のけものが食うんじゃろ」と、みんな言っていました。

四十年、誰もそれを、不思議がりませんでした。

不思議がらないことで、この町は、何かをずっと養っていたのかもしれません。

和尚さんだけが、あの秋から、供物の当番表を、黙って燃やしました。

私は子どもだったから、聞いてしまいました。

「ねえ、ハルさんは、いつから、あそこにいたの」

誰も、答えてくれませんでした。

ハルさん本人は、穴倉を見つけた晩から、口をきかなくなっていました。

ただ一度だけ、私にだけ聞こえる小さな声で、言いました。

「数を、かぞえとったんです。壁の向こうの声が、千でひとつ増える、言うたから」

「……何が、増えるの」

「階段が」

ハルさんは、冬の来る前に、いなくなりました。

今度は、本当に。

朝の一便のバスが来る前の、霧の濃い時刻だったろうと言われました。

終点のベンチに、木彫りの馬が一頭、置いてありました。

山のほうを向いて。

駐在さんが手を尽くしても、行き先は知れませんでした。

来たときと同じでした。

どこから来たのかわからない人は、どこへ行ったのかも、わからないのです。

祖父は、ベンチの馬を家に持ち帰って、神棚の隣に置きました。

「帰れたんならええ。……帰れたんなら、な」

それきり、この話は、うちの家で口にされなくなりました。

いなくなる前の晩、ハルさんは、私に馬を一頭くれました。

彫りたての、木の匂いのする馬でした。

「これは、あんたの分です」

「ありがとう。……ハルさん、どこか行くの」

ハルさんは、答えるかわりに、妙なことを言いました。

「数をかぞえるのは、もう、やめました」

「うん」

「かぞえんでも、朝は来るんですね。こっちでは」

それが、ハルさんと交わした、最後の言葉になりました。

あの晩の馬は、いまも私の箪笥の上にいます。

たてがみの一本まで、駆け出しそうなままで。

図書館で、カスパー・ハウザーという名前に出会ったのは、それから十年もあとのことです。

百五十年前のドイツに、素性の知れない少年が、ある日ふいに町へ現れた。

長いこと、光の届かない狭い場所に閉じ込められて育ったらしく、暗がりで目が利き、五感が並外れて鋭かった。

生い立ちの全部が語られる前に、少年は謎のまま、この世を去った。

本には、そう書いてありました。

頁をめくる手が、止まりました。

挿絵の少年が、木彫りの馬を、抱えていたからです。

閉じ込められていた部屋で、少年に与えられていた玩具は、木の馬だったのだそうです。

私は図書館の机で、長いこと、動けませんでした。

百五十年前の異国と、昭和四十年の山あいの町に、同じ形の話が落ちている。

そのことの意味を、私はいまも、考え続けています。

製材所は、父の代で畳みました。

バスの路線も、とうに廃止になりました。

それでも私は、年に一度、彼岸の頃に裏山へ登ります。

焼け跡の石段は、また土に埋もれて、竹の根に抱かれて眠っています。

去年、その帰り道で、ふと気づいたことがあります。

神棚の隣の、あの木彫りの馬。

五十年あまり、埃を払い続けてきたあの馬が、いつのまにか、向きを変えていたのです。

山のほうではなく、バス停のあったほうへ。

家の者は、誰も動かしていないと言います。

私は、そっと元に戻しました。

それから、思い直して、もう一度、バス停のほうへ向け直しました。

待っている誰かがいるなら、せめて向きくらいは、と思ったのです。

ハルさんは、どこかへ帰れたのでしょうか。

それとも今も、どこかの十三段目で、止まっているのでしょうか。

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