見ていない廊下

閉館の決まった市の科学館で、私は最後の半年だけ、夜警をしていました。

取り壊しの前に、機械の盗難や火の始末を見張るだけの、簡単な仕事のはずでした。

応募したのは、その科学館に、亡くなった父の思い出があったからです。

父は、中学で物理を教えていました。

私がまだ小さいころ、休みの日になると、よくこの科学館へ連れてきてくれたのです。

父がいちばん好きだったのは、二階の物理展示室の、古い実験装置でした。

「二重スリット」という、光や電子の通り道を見せる装置です。

ついたてに細い窓が二つ開いていて、そこへ光を当てると、縞模様が浮かび上がる。

「いいか」と、父はよく私にこう言いました。

「見ていないあいだ、電子はな、二つの窓の、どっちも通っとるんだ」

「見た瞬間に、初めて、どっちか一方に決まる」

子どもの私には、意味がよく分かりませんでした。

ただ、見ていないものは、どこにでもいる。

その言葉だけが、妙に、頭の奥に残ったのです。

夜警の仕事は、二人一組の申し送りから始まりました。

引き継ぎをしてくれたのは、定年間際の、痩せた守衛さんでした。

警備室には、館内の映像を映すモニターが、十二面、壁一面に並んでいました。

「見るのは、この画面だけでええ。二時間に一度、館内を一周する」

守衛さんは、淡々とそう教えてくれました。

それから、帰りぎわに、ひとつだけ、妙なことを付け加えたのです。

「モニターはな、いっぺんに全部は、見られんからな」

「見ていない画面のことは、あんまり、考えんほうがええ」

私は、意味が分からず、聞き返しました。

「どういう意味ですか」

「なに、気にせんでええ。慣れたら分かる」

守衛さんは、それきり笑って、夜の坂道を下りていきました。

警備室の机の引き出しに、歴代の夜警が書いた、古い業務日誌がありました。

退屈しのぎに、私は、それをめくってみました。

多くは、異常なし、という素っ気ない記録ばかりでした。

けれど、何人かの夜警が、途中で、妙な書き込みを残していたのです。

「二階の廊下、見ていないと近づく」

「モニターは全部見るな。一つに決めろ」

「決めた画面の中には、いない。それでいい」

そして、どの筆跡も、数日ぶんで、ぷつりと途切れていました。

みな、長くは続かず、辞めていったようでした。

私は、その日誌を、そっと引き出しの奥へ戻しました。

読まなければよかった、と思いながら。

最初の一週間は、何ごともありませんでした。

がらんとした館内は、昼間の賑わいが嘘のように、静まり返っています。

モニターに映るのは、非常灯だけがともる、青白い廊下ばかりでした。

異変に気づいたのは、二週目の、雨の晩でした。

物理展示室を映す、七番のモニターから、低い唸りのような音が、かすかに聞こえたのです。

あの、二重スリットの装置が置かれている部屋でした。

けれど、装置の電源は、閉館後にすべて落としてあります。

耳を澄ますと、その唸りは、装置が正常に動いているときの、あの低い駆動音でした。

父の隣で、何百回と聞いた、懐かしい音です。

けれど、懐かしいと感じた次の瞬間、ぞっとしました。

動いていないはずの機械が、なぜ、あの音を立てるのか。

モニターの中の物理展示室は、変わらず、真っ暗なままでした。

音だけが、暗闇の中から、確かに、聞こえていたのです。

見回りに行くと、音は消えていました。

展示室は、しんと暗く、装置も、黙ったままでした。

気のせいだろうと、私は自分に言い聞かせました。

耐えきれなくなって、私は、管理会社に電話をかけたことがあります。

「夜勤を、二人にしてもらえませんか」と、頼んでみたのです。

電話口の担当者は、迷惑そうに言いました。

「あの館は、もう閉めるんです。一人で十分でしょう」

「でも、その、人影のようなものが」

「気のせいですよ。古い建物は、みんなそう言うんです」

取り合ってはもらえませんでした。

確かに、証拠は何もありません。

見ようとすれば、それは消える。

消えたものを、どうやって、人に見せればいいのでしょう。

私は、受話器を置いて、また、十二面のモニターと向き合うしかありませんでした。

次の異変は、物ではなく、位置でした。

二重スリットの装置には、来館者が光を当てるための、古いレバーが付いています。

夕方の見回りでは、そのレバーは、確かに右へ倒してありました。

ところが、深夜の見回りでは、レバーが、左へ倒れていたのです。

誰も、いないはずでした。

入口も非常口も、内側から施錠したことを、私は何度も確かめていました。

それでもレバーは、まるで誰かが実験をやり直したように、反対側へ倒れていました。

右か、左か。二つの窓の、どちらを通したのか。

父の言葉が、ふいに耳の奥で響きました。

見ていないあいだは、どっちも通っている――。

三つ目の異変は、匂いでした。

深夜の物理展示室に見回りに入ると、乾いた石灰の匂いが、ふっと鼻をかすめたのです。

チョークの匂いでした。

父の指に、いつも残っていた、あの匂いです。

この科学館に、黒板もチョークも、あるはずがありませんでした。

それなのに、二重スリットの装置の前だけ、その匂いが、濃く漂っていました。

まるで、誰かが今しがたまで、その装置を、誰かに説明していたかのように。

私は、思わず「父さん」と、小さく呼びかけていました。

返事は、ありませんでした。

ただ、装置のスクリーンの表面に、うっすらと、手のひらの跡が残っていたのです。

見回りのあいだも、私は、落ち着けなくなっていました。

懐中電灯で照らした正面には、いつも、何もいません。

けれど、光の当たらない、背中側の暗がりが、やけに気になるのです。

廊下を歩くと、自分の足音のあとに、もう一つ、遅れて足音が続く気がしました。

立ち止まると、その足音も、止まります。

振り返って懐中電灯を向けると、そこには、長く伸びた自分の影が、あるだけでした。

けれど、前へ向き直った瞬間、また、背後で、床の軋む音がするのです。

私は、見ている前だけを、辛うじて空っぽにしながら、歩いていました。

見ていない後ろは、何で満ちているのか。

考えないようにするほど、その気配は、濃くなっていきました。

それから、モニターに、人影が映るようになりました。

最初は、五番の、一階廊下のカメラでした。

暗い廊下の奥に、こちらに背を向けた、細い人影が立っている。

私は、警棒を握って、その廊下へ走りました。

けれど、着いたときには、廊下には、誰もいませんでした。

警備室に戻ると、五番の画面は、もう空っぽでした。

代わりに、今度は九番の、二階廊下に、同じ人影が映っていたのです。

私が見に行った廊下には、いない。

私が見ていない廊下に、いる。

背筋を、冷たいものが、つう、と伝いました。

私は、試すことにしました。

人影の映った画面から、決して、目を離さないでいよう、と。

九番のモニターを、私は、瞬きもせずに睨みつけました。

人影は、動きませんでした。

こちらが見ているあいだは、ぴくりとも、動かないのです。

けれど、隣の十番の画面が、視界の端で、ちらりと動いた気がしました。

つい、そちらへ目をやる。

その一瞬で、九番の人影は、また、消えていました。

見ている間だけ、その廊下には、誰もいないのです。

目を離した画面の中でだけ、それは、一歩ずつ、こちらへ近づいていました。

四つ目の異変は、私自身の、すぐ後ろで起きました。

警備室の、電源を落としたモニターは、黒い鏡のようになります。

その暗い画面に、椅子に座った私の姿が、ぼんやりと映っていました。

ある晩、その私の背後に、もう一つ、細い影が立っているのが見えたのです。

肩の少し上あたりに、こちらを覗き込むような、輪郭がありました。

私は、息を止めて、ゆっくりと、後ろを振り返りました。

けれど、そこには、誰も、いませんでした。

振り返って見た瞬間に、それは、いなくなったのです。

もう一度、正面の暗い画面に目を戻すと。

影は、また、私の背後に、立っていました。

五つ目の異変は、時間でした。

見回りは、二時間に一度と、決まっています。

けれど、ある晩、館内を一周して警備室に戻ると、時計が、四十分しか進んでいませんでした。

別の晩には、逆に、二時間半も経っていました。

モニターの隅に表示される時刻と、私の腕時計の時刻が、少しずつ、ずれていくのです。

見ていないあいだの時間は、どこかで、伸び縮みしているようでした。

日誌に時刻を書き込もうとして、私は、ペンを止めました。

その日の日付を、私は、思い出せなくなっていたのです。

見ていないもの。数えていないもの。確かめていないもの。

それらはすべて、この館の中で、決まらないまま、揺らいでいました。

十二面のモニターを、私は、必死で見渡しました。

けれど、人の目は、一度に一つの画面しか、はっきりとは見られません。

一つを見つめれば、残りの十一は、視界の外です。

守衛さんの言葉が、今になって、はっきりと分かりました。

「見ていない画面のことは、考えんほうがええ」

考えても、どうにもならないからです。

見ていない場所には、それは、いつも、いる。

父の言った電子と、同じでした。

観測されるまで、それは、あらゆる場所に、同時にいるのです。

私が一つの画面を選んで見た、その瞬間にだけ、他の場所にいることが、確定してしまう。

見るという行為が、それを、追い払っている。

けれど同時に、見ていない場所すべてに、それを、生み出している。

私は、自分の目が、二つしかないことを、初めて呪いました。

深夜二時を回ったころ、警備室の空気が、ひやりと重くなりました。

目の前の、七番のモニター。

あの、二重スリットの装置が、青白く、光っていました。

電源は、落としてあるはずでした。

画面の中で、装置のスクリーンに、あの縞模様が、くっきりと浮かんでいます。

誰も光を当てていないのに、実験は、ひとりでに、動いていたのです。

そして、その装置の前に。

こちらに背を向けた、細い人影が、じっと、縞模様を見つめて立っていました。

まるで、子どもの頃の父のように。

あるいは、その隣にいた、幼い私のように。

私は、その人影の背中に、見覚えがある気がして、目を凝らしました。

少し猫背の、なで肩の、あの立ち方。

物理を教えていたころの、父の後ろ姿に、よく似ていました。

けれど、それを確かめようと画面を見つめた瞬間、人影は、すっと薄くなりました。

見れば、消える。見なければ、そこにいる。

私は、父に会いたいのか、会いたくないのか、自分でも分からなくなりました。

会うためには、目を離さなければならない。

けれど目を離せば、それは、父ではない何かに、変わってしまう気がしたのです。

私は、その縞模様を、じっと見つめました。

幼い日、父の隣で見たものと、寸分違わない模様でした。

光を当てる者もいないのに、装置は、なぜ実験を続けているのか。

まるで、この館そのものが、誰かに観測されるのを、待っているようでした。

見てくれ、と。ここにいると、決めてくれ、と。

私は、そっと、七番のモニターから、目をそらしました。

そらしてしまえば、それが、どこへ行くのかも分からないのに。

私は、警備室の椅子から、立ち上がれませんでした。

モニターを見ていれば、それは、そこから動かない。

けれど、私は、まばたきをしなければなりません。

人は、目を開け続けることは、できないのです。

一秒にも満たない、そのまばたきの闇の中で。

それは、確実に、こちらへ一歩ずつ、近づいてくる。

私は、十二面の画面を睨んだまま、朝が来るのを、待ちました。

どの画面も、見ていない一瞬にだけ、背後の気配が、濃くなっていく気がしました。

子どものころ、私は一度、父にこう尋ねたことがあります。

「じゃあ、だれも見てない世界は、どうなってるの」

父は、少し考えてから、笑って答えました。

「さあな。だれも見てないんだから、だれにも分からんよ」

「こわいね」

「こわいか。父さんは、面白いと思うがなあ」

あのときの父は、本当に、面白そうな顔をしていました。

今の私には、あの言葉が、面白いどころか、恐ろしくてなりません。

だれも見ていない世界に、何がいるのか。

それを、私は、あの夜警の半年で、知りすぎてしまったのです。

父は生前、量子の話をするたびに、決まって嬉しそうでした。

「この世界はな、見られて初めて、かたちになるんだ」

「だから、ちゃんと見てやらんとな。見てやることが、いちばんの優しさだ」

その言葉を、私は、温かいものとして受け取っていました。

けれど今なら分かります。見てやらなければ、それは、かたちを持てないまま、暗闇に漂い続けるのです。

この科学館に取り残された何かも、ずっと、見てくれる誰かを、待っていたのかもしれません。

その晩を最後に、私は、夜警の仕事を辞めました。

科学館は、予定どおり取り壊され、今は、更地になっています。

あの二重スリットの装置が、どこへ行ったのかは、知りません。

ただ、あれから、私は、ひとつのことが怖くてなりません。

今、この文章を書いている私の、背中側。

私が振り返って見るまで、そこに何がいるのかは、決まっていないのです。

見た瞬間に、初めて、どちらか一方に、決まる。

だとしたら、振り返らないでいるあいだ、そこには。

父の声が、また、耳の奥で聞こえます。

見ていないものは、どこにでもいる、と。

この文章を、私は、明かりを全部つけた部屋で書いています。

それでも、背中の側だけは、どうしても、明るくなりません。

見なければ、決まらない。

ならば、見なければいいのだと、頭では分かっています。

けれど人は、いつか必ず、振り返ってしまう生き物です。

あなたも、今、自分の背後を、確かめたくなっていませんか。

どうか、ゆっくりと、確かめてください。

振り返るまでは、そこに何がいるのか、まだ、決まっていないのですから。

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