私の生まれた谷では、鳴るはずのない鐘の音で、皆が目を覚ましていた。
丹波の、山あいの話である。
昭和三十八年、私は十歳だった。
谷には三十戸ほどの集落があり、いちばん奥の高台に、古い寺があった。
うちは寺のすぐ下の建具屋で、父と祖父が、朝から鉋を引いていた。
谷の朝は、六時の鐘で始まった。
ごおん、と低く、腹に響く音である。
あの音で牛が立ち上がり、竈に火が入り、バスの運転手が帽子をかぶった。
誰もが、当たり前の音だと思っていた。
時計のある家は、まだ少なかった。
あっても、谷の時計は家ごとにてんでばらばらで、合わせる相手は結局、鐘だった。
畑に出る刻限も、風呂を焚く刻限も、鐘から数えて決まっていた。
谷の一日は、あの音を杭にして、ぐるりと結わえてあったのである。
寺の鐘楼に、鐘がないことを、皆知っていたのに、である。
※
鐘は、昭和十九年に供出された。
金物という金物が谷から集められた年に、鐘も荷車に載せられて、峠を下りて行った。
そのはずだった。
けれど鐘の音は、その後も毎朝、六時に鳴った。
撞いていたのは、先代の住職である。
小柄な、眉の白いお爺さんだった。
先代は毎朝六時、誰もいない鐘楼に上がり、空の宙に向かって、撞木を振った。
撞木の先が、何もない場所で、ふっと止まる。
その途端、ごおん、と鳴るのである。
子供の時分、私は寺の石段からそれを何度も見た。
何度見ても、撞木は、何にも当たっていなかった。
※
「なんで鳴るん」と、一度だけ先代に訊いたことがある。
先代は、撞木の手を止めずに言った。
「鐘はのうても、刻は撞く。刻を撞かんことには、刻のほうが、撞きに来るでな」
「刻が、撞きに来る……?」
「ぼんには、まだ分からんでええ」
先代は笑って、私の頭を、撞木を持つのと同じ手で、ぽんと叩いた。
乾いた、木の匂いのする手だった。
先代の撞き方には、決まりがあった。
撞く前に、いっぺん大きく息を吸い、吐き切ってから、振る。
雨の日も、雪の日も、休まなかった。
台風で石段の木が倒れた朝も、六時の音は鳴った。
「住職さんも難儀なこっちゃなあ」と大人たちは言ったが、その口ぶりには、どこか手を合わせるような響きがあった。
谷の者は皆、薄々分かっていたのだと思う。
あれはお勤めというより、約束の類なのだと。
一度、悪童どもと、いたずらを企てたことがある。
六時より先に、俺らが撞いたろ、という話になったのだ。
夜明け前、五人で忍び込んで、いちばん度胸のある年長が、撞木を振った。
何度振っても、鳴らなかった。
撞木の先は、何にも触れず、すかすかと宙を切るだけだった。
「なんや、やっぱりただの棒やんけ」
皆で笑って石段を下りる途中、背中で、ごおん、と鳴った。
六時には、まだ間があった。
振り向くと、鐘楼には誰もいなかった。
私たちは、悲鳴も上げずに、ただ黙って走った。
あの朝の音だけは、いつもの音より、ほんの少し、低かったように思う。
叱られた、のだと今でも思っている。
※
よその者は、この谷の朝を知らない。
中学に上がる年、隣町から叔母が嫁いできた。
初めての朝、叔母は台所で、うっとりと言ったそうだ。
「ええ鐘の音やねえ。お寺、近いんやね」
「鐘楼はあるけどな、鐘は、ないんやで」
祖母がこともなげに答えると、叔母は笑った。
冗談だと思ったのである。
その日の夕方、散歩がてら寺に上がった叔母は、鐘楼を見上げたまま、しばらく動かなかった。
屋根の下には、太い梁と、鐘を吊るしていた鉄の環だけが、ぽつんと残っていた。
「ほんなら、うちが今朝聞いたんは、なんの音ぉ」
誰も、答えられなかった。
叔母はそれから半年ほど、六時の音が鳴るたび、小さく肩をすくめていたが、やがて谷の者と同じ顔で、あの音で起きるようになった。
人は、慣れるのである。
慣れなかったのは、学校の理科の先生だけだった。
よそから赴任してきた若い先生で、鐘の話を聞くと、大きな録音の機械を担いで谷へ来た。
「音があるなら、録れるはずです」
先生は鐘楼の下に機械を据え、朝の六時を待った。
ごおん、と、その朝もいつもどおり鳴った。
巻き戻したテープには、風の音と、鳥の声だけが入っていた。
先生は三度やって、三度とも同じだった。
四度目の朝、機械は据えた場所から、一尺ほど、ずれていた。
柔らかい土の上を、引きずった跡もなしに、である。
先生はそれきり機械を持って来なくなり、翌年の春、山を下りて行った。
※
冬の朝には、おかしなものを見た。
鐘楼の床に霜が降りると、真ん中だけ、丸く融けているのだ。
ちょうど、鐘の裾の形である。
吊るした鐘の真下だけ、霜が避けたように、黒い床板が丸く覗いていた。
私は登校の道すがら、それを毎朝見た。
丸は、いつも同じ大きさだった。
一度、勇気を出して、丸の中に手をかざしたことがある。
そこだけ、空気が、ほんのわずかに重かった。
上から、何かに、そっと押さえられているような重さだった。
私は手を引っ込めて、石段を駆け下りた。
※
中学の夏休み、役場で郷土誌の手伝いをした時、供出の台帳を見せてもらったことがある。
鍋、釜、火鉢、手すり。谷から出た金物の一つ一つに、受け取りの印が押してあった。
鐘の欄だけ、印がなかった。
品名に「梵鐘 一口」とあり、その先が、空白なのである。
「ほんまやなあ。受領印、ないなあ」
役場の老吏員も、首をかしげた。
「峠を下りたとこまでは、皆が見とるんやけどな。向こうの記録には、着いとらんのやわ」
鐘は、供出の列から、どこかで消えていた。
溶かされた記録も、残された記録も、どこにもなかった。
老吏員は、台帳を仕舞いながら、独り言のように言った。
「形は行方知れずで、音だけ谷に残っとる。帳簿の上では、あべこべやなあ」
「あべこべ、ですか」
「普通はな、物が残って、音が消えるもんや」
私はその言い方を、家に帰る峠道で、何度も反芻した。
物が残って、音が消える。
あの谷では、確かに、逆のことが起きていた。
※
妙な客が来たこともある。
峠向こうの集落の年寄りが、わざわざ菓子折りを提げて、寺に礼を言いに来たのだ。
「おたくの鐘でな、うちの谷まで、六時が届くんですわ」
「ありがたいことで、うちらもあれで起きとります」
先代は、当たり前の顔で礼を受けていた。
峠向こうまでは、山を二つ挟む。
鐘のあった時分でさえ、届くはずのない距離である。
帰り道、年寄りは石段の下で振り返り、鐘楼を見上げて、深々と頭を下げた。
そこに何も吊るされていないことに、気づいた様子はなかった。
※
撞木の先には、白い布が巻いてあった。
先代は月の朔日に、必ずその布を替えた。
新しい晒を、幅を揃えて、幾重にも巻くのである。
「当たりが硬いと、音が荒れるでな」
何にも当たらぬ撞木の、当たりの話である。
ある朔日、私は解いた古布を、燃やす前の焚き付けの籠で見た。
解いた布の裏に、青い錆の色が、鐘の形に移っていた。
緑青である。
青銅の鐘を撞き続けた撞木だけに付く、あの色だった。
三十年近く、何にも触れていないはずの布に、である。
私は籠の前にしゃがんだまま、しばらく立てなかった。
大晦日には、除夜の鐘があった。
鐘のない鐘楼に、谷の者が列を作るのである。
一人ずつ順に上がり、空の宙へ、撞木を振る。
百八つを、皆で分けて撞いた。
私も十二の年に、初めて振らせてもらった。
撞木は見た目より重く、振り出すと、先がすうっと引かれるように伸びた。
何もない場所で、とん、と柔らかく止まる。
掌に、確かに手応えがあった。
分厚い、冷たい、大きなものに触れた手応えだった。
ごおん、と鳴った。
腹の底から震えが上がってきて、それが怖さなのか有難さなのか、十二の私には分けられなかった。
順番を待つ列の誰も、それを不思議とは呼ばなかった。
雪の石段に並んで、白い息を吐きながら、谷の衆は静かに順番を待っていた。
※
先代が風邪で寝込んだ朝が、一度だけあった。
その朝、鐘は鳴らなかった。
なのに谷の者は、皆、六時きっかりに目が覚めた。
「鳴らんかった音で、目が覚めたんや」
祖父は、そう言った。
変な言い方だが、それ以外に言いようがなかった。
鳴るはずの音が、鳴らない。
その欠け落ちた分だけが、谷いっぱいに、輪郭のように響いたのである。
あの朝の静けさを、私はまだ覚えている。
耳の奥が、しんと痛いような静けさだった。
※
私が町の高校に出た年の冬、先代は亡くなった。
九十に近かったと聞く。
葬儀の朝も、鐘は鳴ったそうだ。
誰も、鐘楼に上がっていないのにである。
それが、先代の撞いた最後の鐘だったのだと、谷の者は言い合った。
跡を継いだのは、町の大学を出た息子さんだった。
生真面目な人で、寺のことを、一つずつ整えようとした。
古びた撞木も、その一つだった。
「先代の形見やで、塗り直して、大事にしますわ」
撞木は、町の塗師のところへ運ばれた。
その週から、鐘は鳴らなくなった。
※
谷の朝は、目に見えて狂った。
牛は立たず、竈の火は遅れ、始発のバスに乗り遅れる者が続いた。
うちの祖父は、六時を過ぎても鉋を持たず、仕事場の柱にもたれて、じっと耳を澄ませていた。
「音がのうなった谷いうんは、こんなに広いんやなあ」
誰もが、あの音の上に朝を載せていたことを、失くしてから知った。
何より応えたのは、年寄りたちだった。
「今が何時か分からん」と言うのではない。
時計は、もうどの家にもあった。
「朝が、来た気がせん」と言うのである。
叔母は、あの半年だけ肩をすくめていた叔母は、誰より寂しがった。
「うちはよそ者やから、よう分かる。あれはな、音やのうて、挨拶やったんよ」
新住職は、毎朝の空撞きを、それでもやめなかった。
鳴らない鐘楼で、父親と同じ刻限に、同じ作法で撞木を振り続けた。
「音は戻らんでも、刻は撞かんと」
いつからか、その口ぶりは、先代のそれと同じになっていた。
谷の者も、少しずつ、六時に鐘楼を見上げる癖だけは残った。
音のない朝に、音のあった場所を見る。
それが、あの谷の新しい挨拶になった。
新住職は慌てて塗師から撞木を引き取りに行った。
塗師は、首をひねりながら言ったそうだ。
「持ち手は塗れたんですけどな。先の当たり面だけ、どうしても、刃ぁが入らなんだ」
「入らん、というと」
「硬いんやのうて、断られるんですわ。道具がな、すうっと逸れる。ワシも長いことこの商売しとるけど、初めてや」
撞木は元の鐘楼に戻された。
新住職は先代のとおり、六時に空を撞いた。
鳴らなかった。
何日撞いても、何年撞いても、二度と鳴らなかった。
※
納戸の整理で、先代の日誌が出てきたのは、その頃である。
小さな字で、天気と、檀家の名と、畑の出来が書いてあるだけの帳面だった。
昭和十九年の、鐘が谷を下りた日の欄だけ、様子が違った。
そこには、こうあった。
「鐘は出す。音は置いていく、と申し上げた」
それだけ、である。
誰に申し上げたのかは、書かれていなかった。
ただ、供出の日のことなら、覚えている年寄りが谷に一人だけいた。
荷車の綱を引いた、うちの大叔父である。
「峠のてっぺんでな、先代さんが、停めてくれ言わはってな」
「荷の鐘に、長いこと、額ぁ当てとりなさった」
「ほんで、何ぞ、ぼそぼそ言うてから、もうええ、行っとくれ、と」
大叔父は、その時の先代の顔を、うまく言えないと言った。
「別れの顔やのに、笑うとりなさったんや」
大叔父は、もうひとつだけ覚えていた。
峠を下り始めてすぐ、荷が急に軽うなった気がした、というのである。
「鐘の目方が変わるかいな、と皆で笑うたけどな」
「帰り道、綱を引いた肩がな、ほんまに、軽かったんや」
置いていったものの目方が、あの峠にはあったのかもしれない。
申し上げた相手は、役人ではなかったのだ。
先代は、鐘そのものに、断りを入れていた。
音は置いていけ、と頼んだのか。
置いていく、と鐘が応えたのか。
日誌の一行だけでは、どちらとも読めなかった。
供出の役人に、であろうか。
けれど役人に向かって、音は置いていく、という言い方があるだろうか。
新住職は、その頁を何度も読み返して、日誌をそっと閉じたという。
「親父は、誰に、断っとったんでしょうなあ」
うちの父にそう漏らしたきり、新住職は二度とその話をしなかった。
※
ずっと後年、私は外国の古い話を、雑誌で読んだ。
頭を失ったまま、一年半生きた鶏の話である。
農家の主人が毎日、小さな道具で餌と水をやり、鶏は元気に太り続けた。
見世物になるほど評判になったが、旅先のある晩、主人が餌やりの道具を宿に忘れ、それきりだったという。
読み終えて、私は膝の上の雑誌を、長いこと閉じられなかった。
世話をする者がいる限り、続くものが、この世にはあるのだ。
欠けたまま、失われたまま、それでも毎朝、続くもの。
そして世話の道具を手放した日に、それは終わる。
あの谷の音は、朔日の晒と、あの撞木で、三十年生かされていたのだと思う。
※
平成も終わりに近い年、谷に新しい鐘が懸かった。
出身者の寄進で、鋳物の町から、真新しい鐘が届いたのである。
初打ちの日、私は孫を連れて、五十年ぶりに石段を上がった。
新住職——といっても、もう七十を超えた、あの息子さんである——が、綱を引いた。
ごおん、と谷が鳴った。
孫が、その様子を電話の機械で撮っていた。
石段の下では、谷の年寄りたちが、目頭を押さえていた。
五十年ぶりの、形のある鐘である。
新住職は綱を引く前に、鐘楼の隅へ向かって、深くひとつ、頭を下げた。
誰もいない、隅へである。
それを咎める者も、訝しむ者も、あの谷には一人もいなかった。
帰りの車で見せてもらった映像に、私は耳を疑った。
音が、わずかに、二つ重なっているのである。
新しい鐘の澄んだ音の、半瞬あとを、低い、古い音がついてくる。
「録音の、癖やろか」と孫は言った。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
ただ、谷の者は皆、口には出さずに気づいている。
朔日の朝だけ、うちの鐘の音は、いまも少しだけ長い。