深夜の警備室ほど、静かな場所を、私は知らない。
当時、私は、古い商業ビルの、夜間警備をしていた。
築四十年をこえる、八階建てのビルだった。
もとは、別の建物が、建っていたらしい。
それが、ずいぶん昔に、大きな火事にあった。
多くの人が、逃げ遅れたと聞いた。
その跡地に、このビルは、建てられた。
入って三日目に、清掃のおばさんが、そっと教えてくれた。
「屋上にはね、あんまり、行かんほうがええよ」
理由は、言わなかった。
私は、笑って、聞き流した。
あのときは。
昼は、それなりに人の出入りもある。
だが、日付が変わるころには、館内は、しんと静まりかえる。
警備室には、監視モニターが、ずらりと並んでいた。
全部で、十六台。
各フロアの廊下、非常階段、屋上、地下の駐車場。
そのすべてが、白黒の画面に、映し出されていた。
私の仕事は、ただ、その画面を、見つづけることだった。
一時間に一度、館内を、見まわりに歩く。
あとは、モニターの前に、座っているだけ。
退屈な仕事だと、人は言うだろう。
だが、私は、この静けさが、嫌いではなかった。
モニターの、かすかな電子音。
蛍光灯の、じりじりという音。
それだけが、私の世界の、すべてだった。
誰にも、わずらわされない。
夜の館内は、まるで、時間が、止まっているようだった。
止まった、エスカレーター。
消えた、ショーウィンドウ。
マネキンだけが、暗がりの中で、こちらを、見ている。
はじめは、それさえ、こわかった。
けれど、じきに、慣れた。
慣れてしまったことが、いま思えば、いけなかったのかもしれない。
そのはずだった。
※
異変に気づいたのは、勤めて半年ほど経った、冬の夜だった。
午前三時。
いつものように、モニターを見まわしていたときだ。
七番の画面に、白い、もやのようなものが、映っていた。
七番は、屋上を映すカメラだった。
レンズが汚れたのかと、私は思った。
だが、翌晩も、その次の晩も、それは、同じ時刻に現れた。
午前三時ちょうど。
きっかり、同じ場所に。
白いもやは、夜ごと、少しずつ、濃くなっていった。
私は、日誌に、そのことを、書きつけるようになった。
「午前三時、七番、白い影あり」
毎晩、同じ一行が、増えていった。
レンズを拭いても、消えなかった。
カメラを、点検してもらった。
異常は、なかった。
機械は、なにも、おかしくなかった。
おかしいのは、映っているものの、ほうだった。
そのころから、私は、昼間も、眠れなくなった。
目をつむると、白いもやが、まぶたの裏に、にじむ。
部屋の、壁のしみが、人の顔に、見える。
三時になると、はっと、目が覚める。
家に、カメラなど、ないのに。
それでも、どこかから、見られている気が、した。
※
一週間もすると、それは、はっきりと、形をなしはじめた。
人の、姿だった。
白い衣を、まとっているように見えた。
背には、なにか、大きなものを、折りたたんでいた。
羽根のように、見えなくもなかった。
私は、それを、天使だと思おうとした。
そう思えば、こわくなかったからだ。
屋上に、天使が舞い降りた。
そんな、絵空事を、私は信じたかった。
一度、こんなことがあった。
七番の画面の、右下の時刻表示。
それだけが、他のカメラと、ずれていたのだ。
すべてのモニターが、午前三時二分を示すなか。
七番だけが、三時ちょうどのまま、止まっていた。
その画面の中でだけ、時間が、進んでいなかった。
けれど、その姿は、微動だに、しなかった。
ただ、屋上のまんなかに、立っていた。
顔は、白くにじんで、見えなかった。
見ているうちに、私は、あることに気づいた。
その姿は、いつも、カメラのほうを、向いていた。
屋上には、ほかにも、いくつか、カメラがある。
どの角度から映しても、白い姿は、必ず、レンズのほうを向く。
まるで、撮られていることを、知っているかのように。
いや、撮られるのを、待っているかのように。
※
ある晩、私は、先輩警備員の田所さんに、そのことを話した。
三十年、この仕事をしている、無口な人だった。
「七番に、変なもんが、映るんです」
「午前三時に、屋上に。人みたいな、白いのが」
田所さんは、湯呑みを持つ手を、止めた。
しばらく、黙っていた。
それから、低い声で、言った。
「あんた、それに、名前をつけたか」
妙なことを聞く、と思った。
「いえ。天使かな、とは、思いましたが」
田所さんは、ゆっくりと、首を振った。
「名前を、つけるな」
「見ても、見んふりを、しとけ」
「あれは、映っとるんやない」
「こっちを、見とるんや」
背筋が、ぞくりとした。
「田所さん」
私は、思いきって、聞いた。
「このビル、昔、火事があったって、本当ですか」
田所さんの目が、一瞬、鋭くなった。
「誰から、聞いた」
「清掃の、おばさんから」
田所さんは、長いあいだ、黙っていた。
それから、ぽつりと、言った。
「あの火事でな。屋上に、逃げた人らが、おったんや」
「はしごが、届かんかった」
「みんな、屋上で、朝を待っとった」
「けど、朝は、来んかった人も、おった」
私は、言葉を、失った。
「せやから、三時なんや」
「いちばん、こたえる時間や」
その意味を、私は、深くは、聞けなかった。
※
その夜から、白い姿は、動きはじめた。
はじめは、屋上のカメラの中で。
少しずつ、レンズに、近づいてきた。
一晩に、一歩ずつ。
やがて、七番の画面は、白い衣で、いっぱいになった。
顔が、レンズのすぐ前に、あった。
のっぺりと、白い顔。
目のあるべき場所に、二つの、暗いくぼみ。
それが、まっすぐに、こちらを、見ていた。
次の晩、七番から、その姿は、消えた。
ほっとしたのも、つかのま。
六番の画面に、それは、いた。
六番は、八階の、廊下のカメラだった。
私は、本社の、当直に、電話をかけた。
「カメラに、妙なものが、映るんですが」
受話器の向こうの、若い声は、めんどうくさそうだった。
「ああ、あのビル、たまに、あるんですよ」
「あるって、なにがですか」
少し、間が、あいた。
「……気にしないでください。朝には、消えますから」
それだけ言って、電話は、切れた。
知っていたのだ。
本社は、はじめから、知っていた。
知っていて、私を、あそこに、置いていた。
屋上から、階段を、降りてきたのだ。
監視カメラの、いいところは、逃げ場がないことだ。
どこへ行っても、次のフロアの、カメラが、とらえる。
だから、私は、その姿の、道のりを、すべて、見ていた。
八階の非常階段。
踊り場で、一度、立ち止まった。
白い顔が、階段のカメラを、見上げた。
そして、また、降りはじめる。
一段、一段。
足を、引きずるように。
見ているだけで、こちらの足まで、重くなる気が、した。
一階ずつ。
夜ごと、一つずつ、下の階へ。
五番、四番、三番。
私は、日誌をつけるのを、やめた。
書けば、それが、本当のことに、なってしまう気がした。
かわりに、毎晩、時計ばかりを、見るようになった。
午前二時をすぎると、心の臓が、早く打つ。
二時半。
手のひらに、汗がにじむ。
三時が、近づく。
モニターの、白い姿が、また一つ、下の階へ。
白い姿は、モニターの中を、確実に、降りてきた。
不思議なことが、あった。
その姿が、映っているフロアを、私が見まわりに行くと。
そこには、誰も、いないのだ。
がらんとした、廊下があるだけ。
けれど、空気が、ちがった。
ひどく、冷たいのだ。
そして、焦げくさい、においがした。
ずっと昔に、燃えたはずの、においが。
警備室に戻ると、モニターの中の姿は、また、一階、下りていた。
一度だけ、廊下で、それと、鉢合わせしかけた。
角を、曲がろうとした、そのとき。
曲がった先の、空気が、氷のように、冷えていた。
焦げたにおいが、鼻を、突いた。
私は、とっさに、後ずさった。
曲がらなかった。
あとで、その時刻の録画を、見た。
私が曲がろうとした角の、すぐ先に。
白い姿が、じっと、立っていた。
もし、あのまま曲がっていたら。
考えると、いまでも、手が、震える。
警備室のある、一階へ。
私のいる場所へ。
私は、辞めようと、思った。
こんな仕事、割に合わない。
けれど、なぜか、辞められなかった。
あの白い姿の、行き着く先を。
見届けなければ、ならない気が、したのだ。
いま思えば、あれも、呼ばれていたのかもしれない。
※
その晩、私は、一睡もできなかった。
モニターの前で、息をひそめていた。
午前三時。
二番の画面に、それが、映った。
二番は、一階の、ロビーだった。
警備室の、すぐ外。
白い姿は、ゆっくりと、警備室のドアのほうへ、歩いてきた。
モニター越しに、それは、まっすぐ、こちらへ向かっていた。
レンズを、見ているのではない。
レンズの、向こうにいる、私を、見ているのだ。
距離が、縮まるにつれ。
警備室の、蛍光灯が、じりじりと、明滅しはじめた。
室温が、みるみる、下がっていく。
吐く息が、白く、なった。
足音は、しなかった。
けれど、ドアの、すりガラスの向こうに。
白い、影が、立った。
ノブが、かちゃりと、鳴った。
施錠は、してあった。
それでも、ノブは、ゆっくりと、回った。
かちゃ、かちゃ、と。
内側から、鍵は、かかっているはずだった。
すりガラスの、白い影が、少しずつ、大きくなった。
顔を、ガラスに、近づけているのだ。
ガラス越しに、二つの、暗いくぼみが、透けて見えた。
それが、私を、探していた。
私は、田所さんの言葉を、思い出した。
見ても、見んふりを、しとけ。
それからというもの、屋上の見まわりが、苦痛になった。
鉄の扉を開けると、夜風が、顔を打つ。
広い屋上には、給水塔と、室外機が、並ぶだけ。
人影など、どこにもない。
だが、カメラの中には、いる。
同じ場所を、肉眼で見れば、なにもない。
レンズを通したときだけ、それは、姿を、あらわす。
機械の目は、私に見えぬものを、見ていた。
私は、目を、固くつぶった。
モニターも、ドアも、見なかった。
ただ、机に、突っ伏していた。
耳を、ふさぎたかった。
だが、両手は、机に、貼りついたように、動かなかった。
すぐ、そばで、気配が、した。
ドアの、すりガラス、一枚を、へだてて。
なにかが、こちらを、のぞきこんでいる。
つめたい、視線だった。
焦げくさいにおいが、ドアの隙間から、忍びこんできた。
そのにおいが、鼻を、突いた。
屋上で、朝を待った人たちが、まとっていたはずの、においだった。
そして、声が、聞こえた。
耳もとで、はっきりと。
「あさ、まで、いっしょに」
かすれた、女の声だった。
それは、助けを、求める声には、聞こえなかった。
むしろ、道づれを、探すような、響きだった。
私は、奥歯を、かみしめた。
返事を、してはいけない。
名前を、呼び返しては、いけない。
見ても、見んふりを、しとけ。
田所さんの声だけを、心の中で、唱えつづけた。
私は、ひたすら、朝を、念じつづけた。
窓の外が、白むまで、ただ、それだけを。
返事さえしなければ、朝は、必ず来ると、信じて。
どれくらい、そうしていただろう。
気づくと、窓の外が、白みはじめていた。
朝が、来ていた。
ドアの前に、影は、なかった。
※
その朝、交代に来た田所さんに、私は、すべてを話した。
田所さんは、ただ、うなずいた。
「よう、我慢したな」
「見んかったから、連れていかれんかった」
「あれは、迎えに来るもんや」
「昔、このビルで、いろいろ、あったからな」
「田所さんは、見たことが、あるんですか」
私が聞くと、田所さんは、はじめて、少しだけ、笑った。
「わしは、三十年、一度も、屋上を見んかった」
「見んから、ここに、おれるんや」
その笑いが、なぜか、いちばん、こわかった。
それ以上は、教えてくれなかった。
私は、その月かぎりで、警備の仕事を、辞めた。
あの白い姿が、何だったのか。
天使だったのか。
それとも、まったく、別のものだったのか。
いまも、わからない。
ただ、ひとつだけ。
辞める前の晩、私は、七番の録画を、こっそり、確かめた。
あの、白い姿が、はじめて映った夜の、映像を。
早送りで、午前三時の、屋上を、映し出した。
画面の中の、白いもや。
それが、だんだんと、形を、なしていく。
私は、その足もとに、目を、こらした。
はじめは、気づかなかった。
だが、確かに、いた。
白い姿の、すぐうしろに。
もう一つの、影が。
警備服の、男だった。
白い姿の、うしろに寄りそうように、立っていた。
顔は、うつむいて、よく見えない。
だが、その、なで肩と、立ち方に、見覚えが、あった。
毎朝、洗面所の鏡で、見ている、姿だった。
私は、思わず、早送りを、止めた。
男が、ゆっくりと、顔を、上げようとした、そのとき。
録画は、砂嵐に、変わった。
その先は、なにも、残っていなかった。
屋上に、白いものは、たしかに、映っていた。
だが、その足もとに。
もう一人、立っている人影が、あった。
警備服を、着ていた。
その顔は、まぎれもなく、私自身だった。
あの夜、私は、警備室から、一歩も出ていない。
では、屋上に映っていた、あの警備服の男は、誰なのか。
なぜ、私の顔を、していたのか。
考えると、いまでも、眠れなくなる。
ひとつ、思い当たることが、ある。
火事のあった夜。
屋上で、朝を待っていた人たちの中に。
当時の、警備員も、いたのではないか。
逃げ遅れた客を、助けようとして。
その人は、いまも、屋上で。
次の、誰かが、来るのを、待っているのかもしれない。
自分の、代わりに。
あの録画を、私は、コピーしなかった。
持ち帰る気には、とても、なれなかった。
あれは、あのビルに、置いてきた。
きっと、いまも、あそこにある。
午前三時、屋上の、白いもや。
その足もとで、朝を待つ、警備服の男とともに。
もし、あなたが、深夜のビルで働くことが、あったら。
どうか、屋上のカメラだけは、見つめすぎないでください。
見つめれば、向こうも、あなたを、見つめ返してくるのですから。